生と死

 ハルトヴィン氏が亡くなったという報せを聞いて、私はまずフローラさんのことを心配した。私にハルトヴィン氏との直接の交流はほぼない。でも、氏の奥さんである、フローラさんとはとても親しい友人だった。

 フローラさんはとても綺麗な女性だ。私を幼いころから可愛がってくれた。私の読書家は誰よりもフローラさんの影響によるものだ。彼女のような友人がいることが、幼い私の誇りでもあった。

 そんな彼女が時々語る、愛する夫の話に私はドキドキしたものだった。そんな恋が出来れば、と今でも考えている。けれど、フローラさんの語るハルトヴィン氏と、私に接するハルトヴィン氏はどうにも一致しなかった。

 ハルトヴィン氏は頑固そうな強面の男性で、おまけに寡黙だった。子どもの頃から私は彼が怖くて、父によると赤ちゃんの頃から彼を見ると泣いていたらしい。

「署長にはニコニコで抱っこされるのに、ハルトには全然なつかなくてな」

 と面白そうに語る父を睨めつけたことは一度や二度ではない。父とハルトヴィン氏は昔からの仲間らしく、そのあたりからも悪い人間ではないのだろうな、と思いはするのだが、二人になるとどちらからともなく避け合うのが私と氏の関係だった。


「マリアは行くか? ハルトとは、なんというか、あんまり縁が無かったと思うが」

 夜、訃報を母から伝えられた父は苦い表情をして、私に参列の是非を問うた。

「行くよ。フローラさんが心配だもん」

「そうか、フローラちゃんは一人になるんだもんな。葬式の準備とかも大変じゃないのかな」

 父は目に見えてオロオロとし始める。なんだかシャキッとしない。普段、仕事には飄々と向かうのに、なんだかおかしいと思った。

「大丈夫ですよ。フローラちゃんは立派な大人なんですから」

「でもなあ、エミリア」

 母からの言葉にも安心できない様子で、父は食卓の周りをウロウロする。父がこう狼狽えるのは珍しいので、私まで不安になった。

「頼りが必要なら連絡が来るでしょう。その時に力になればいいんです。お節介は誰のためにもならないんですよ」

 ぴしゃりと言い切られて、父はやっと椅子に落ち着いて座り、コーヒーを所望した。母は普段とは違って文句は言わずに、台所へすっと消えた。

「しかし、ハルトがな」

 父の感情が乱れているのは私にも分かった。早すぎる死には違いない。父の同級生だから、五十三か五十四歳のはずだ。

「ねえ、結局私はあんまり知らないままなんだけどさ」

 意を決して私は父に訊ねた。

「ハルトさんって、どんな人だったの?」


 教会へ向かう車は静かだった。

 普段お喋りな父が口を開かないと、自然と私も母も口が重くなる。空気まで重くなった気がして、私は窓を少しだけ開いて空気を入れ替えた。五月の空気は暖かだが、肌に当たる風は冷たく感じる。両親は何も言わず、風の音が流れるのに任せていた。

 教会が近づくにつれて、私は緊張が強まっていくのを感じていた。どんな顔でフローラさんに会えばいいのか、ということを人生で初めて迷った。

 やがて車は教会に着いた。私はまだ心の準備が出来ていないままだったが、はっとして車から降りた。母にはそんなに慌てないで、と窘められたが、私は小走りになって教会へ駆け込んだ。

 その中は閑散としていた。数名の参列者はいるものの、皆口を閉ざして式が始まるのを静かに待っているようだった。おかげで、フローラさんを見つけるのは簡単だった。最前列に座っている少し疲れたように見える背中に、私は駆け寄った。

 駆け寄ってしまってから思い出した。私は彼女になんと声をかければいいのだろう。声をかけられなくて困った私に気づいた彼女は、微笑んで言った。

「来てくれたんですね。ありがとう。お変わりありませんか」

 そう言ったフローラさんは、驚くほどいつもどおりだった。無理をしているという様子もなく、ほんの数ヶ月会わなかっただけのような柔らかな表情だった。

「あの、この度は」

 私はなんとかそこまでを口に出したが、そこから先の言葉を見つけられず、口を噤んでしまった。フローラさんはそんな私を微笑んだまま少し待ったが、私が困っていると見るとまた口を開いた。

