5.
ドラゴン学の授業だけを楽しみに学生生活を送る、冴えない僕の日常は、今日も続いている。
二日に一度のドラゴン学の講義の時間になって、僕は少し軽い足取りで手提げ鞄についたキーホルダーを眺めつつ講義室に入った。「おはようございます」と、いつも返ってこない挨拶をしながら、今日もいるんだろうと小さな講義室の一番後ろの席に目を向けて、赤い髪の女の子が座っていないことに驚いた。そんなことは初めてだった。
「おはようございます」
ぐあいでも悪いのかな…と喋ったことのない相手を気にしていたら聞こえた声。
しっかりとした発音の英語だ。相手に聞こえることを第一に考えているような感じの。
驚いて顔を向けると、赤い髪の彼女ではない先客がいた。
僕が知っている赤髪の女の子じゃない。でも、こちらも女の子だ。僕の挨拶に返事をしたのは彼女のようだ。
えっと。どこかで見たことがあるような気がする。染めてギラギラしているわけじゃない自然な金髪と、青い瞳の女の子…。どこで見たんだっけ。
考えて突っ立っている僕に彼女は「座ったらどうですか」と自分の隣をさすので、「あ、はい」ともそっと返事をして指さされたまま、彼女の隣の席に腰を下ろした。
…思い出せない。どこかで見かけたような気がするのに。
頭を巡らせる僕を気にせず、隣の彼女は、背負うタイプの鞄からドラゴン学の教科書を取り出した。まだ皺も折れ目もない新品だ。ということは。「…新しい、受講生?」「そうです。リア・アウェンミュラーといいます。そちらは?」「
「以前から思っていたんですけど、もう少しシャキッとしたらどうですか?」
「え、」
「まず髪です。いつ見てもぼさぼさですね。ちゃんと乾かして寝ないから寝癖がそんなことになるんです。
それから、整髪剤を使って最低限整えてください。外見も男の方の立派なステータスの一つです。それはこの都市でも変わらないはず。
男の方なら髪に気を遣って損はないですよ。そうでないと、将来ハゲます」
「ハゲ…っ」
ばっと両手で髪を押さえた僕にリアと名乗った彼女は少し笑ったようだった。「ハゲるというのは冗談です」じ、冗談なのか…びっくりした……。父さんの髪、ちょっと薄くなってきてるから、心配しちゃったじゃないか…。
ほっとしたのも束の間のこと。リアはまた眉をつり上げて「それから、背筋を伸ばすことですね」「う」「自覚していると思いますけど、猫背がすぎます。見ていて格好悪いです」ザクザクっと、彼女の言葉が僕の
自覚は、してるけど。ハゲるとか、格好悪いとか言われるのは、ダサいって笑われるよりずっとショックだな…。
肩を落としている僕に、彼女はさらに何か言おうと口を開いて…やめた、みたいだた。一度口を閉じてドラゴン学の教科書に目を落としている。装丁にもこだわったんだ、と
「柳井先輩」
「…はい」
先輩、と言われて、なんだか背中がむず痒くなった。そんなふうに誰かに呼ばれたのはずいぶんと久しぶりじゃないだろうか。
新しい受講生ということは僕の下だろうと思っていたけど、やっぱりそうだったみたいだ。リアはまだどこか幼さの残る顔立ちをしている。
「先輩は、どうしてドラゴン学を学ぼうと思ったんですか」
「どうして、って……まぁ、うんと。好きだから? かなぁ。学びたいって、思ったから」
「
「…どういう、意味?」
彼女の言葉の意味がよくわからなかった。何が言いたいのかも。
リアは一つ吐息して教科書をめくった。「ドラゴンを殺す方法、ドラゴンを飼い馴らす方法。そういったものなら人の将来のためと評価されるでしょう。でもこの授業は違います」教科書の目次は様々な項目に分かれている。そのどこにもドラゴンを否定する要素はない。「叶うならば、ドラゴンと友好関係を結ぶ。それが目標のドラゴン学でしょう」「そう、だね」頷く僕に、リアは青い瞳をこちらに向ける。空の青の色。
「人に害なすドラゴンを肯定することは、あなたの人生を左右する結果を生むかもしれない。それでも先輩はこの授業を受け続けますか?」
人生を左右する。結果。
なんだか話が大げさな気はするけど…。言われてみれば、そういうことになる、のか。
僕にとって唯一楽しいこと。唯一僕を
世界の現状も、世間一般のドラゴンに対しての態度も知っていながら、僕はドラゴン学を受講しようと決めた。そこに大きな覚悟はなかった。
