2.


 熱、を感じて薄く目を開ける。

 分厚いカーテンの隙間から朝陽は見えない。どうやらまだ早い時間のようだ。もっと寝てたいのに、なんで目が覚めたんだ…。

 寝ぼけまなこで瞬きすると、暗闇の中、赤く輝く吐息が見えた。それから、あかく輝く瞳も。

 感じた熱はコウの息吹いぶきだったようだ。

 面倒くさがりで選り好みも激しく、でも根は真面目なコウは、今日も卵に必要な熱を与えている。

 ドラゴンの卵のほとんどは『高温で三十六ヶ月間あたためられる』ことで孵化すると聞いている。三年あたため続けなければ卵はかえらない…なんて言ったら、アウェンミュラーが卒倒しそうだなぁ。今回はコウが特別に加護を施しながら卵の成長を手伝っているから、だいぶ早めに孵るかもしれないけど。


「どう? 卵」


 おはようをすっ飛ばしてそう声をかけると、コウは紅い目でこちらを一瞥いちべつした。「順調よ。あたしが面倒見てるんだから当然でしょ」ぼやいたコウは眠そうに欠伸した。

 昨日は『キリのいいところまで』ってずっとペンタブとタブレット片手に作業を続けてたみたいだし、休憩もしないでいたら、ドラゴンだって疲れるか。俺はろいろが眠そうだったから一緒に寝ちゃったけど。

 まだ眠い目をこすりつつ、携帯端末で今日の予定をチェックする。

 今日もおそらく、学校は休校だろう。何せ、昨日が昨日だ。

 防護壁が剥がれたままの都市は雨風の吹き込みが強く、そのため怪我人の被害が出ている。登校した生徒に怪我があるといけないし、休校は妥当な判断だと思う。

 防護壁が復旧するまでネット経由での授業を言い渡されている身としては、まぁ、面倒だな、という感想になるけど。仕方ないから準備しますけどね。

 まだ寝てたいなぁ、と布団の中でうだうだしていると、コウがふと顔を上げた。サンダルをパタパタいわせながら窓際に行き、シャッ、とカーテンを引き開ける。分厚いカーテンがなくなったことで窓からひんやりとした冷気が部屋の中へ入ってくる。


「さぶい」


 寝こけているろいろを湯たんぽにしつつぼやく俺に、コウの目が紅く光る。「帰ってきた」「、」その言葉にばさっと布団を跳ね飛ばした。そのせいでろいろがぱちっと目を覚ます。寝ぼけてるのに俺の寝間着を噛んで離そうとしないので、仕方なく抱き上げ、裸足のまま慌てて窓のそばへ。

 まだ暗く沈んでいる空の中に、小さな影が見える。「おう?」「そう」「そっか、よかった」ほっと一息吐いてぶるりと身震い。寒い。慌てて布団の中へ戻る俺を横目にコウは手にしている卵に赤く輝く吐息を吹きかけた。



 もう結構いい歳の應の種族名は応龍おうりゅうといって、中国の神話で語られたこともあるような長生きのドラゴンだ。

 そのくせ人に変身しているときの姿はどう見ても若者だから、その姿の應をおじーちゃんと呼ぶと周りには変な顔をされる(喋り方とかは間違いなくおじーちゃんのそれなんだけど、見た目がね。ミスマッチなんだよね)。

 そのミスマッチングの塊とも言える應おじーちゃんはどこかへ出かけていたようだけど、エリュシオンに帰ってくるなり俺の部屋へとやって来た。


「帰ったぞーい!」


 ほら、この喋り方。どう聞いたって元気なおじーちゃんでしょ。それなのに中国っぽい袖とか裾がゆったりした衣装を着た二十代の若者が元気そうに手を振ってくるんだよ。

 俺より身長が高く、百八十センチはある。深い緑色の髪はくりんくりんの癖っ毛。瞳は髪と同じ色で、ドラゴンとしての力を使うとき、コウのように妖しく輝く。耳にはピアスとかが結構あっていつもキラリと光ってる。

 そんな若い見た目の、でも中身と言葉遣いはおじーちゃん。

 いい加減、見た目と中身を合わせてほしい…。せめて喋り方をコウのようになんとか…。

 なんて考えつつも、俺はおじーちゃんの帰還を歓迎した。「おかえりーおじーちゃん」「うむーただいまー」普段は威厳ってものがないおじーちゃんは俺のことを抱きしめてすりすり顔を寄せてくる。お香くさい。おじーちゃんからはいつも何かの香のにおいがする。


