エデンに潜む蛇
1.
必要としている
俺が本を読んで、これをやってみようと思って顔を上げると、必要なものはいつも目に入る場所にあるんだから、不思議なものだ。本当に。
小さな
何かの原石に見える石を部屋の灯りに透かしてみて、そんな石ばかりが入っている入れ物の中にポイッと放り入れた。
これも、應がこの間一つ二つ持っていって使っていた。人間を助けるために、もう地上からはそうは取れないだろう純粋な力の塊である原石を一つ砕いた。おかげで、というか、人間は助かったけど、貴重な大地の力の結晶が一つなくなったのも事実だ。
この都市に連れてこられてからというもの、俺は應の部屋に閉じこもり、必要最低限の食事と眠りを取り、あとはずっと頭の中に智識を詰め込んでいる。何度も何度も繰り返し、ちゃんと
俺にはどうしてもやりたいことがある。そのためには力が必要だった。様々な智識もそうだし、正しく自分の力を行使するだけの経験も数を積まなきゃ身につかない。
應の部屋は出入り口である扉以外頑丈な造りになっていて、たとえ間違えて術を暴発させても吹き飛んだりしない。おかげで失敗も恐れず取り組むことができる。
今日も俺は勉強をしている。取り組むべきことは山ほどあって、時間はいくらあっても足りない。
(5オンスのドラゴンのこな…。5オンス、ってどのくらいだ)
巻物を睨んでから眉根を寄せて携帯端末を引っぱり寄せ、ウェブっていう便利な場所で検索してみる。
5オンスをグラムに換算すると約百五十グラム…。厳密には141.748…。百四十一でいいか。たぶん。
電子秤の上に小皿を置き、なるべく5オンスに近いグラムになるようドラゴンの粉を慎重に瓶から小皿に移していく。
ドラゴンの粉は精製にも入手にも手間暇のかかるものだ。無駄にはしない方がいい。失敗はしないで、でも経験にできるよう、慎重に。
これに、バジリスクの血を混ぜる。
そろりと小皿を持ち上げ、間違っても引っくり返さないよう安全なテーブルの上に置き、適当に物が置いてあるように思える書棚に歩み寄る。適当に棚のボックスを引っぱり出すと、そこには緑っぽい液体が入った瓶がしっかり封をされて入っている。『バジリスクの血』…これだ。やっぱり、適当にしてるのに望んだものが出てくるな、この部屋は。
瓶を両手で持ち上げ、ボックスを肩で押し戻して、テーブルに瓶を置く。
ここまで来て、やっぱりやらない方がいいかもしれないと自分の中に迷いが生まれた。
理屈はよくわからないが、この二つを混ぜたものを握りながら決められた呪文を唱えると、望むものに変身することができるらしい。
勉強のためだ、とここまで自分に言い聞かせて材料を用意したのに…。それでもやはり最後は
これで、ミドリに、なれたのにな。
そんなことを考える自分が女々しく、ふん、と息を吐いてバジリスクの血が入った瓶を棚のボックスに押し込んでもとに戻した。ドラゴンの粉も瓶に入れ直して、何してるんだろうな、と自嘲する。
望んだ姿を得られる。それになれる。なったところで、どうしようっていうんだ、俺は。
「ただいまなのじゃー」
「、」
じじいのくせに人型のときは若作りする應の声にパッと顔を上げて、背中で電子秤を隠した。
ドラゴンの粉もバジリスクの血ももとあった場所に戻したが、この部屋の主である應のことだ。些細な変化にもきっと気がついているだろう。それでいて何も気付いてないにこにこ顔で部屋に入ってくる。
「
「ふーん…」
この間刺されて治したあいつか。わざわざ様子を見に行くなんて、物好きだな。
俺が呆れているのを見て取ったのか、應がたしなめてくる。「そんな顔をしてはいかんぞ。儂らは人と仲良くせねば」「…あれは、にんげんどうしのいさかいだってきいた」ぼやいた俺に應が眉根を寄せた難しい顔を作る。「
應は肩を竦めると、さっき作った難しい顔から一転、真面目な顔になった。
「あれなんじゃがの。あの場から
「へび…?」
「セイは旧約聖書は知っておるかの? その創世記に出てくる、男と女を
