8.
エディ・シェフィールド。ブロンドヘアのイギリス人で、ブリュンヒルデに通う高校二年生。
17歳になったばかりである彼は、エリュシオンの建設に多大な投資をした資産家の一人息子である。
空中都市にあっても恵まれた上流階級層に住まう彼の家は、一般階層ののっぺりした特徴のない家々とは違い、門があり、庭があり、駐車場があり、住まいの家屋はきちんとした一軒家の佇まいをしている。
かつてのイギリスでデタッチドハウスと呼ばれた一戸建てのシェフィールド家は、普段はゆとりを持った私生活を送っているが、今現在は息子が起こした不祥事への対応に追われていた。
「この度は息子が馬鹿なことをしました。本当に申し訳ないと思っております」
何度かけても留守電設定のままの柳井家の連絡先すべてへ電話をかけ、今も謝罪の言葉を吹き込むエディの父親、デリック・シェフィールドの顔色は悪い。
デリックは食糧生成プラントの生みの親となるだろう
電話は言うに及ばず、息子が刺してしまった柳井家の次男が入院している病院への御見舞品、入院治療費その他をこちらで取り持つための裏回し工作、それを切り捨てようとする柳井家への平謝りの電話その他…。
なぜそこまでするのかと言えば、息子が不祥事を働いた柳井家は、食糧生成プラントの生みの親に今のところ一番近い存在だからだ。
食糧生成プラントを研究している人間は数多くいる。その中でもあと一歩に近づいているのは柳井家である、というのはプラントの設立を今か今かと待っている上流階級の人間には有名な話だ。
金ならあるのだ。プラントさえできれば、食べるものに困ることなく暮らしていける。物が市場に出回る前に、裏で手を結びさえすれば、独占的に手に入れることも可能だろう。
シェフィールド家はしたたかであったので、プラントの研究に投資しながら、金の力で、腹いっぱいに食べられない現状を解決しようとしていた。
そういった裏工作のすべてが、息子エディが起こした殺傷事件によりパァになってしまった。
柳井家の次男、柳井
この次男は長男や両親のように食糧生成プラントに直接関わっているわけではない。だが、家族を殺そうとした相手に便宜を図ってやろうなどと、そんなことを思う親兄弟がいるはずもない。これまでの柳井家への投資は意味のないものとなる。
ならば次はどこに投資すべきか? 果たして投資先は不祥事を起こした息子のいるシェフィールド家を受け入れるのか? そのことについて、デリックはまた一から考えなくてはならない。
それもこれも、すべて、息子が馬鹿なことをしたせいだ。
デリックは通話専用の携帯端末に向かって平謝りを続け、録音限界だと自動音声に告げられると、再度丁寧に謝ってから通話を切った。
通話が途切れた途端デリックは奇声を上げて携帯端末を壁へとぶん投げた。
金の力で息子が軍の留置所に行くことは避けられた。だが、今となってはそれが正しかったのかもわからない。
デリックは妻ルーシーからの一報を聞いたとき、最初は何かの間違いだと思い、軍に拘束された息子を助け出したつもりだった。だが、状況を詳しく聞けば聞くほど、息子が馬鹿なことをしたとしか思えなくなっていた。
デリックはズンズンと大股で二階に上がった。息子の部屋の前では妻であるルーシーが気遣わしげに「エディ? 返事をしてちょうだい」と部屋に閉じこもっている息子に声をかけている。
デリックはルーシーを押しのけ、木製の扉をドンドンと乱暴に叩いた。
「エディ! 閉じこもってないでお前も柳井家に謝るんだ! それが一番こちらの誠意が伝わる!」
しかし、中からはなんの物音もしない。「エディ!」デリックは息子を怒鳴りつけて呼ぶが、息子が応えることはなかった。そのことにまた苛つきながらデリックは扉を蹴飛ばして八つ当たりし、ズンズン大股で歩いてリビングへと戻っていく。
彼にはすべきことが山ほどある。閉じこもっている息子に構っている暇などなかった。
扉の向こう。光をすべて落とし、暗闇に沈んだ部屋のベッドの上。
頭から布団を被って震えていたエディに、父親の怒声は聞こえていなかった。母親の気遣う声もまた聞こえていなかった。
彼は自問していた。どうしてこうなった、と。そればかりを自問していた。ブロンドヘアをかき乱し、グリーンの瞳を涙で濁らせて、自分に問うていた。
(どうしてこうなった。どうしてこうなった。どうしてこうなった。どうしてこうなった、どうしてこうなった、どうしてこうなった、)
確かに柳井航を刺した彼の記憶は、しかし、曖昧だった。
