5.


 ついこの間、このエリュシオンに危機が迫り、そこをドラゴンが救う、という劇的なことがあったばかりなのに、学校も、街行く人も、何も変わらない。

 寮では馬鹿な男子が笑い合いながらどうでもいい話をして、学校ではみんないつものように勉強をして、私はドラゴン学の時間だけは大学棟にこっそり通って授業を受ける。柳井やない先輩の髪型や姿勢にダメ出しをしたり、右目にものもらいができたとかで眼帯をしている先生を心配したりしつつ、あの日あのときから、時間だけが過ぎていく。

 あんなに壊れてしまった防護壁も、今ではすっかり元通り。もうヘルメットを被って街を歩く必要もなくなった。

 見える景色はいつもと同じ。空に浮かび、風が吹き抜ける、丸い形をした人間最後の都市、エリュシオン。そのどこにもドラゴンの影はない。

 この都市を救ったあのあかいドラゴンはなんなのか、ということは、当初、テレビがしきりに伝えていた。

 紅いドラゴンの名前は紅竜こうりゅう。紅竜は政府の支配下にあるドラゴンであり、有事のさい、この都市の奥の手として今まで秘匿ひとくされてきた存在である…。

 そう公開されたドラゴンについて、誰も何も言わない。確かに見聞きしているはずのその情報について、耳も口も閉ざしてしまったかのようだ。そうやって今までと変わらない毎日を送っている。

 私はそのことが腹立たしい。本当に、すごく、腹立たしい。


(私達は考えないといけないんじゃないのか。『ドラゴン』について、人とドラゴンとの今後について、その認識を改めるべきときが来たんじゃないのか)


 カフェのテーブルにドンっとタブレットを置いて宿題を始めた私に、向かい側に座った柳井先輩が困った顔をしている。

 このカフェも、何も変わらない。

 あの日、防護壁が砕け、落下し、ここから学校へと走った日のことは記憶に新しい。だけどそんなことなかったみたいにいつもどおりに営業して、いつもどおり、壁には『人類の敵、ドラゴンを撲滅せよ』と文字の入ったポスターが貼ってある。

 今日もお店には店主のおじさん一人しかいないし、私達が注文したドリンクを運んできたら、あとは会計まで店の奥に引っ込んでしまう。

 この店も、どうしようもなくいつもどおりだ。

 今日は先輩も宿題があるのか、鞄からのそのそとタブレットを取り出してテーブルに置いた。「ええと…リアが言いたいことは、わかるんだけど。それは、たぶん、難しいことだと思う」「なぜです?」先輩を睨んでも仕方がないのだけど、どうしても目に力が入ってしまう。

 先輩は私の視線に肩を竦めてから、窓の向こうの景色に目をやった。

 見慣れた舗装路面。積み木のように縦に積まれた特徴のない家々がストリート沿いに並ぶ風景。

 この都市には天井があり、天井である防護壁が強い風雨から街を守っている。


「少し、話がズレるんだけど。瘴気しょうきがどこからやって来たか、リアは、考えたことがある?」

「え? ええと…」


 本当に話がズレたので、私は困惑した。私はドラゴンの話をしていたんだけど…。

 とりあえず、先輩の言う『瘴気』について、頭の中にある基本情報を引っぱり出してみる。


「十年ほど前から世界各地で確認され始めた、あらゆる生命に有害となる物質…。別名『星が生んだ毒』、ですよね。証拠は何もありませんけど、瘴気の出現と同時期に存在が確認された『ドラゴン』が運んできた、とも言われています」

「うん、そう」


 こっくり頷いた先輩は、あたたかい豆乳ドリンクの入ったカップを傾けて中身をすすった。先輩はカルピス味。私ははちみつを垂らしてもらったので少し贅沢をしている。

 ホットドリンクを飲むと、少し気持ちがやわらいだ。

 空中都市は寒い。空の只中ただなかにあるのだから当然なんだけど。

 先輩はカップを片手で包んで、片手でタブレットを操作しながら、「政府の発表で、紅竜のこと、言ってたでしょ」「はい」「紅竜は、言い伝えや伝説以外で、公式記録として、一番最初に登場したドラゴンなんだ。歴史に残ることをしたのは、今回で二度目」私はえっと目を丸くした。「そうなんですか?」「うん。ほら」先輩がこちらに押しやったタブレットのページには、確かにそういったことが書いてあった。歴史の教科書の一文のようだ。『西暦2118年。日本列島に現れた紅いドラゴンは紅竜と呼び名がつけられ、その後も大陸を問わず世界各地で出没した』とある。


「調べれば、ちゃんと書いてあるんだよ。でも、それすらしないんだ。

 目の前のことで手一杯だから、これ以上の情報なんかいらない…。みんな、そんな感じなんだと思う」

「でも、それはただの怠慢です。現状維持でいいはずがないと知っていながら、変わろうとしないなんて」


 怠慢。それは私自身にも言えた言葉だ。

 ほんの少し前まで、私もそうだったのだ。このままじゃいけないと強く思えたから、私は変わろうと思うことができたし、変わりたいと思えるようになった。みんながみんなそういった機会に恵まれるわけではないってわかっているけど…。