「…それ、しゅうきょうのほん、だろ? げんじつじゃない。あと、へびになまえ、これじゃないかってのがあったきがする……」
「なんと!? セイは物知りじゃな…。儂の立つ瀬がないぞ…。
ゴホン! とにかく、そのようなもの、じゃ。
相手を唆し自らの益になるよう仕向ける、それが蛇での。その蛇がエディという者を唆し、あのような行動を取らせたかもしれんのじゃ」
「…そうだとかていして。そのにんげんはぐんにつかまったんだろ? ならおとなしくしてるだろ」
「それがのぉ。エディの父親はエリュシオンの建設にも大きく貢献した資産家での? マネィの力でエディを軍から引き取ってしまったようなんじゃ」
「……へびは、いま、じゆうってこと…?」
「そうなるのぅ」
應は悩ましげに息を吐いて長い袖で口元を覆った。「困ったのぉ。困ったのぉ」とかまったく困ってなさそうな声でその場をぐるぐる回り始める。
應が何を言いたいのか俺にはさっぱりだ。
その人間が今自由に動き回ってるとしても、蛇が邪魔なら殺せばいいし、殺さないなら追い出しでもすればいいじゃないか。簡単だ。何を悩む必要があるんだ。
俺が口をへの字にしてジト目で睨んでいることに気付くと、應はパタパタと服の袖を振った。いちいち無駄な所作をしたがるじーさんだ。
「状況はそう簡単ではないのじゃ」
「なんで。けはいをたどってへびのところへいって、しおきすればいいだろ。おいだすなり、ころすなり。かんたんだ」
「儂もコウも、先日は勝手に動いてしまったからなぁ。もうあまり派手なことはできんのだよ。
表向き、儂らは『政府の管轄にあるドラゴン』ということになっとるでの。先日のあの騒ぎも、政府がドラゴンを出動させたということにあとからなったが、本来なら動いてはならんかったんじゃ」
「……じんめいが、かかってたのに?」
眉根を寄せた俺に應は「そうさのぅ」と同意して肩を竦めてみせる。
この都市では、ドラゴンは信用されていない。
それはなんとなく、街の冷たい空気から感じていた。ドラゴンの姿がないどころか、その影も形も見かけないこの街は、ドラゴンのことをよく思っていないんだろう、と。
俺は、ずっと、肯定されて育ってきた。愛されて育ってきた。ミドリは最初から最後まで俺を慈しんだ。でも、外ではこういうことになっている、と世界の話もしてくれた。だからなんとなくわかってはいたけど、愛を享受して育った俺には、この空の街はとても冷たい場所に感じる。
何か、よくない元凶がいると気付いていながら、こちらからは何もできない。そういうことか。「…どうするんだ」「アクションを待つより他にない」「はぁ? ごてじゃないか。つぎのひがいがでる」「そうじゃのぅ。しかし、動いてはならんらしいでなぁ。儂はここを出ることも控えるようにと言われてトボトボ帰ってきたところじゃよ」しょぼん、と肩を竦めるじーさんが鬱陶しい。若作りしすぎだ。
じーさんより鬱陶しいのは、現場にいない、上から支持してる人間どもだ。何も知らないくせに偉そうでムカつくな。力だってないくせに。
俺が苛立っているのを見て取った應は「まぁ、そう苛立つな。茶でも淹れよう」と台所へ向かった。
その落ち着き払った背中が、俺がなりたいもので、俺にない大人の余裕というやつだ。
應は、今でこそ
本人は昔の記憶はもうあやふやだと笑っていたが、これだけ原石や地の利を利用した地術を使いこなすのだから、そうに決まってる。
その應の占いによると、元凶の『蛇』とやらはこの階層より上の、上流階級層から反応があるらしい。
一般階層より上は金持ちとか権力者が住んでるって話だ。エディってのは資産家の息子らしいから、蛇と一緒に上の階にいても何もおかしくない。
…俺は應やコウのように空間を移動するような術は持ってない。いずれできるようになるかもしれないが、今はまだできない。でも、姿を擬態させながら目的地に行くことくらいはできる。
年寄りであるためにわりと睡眠が必要な應が寝静まったのを見計らい、夜、俺は一人で部屋を出た。
