呪い

 クリスマスが過ぎて、いよいよ年の瀬が迫る二十七日。私たちはひどく暇を持て余していた。

 今年中にやる必要がある仕事はもうないが、だからといってどこかに遊びに行こうという感じでもない。年越しの準備をする必要があるが、それも今からではまだ少し早いだろう。

 フローラは昨日私に張り合って飲んだ酒がまだ残っているらしく、具合悪そうにソファに腰掛けていた。披露宴のことを見ても、やはり酒にあまり強くない体質なのかもしれない。

 彼女がそんな様子なので将棋を指そうというのも憚られ、私も何をするでもなく彼女の隣に腰掛けていた。肘掛けに肘をついて、部屋の様子をぼんやりと眺める。リビングには本棚がいくつも並んでいて、それらの上には一年分の埃が溜まっていた。この辺りの掃除もしなければいけないだろう。他に掃除をしなくてはいけない場所があっただろうか。

 思考がぼんやりと大掃除に向いた頃、電話が鳴った。フローラが煩そうに呻いたので、私は小走りで受話器を取った。

「はい。ヴェーバーですが」

 この頃、自分の苗字を口に出すとフローラ・ヴェーバーと名乗る未来がいずれ来るのだろうかと夢想してしまう。いや、フローラは別姓を選ぶかもしれない。アーベントロートという響きが私は気に入っていたので、それもいいだろうと思う。どちらにせよ、青臭い妄想である。三十二の男が口に出来ることではなかった。

「ああ、ハルト? ユリアンだが。今、時間あるか?」

「ユリアンか。問題ない。退屈で死にそうだったところだ」

 冗談交じりに返事をしたが、彼は特に笑って合わせるということもせず、どこか真剣味を醸し出す口調で言った。

「この前、フローラちゃんの話を聞いて俺なりに調べていたんだがな。お前、奇妙だと思わなかったか?」

「奇妙? アルバートが私のもとにフローラを連れてきたことか?」

 彼が知っているだろうことで、疑問となりえそうなことを挙げてみる。ユリアンはすぐに否定した。

「いいや。確かにそれも妙なことではあるが、俺たちの中でならハルトを選ぶのは当然だろうし、彼がある程度改心したということもありえるだろう。俺が言っているのは手紙のことだ。彼女の母からその富豪のもとへ届いたという」

「ふむ。どこが奇妙だと?」

 私は首を傾げた。ユリアンが何を語ろうとしているのか、私ははかりかねた。

「その手紙がどうやって富豪の手に渡ったのかわからないだろう。届ける方法があったとは思えない」

「それは彼女を売買した奴隷商の仕事じゃないのか。手紙をその商人に預けたとか」

「いいや。わざわざそんな手間をかけてまで書く理由のあった手紙とは思えない。紙や鉛筆を買えないほどの貧困でない可能性はあるが、奴隷の売買に手を出すような商人が慈善価格で手紙を運ぶとは思えないだろう」

「そうだろうか。アルバートの例もある。何らかの形で改心した可能性もあるだろう。それに、両親が富豪の住所を知っていた可能性もあるじゃないか」

「それこそないだろう。売り手に買い手のことを知られるようでは奴隷商なんて商売はやっていけない。それに、両親から見ればフローラちゃんを買ったのは商人だ。文句をつけるなら商人本人であって、富豪でも、ましてやフローラちゃん本人でもない」

 確かにそれはそうだろう。買い手の安全が守られないのでは、奴隷売買などという非合法な取引に手を出すものはまずいない。フローラをアーベントロート夫妻から買って富豪に売った商人にすら富豪の素性は明らかでない可能性もあった。となれば、確かに彼がさっき言ったように商人を介した配達が行われた可能性も低くなる。

「言われてみればそのとおりだ。奇妙だな」

「それに時期もおかしいと思わないか。彼女の話を信じるなら、彼女が買われたのは九歳か十歳だ。そして手紙が届き、焼かれたのが二十歳の頃。死に至る咳の流行り病で、満足な治療も受けられなかったのだとしたら十年も生きられるだろうか」

「なるほど。母からの手紙はその富豪が捏造した品だったかもしれない、ということか」

 フローラの方へ視線を投げると、彼女もこちらを見たところだった。さっきまでのだるそうに濁った目とは雰囲気が違う。私の声を聞いていたのだ。

 覚束ない足取りでこちらへ寄ってくる彼女を抱き留めるようにして引き寄せ、電話のスピーカー部分に二人で耳を寄せた。

「ああ。そうじゃないかと思って調べてみた。すると、七年前に服毒自殺をして亡くなったアーベントロートという名の夫妻がいることがわかった。彼らにはフローラという娘もいるが、彼女が亡くなったという事実はない。そして、そのフローラという女性は今年の十二月十日で二十二歳になる」