「どこ行ってたんです? 長かったですね」

「んー、まぁの。秘密じゃ」

「はいはい。ボケたとかじゃなければ問題ないです」

わしはボケんぞ~。ドラゴンじゃからの」


 にんまり笑顔で言われても説得力がない。ドラゴンは人間と違ってボケないのかどうか、なんて知らないし…。

 それはそうと。吉岡よしおかさんに頼まれたし、伝言を伝えないと。


「帰ってくるときに気付いたと思いますけど、昨日じきに襲われて、都市の防護壁がかなり破損してます。在庫が少ないので、防護壁のための新しい鱗をお願いしたい、とのことでした」

「ふむ、ふむ。それはもう剥がして用意しておるぞ。偉いじゃろう。

 それはそうと、喰、とはなんぞや」


 はて、と首を捻ったおじーちゃんにコウを見やる。まるでおじーちゃんなんかいないみたいにいつもどおりにペンタブとタブレット片手に作業に勤しんでいる。「えっと、コウがそう名付けましたけど」名前を出したことでコウがようやくこっちを一瞥する。俺に抱きついたままのおじーちゃんを見るとこれみよがしに溜息を吐いてみせた。「あんたにはドラゴンとしての威厳を保とうとかそういうのはないわけ…」悩ましげに頭を振るので、俺はもう笑うしかない。

 喰が何か、という問いかけなら、俺にも答えることができるので、おじーちゃんにも見えるようにタブレットを掲げた。俺の右目が捉えた映像を呼び出す。それを見るとおじーちゃんはすうっと目を細くした。


「…喰。なるほどのぉ。己の肉体が腐ろうとも食物を望んだ竜、か。ふさわしい名というわけか」


 おじーちゃんの理解は早い。そういうところはさすがだ。

 ろいろがぐいぐいとシャツの裾をくわえて引っぱってくるので、はいはい、とおじーちゃんの抱擁ほうようから抜け出す。重たいけどろいろを抱き上げてやると満足そうな顔で頭を寄せてきた。いた、つのが当たる痛い。

 放置しておくと最悪シャツを破られるので、俺に選択肢などないのだ。ろいろが甘えたいと言うならこうして抱っこしてやるまでだ。

 しかし、結構重たいろいろを抱っこしたままはしんどいのでソファにどっかり腰を下ろした。重い…。


「ごめんおじーちゃん。お茶くらい淹れようと思ってたんだけど…」

「よい、よい。儂が淹れよう」


 来客であるおじーちゃんは上機嫌に急須とお茶っ葉を用意した。勝手知ったる我が家のように手際よく湯呑みを用意してテーブルに並べる。そこまではいたって普通だ。俺でもそうするだろう。ただ、ここからがドラゴンらしい。

 おじーちゃんは蛇口からまず水を出した。そしてその水を

 そうだな…。イメージとしては、おじーちゃんの掌の上には透明な見えないやかんがあって、そこに水がたまっていくような感じ、かな。

 このくらいかな、というところで水を止めたら、火を使わず、おじーちゃんは

 これについては、そうだなぁ…。火を使ってくれた方がわかりやすいんだけど、たぶん、おじーちゃんは掌からすごい熱量を放って水をお湯に変えた、んだろうなぁ。

 おじーちゃんの掌の上でちょうどよい感じで沸騰したお湯は、お茶っ葉を入れた急須にこぼれることなく吸い込まれるように注がれていき、蓋をされた。


「…いつ見ても不思議です、それ」


 ぽつりとこぼした俺におじーちゃんはホッホッホと笑う。「不思議じゃろ? 面白いじゃろ?」「うん。手品みたい」「そうじゃろ~」おじーちゃんが上機嫌に急須から湯呑みへお茶を注ぐ。ちょうどいい色合いの、ちょっと熱そうなお茶だ。

 ろいろの頭を撫でつつ、ありがたく湯呑みを手に取る。ふー、ふー、と息を吹きかけている俺をろいろの虹色の瞳が見ている。

 お前は熱いから飲めないなぁ。あとで水入れてあげるから待ってな。

 おじーちゃんはコウが作業に勤しんでいるテーブルにも湯呑みを置くと、すっと目を細くして俺のベッドを見やった。


「ところでの、気になっていたんじゃが……そこにあるのは卵かえ?」


 おじーちゃんの指摘に、う、と言葉に詰まる俺。

 布団で隠してみたんだけどな…。やっぱりわかっちゃうのか。賢いドラゴンって怖い。

 別に、俺が悪いってわけじゃないんだけど。俺のせいでもないんだけど。でも俺が引き取ってしまったことは本当なわけで…。コウが面倒見てくれているのも本当なわけで…。

 俺がおじーちゃんに隠し事など百年早いことは確かなので、お茶をすすりつつ、ドラゴンの卵を預かることになった経緯を説明した。

 おじーちゃんは興味深そうに俺の話に相槌を打ちつつ、服の袖の中からお菓子を取り出した。まんじゅうである。今ではもう高級品とも言えるまんじゅうが四つテーブルに置かれ、さっそく自分で一つを食べ始める。