 先輩がタブレットを指で叩いた。先輩の指は案外と長くて、爪の形も整っている。きれいな手だ。


「えっと、また話がズレた、んだけど。この紅竜は、当時、日本だけじゃなくて、世界各地に現れたんだ。決まって、現れた場所で、暴れた。被害者、というような犠牲はなかったけど、建物が壊れたり、辺り一面焼け野原になったりした」

「そう、なんですか」

「うん。そして、紅竜が暴れる先では、やがて瘴気が吹き出した。

 …これが、『ドラゴンが瘴気を運んできた』って言われる由来、だね。根も葉もない押しつけ、ってわけじゃないんだ。

 だから、人は、ドラゴンをおそれてるんだ。人間じゃ敵わない大きな力、だけじゃなくて、瘴気をもたらしたかもしれない、その存在そのものに」


 何も言葉が浮かばなくて、私はカップの中の豆乳を飲み込んだ。おいしいはずなのに、なんだか味がしない。

 ……先輩はそれでもドラゴンを肯定してきたんだ。私より色々と知っていながら。そういうところは、少し、感心する。人は見た目じゃないんだな、と思える。


「これが、一般的な意見、だと思う。教科書でも知れる、ドラゴンと瘴気と人間の関係性、だね。

 だから誰も、進んでドラゴンと関わろうとしないし、できればこのまま無関係で、考えないでいたいって、思う。政府の言うことを支持して、自分はそれを守って、思考を停止させて、楽をして……」


 自分は何も考えず。何も行動せず。ただ、ただ、楽な道を。

 終末の近い世界で。それでも人は、楽だからと、破滅への道を転がり続けるんだろうか。楽な方へ楽な方へと流れていくんだろうか。そんな人間に未来なんて…。


「でも、僕は、そうは思ってない」


 先輩はぼそりとそう言った。「え…?」暗くなりかけた思考で思わず顔を上げた私に、先輩は流行りでない黒縁眼鏡を指で押し上げる。


「僕は、十年前、紅竜は、人に警告をしていたんじゃないか、と思うんだ」

「警告、ですか…?」

「うん。世界各地で、暴れ回って、建物を壊したり、その場を焼いたりするのに、んだ。こんなの、よっぽどの奇跡が重ならないと、できることじゃない。

 僕が思うに、紅竜は、とても頭の良いドラゴンで。ちゃんと計算して、その土地から人間をんじゃないかな、って」

「追い出す…? どうして…」


 先輩が最初に言った警告、という言葉を思い出してはっと気付く。

 紅竜が現れた土地ではやがて瘴気が吹き出した。

 紅竜は、そうなることを知っていた…? 知っていたから、瘴気が吹き出る場所に住んでいた人間を追い出して、あらかじめ被害を最小限にしていた…?

 もしそうだとすれば、人間はとんだ思い違いをしているってことになる。

 ドラゴンは瘴気を運んできたんじゃなく、その毒を人類に知らせるために現れた救世主とも言える存在じゃないか。

 …カップを包む手に力が入る。

 それならなおのこと。私達はドラゴンを『知ること』から始めなくてはならないんじゃないのか。かつて、私達を救ったかもしれないドラゴンを。そして、先日、確かに私達を救ったドラゴンを。



 先輩はカルピス味のホットドリンクをちびちび飲みながら宿題を始めた。それを見て、私も習うことにする。

 私は変わることを決めたんだ。

 ドラゴンの卵の呼び声を聞いて確信した。それが私の運命だと、これが私の生きる道だと、茨を踏みつけ歩くことを選んだ。その道は転んだら当然痛いし、血も出るし、怪我もするだろう。やわらかい道なら転んだってへっちゃらで怪我もしない。そういう道が、みんなが歩きたい道。かつての私も、そんな頼りない道を歩きながら、たまに不安になったり、嘆いたりしていた、馬鹿な子供だった。今も、きっと馬鹿なままだろう。

 ちゃんと歩いているのかどうか不安になるやわらかい道ではなく、棘があって、触れれば血が出る、そういう道で、私はようやく痛みを知った。


「先輩」

「うん」

「私達、何ができるんでしょうか。他の人より少しドラゴンについて知っていて、それくらいが取り柄の子供は、人とドラゴンのために、何ができるんでしょうか」


 タブレットを前に頭を抱えている先輩は、あまり賢い方じゃない。でも、生きるための賢さと、机上の空論をこなせる賢さは違う。


「うーんと。とりあえず、焦っても、しょうがないと、思う。僕らはまず、正しく、ドラゴンのことを理解しよう。そういう学問があって、先生がいるんだ。ドラゴンのこと、理解できる人が増えるのは、いいことだと、思う」

「はい」

「リアは、あの卵の親、でもあるわけだし。人とドラゴンは共存できる…って見本に、将来的に、なれる可能性も、高いし。そういう現実が、一つでも日常になったら、人がドラゴンを見る目も、変わるはず」


 目の前の宿題に自信なさそうに解答を書き込む先輩に少しだけ笑う。「私がお母さんなら、お父さんは先輩ですか?」意地悪な質問をした私にえっとこぼした先輩の手からペンタブがころころ転がっていった。おどおど泳いでいる目ににっこり笑顔で「冗談です」と言うと、先輩は肩を落とした、ように見えた。「あ、ああ、うん。そうだよね…」とかなんとか言いつつペンタブを拾って、また宿題を解き始める先輩。

 あなたは私より少しだけ大人で、少しだけ先を歩いている。

 そういう人が近くにいることは、ほんの少し、心強い。



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