 フローラと目を合わせる。彼女の驚愕は計り知れない。その顔にあるのはまだ驚愕だけだ。彼女の両親が実際どのような道を辿ったか、それがどのようなことを意味するかまではまだ気持ちが及んでいないようだった。

「まず間違いない、ということだな」

 私は念を押す。なぜ服毒自殺をしたのか、咳の流行り病はどうなったのかと疑問も多かった。確認をしておく必要がある。

「そうだ。そして、夫妻の葬儀が執り行われた教会もわかった。行ってみないか」

「行くべきだろうな。場所は?」

 一旦受話器を肩と頬で挟むように持って、メモ帳にユリアンが言う住所を書き留めた。昔、私たちが通っていたライブハウスの近くである。車で片道一時間というところだろうか。少し遠いが、行けない距離ではない。

「オーケー。メモした」

 私がそう言うと同時に、フローラが受話器を渡せとジェスチャーで伝えてくる。私はユリアンに断って、彼女に電話を託した。

「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」

 彼女は何度もその言葉を繰り返し、ユリアンに謝意を伝えた。


 電話を切ったあとのフローラは迅速だった。先程まで二日酔いで参っていたとは思えない。先程までのロングTシャツ姿とはうって変わって、ブラウスとスカートで彼女が持ちうる限りの正装をし、コートを羽織ってペンダントをつけた。そして、昨日クリスマスプレゼントにと私が渡した髪飾りで前髪をまとめ、ダイニングのテーブルに着いていた私をせっついた。

「行きましょう、ハルトさん」

「今からか? 帰りは遅くなりそうだが」

 時計を見ると時刻は午後二時半である。往復二時間と見ても、帰りは四時半になる。教会でゆっくりと故人を偲ぶのであれば、帰宅は七時や八時になるだろう。それに今日は二十七日で、クリスマスを終えて日が浅い。牧師は忙しくしているかもしれなかった。

「行きましょう」

 フローラの視線は強い。その碧眼が私を見据える。彼女との視線の応酬に勝てる私ではない。私は立ち上がって、車のキーを取り出した。彼女は先んじて玄関から出て、私が来るのを待っているらしかった。

「パスカルのことを笑えなくなりそうだ」

 どうしても彼女には甘くなってしまう。たまには厳しい返事もしなければと思ってはいるのだが、今の真剣な彼女を見るとどうしても日取りを変えようと言うことは出来なかった。


 道すがら、彼女は緊張した面持ちで硬く座っていた。いつも車に乗る時のように『野ばら』を口ずさんだりもしない。彼女の歌声を運転の楽しみにしていた私は少し残念に思ったが、それをあえて口には出さなかった。

「気を張らない方がいい。普段のドライブとは違ってかなり遠いぞ」

 隣町の大型スーパーまでは半時間とかからない。今回の道程はその倍以上になるのだ。ロングドライブの経験がないだろう彼女には力加減がわからないかもしれない。

「でも、なんだか緊張してしまって。両親に会うのは、十年以上ぶりなので」

 会う、と彼女は言った。顔を盗み見ると、寂しそうな表情が浮かんでいる。その言葉の意味はしっかり理解しているのだろう。

「どんな人だったんだ、ご両親は」

「そうですね。まだ私も幼かったので、どういう人間かというのはうまく説明出来ませんが」

 彼女はそう前置きをして、ゆっくりと言葉を選んだ。私は急かすでもなく、ただ車を走らせる。どうせ急ぐ旅路でもないのだ。

「私の知る父はもう随分と弱っていました。よく咳いて、部屋から出てくることは稀でした。けれど、具合の良い日は歌を歌ってくれたのを覚えています。『野ばら』もその一曲でした。私も特に気に入っていましたし、父も好きだったらしくて、一番深く印象に残っている歌です」

 彼女の父親に思いを馳せた。そして、父親と一緒の時間を過ごすフローラにも。そこでは恐らく、とても穏やかでやさしい時間が流れていたのだろう。彼女の語り口からはそんな情景が思い浮かんだ。

「母との記憶はあんまりないんです。一人働いて、帰ってくるのは夜遅くでした。私は母が帰ってくるのを本を読んで待っていました。帰ってきて、食事を作って、三人で食事をしたあと、母はいつもすぐ眠ってしまいました。なにもすることがない時、私はずっと本を読んでいました」

