7.


 ゲームというものが娯楽として成立していた十年前であれば『ゾンビ』と表現できるだろう外見になってしまったそのドラゴンは、まだ生きていた。

 からだの半分以上が体内に取り込んだ瘴気しょうきによって腐り、腐った肉はガスを発生させ、体は膨張し、鱗は抜け落ち、酷い腐臭を漂わせていたが、そのドラゴンはまだ生きていた。

 もうほぼ見えなくなっている眼球のあった場所を彷徨さまよわせ、かろうじて神経が繋がったままの鼻腔で、食べられるもの、のにおいを辿り、ドラゴンは人間最後の空中都市、エリュシオンまでやってきた。

 すでにドラゴンに聴覚機能はなかった。光も、かろうじて闇の中から明るさを拾い上げる程度。もうすぐ匂いを辿りながら食物を探すことも難しくなるだろう。

 ドラゴンは死を悟っていたが、だからといって大人しく死んでやるつもりは毛頭なかった。

 はらわたが、そうであった場所が、ぐじゅぐじゅとうずいている。

 すでに腹であったろう場所の肉は腐り落ちて骨すら覗いていたが、当のドラゴンにはそんなこと知る由もない。

 ドラゴンは何かを口にしたかった。瘴気で溶け始めたボロボロの牙の生えた口が食物を欲していた。

 赤髪の少女…いや、今はあかいドラゴンへと変貌した彼女は、腐ったゾンビのような外見のドラゴンに『じき』と名付けた。そんなことに意味などはないのだが、その名は腹を満たすことだけを考え漂っているドラゴンにピッタリと当てはまる。

 紅いドラゴンは、コウは、耳の聞こえない喰の脳へと直接声を届けることで会話を試みた。


 それ以上こちらへ来るのなら、あたしはお前を殺そう。毒に蝕まれた者

 ここは生者の住まう場所。死を運んできてはならない


 その声は喰の頭に届いたが、漂うような前進を止めることはない。

 また、喰にはすでに声を投げ返すような力は残っていなかった。ただ、底のない食欲だけが、物欲しさだけが、瘴気に支配されつつあるその生命をかろうじて繋ぎ止めていた。

 無駄なことだと分かっていたのか、ふん、と鼻を鳴らし、コウはその大きな口を開ける。

 警告の咆哮ほうこうは喰には意味がない。何せ、聞こえないのだから。

 無駄に吠えてしまったな、などと思いながら、コウはためらわずに同族だった者を焼き殺すための灼熱を吐き出した。

 ここで僅かながらでも同情し、ここ以外へ行くのなら見逃してやるということになれば、喰はその命尽きるまで何かを貪り続けるだろう。そしてついに瘴気によって脳髄も毒され、今以上に苦しみ悶えながら果てるのだ。

 非情となり、今ここで灼き尽くしてやることが、このドラゴンが楽になる道。

 同格以下のドラゴンならまず問題なく燃やし尽くすことのできる灼熱は空を焦がし、風を焦がし、雲を蒸発させた。

 エリュシオンの砲台が放つ荷電粒子砲かでんりゅうしほうの何十倍もの熱に一瞬にして包まれた喰は、悲鳴、のようなものを上げた。低い唸り声。それを捻り出すだけで精一杯だった。

 止むことのない灼熱は喰に残っていた僅かな肉を溶かし、体内に溜まっていたガスに引火して大爆発を引き起こした。

 こうして、あっさりと、喰は死んだ。己の体を四方八方に撒き散らし、飛び散ったその体すら残らず灼熱の業火に燃やし尽くされ、塵一つ残すことなくその存在を消滅させた。



 コウは、同族だったものが消えていくさまを炎を吐きながらじっと見つめていた。

 彼女が吠えたことで、当面、この辺りは安全だろう。挑もうという者がいない限り、格下のドラゴンは彼女の力を恐れおののいて襲撃など考えないはずだ。

 ふぅ、と炎の息を吐ききって口を閉じたとき。すでに喰の姿はこの世のどこにもない。

 ……しかし、なんと、虚しい最期か。

 竜ともあろうものが、食欲などに負けて瘴気を溜め込み、生きる屍と化すとは。

 彼女にとって喰は同族として腹立たしいが、同時に虚しい存在であった。

 賢き竜としての威厳を捨て去り、本能に従い、堕ちた者…。瘴気に肉や鱗が腐るまで蝕まれた体に救いの手の施しようはなく、こうして楽にしてやるより他に、道はなかった。

 考えていると、コウ、と呼ぶ声がした。彼女はドラゴンであったので、風が吹き荒れる中で見知った人間の声を拾うことは難しいことではない。

 視線だけギョロリとくれてやると、遠くで、葉山はやまかいりが手を振っていた。傍らには彼に懐き従うろいろと、生徒であるリア・アウェンミュラーがいる。

 お気楽なことだな、とコウは手を振っているかいりに溜息を吐く。勢いで鼻から火が漏れたので、おっと、と意識して呼吸を小さくする。彼女の吐息一つで都市の防護壁が溶けてしまうだろうことは言うまでもない。

 コウとは、葉山かいりが彼女に勝手に名付けた人としての名前だ。人であるときは『葉山こう』と名乗れと言われ、便宜上、彼女が今まで使ってきたものだった。

 彼女に名前らしい名前はないが、他に呼び名がある。

 紅竜こうりゅう……人の歴史に明確にその存在を刻むドラゴンとして、彼女はかつて、かいりとろいろとともに、日本といわず世界各地を回った存在だった。その目的は、今ではもう意味のないものとなってしまったが。


おうはまだ帰らないのか)


 紅いドラゴンの姿から、すっかり慣れた、赤髪の少女の姿へ。

 コウは人の形を取ると使われていない灯台に下り立った。どんな暴風も、彼女の本来の力をもってすれば制御は容易い。

 風など感じていないように彼女は歩き、ふと灯台の中へと視線を向けると、そこには何かをくるんだ毛布があった。廃棄された灯台には似つかわしくないもの…。

 風の囁く声に、彼女は中身を見ることもなくそれがリア・アウェンミュラーが抱えてきた卵の親だと知り、軽く目礼した。

 その場にはドラゴンの魂のようなものが漂っていた。もう消えてしまう微かな存在。リア・アウェンミュラーは真意を問うたコウに強気なことを言っていたが、もしかすると、この魂に感化されたのかもしれない。


「安心なさい。子供は生かすわ。生まれてくる子に罪はない。あたしの加護をつけてあげるから、お墨付きよ」

 

 コウに言葉を投げかけられ、母ドラゴンの魂は安堵したのか、風にさらわれるようにして消えていった。

 灯台から街の端へ、欄干を撫でながら歩いてやってきたコウは、街の人々の怯えたような視線を前にいつもの不機嫌顔で鼻を鳴らし、その場から掻き消えた。ざわり、と波紋が広がるが、そこにもう彼女はいない。

 こうして、『エリュシオンにもドラゴンはいるらしい』というまことしやかな噂は、現実のものとして、人々に知れ渡ることとなったのだ。



 人に残された最後の都市、エリュシオン。楽園の名をつけられた人の都市には、そこにいるのにふさわしくないドラゴンが潜み、陰からひっそりと街を守ってきた。

 ドラゴンは人間に害なす敵。殺すべき相手。または食糧。そうやってドラゴンを軽視、あるいは蔑視して生きてきた人々にとって、ドラゴンに守られ生き延びたその日の出来事は、青天の霹靂であった。



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