4.


 僕こと柳井やないわたるは冴えない男子大学生である。

 身長はぴったり百七十センチ。高くもなく低くもない背丈に猫背気味の姿勢。

 いつも寝癖のひどい黒髪を制御下に置くのはとうの昔に諦めてしまったので、今日もぼさぼさとあちこち跳ねたり浮いたりしている髪に、眼鏡をかけている。この眼鏡も今の流行(フレームを無駄にカラフルにして個性を出すことが流行はやっているらしい)とは縁のない太い黒縁眼鏡。

 通りすがる同年代からはひっそり笑われて『何あれダサい』とか陰口を言われる、そういうレベルのダサさをいくつも持ち合わせた、それが僕だ。

 努力は、一応してみた。眼鏡のフレームを変えてみたり、整髪剤を買って毎日鏡の前で五分は寝癖と格闘してみたり…。どれもピンとこなくて、結局やめてしまったけど。

 人に笑われるのは、やっぱり気分のいいことじゃない。

 それでも僕は毎日ちゃんと学校へ行っている。

 僕が選択している科目に『ドラゴン学』というものがある。二日に一度あるこの授業を楽しみに、僕は学校に通っているのだ。

 この科目を担当している葉山はやまかいり先生は僕と同じ日本人だ。まずこの点でこの人と話をするのに少し気が楽になる。いくら英語が飛び交う場所に耳が慣れたとはいえ、母国語というのはやっぱり心が安堵するものだ。

 今日は先生の授業がある日だから、講義室へ向かう僕の足取りはいつもより少し軽い。

 メジャーな科目だったら講義室の大きさもそれなりになる。ドラゴン学は受講してる人が少ないから、いつも小さな講義室だけど、僕にはそれがまた気楽でいい。大きな講義室じゃ前の方へ行かないと黒板の文字なんか見えやしないけど(そのために前の席に行くと、ダサい容姿のことで僕はまた誰かに笑われるのだ)、葉山先生の授業ではそういったことを気にしなくていい。

 それに、先生の授業は、純粋に楽しい。

 誰も彼もがドラゴンという生き物を敵視しかしない中で、先生はドラゴンを色々な側面から見ることのできる少ない一人だ。そんな先生だから、僕もできる話がたくさんある。

 会話とか、あまり得意じゃないけど。ぼそぼそ喋っている僕の声でも先生はちゃんと聞いてくれる。

 ドラゴンについてなんでも知りたい、話したい僕は、俗に言うオタクというやつなんだろう。

 オタクとは、十年前の日本にはありふれていた、趣味に極端に傾倒する人を指す呼称だ。

 今ではもう絶滅危惧種くらいに激減しているだろうオタクは、一般的に冴えない容姿をしていたという。趣味にすべてが傾倒しているから、身なりなんて構っちゃいない人間が多かったのかもしれない。

 本当、オタクってまさしく僕だな、と思う。冴えない容姿もそうだけど、趣味に傾倒しているって部分も当てはまる。

 昨日先生に合格点を貰ったドラゴンの粉は、小瓶に入れたまま、接着剤でコルク栓が抜けないよう固定した。そのコルク栓に金具を刺して、チェーンを通せば、ストラップになる。

 明るい紫の粉がキラキラと揺れる小瓶を見ていると気分がよくなる。たとえ通りすがりの男子生徒に「よぅ、ダサいヤナイ」と笑われようが、片手を挙げてさよならと手を振って流すことができる。

 好きなものを身につけるっていうのは力になるんだなと改めて実感しつつ、今日のドラゴン学が開かれる講義室の引き戸をカラカラと開けた。


「おはようございます」


 僕が早く来すぎたので、黒板前に先生の姿はまだなかった。

 小さな講義室の一番後ろの席には、いつも、一人の先客がいる。燃えるような赤い髪をしたきれいな女の子だ。今日はスウェット上下姿でタブレットとペンタブ片手に何かしている。挨拶しても、返事が返ってきたことはない。

 彼女はあまり、というかほとんど授業に参加しない。出席だけはしているけど、先生も彼女にはあまり触れることがない。

 僕にとって、名前も知らないあの赤い髪の彼女は、僕のことを笑わない数少ない女の子だ。

 まぁ、それ以上でも以下でもないし、きっとそれ以外の関係になることはないだろうけど。

 先生が来るまでの間、僕はいつものようにドラゴン学の教科書を引っぱり出し、今日の授業の予習をする。

 メジャーな科目は携帯端末にダウンロード形式の教科書があるけど、先生のドラゴン学は登録がない。代わりにこうして手に取れる紙の本という形で教科書を配布されて、あのときは、控えめに言って感動した。

