3.


「先生、大変なことに気づきました」

「どうした?」

「私、寮暮らしです。先生を連れていくことができません。いえ、できますけど、それはたぶんあまりしない方がいいことなんだろうと思います…」


 私は寮の一人部屋でお風呂とトイレが共用の寮生活をしている。

 基本的に、寮への訪問者は寮母さんが対応する。その寮で暮らしている学生は自由に出入りが可能だけど、部外者はチェックが入る。両親であったり、友達であったり。問題なければ招き入れてくれるけど、私が連れてきたのが『学校の先生』となれば、きっと寮母さんもいぶかしむに違いない。最悪学校に連絡がいってしまうことも考えられる…。

 葉山はやま先生になるべく早く卵を見てもらいたいのに、こんなところで困ってしまった、と私は唇を噛んだ。

 物事、進み始めたら、それはそれでうまくいかないものだな…。

 二度手間にはなるけど、私が一度寮に帰って、卵を持って学校に来るしかないだろう。それが不自然じゃない形となると、今日このあとの授業を終えて帰宅して、明日の朝登校とともに…ということになる。でも、それまであの卵が大丈夫かどうか。

 記録に残ったら面倒だろうって写真の一つも撮らなかったことを後悔する。一枚撮っていれば先生にここで判断してもらえたかもしれないのに。

 悩む私に、先生はなぜか笑った。そしてこう言うのだ。「それなら問題ない。大丈夫」と。

 一体どういう意味なのかと顔を上げた私の視界に、赤い色が舞う。

 ついさっきまで、自販機一つしかない狭いこの休憩所には、私と先生の二人だけだった。そのはずだ。それなのに瞬き一つの間に赤い長髪の同い年くらいの少女が一人、すぐそこに立っていた。少し癖っ毛の赤髪をかき上げて不機嫌そうに目を細くしている。上下ジャージ姿でつっかけサンダルを履いて、さすがにラフすぎて学校では怒られそうな格好だ…じゃなくて。

 いつからそこに。いつの間にそこに?

 内緒の話だったんだ。先生と二人であることを意識していた。誰かがやって来たらすぐに話を誤魔化せるよう準備だってしていた。それなのに人がやって来たことに気付かなかったなんてこと、あるだろうか?

 私の戸惑いをよそに、先生は赤髪の少女を見る。「コウ、頼む」「嫌よ。なんであたしが」不機嫌そうな顔の、不機嫌そうな声。流暢な英語。

 どうやらコウというらしい少女に向かって先生は手を合わせて頭を下げた。「俺はほら、そう大きく動けないからさ。コウ様お願いします。あとで新しいペン買ってくるから」少女は先生を上から睨み下ろしたあと、ジロリ、と私を睨みやった。自然と背筋が伸びる。

 私を睨むその双眸そうぼうは、何かを秘めたような、力強い瞳をしていた。


「ドラゴンの卵を保護した、リア・アウェンミュラー、だっけ?」

「は、はい」

「どうしてその卵を助けたいの。

 あなたは人間。ドラゴンは目下人類を脅かす敵という存在でしょう。ドラゴンを生かしたところであなたに得なんてないわ」

「それは…そうですけど」

「あなたの選択は、今後の人生に不利な経歴をつけるかもしれないのよ。そこのところ自覚してる?」

「コウ」

「バカは黙ってなさい」


 先生がコウに馬鹿と言われてぐうと唸っているのが少し新鮮だ。先生はなぜか私くらいのこのコウという少女に頭が上がらないらしい。

 強気なこの少女を、私も睨み返した。そして、挑むように強く、言ってやった。


「母ドラゴンが死にながら守り抜いた卵に、この場所では死んだ方が楽かもしれないその卵に、生きてほしいってエゴを願った」


 思い出すのは、毛布にくるんでチョコレートと祈りを置いてきた、あの灯台のこと。荷電粒子砲に貫かれて苦しみながら息絶えたろうドラゴンのこと。


「戦争なんかしていたって、人もドラゴンも破滅の瘴気しょうきの中に足を引っぱり合いながら落ちるだけ。

 だったら、それを変えたいって願っても、いいでしょう。それがあの卵から始まったって、いいでしょう」


 卵。こごえていないだろうか。生きているだろうか。ああ、心配だ。

 コウと私の視線がぶつかって、数秒。

 彼女はふっと目元を緩めると「そ。じゃあいいわ。行きましょうか」とぼやいて天井に向かって腕を突き出し、ぐぐっと伸びをした。欠伸も。

 あっさり引き下がったというか納得した彼女に、やり場のなくなった私の気持ちが中途半端に宙を泳ぐ。私達の間を取り持つように先生が咳払いして「コウは俺と同じ志を持ってるから、任せて大丈夫だ。一緒に行きなさい」「…はい」先生がそう言うのなら、と私は頷いて立ち上がる。