生きるということは選択の連続だ、とどこかで聞いたことがある。
僕の、ドラゴン学を学ぶ、ということも、一つの選択なんだろう。世間にとっては喜ばしくない僕の選択。
明るい紫の粉が入った小瓶に触れる。僕を守ってくれるというドラゴンの粉。
たとえそんなお守りがなくても。手元に何も残らなくても。僕はやっぱりドラゴン学を学んでいたんじゃないかな。
だって、楽しいから。
「ドラゴン学を学んでいるときだけが、僕の、楽しい時間、なんだ。だから…それが僕の今後に、何か影響を及ぼすとしても。それでいいよ。大丈夫。納得する。
覚悟、がいるなら、悩む余地もないから…僕の心は、もう決まってるんだと、思う」
もそもそそう言った僕に、リアはふっと口元を緩めた。「なるほど。わかりました。それを聞いて安心しました」「はい?」「こっちの話です」首を捻った僕に彼女はもう何も言わなかった。
そして、赤い髪の彼女は来ないまま、葉山先生がやってきて、リアのことを改めて紹介し、いつものようにドラゴン学の授業が始まった。
まさかこの僕が。ダサい柳井で定評のあるこの僕が、授業中とはいえ隣に女の子が座っている状態で授業を受ける日が来るとは思わなかった。
リアは、キツい目つきをすることもあるけど、基本的にはいい子みたいだ。僕より熱心にノートを取っていたし、僕より熱心に先生に質問していた。これからあの子が後輩かぁ…。先輩らしいところ、見せれるのかな、僕は。自信ないなぁ。
なんて思いつつ次の授業のために廊下を歩いて移動していると、携帯端末がメールの着信を知らせた。ん? と首を捻って画面を見る。送信相手は『リア・アウェンミュラー』となっている。…なんだろう?
メールを開いてみると、今日の十六時に校門前で待ち合わせといった旨のことが書いてあって、思わず二度見、いや、三度見した。
待ち合わせ? 僕と? 一緒に帰ろうってこと、かな…?
いや、なんで?
困惑した僕は、混乱した頭のまま返信メールを作成する。『いいけど、どうして?』と。返事はすぐに来た。『ドラゴンについて、肯定的に話をできる人なんて、そうたくさんいません』と。
確かにそうかもしれないけど。僕は、話すのとか、得意じゃないし。リアみたいにハキハキ喋れないし。猫背だし、頭はぼさぼさだし、黒縁メガネはダサいし。隣に並んで話したい人間ではないと思うんだけどな…。
と書くと怒られそうだと思ったので、『了解しました。正門のところに十六時で、待ってます』と入力、送信して、思わず廊下の天井を仰いだ。
次の授業が憂鬱だなぁと思っていた僕の頭はすっかり混乱していた。次の授業なんだっけ? すべて頭に入ってこない気がする。
落ち着け柳井航。
リアは僕とドラゴンの話をしたがってるんだ。そこのところ勘違いしないように。
僕は今日十四時には学校を出れる予定でいたけど、彼女の指定する十六時まで、何をしていようかな。ドラゴンの話題をまとめておくべきか。リアが興味ある分野なんてわからないけど…。
食糧プラントについての授業はほとんど中身が頭に入ってこず、リンゴーン、という鐘の音を聞くや否や僕は講義室を飛び出して電子図書館に向かった。携帯端末で認証をパスしてから片っ端からドラゴンについて書かれている本を検索。一つ一つアクセスして本を開いていく。
紙じゃなくて電子書籍だから、こう、紙をめくる癖がついてる身としては何かもどかしい。自分の手でページをめくって中身を確かめたい…。
時間を忘れて取り組んでいたら、約束の十六時まであと五分になっていて、慌てて持ち出し禁止の電子書籍を閉じてデータを返却し、図書館を飛び出した。
なんとかギリギリ、十五時五十八分、校門前にたどり着いて、普段走ることなんてしなさすぎてぜぇはぁいっている息を整えようと努力する。
「先輩?」
「、」
努力。したものの、リアはもうそこにいた。ぜぇはぁ息が上がってる僕を見ると呆れたように吐息する。「体力も筋力も、意識してつけないと、この先減る一方ですよ」「そ、そう、だね…」苦しい。このまま倒れたいくらい苦しい…。体力。つけたいな…。
リアが歩き出したので、なんとかあとに続いた。
フラフラするぞ。息を吸え僕、息を。とにかく呼吸が大事だ。酸素、酸素。
認証システムをパスして校門を出て、そのまままっすぐ商店街を行く。