「学校の方はどう? この間言ってた、ムカつく友だちのことは決着が着きましたか?」

「え、ああ、うん。それはもう終わったことになって、今は仲良くしてるよ」

「それは良かった。私、結構心配してたんですよ」

 ごく普通のやり取り。私の感情は困惑を窮めた。

「フローラちゃん」

 そこに、私より遅れて入ってきた母が割って入った。不意にフローラさんの表情が曇ったのを私は見た。私に向けていた、いつもの彼女の表情とは違うものがそこにあった。

「エミリアさん。遠いところありがとうございます」

「いいえ。ユリアンはどうしても来たがったでしょうし、私もやっぱり来ないわけにはいかなかったから。

 ――ね、お父さんとちょっと待っててくれる?」

 母は話の途中で私に離れるように呼びかけた。優しい言葉ながら、いつもの母と違う重い調子で放たれたその言葉を私は拒むことが出来ず、手持ち無沙汰という風に教会入口に立っていた父の元まで歩いた。

「追いやられたか? 俺と一緒だな」

 自嘲気味に笑う父に、私は首を傾げた。

「まあ、式まではまだ結構ある。昔の連れもまだみたいだし、ちょっと外で待つか」


「昔からあんまり気を許されてないんだよな。フローラちゃんに」

 煙草を咥えた父が、大きく溜息をついた。独特の臭いがする。私は買ってもらった缶ジュースに口をつけて、父が次の言葉を発するのを待った。

「嫌われてるってほどじゃないんだが、まああんまり相性が良くないんだな。間が持たなくなってしまう。その点、エミリアはすごく馴染んだらしい。

 お前も少し事情は聞いたかもしれないが、ハルトたちの馴れ初めはちょっと特殊でな。その頃はまだお前も産まれていなかったから、エミリアは娘のようにフローラちゃんを可愛がってたんだ」

 確かに、フローラさんと母の仲は友人というような雰囲気ではなかったように思う。炭酸のきついジュースが喉に染みて、私は咳き込んだ。

「女同士っていうのもあるし、フローラちゃんにとっても頼れる存在になったんだろうと思う。俺よりお前のほうが詳しいと思うが、あの子、ちょっと無理をするところがあるだろう。年下のお前に対して、不必要にいい年上の女性であろうとしてる、ってエミリアは言ってた」

 私はショックを受けた。父の言葉で、今日の彼女の態度の理由が納得出来たように感じたからだ。

 フローラさんは、いつも私と話す時はある程度無理をしているのだ。今日の彼女があまりにもいつもどおりだったのも、いつもしている無理を今日もしているからでしかない。年上の女性としてしっかりしなければ、という無理を彼女はずっと続けていたのではないか。

 フローラさんにそんな風に気を遣わせていたとは全く知らなかった。悔しいと同時に、腹が立った。そんなこと、私は全然気にしないのに、勝手に無理をされても困る。

 私はその感情を父にぶつけた。父は苦笑した。

「分かるよ。俺も無理をさせるほうだし。フローラちゃんが頼れるのは、ハルトとエミリアだけなんだ。だから、エミリアしか彼女を見ていない時間が必要なんだ」

「なんか悔しい。私だって、フローラさんのこと好きなのに」

「ああ、俺だって好きだ。素直だし、いい子だと思う。でも、適材適所というのは本当に大事なんだ。エミリアなら上手くフローラちゃんの無理をほぐしてやれる。俺たちはそんな母さんの無理をほぐしてあげような」

 私が悩みながら頷くと、父は爽やかに笑ってみせた。思うに、こういう気障なところがフローラさんと合わないのだろう。

 しかし言っていることは尤もで、フローラさんのことは母に任せるしかなかった。

 私はまたジュースに口をつけて、鼻先に冷たいものが当たったのを感じた。

「雨?」

「参ったな、降ってくるのか。一旦教会の中に入ろう。そろそろ話も一段落しただろう」

 そう言って一足先に教会に戻った父を追わず、私は空を見上げた。おかしな話だ。こんないつ降り出してもおかしくない曇天だったのに、私はさっきまで空がそんなことになっていると気づいてもいなかった。