 コウと先生とは休憩所で一度別れた。そして高校棟校舎の入り口で彼女と再び落ち合う。そのときも彼女は上下ジャージにサンダル、かろうじてコートを羽織っているというだらしない格好だった。「その格好どうにかならないの?」あまりにだらしないので私が口を出すと、コウはひらひら手を振って「別にいいでしょ、あたしがどんな格好していようと。楽なのよこれ」と取りつく島もない言いようだ。

 ところで。ここまで来て新たな問題があることに私は気付いてしまった。

 コウを『友人』として寮に招くことで卵を先生のもとへ持ち帰ってもらうことは可能になった。次の問題は、この学校、ブリュンヒルデをどう抜け出すか、ということだった。

 授業中でしっかりと門扉が閉ざされたままの校門をちらりと窺う。

 あの門扉を開けるにはどうやっても認証システムにアクセスして学生証を提示し、許可をもらって開けてもらわないとならない。

 ついさっき遅刻してやって来た私が早退することを誰がよしと許可を出すだろう? 誰も認めないに違いない。さあ、また困ってしまった。

 私が門扉を眺めていることに気付いたのか、コウは「心配いらないわ。こっち」とサンダルを鳴らしながら歩き出した。「えっ?」校門はあっち、と指差す私なんて見てもいない。

 仕方ないのでコウの背中を追いかけて歩いて行く。

 彼女はなぜか校舎の裏側に入った。人もいないし、草木が生えているだけで何もない場所だから、カメラだって設置されていない。彼女はそんな草木をガサガサ言わせながら学校を取り囲むのっぺりした壁の方へ行くので、私は眉根を寄せつつ彼女に続いた。「ちょっと、こっちに何が…」「シー」唇に人差し指を当てた彼女にむっと押し黙る。

 だから、こんな場所に何があるっていうんだ。ただ壁があるだけでしょう。

 コウは辺りを窺う素振りを見せて、壁をコンコンと叩いた。それだけだ。まるで誰かの部屋の扉をノックするような気軽さ。でも、ブリュンヒルデを囲う壁は扉みたいに開かれるようにできては。

 できてはいない、と思った矢先のことだった。

 コウがノックしたその場所から壁がざわりと脈打って動いた。確かにそう見えた。石を放り込まれて波紋が広がっていく水面。そんなふうに脈打った壁は、彼女が叩いた部分からなくなっていった。

 ぽかんとしている私の前には壁がある。校舎の白いのっぺりとした壁。今はぽっかりと丸い穴が開いて、普段は閉ざして遮断している街の風景を覗かせている。ちょうど人一人が通り抜けられるくらいの大きさの穴。


「行くわよ」


 コウは当然の顔をして穴の向こうへ歩いて行く。

 私は慌てて走って壁を、穴を通り抜けた。

 振り返れば、役目を終えたとばかりにさっきの逆再生をしていくように穴は端から白い壁になっていき、すぐに校舎は見えなくなった。


「な、何今の。どういうこと」

「簡単よ。ちょっと邪魔だから壁に動いてもらっただけ」

「はぁ?」


 意味がわからなすぎて、なんだか腹立たしい。

 こんなことできて当たり前でしょとばかりに彼女はそれ以上私と取り合わず、「寮はどっち。ほら、先歩いて」と急かしてくる。

 なぜかわからないけど、私は彼女とはあまり馬が合わないのかもしれない…と思いつつ、しぶしぶ寮に向かっての道を足早に歩く。

 それ以上とくに会話もなく寮に着いて、私は寮母さんに盛大な嘘を吐いた。

 コウのことを親友だと紹介し、今日の授業は早退してきたと言い、精神的に参っていることがあるので彼女に相談したくて招いたのだ…とかなんとか、しおらしい表情と言葉に気を遣ってみた。コウは空気を読んで気遣わしげに私の背中を撫でたりと演技に付き合ってくれるので、信憑性はいっそう増したことだろう。