「そういえば、フローラは初等教育も受けていないよな。なぜ文字が読めるんだ?」

 それはもっと早く抱いて然るべき疑問だった。そんなことにも気が回らなかったのか、と自嘲する。

「絵本で簡単な言葉を覚えて、あとは辞書で自分で勉強しました。そう、母が絵本を読んでくれたんです。もっと幼い頃だと思うので、いつのことかはわからないのですが」

 彼女の母親にそんな余裕のあった時期があるとすると、父親が咳の病を発症する前のことだろうか? 彼女が寝る前に絵本を一緒に読んで、言葉を教える。それは父親と彼女が過ごした時間同様、温かい時間だろう。

「とりあえず、覚えているのはそれくらいで。あとは手紙の印象しかないのが母でした。でも、その手紙は母が書いたものじゃないんですよね」

「ユリアンの言葉を信じるなら、そういう事になる」

 そう、そういう事になる。だが、彼女の両親が本当に彼女に対して恨みがないとまでは私には断言出来なかった。話を聞くに、彼女の両親はフローラの事を可愛がってはいたようだ。しかし、死の瀬戸際にあってその愛情が憎悪に変わらなかったとまでは私には言えない。そういう時、人間はそれまでの常識で物事を考えられるものだろうか。

 残酷な真実が教会にはある可能性もあった。ただ葬儀の履歴があるだけかもしれない。しかし、それ以上の何か、彼女の両親の感情を示すようなものが残っていないとも限らない。

 そう考えると、私もフローラのように体が硬くなるのを感じた。彼女も同じことに思い及んでいるのかもしれない。であれば、緊張するなというのも無理な話だ。

 車は硬いエンジン音を響かせて道を走った。


 道中、詳しい場所がわからず道に迷ってしまい、教会に着いたのは家を出てから一時間半後のことだった。

 そこはそれほど大きな教会ではない。小教会と言っていいだろう。それでも通常の建物に比べると装飾的で、すぐにそれとわかった。私たちは車を停めて、敷地に立ち入る。毎度のことだが、無宗教の身で教会に立ち入るのは少し気が引ける。しかし、やはり必要なことであろう。

「行きましょう」

 教会を眺めて立ち止まっていた私をフローラが引っ張る。私はそれに従って動き、重い扉を開いた。教会の中はやや肌寒い。訪問のルールがわからず、どうしたものかと思ったが、扉が開いた音を聞いて中にいた牧師らしい男が声をかけてきた。

「ようこそ。初めましての方ですよね」

 にこやかな笑顔が眼鏡の向こうに湛えられている。高齢ながら人の良さそうな人物で、私は少し安心した。いきなり叱責されるということはないだろうが、それだけ私にとって敷居の高い場所なのだ。

「はい。こちらで七年前に葬儀をしたアーベントロートという夫婦について教えていただきたいのですが」

 そう言うと、牧師は少し目を鋭くした。私はその視線に射竦められて、身動きが取れなくなってしまう。

「失礼ですが、故人のお知り合いでしょうか」

 私は何と答えたものか迷った。当然、私自身はフローラの両親と何の関係もない。どう説明したものだろうか、と悩んでいるとフローラが先に口を開いた。

「娘です」

 そう聞いて、牧師は驚いたように彼女に歩み寄る。

「ああ、フローラ。無事に生きていたのですね。ひどい傷だ。余程辛いことがあったのでしょう」

 彼は彼女を知っているのか。私は彼女と視線を合わせるが、彼女は知らない、という風に首を傾げた。

「忘れているのも仕方ありません。もう十数年以上前のことですから」

 お掛けください、と言われたので私たちは列を為す長椅子の一つに腰掛ける。牧師は立ったままだった。

「とすると、貴方が彼女を買われたということでしょうか」

 鋭く刺さる視線。しかし、その問いにだけはたじろぐわけにはいかなかった。私は落ち着いて視線を返す。

「事情をご存知なのですね」

「ええ。経緯をご説明願えますか」

 私は彼女が買われてから、私に引き取られるまでの事を語った。牧師の顔は徐々に暗く翳って最後には今にも泣き出しそうな顔になった。フローラは居心地悪そうにその話を聞いていた。