学生に必要なもの。校則で定められているマフラーとか手袋とかその他、学校ものを扱う用品店がいくつか並び、そこに学生や講師の買い物先としてスーパーが混じる、いつもの景色。僕も歩き慣れた道だ。
と、思っていたらリアが「こっちです」と僕の袖を引っぱった。つられてそちらに足を向ける僕。言われるがままである。
中央通りから一本中に入った道にはカフェがいくつかあって、リアはそのうちの一つに入った。僕はこういう場所にはあまり来ないし、勝手もわからないので、リアについていくだけだ。
これといった特徴のないカフェだった。
合成樹脂か何かでできた黒っぽいテーブルに、黒っぽい椅子。それとは対象的に白い食器や白いメニュー表。
リアがテーブルの真ん中でメニューを広げた。
「じゃあ、私はレモネードのホットで。先輩どうします? あ、自分の分は自分で出しますのでご心配なく」
「じゃあ…カルピス」
そういうことで、注文は通ってしまった。
すぐに運ばれてきた白っぽい液体のカルピスは、子供の頃によく飲んだものだ。懐かしい。名前を見つけてつい頼んでしまった。
リアはふーとカップに息を吹きかけて熱いんだろうレモネードをちびちびと飲んでいる。
……今日は一体何に、何度、驚けばいいんだ。
僕が女の子とカフェでお茶をしているなんて前代未聞だ。
こういうとき、男から話を振るものなんだろうか? 話下手の僕にそんな高等技術はないぞ。リアだってそんなこと期待してない気がする…。ドラゴンの話を否定せず聞くだろう僕がいれば、それでいいんだろうか? 彼女は僕に何を求めているんだろう?
ぐるぐるしてきた頭でとりあえずカルピスを飲む。
意を決した、という真剣な顔つきをしたリアが「先輩。実はお話したいことが…」そう言いかけた彼女に「うん」ともっそり返して、これはきっと大事な話だ、気を引きしめろ、と自分に言ったとき。
バリン、と遥か天井の防護壁が割れる音がした。店内にいてもその音はよく聞こえた。
二人して弾かれたように窓の外を見上げる。
遥か頭上の防護壁に壊れている部分ができていた。この間割れた部分の修復が終わったところなのに。
でも、ドラゴンの姿はないから、寿命だろうか…? 強い風雨に晒される壁だ。壊れてしまっても仕方がない、か。
リアも、ドラゴンの姿がないことに僕と同じ考えを抱いたのか、ほっと息を吐いて席に座り直した。僕も改めてリアに向き直る。
けど、僕らの安堵をよそに、またバリン、バリンと続けて防護壁が割れる音が響いた。遠くどこかで悲鳴も。降ってきた防護壁で誰かが怪我をしたのかもしれなかった。
防護壁は割れて破片が降ってきてしまうという危険性を考えて、割れたときに大きな音がするよう造られている。
それで降ってくる破片を避けられるかといえば微妙なところだけど、軒下に避難したり、鞄やヘルメットで頭を守ったりすることはできるかもしれない、という配慮が込められていたり。
僕とリアは顔を見合わせて、とりあえずドリンクを全部飲み込んだ。ちょうどの代金を二人で出してレジにどんっと置いてカフェを飛び出すと、吹きつける強い風の音。そして、バリン、とまた向こうの方で防護壁が割れた。「風雨の、せいじゃ…ない?」こぼした僕の言葉を肯定するように、円形の都市の天井部分に設置されている
ゴーン、ゴーン、ゴーン、とブリュンヒルデの鐘が警報の音を鳴らしている。自宅内などに避難すること知らせる音だ。外に出ないように、と言っている。
(荷電粒子砲を放って相手をしないとならないドラゴンが来た? それとも、ドラゴンでない、何かが)
荷電粒子砲二発目が発射されて、とにかく、リアと避難しなくては、と思った。外にいちゃいけない。割れた防護壁が降ってきて怪我をするかもしれない。「リア、とにかく避難を…。リア?」腕を引いても動かないリアは固まっていた。どうしたんだ、とその視線の先を追いかける。
カフェの前の道は、ちょうど空中都市のどん詰まりの灯台まで続いていた。ちょうど、空の景色がよく見えた。荷電粒子砲の光が目指していく場所も、よく見えた。
よく見える空の中に、黒ずんだ、大きな翼を持ったドラゴンのような形をしたものが一つ、浮いていた。
あれがドラゴンだとしたら、僕が目視で確認してきた中で最大の大きさだ。
(あれが、ドラゴンなら。これから始まるのは、地獄だ)
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