 私は寮でぼっちみたいな生活をしているので、寮母さんも私のことを気にかけている節がある。私に悩みがあり、それを打ち明けられる友達がいるとわかると、寮母さんは快くコウを迎えてくれた。

 コウに背中を撫でられながら階段を上がり、寮母さんの視線を気にして部屋に戻るまでは二人でフリを続けた。そして、携帯端末をかざして部屋の施錠を解き、中に入って、肩の力を抜く。よし。なんとかここまではうまくいった…。


「卵は?」


 コウの方も、優等生そうなフリをやめてぶっきらぼうな態度に戻っている。「待って」私も卵の安否が気になっていたので、ベッドに駆け寄ってそっと布団を剥がした。ぺたぺたホッカイロを貼りつけてある卵からそっと帽子を外す。

 これだけど、と言う前にコウが卵を取り上げた。「あっ、ちょっと丁寧に…!」慌てる私に構わず巻いていたマフラーを落とすと、卵に耳を押し当てる。その仕草が聴診のようにも見えて、私は思わず黙った。彼女は真剣な顔をしていた。

 所在なく、落ちたマフラーを拾ったり、ホッカイロを剥がしたりしてみる。その間もコウは卵の殻を撫でたり少し叩いたりしていた。


「あの…どう?」


 気になって、真剣な面持ちの彼女にそっと訊ねてみる。

 コウは卵を部屋の光に透かすように高く持ち上げた。「雑種ね。何が生まれるのかは微妙なところよ」「そっか…」「それと、死にかけてる。寒すぎるのね」その言葉にギクリとからだが固まった。

 死にかけてる。寒すぎる。高温の中に置いておかないといけないタイプの卵ってことか。

 私一人でどうにかしようとしていたら、卵は死んでいた。

 その事実に視線が泳いで狼狽うろたえる私の前で、コウは卵を顔の前に戻すと、ふうっ、と息を吹きかけた。それは、人間ではありえない、息吹、のようなものだった。火の粉みたいに赤いキラキラした粉が吐息と一緒に宙を舞う、美しい風景。

 不機嫌そうな表情とジャージ上下にサンダルという格好で誤魔化されているけど、コウは美しいと表現できる少女だった。

 パーツが整った少女が真剣な面持ちで炎舞う息吹をドラゴンの卵に吐きかける。

 それは、夢のような、風景。

 私はぼんやりとその景色を見ていた。

 ほんのりと感じる熱はあの吐息に含まれる炎だろうか。

 コウは卵をじろじろと眺めると、「とりあえずこれでいいわ。応急処置」とぼやいてコートの中に卵をしまいこんだ。それから横目で私のことを見て「学校、戻るわよ」と言う。えっ、と驚いた私に彼女は呆れ顔だ。


「記録に残らないよう出てきたのよ。記録に残らないよう戻らなきゃでしょ」

「そっか…」


 そういえばそうだった。今のことですっかり、頭が空っぽになってた。

 目的を遂げたコウはさっさと部屋を出ていこうとするので、私は早口で、彼女の背中に尋ねた。「ねぇ、あなたって、人間…?」私の言葉に、パタ、とサンダルの足が止まる。

 振り返ったコウは感情の見えない瞳で笑っている。その瞳は、人間ではありえない、赤い、あかい色に、輝いて。

 その底知れない笑顔に背筋がぞっと震えた。

 普通に考えて、炎の息吹を吐ける人間なんているわけがない。

 それに、学校から抜け出すときに、彼女は何かしてみせた。力、みたいなものを使ってみせた。それに、そうだ。よく考えれば彼女が最初に現れたときだって何かおかしかった。先生と二人だった空間に、彼女は突然現れた。思えば、初めから、彼女は何かがおかしかった。


「知ってる? このエリュシオンにはね、ドラゴンがいるらしいわ。それも力のあるヤツが。そのドラゴン、一体何が目的で人間の都市なんかにいるのかしらね?」


 彼女はクスクスと笑いながら部屋を出て行く。

 あの、噂。眉唾ものだと思ってた、エリュシオンにもドラゴンはいるらしいって、噂。本当だったんだ…。

 一人残された私は、汗をかいている掌でぐっと拳を握って、すぐに彼女のあとを追って部屋を出た。


(これから学校に戻って普通に授業を受けて、またここに帰ってきて……ああ、その前に反省文を提出しないといけないんだっけ。それが終わったらまたこっそり葉山先生のところへ行ってみる? 色々、聞きたいことができてしまったし)


 なんて考えながら階段を下りる私の足は、軽い。



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