 十年前とは違い紙はもう骨董品であり貴重品だ。手に取る機会は限られる。そんな貴重な紙に触れながら好きなことが学べる。ドラゴン学は、僕にとってのいやしだ。

 ……十年前。そうはっきりと記憶があるわけじゃないけど、地上で普通に暮らしていた頃。紙はありふれた存在で、ノートとして、教科書として、宿題のプリントとして、すぐ手の届く場所にいつもあった。人が空中都市に住むようになってからは遠いものになったけど、紙は、僕にとって地上を想起させるものの一つだ。だから触れているだけで懐かしくて、こういう気持ちになるのかもしれない。

 十分くらいして先生がやって来た。「柳井早いな。おはよう」「おはようございます」もそっと挨拶してぺこりと頭を下げる。先生は若干眠そうな顔で目の下にクマを作っていた。「…どうか、したんですか?」首を捻った僕に先生は「なんでもないない」と笑うだけ。

 先生にクマがあるのは珍しいなと思いつつ、眠れない日だってあるさ、と一人納得して教科書を広げ直した。イマドキは授業のノートも携帯端末にペンタブで入力するので、そちらの用意もする。

 話を聞いているのかいないのかわからない赤髪の女の子と、僕という、二人だけの生徒に、先生は日本語で授業をする。


「じゃ、今日は前回の続き。ドラゴンの粉の主な使用法について」

「はい」

「ドラゴンの粉、と一口に言っても、いくつか種類が存在する。

 鱗を使用するもの、ドラゴンの飛膜から採集するもの、ドラゴンの息吹が粉になったもの…。もちろん、ドラゴンの種類と何からできた粉なのかによって効果も異なるから、教科書にある例だけおぼえるのでも充分じゅうぶんややこしいかもしれないな。

 代表的なものは教科書にあるとおり。ドラゴン用の薬にしたり、人間にも使える痛み止めにしたり。

 ああ、試験にはメジャーなものしか出さないから安心していい」


 教科書に載っているだけでも事例がありすぎて困惑しているのが顔に出ていたのか、先生はそう言って笑った。

 僕はほっと息を吐き出しつつ、鞄にキーホルダーとして取りつけてある小瓶を見やる。

 あの中にはドラゴンの粉が入っている。先生が授業のために持ってきたドラゴンの鱗、その余りをお願いして持ち帰らせてもらい、精製したものだ。先生のようにうまくはできなかったけど、色味は完璧、って言われたもの。

 先生は前回の授業で作った粉を黒板前の机の上に置いた。


「前回作ったドラゴンの粉は、魔除け、みたいな効果がある」


 その言葉は、予想していないものだった。魔除けって、まるでお守りか何かみたいだな。「魔除け、ですか…?」「そんなような効果、だよ。具体的には難しいけど…一度だけ、君の身を守ってくれるだろう」真剣な顔でそう言われて、はぁ、と曖昧に頷く。

 それは使用法とは言わない気がするけど……じゃあ、こうしてキーホルダーとして鞄に取りつけたのは、このドラゴンの粉には合った形だった、ってことか。ならよかった。


「魔除けって、日本で言うと、神社のお守りとか、そんな感じがします、けど」

「これは力のあるドラゴンの鱗だからね。そういう効果も期待できる。普通のワイバーンや、この都市に襲来してくるドラゴンの鱗ではこうはいかないよ」

「へぇ」


 それはまた。貴重なものを持ってるんだな、先生は。僕みたいな生徒のためにそんな貴重な鱗を授業で提供してくれるなんて。

 一人感動しながら、今日も先生の授業を楽しんで、あっという間にリンゴーンと鐘の音が響く時間になってしまった。「ということで、今日はおしまい。お疲れさま」「はい。ありがとうございました」ぺこりと頭を下げてから教科書や携帯端末を鞄にしまう。

 この講義室から出てしまえば、僕はまたダサい柳井と笑われる僕になる。

 それでも今日からは、少し心強い味方がいる。

 手提げ鞄についているキーホルダーの中には、明るい紫に輝く、ドラゴンの粉。

 これはお守りだ。僕だけのお守りだ。もしどうしようもない何かが起こったとき、きっとこのお守りは僕を守ってくれるだろう。力のあるドラゴンの鱗から心を込めて精製した粉だ。色味がきれいだと先生に褒められたものだ。きっと、僕のためになってくれる。