 毎度何かを取り出す度に思うんです、おじーちゃん。その服の袖は四次元ポケットか何かですか。

 しかし、まんじゅうなんておやつはとてもありがたかったので、それがどこからやってきたものかは深く考えず、手を合わせていただきますをした。

 ろいろは一口でまんじゅうを平らげてしまったけど、俺は味わって食べます。

 卵を預かることになった経緯を話し終えると、おじーちゃんは「なるほどのぉ」と頷いてくれたので、ほっと一息。とりあえず怒られることはなさそうだ…。


「のぅ、かいりや」

「はい」

「人間がドラゴンの親になることは、いけないことなのかのぅ」


 ぽつりとそう言われ、俺は何度か瞬きしてから膝の上のろいろに視線を落とした。

 親。

 俺は、親と言っていいのかわからないけど、これまでろいろの面倒を見てきた。一緒に暮らして、一緒に時間を重ねて、絆もできた。それを家族の関係だとするなら、俺は親で、ろいろは子になる。

 どうかしたんですか、と尋ねた俺におじーちゃんは淡く笑うだけだ。

 そういうおじーちゃんは少し珍しかった。出かけていた先で何かがあったのかもしれない。


「………人間はどうやっても、ドラゴンより長く生きることはできません。どれだけ仲良く歳を重ねても、人の方が先に死ぬでしょう」

「そうじゃの」

「置いていかれたドラゴンは、やっぱり、悲しいでしょうね」


 ろいろの頭を撫でる。まんじゅうを食べて満足したのか、ろいろは俺の胸に頭を預けてうとうとしている。

 ろいろと一緒に生きてきて、これで十年だ。

 あのときは高校生だった俺もこうして歳を取って大人になった。こうやってあと何十年、俺はろいろのそばにいられるだろうか。

 俺が死ぬとき。いなくなるとき。そのときが来たら、ろいろは、かなしい、と思う心を持っているだろうか。

 俺がいなくなったら、探すんだろうか。この都市中を。都市の中にいないと知れば、雲の上でも、瘴気しょうきの中でも、探して回るんだろうか。もういない俺を。

 寂しそうに鳴くろいろが簡単に想像できたことが少し悲しい。

 おじーちゃんが言っているのは、いずれ俺とろいろにも訪れる未来だ。誤魔化しようのない未来という現実だ。

 それでも、たぶん、悲しいだけじゃない。寂しいだけじゃない。きっとそこには思い出もあって、消えない絆もあって…だからきっと、寂しいだけじゃなくて、悲しいだけじゃなくて。違うものだってのこせるはずだ、と、信じたい。


「いつか置いていくのに、それでも一緒にいたいと願うのは、罪、でしょうか」


 いつか。遠い未来。俺はろいろのこともおじーちゃんのこともコウのことも置いて、この世界を去っていく。

 人間との寿命的な別れ。それをいくつも経験してきたろう年長者であるおじーちゃんは、よしよし、と俺の頭を撫でた。「そうじゃのぅ。置いていかれるドラゴンは辛いのぅ。でもなぁ、辛いだけではないんだよ。それだけしか残らないなら、儂らは人間にかかわろうなどとは思わんよ」そうであったらいいな、と思う。ろいろも、そんなふうに、いつか思ってくれればいいんだけど。

 コウが不機嫌そうにまんじゅうの個装ビニールをバリっと破り取った。もしゃもしゃとまんじゅうを口に押し込みながら「何よ、変な話して。やめてくれる? 今こっちは盛り上がってんの。辛気臭い空気は迷惑よ」コウなりの気遣いなのか、そうぼやいてしっしと手を払う仕草をする。

 おじーちゃんは肩を竦めるとソファを立った。「年寄りは退散するかのぅ」そう言って扉に向かっていくおじーちゃんに何か、言葉をかけたかった。でも何も出てこなかった。


「あやつも、そんなふうに思えたらいいんじゃが」


 部屋を出る直前におじーちゃんがこぼした言葉の意味は、俺にはわからなかった。

 コウは睨みつけるようにおじーちゃんが出ていった扉を見ていたけど、やがて視線を落とし、また作業に集中し始めた。


「どうしたんだろう。何かあったのかな」

「さぁ」

「気にならないの?」

「気にしたって仕方ない。悩んでいるなら打ち明けるでしょうよ」

「まぁ、そうかもしれないけどさ」


 本人曰く盛り上がってる作業中らしいので、コウは相変わらずだな、と肩を竦めておく。

 おじーちゃんの言葉の真意がなんなのか、コウにはわかったんだろうか…。



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