7.
「おかえりリア」
「ただいま、おばさん」
どんな寮生でもおかえりと声をかける寮母さんに頭を下げてただいまを返し、共用スペースで馬鹿笑いしている男子達の横を通りすぎ、階段を上がって、自分の部屋へ。
端末をかざして施錠を解き、部屋に戻ったら、まず暖房のスイッチを入れる。そうでないと寒すぎて、とてもじゃないけど部屋にいることができない。
重たいコートを脱いで、学校指定のマフラーと帽子を取り払って、あたたかくなってきた部屋に一息吐いたときだった。前触れなく。本当になんの前触れもなくコウが現れた。「は…?」唐突に、でも当たり前のようにスウェット上下とサンダル姿で私の手を掴んでくる彼女に困惑する。
「え? ちょっと、何、」
「ダサ眼鏡がマズい」
「え?」
「
唐突に現れて、唐突すぎることを言う彼女に、私の思考は追いつかない。
死ぬ? 先輩が? どうして?
さっきまで一緒にいたし、いつもみたいにカフェで話して、ついさっき別れたところで。
それで、死ぬ? 先輩が? どうして…?
呆然としている私は、コウが突然現れたみたいに、突然、どこかに連れて行かれてしまったらしい。「柳井しっかりしろ!」と言う声にかろうじて思考が動いて、視線を巡らせる。
お店、だ。メインストリート沿いにある、お店。その中。食料品や日用品雑貨を扱ってるお店で、私も寮でご飯の出ない休日はお世話になってる…。
巡らせた視線の先で、赤い色に染まった包丁が転がっているのが見えた。それから、商品である
そういうものが転がる中で、見慣れた黒髪の人が、散らばっている缶詰やパンの袋に混じるようにして床に倒れていた。
眼鏡だけじゃない。先輩のワイシャツは白かったはずなのに、ベストはクリーム色をしてたはずなのに、今はもう赤く、赤く、汚れている。
「先輩…?」
頭が。うまく。動かない。目の前の景色が示す意味を理解できない。「心拍数落ちてるぞ。コウっ」
私はぺたんと床に座り込んでしまった。
どうして。こんなことに? どうして先輩が…。
呆然とする私の耳に、笑う声、が聞こえた。
壊れたように笑っていたのは、帰り道、私に声をかけてきたあの男子だった。エディ・シェフィールド。イギリス人で、あのときはそれっぽい品のいい格好をしていた彼の服は、今は赤い色に染まっていた。「あいつがダサ眼鏡を刺したのよ」「…そう」ぼそっとしたコウの声にぐっと目を閉じて、まだ弛緩している足を殴った。
動きなさい。動け。私の
先輩が刺された、危険な状態だ、という事実に震える足を叱咤して、私は立ち上がった。
なぜ彼が先輩を刺したのか?
考えたらわかる。今日彼は私に『付き合ってほしい』と告白してきたのだ。そして私はそれを断った。よく知りもしない彼と、今後の展望もとくにないと言う彼と、時間を一緒にしなくてはならない理由が見つからなかった。それならよほど先輩と一緒にいた方が有意義だろうと思った。だから彼の告白を、気持ちを断った。
たぶん、それが、彼が先輩を刺した理由だ。
私にフラれたのは先輩のせいだと、彼はそう思い込み、暴走した。
大人に取り押さえられたまま壊れたように笑っているシェフィールドにつかつかと歩み寄って、思いきり、ビンタしてやった。パァン、と小気味いい音がした。叩かれたことで我に返ったのか、シェフィールドがぽかんと不思議そうな顔で私を見上げる。「アウェンミュラー…?」「…本当、馬鹿」こんな奴のせいで先輩が死ぬかもしれないなんて、考えるだけで、もう何発でも殴ってやりたい。でも今はそんなことをしてる時間はない。
踵を返して先輩のもとへ走り寄る。血溜まりの中に
コウが、私をここへ連れてきた。
私が思うに彼女はドラゴンだ。
コウは指で先輩の傷口をなぞって、たぶん、そこを焼いていた。それで止血を試みているようだった。力の加減を間違えれば先輩を焼き殺してしまう繊細な作業だ。
「先輩。私です。リア・アウェンミュラーです」
この場で私にできること、なんて。死んでるみたいに顔色の悪い先輩に声をかけることくらい。血の中に沈んだ手を取って両手で握りしめることくらい。そうしてあなたの無事を祈ることくらい。
「先輩、私、ここにいます。ここにいるんです。先輩…っ」
こういうとき、私は、祈る神をもたない。祈るべき相手を知らない。自分の中にある理想像、都合のいい神様に祈る気はないし、過去にあった多くの神様に祈る気も起きなかった。
祈るとすれば、今彼の出血を止めようと力を尽くしているコウ、彼女に。ドラゴンに祈るべきなんだろう。
まったく、人間て、なんて都合がいい生き物なんだろう。
そうやって自分に呆れながらも、ポンッ、と音を立てて現れた誰かを…この場合、ドラゴンを。人の姿をしたドラゴンを縋るように見つめてしまう。
突然何もない場所に現れる方法なんて、人類は会得していない。だから、そうして現れるのは、人のかたちをしたドラゴンだ。
「間に合ったかの」
「おじーちゃん」
先生がほっと息を吐いて「ギリギリです。コウが止血を。心拍数はまだ下がってます」「ふむ。血が足りんな…失った分を補充せねば」どう見ても若いその人は先生になぜかおじいちゃんと呼ばれている。そしてそのおじいちゃんは私を見た。中国系の民族衣装を着た、浮世離れした雰囲気を持つ人だった。ああ、人じゃなくて、ドラゴン、か。