部屋にこもって磨き続けた智識と経験は着実に俺の力になっていた。安定して夜の中に姿を溶かしながら上の階まで行くことができた。
夜の闇に沈んでいるくせに、道にはポツポツと等間隔に街頭が設置されている。
人間が視界に困らない範囲で設置された灯り…それだけでも下の階とは大違いだ。下は家々から漏れ出る灯り以外、メインストリートにたまにポツンと街頭があるくらいで、手元にライトがなきゃ出歩くのは危ないくらいなのに。金があるってだけでこの扱いの差か。
(エディ・シェフィールド、だったな)
シェフィールドの文字を探して様々な様式の家から家に視線を移しながら移動していく。
そう時間もかからずシェフィールドの文字のある家を見つけた。
イギリス風のその家を視界に入れたとたん、俺の背筋には悪寒が走った。
何か冷たいものが背筋を這っていく。そんな気がして、自分の擬態が剥がれていないかを念入りに確認する。…大丈夫だ。ちゃんとできてる。俺は夜の中にいる。
もう一度、しっかりとシェフィールド家を見上げる。窓のどこにも灯りは見えず、家は暗闇に沈んだままだ。
……ここに何かいる。間違いない。
應の占いは当たりだ。この家から漏れ出る気だけが異様に冷たい。
ここに蛇がいるなら、なんとかして追い出すか、殺すかしたいところだ。でもそれは俺にできることなのかと冷静に考える。
認めたくないが、俺は子供。状況が変化したとき冷静に正しい判断をできる自信はまだない。蛇、っていうのがどんなものなのかよく知りもしない。
蛇の所在は確かめた。一度戻った方がいい。
家に背を向けないよう、じりじりと後退したときだった。
背後にあった闇が俺に囁いた。
かわいそうに。地上に戻りたいのに、この空中都市に捕らわれているのか
誰かに言ってほしかったことを言い当てられ、ギクリとして振り返る。
そこには何もない。ただ暗闇があるだけだ。何も、いない。いないのに、何かの気配を感じる。
それには意思があり、俺に話しかけてくる。
この場所に恩義も何もないんだろう? 自由に飛び立てばいいじゃないか。お前は空を飛べる。好きな場所へ行ける
行きたいところがあるんだろう? さがしてるひとが、いるんだろう
闇の囁く声に、脳裏にミドリの姿が浮かんだ。一緒に暮らした、草木に溢れる懐かしい家の風景が見えた。
長い髪を一つにくくって、今日も俺が汚した服を洗濯している。俺が見ていることに気付くと、笑って、セイ、と俺を呼んで手を差し伸べてくれる…。
俺は、その手を、取りたかった。
ぼんやりしかけた意識で、唇を噛んで、その幻想を破り捨てる。
ミドリは。もういない。いない。いないんだ。
(そうか。おまえがへびか)
唆し、囁くもの。
それは確かに心地の良い囁き声で、眠りに落ちるときのような安堵と安らぎを持ってはいたが、冷たかった。この空中都市に吹き抜ける風よりも冷たい。
見たいものを見せる。したいことをさせる。ただ、少し、その背中を押すだけ。
蛇とは、たぶん、本質的にそういうものなんだろう。俺が強い気持ちで抗い幻想を破り捨てたことで、怯むようにその場から消えた。もう背筋に冷たさは感じない。
人間は誘惑に弱い生き物だ。たとえそれが現実的じゃないと頭のどこかで理解していても、甘い言葉で簡単に
…俺じゃだめだ。應か、コウでもないと。
俺では幼すぎて、自分の幻想に負けそうだ。子供らしい屁理屈で幻想を現実にしたいと
自分で蛇をどうにかすることは諦め、夜の中を飛んで上流階級層を脱出する。
蛇の所在を確認したことと、唆す、という蛇の囁きがどんなものだったかを報告しよう。当然、勝手に動いたことを怒られるだろうが、それくらいは甘んじて受け入れる。
夜の冷たい風の中を飛びながら、ちらりと背後を振り返る。等間隔に街頭の設置されている上流階級層はもう遠く、暗闇の中に沈んでいる。
人間は、ああいった誘惑にとても弱いものだ。その誘惑に晒され続けているシェフィールドの家が崩壊していやしないか、気がかりだな…。
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