はっきりしているのは、リア・アウェンミュラーに気持ちを告げたあのときまでだ。彼女に否定され、自尊心を大きく傷つけられた、あのときまで。
エディは上流階級層の人間であり、資産家の息子であり、生まれ持ったステータスがあった。そして、彼のルックスは悪くはなく、勉学にもそれなりに励んでいた。そんな彼になびかない女子というものは今までいなかった。彼は自分が欲しいと思うものを手に入れる人生しか知らなかった。
そんな彼であるから、エディにとっての彼女など、飽きたら交換する消耗品のような存在であった。リアが目に留まったのもたまたまだ。たまたまだが、風に踊る金髪はきれいな色をしていた。気に入る部分が一つでもあれば、それは彼にとっての欲しいものとなる。
そんなエディを否定したリア・アウェンミュラー。彼女の言葉は、エディの心を大きく傷つけた。
『私、将来的な展望もない人とは一緒にいられません』
気持ちを告げたエディに…お前が気に入った、俺のものになれ、という心を隠し、『君が好きだ。付き合ってほしい』と告げたエディの本心がわかったわけではあるまい。しかし、リアははっきりとエディの気持ちを断り、踵を返し、柳井のもとへ行ってしまった。
あるいは、リアが帰ろうとする場所がそれなりのステータスを持ち合わせた誰かの隣なら、エディも納得したかもしれない。
しかし、柳井は『
しかし、リアはそれをしなかった。
欲しいと思ったものが自分を選ばなかった。あんなダサい野郎のもとへ行ってしまった。…エディにはそれが理解できず、また理解したくもなく、腹立たしく、悲しくて、虚しかった。
ぽっかりとできた心のスキマ。
そこへ、闇が、つけこんだのだ。
そこから、彼の記憶は曖昧になっていく。
柳井航がいるから彼女はお前を選ばないんだ。お前が悪いんじゃない。アイツが悪いんだよ。アイツさえいなければ、彼女はお前を選んだ
闇は、エディにとって心地の良いことを囁く存在だった。
また、それに包まれているのも、悪い気はしなかった。まるで陽光の当たるソファで眠りに落ちるような贅沢な緩慢がそこにはあった。
闇はエディの周辺でとぐろを巻きながら、アイツが悪い、と囁き続けた。アイツさえいなければすべてがうまくいった、とエディに耳打ちした。
今からでも遅くない。アイツを消してしまおうと、闇が、提案した。
エディには、それが当然のことのように思えた。すべてがうまくいっていた自分の人生にこんな水を差した奴など、死んで当然だと、そう思えた。
だから、エディは二人のあとを追った。
二人は当然ように下校を共にし、カフェに入った。仲睦まじく。そう表現できるような二人にエディの心は嫉妬と憎悪の闇に焦がされた。
エディは寒風の中、身も心も黒い闇に染まりながら、
そして、柳井とリアが別れ、柳井が最寄りのスーパーに入り…雑貨用品も扱うそこでエディは商品である包丁を掴んで包装を剥がした。抜き身の刃を手に、
床に倒れた柳井を見たとき、エディは達成感に満たされた。自然と笑みがこぼれ、俺は俺の障害物を取り払ったのだ、と笑った。
……エディの記憶はブツ切れだ。柳井を刺した感触も曖昧だ。リアに頬を叩かれ、それで我に返ったことが、少し、鮮明なだけで。今、ベッドの上で布団を被って震えているエディもまた曖昧だった。
彼の周囲には闇がまとわりついている。
殺り損なったじゃあないか。なぁ、どうする? このままじゃお先真っ暗だ
闇が、囁く、声がする。
(うるさい。お前のせいだ。お前の)
彼は必死にその声に抗った。闇は声高らかに笑う。お前が望んだことだ、と。オレは背中を押しただけだと
なぁ、リアも、酷いよなぁ。お前をフッたんだぜ? おまけに叩いた。勉強ができて、ルックスもいい、資産家の一人息子をさぁ。アイツ、ムカつくよなぁ
闇が笑う。
エディは必死に頭を振った。違う、と自分に言い聞かせる。
リアは確かに自分の気持ちを砕いた。それは確かに酷いことだ。初めてフラれた。初めて傷ついた。初めて憎いと思った。初めて人を刺した。初めて。
エディの瞳は、涙以外のもので、濁っていく。
なぁ。二人とも殺っちまおうぜ。そうすりゃ、お前を傷つけた奴は、一人もいなくなる。なぁ、名案だろ?
闇は笑う。嘲笑う。嗤う。
布団の中で震えているエディの周囲には
チロチロと舌を出してエディに囁く蛇は、もう少しで
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