「おお、ちょうどよいな。お嬢さんは眼鏡くんと血液型が似ておる。お嬢さんの血を分けてもらえないかの?」
それは、思ってもみなかった言葉だった。血を、分ける?「輸血ということなら、病院できちんと血液型の合致したパックのものを、」「時間がないのじゃ。病院に運んでおる間に失血死してしまう」おじいちゃんはそう言いながら「ほいっ」と何かを空中に放り投げた。水晶の原石、のように見えるそれは空中に静止すると、私達を包み込むような半透明な何かを形成した。「細菌系はこれで遮断じゃ」「…、」私はぽかんとその石を見上げて…覚悟を決めた。
信じるしかない。
ドラゴンであるこの人達が、先輩を救ってくれると信じて、私は私にできることをするしかない。少なくとも、無力に祈りを捧げるよりは、ずっといいことのはずだ。
片手で先輩の手を握って、片手をおじいちゃんに向けて突き出す。「わかりました。お好きにしてください」腹をくくった私におじいちゃんは満足そうに微笑んだ。
ピ、ピ、と心拍数を示す電子音が断続的に響く白い部屋で、私はぼんやりと先輩が眠るベッドを見つめている。
先生がおじいちゃんと呼んでいた、
あれから何時間くらいたっただろうか。
私がぼんやりしていると、先生が缶ジュースを手に病室に戻ってきた。
「アウェンミュラー、少し寝なさい。應に血を取られて君も貧血だろ」
「いえ…私は大丈夫です」
確かに、あまり調子はよくない。急に立ち上がろうものならくらりと目眩を覚える。
それでも休まず起きているのは、まだ少し怖かったからだ。これで先輩が目を覚まさなかったらと思うと怖くて仕方がなかった。だから私は眠りたくなかった。
先生が私の手にレモネードのあたたかい缶をぽんと置いた。「せめて飲みなさい」と言われて、「ありがとうございます」と小さな声で返し、缶を両手で包んだ。
先輩はまだ眠っている。
「…先生」
「うん」
「あの、應、という方は、何をしたんですか?」
「そうだなぁ……。厳密に言えば、アウェンミュラーと柳井の血液型は違ったんだけど、應がその違いを取り払った、とでも言えばいいかな…。そうしてアウェンミュラーの血を柳井の血と同じものにした。
應はそういう方面にも詳しいんだ。コウはそういうことは苦手みたい」
私は先生を見上げた。先生の言ってることはなんだかよくわからないけど、一つだけ、わかることがある。「先生は、信頼してるんですね。コウや、應さんのこと」そう言った私に先生は笑う。
「コウなんかは長い付き合いだからね。應は人のことが好きだから力を貸してくれる。信じてるよ、いつも」
…みんながみんな先生のようになれたら。エリュシオンは、もっといい街になれるのに。
私は一つ吐息して缶を開け、中身を一口呷った。「彼、どうなりますか。先輩を刺した人」「軍の人に任せたよ。治安については彼らの仕事だから」「そう、ですか。そうですよね…」それもそうか。私も頭、回ってないな。血が足りないせいだろうか。
………私が。いけなかったんだろうか。きちんと理由を説明して、彼の気持ちを丁寧に断っていれば、彼はこんな暴挙に出ることはなかったんだろうか。
「…そういえば」
「うん?」
「柳井先輩が危ないって、どうしてわかったんですか…? 先生、最初からあの場にいたわけじゃないんですよね?」
「ああ、柳井が身につけてたドラゴンの粉の力だよ」
ドラゴンの粉。先輩、そんなもの持っていただろうか。
首を傾げた私に、先生が先輩の鞄を持ってくる。血がついて汚れてしまった鞄の持ち手部分には色褪せた何かの粉が入った小瓶がキーホルダーとしてついている。先生はその小瓶を指でつついた。
「これがドラゴンの粉。力を使い果たして今はもうただの灰だ」
「はぁ…」
「アウェンミュラーが最初に俺に声をかけてきたとき、
言われて思い出す。そういえば先輩、そんなものを見せていたっけ。復習がてら作ってみたとかなんとか。「これはコウの鱗なんだ。普通のドラゴンと違ってコウは力があるから、その鱗から作った粉には『加護』の作用があった。加護の力が柳井を守ったから、凶器は彼の心臓を外れ、即死せずにすんだんだ。そして俺達も間に合った」「…先生」「ん?」「コウは、やっぱりドラゴンなんですね」今となってはもう当たり前の現実だ。あの場にいた人は、コウが、應が、人間を救ったのがドラゴンである、ということを目の当たりにした。
先生はしまったって顔で口をつぐんだけど、もう遅い。自分の言葉で言ってしまったあとだ。
それに、私は別に、そのことを言いふらすとか、そういうつもりはない。ただ、知って、納得しただけだ。だから彼女はああいうふうなんだろうな、って。
……ドラゴンに、助けられてばかりで。それなのに人間はドラゴンになんの力を貸すこともなくて。なんだか私は人間が、自分が、恥ずかしい。
俯きかけた視界で、もそ、と白い布団が動いた。
パッと顔を上げた先では先輩がダルそうに目を開けたところだった。思わず椅子を蹴飛ばして枕元に行く。私の世界は貧血でぐらりと揺れたけど、そんなこと関係なしにベッドに手をつく。
「先輩?」
「…、りあ?」
掠れた声がまた私の名前を呼んだ。
たったそれだけのこと。そのことに私は、不覚ながら、泣いてしまった。
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