 大学卒業のためには、ドラゴン学以外にもいくつも講義を受けなくてはならない。

 ドラゴン学以外はあまり楽しいとは思えないし、ためになるかもわからないけど、なんとかやっていけそうな無難な科目の授業をこなして、今日も帰宅の途に着く。

 明日はドラゴン学がない、丸一日楽しくない日だ。

 そう思うと暮れていく空に溜息も吐いてしまうものだけど、それは贅沢だと、僕は知っている。

 ここはエリュシオン。人に残された最後の都市。

 かつて百億に届こうとしていた人口は、もうたったの一億しか残っていない。

 僕はその中の一人として場所を取っている。

 それはとても恵まれたことなんだ。ここにいること、それだけで、僕は選ばれ生き延びた贅沢な人間、ということになるのだから…。

 僕は出来がよくなかったけど、兄はちゃんと両親の頭の良さを引き継いだ。その頭の良さで今日も食糧生成プラントの設立を目指している。

 両親と一緒に働く兄は充実しているし、自分の仕事が人のためになることだと胸を張っている。それはそのとおりで、僕はいつも、兄さんすごいね、頑張って、と彼を応援する。目下人類が悩んでいる食糧問題は、食糧生成プラントが成立すれば、大きく解消されるだろう。両親と兄はその日を夢見て仕事に勤しんでいる。

 そんな家族の背中を眺めているだけの僕は、出来の悪い弟だ。

 僕はこの都市にとって必要な人材じゃない。兄が、両親が、必要なだけで。僕はそのおこぼれをもらって生かしてもらっているだけの役立たず。

 吹き荒ぶ風に身を竦めていっそう猫背になりながら帰り道を行き、途中でショップに立ち寄った。あたたかさを求めてもあるし、買い物がしたかった、というのもある。

 どうせ、今日も帰っても誰もいないんだ。夕食を買って帰らないといけない。

 簡単な調理パンと野菜の入ったレトルトスープ。それだけではあまり食べない僕でも寝る前にお腹が空いてくる。他に何か…と棚を物色していると、『ミズチのみそ煮』と書いてある缶詰を見つけてしまい、微妙な気持ちになってしまった。

 みずちは小さな蛇のようなドラゴンで、ドラゴンとしては、力を持つ方じゃない。人間に捕らえられて食用に養殖されてしまうほどには。

 立派な蛟っていうのもいるんだろうけど、生息地であった水場のほとんどが瘴気しょうきに沈んだ今、力のある蛟はもう残っていない気がする。

 缶詰を見つけてしまったのも何かの縁。僕はパンとスープと缶詰を持ってレジに行き、お金を支払って、再び寒風吹き荒ぶ街を歩いて家を目指す。

 機能性重視の住宅が続く街は、同じ形同じ色の家がただのっぺりと並んでいるだけの面白みもない景色だ。その中の一つが僕の家。


「ただいま」


 寒さから逃れて一軒家の家に入っても、誰の声もしないし、明かりもない。僕がタッチすることで初めて明かりが灯る。

 ガランとしたリビングにふうと一つ吐息した。今日もみんな仕事か…。

 誰もいない形ばかりの家に一人でいることにももう慣れた。

 レトルトタイプのスープはお湯を沸かして適量入れることであたたかいできたてスープに変身し、パンもあたためることでほっこりとやわらかさを取り戻す。加えて蛟のみそ煮を皿に移してレンジでチンする。今日の夕食を前に手を合わせて、いただきます。

 そのうち端末が着信を知らせた。母からだった。今日も仕事が忙しくて帰れないという内容の、決まりきった電話に、僕も決まりきった答えを返す。大丈夫、ご飯は買って食べたよ。僕のことは気にしなくていいから。仕事、頑張って。

 今日も父も母も兄もいない一人の家で一人でご飯を食べて、暇潰しにテレビをつけて、課題をする。煮詰まったら、使用量に制限のあるお湯でさっと洗髪その他をすませて気分転換し、また課題に戻る。やるべきことが片付いたら趣味の時間になるから、ドラゴン学の教科書を眺めたり、今まで作ってきたドラゴン関係の物をテーブルに並べては一人満足したりする。

 そんなつまらない僕の日常は、こうして一日を終え、眠りについて、また明日という今日を迎える。



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