 教会内に戻ると父は迷わず母とフローラさんに近づいていく。私はその背中に隠れるようにしながら、最前列の椅子を目指した。

「エミリア、雨みたいだ。式が大変になるな、これは」

 父の陰から二人を盗み見る。その視線がフローラさんの視線に見つかって微笑みを返されてしまった。目元が擦ったように少し赤い。気まずさから目を下向きに逸らすと、少し濡れたハンカチが彼女の手に握られているのが分かった。父が言った通り、母にしか見せない顔というのがあることを実感して、私は帰りたくなってしまった。疎外感が私に重くのしかかってきていた。

 それからの式のことは、非常に曖昧だ。徐々に強くなる雨の中、私は押し黙ってただ式が進められるのを眺めていた。参列者は、最初に着いた時の印象のまま増えなかった。ただ雨音だけが強く教会を包み込んで、やがて轟音のようになった嵐が窓を叩いた時。


 私はひどい頭痛を感じて目を覚ました。

 雨が寝室の部屋の窓を弱く叩いている。時計を見れば朝の五時だった。今まで見ていたのは夢のようだった。自分の葬式の夢とは、また悪趣味な夢を見たものである。そこまでの自虐趣味はないと思っていた。

 上半身を起こして、隣で眠っているフローラに目をやった。眉間に皺を寄せて、うなされているような難しい表情で眠っている。私は彼女を起こさないようにベッドから抜け出て、階下の台所に向かった。

 湯を沸かす。普段はあまり飲まないインスタント・コーヒーの瓶を取り出して、粉末をカップに注いだ。夢の後味がまだ残っているような気がした。苦味で押しつぶさなくては、いつまでも尾を引きかねない。

 フローラを残して死ぬこと。意識しなかったわけではない。年齢差だけでもそうだが、基本、人間という種は女性の方が長生きだ。加えて、私は病弱ときている。彼女を残して逝くことは、それなりに見えている未来だった。

「怖いな」

 自嘲する。けれど、その恐怖が薄れることはなかった。台所の隅に残る夜の闇が、今にも私を殺して彼女を一人にしないかと思うと震えるような恐ろしさがあった。

 湯が沸かない。もう随分長い間こうして火を眺めているような気がしている。コーヒーを淹れることに私は焦っていた。早くこの恐怖を飲み下したいと急いでいた。

「ハルトさん」

 震えるようなフローラの声に、私は振り返って彼女を見た。急ぎ足で近づいてきて、急に私に抱きついてくる彼女を抱きとめる。

「怖い夢を見ました。ハルトさんがいなくなった夢」

「……ああ、大丈夫。私はここにいるよ」

 震える彼女の頭を撫でる。泣いてはいないようだった。私と同じような夢を見て、おそらくは、私と同じようにちょっと夜の闇が怖くなっただけだ。

 私はポットの湯を気にしながら、彼女が落ち着くのを待った。

「ねえ、ハルトさん」

 ゆっくりと震えを止めたフローラが私を見上げる。その碧眼に射竦められて、私に彼女以外のものが見えなくなる、その瞬間。

「子ども、欲しくないですか。ハルトさんがいたって証拠、私が作ってあげたいです」

 本当に真剣に、彼女はそんなことを言った。

 私は、本当に純粋にその言葉に甘えたい、と強く思った。

「……私は、多分子煩悩だと思う」

 言葉は心ほど素直ではなかったが、フローラの満面の笑みが私の気持ちがきちんと伝わったことを示していた。

「そんなハルトさんも見てみたいです」

 抱擁を強めるフローラ。私もそれに応えようとして、ポットから湯が吹きこぼれた音で急に現実に引き戻された。一旦彼女を離して、急いでコンロの火を止める。

 溜息をついた。そんな私の様子に彼女がまたおかしそうにしたので、私もつられて笑ってしまう。

「ひとまず、朝ごはんにしましょうか。私にも紅茶淹れてください」

「分かった。座っててくれ、今日は私が作ろう」

 おまかせします、と言ってリビングへ行った彼女を目で追って、私は久々に朝食を作ることにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

野ばら 紅野はんこ @MapleIf

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る