「そんな目に遭っていたとは。よくぞ生きていてくれました」

 牧師が跪いて彼女の頬に触れる。そこに刻まれた傷を皺だらけの手がなぞった。彼女と牧師の目が合う。私はその仕草が少し不愉快で、避けていた本題を繰り出した。

「そして、今日は奴隷だった頃の彼女のもとに届いた手紙についての事を聞きに来たのです」

「手紙ですか? 一体どのような」

 そう問いながら、牧師はこちらを見た。手はフローラから離れる。それだけで私の小さな嫉妬心は鞘に納まった。

「彼女の母から『あなたがもっと高く売れていれば、父さんが亡くなることもなく、私がこんなに苦しむこともなかったのに。どうしてあなたを産んでしまったのか、後悔に耐えません』という内容の手紙が届いたそうなのです。それも、一、二年前に。しかし、私の友人が調べたところによれば夫妻は七年前に亡くなっている。これは妙だ。私たちは事実を調べに来たのです」

「何か知っていることがあれば、是非教えてください」

 私の言葉に、フローラも念を押す。牧師は立ち上がって、礼拝堂の中央を通る身廊を祭壇のへ少し歩いて止まった。

「恐ろしいことです。一体誰の悪意がそんな虚構を生み出したのか」

 牧師の表情は知れない。怒りに震えているのか、或いは涙を隠しているのか。彼は語った。

「お話しします。彼ら夫妻のことを」

 私たちは息を呑んだ。いよいよ核心に迫る時が来ていた。牧師が語る言葉の一片も逃すまいと私たちは耳を傾ける。静かな礼拝堂は私たちの味方だった。

「まず最初に言っておきますが、レオンもマリーもその手紙に書いてあるようなことは考えていませんでした」

 レオンとマリー。私は初めて聞いたが、フローラの両親の名前だろう。私たちが訊ねてきたアーベントロート夫妻の名前だ。

「元々、レオンは聖歌隊の一人だった。私は彼が子どもの頃から知っています。成長した彼はやがて音楽学校に進み、声楽家となった。しかし、彼は成功を手に入れることは出来なかった。収入は苦しかったと聞きます。それでも一人の女性を愛し、結婚した。そしてフローラ、貴方が生まれたのです。

 貴方がまだ幼い赤子だった頃、彼らはこの教会のミサにもよく参加していました。しかし、貴方が八歳になる頃にレオンは結核を患った。元々金銭的に苦しかった二人にとって、それは致命的な問題でした。医療費が払えなくなったのです。そして彼らがとった選択はとても良くないものでした。フローラ、貴方を売ってしまうということです。レオンは快復し、以前よりよく教会に通うようになった」

 フローラの父の病は結核かもしれないとは考えていたが、まさかそれが快復していたとは考えていなかった。フローラも驚いたらしく、目を泳がせて狼狽えている。それでも二人とも牧師の話を遮ることは出来なかった。

「ある意味ではフローラ、貴方のおかげだったと言えるでしょう。貴方を売ったお金で彼は治療を受けることが出来た。結核は移る危険がある病です。マリーの命を未然に救ったとも言えるかもしれません。

 しかし、私は彼らの罪を知らなかった。ただ娘さんは信仰を選ばなかったのだろうとだけ考えていました。もしも私がそれを知っていたら、彼らのことを救えていたかもしれない。心残りです。貴方が売られてから三、四年後のことでした。彼らは服毒自殺をした姿で見つかった。彼らは貴方を売ったことを恥じ、自分たちは結核で亡くなったことにして欲しいと遺書に残していました。フローラを売らなければ、我々は結核で死んでいたはずなのだから、と。その願いを叶えてあげることは出来ませんでしたが」

 それが服毒自殺がアーベントロート夫妻の死因と記されていた理由だ。牧師には遺書どおりに結核で亡くなったと書類を改竄する力はない。

 フローラは俯いてしまって、今にも泣き出しそうだった。それまで顔を見せず、背中の後ろで腕を組んで語っていた牧師は振り返ってフローラに声をかけた。

「フローラ、二人は貴方を恨んでなどいなかった。大丈夫。落ち着いたら墓地へ行って挨拶をしてくるといい。遺書は保管しているので、お渡ししますよ」

 そう言って牧師は教会の外へ向いて歩いた。礼拝堂とは別に建物があるのだろうか。外からは気づかなかったが、もしそうだとするといきなり教会に入って牧師に会えたのは幸運だったのかもしれない。

 牧師がいなくなったのを目で確認したあと、私は半歩ほどフローラに近づいて、肩を抱いた。彼女は少し体重をこちらに預けて静かに泣いた。肩が揺れるのが伝わる。ハンカチを持っていれば良かったか、と悔やんだが、何か代用になるようなものも持っていなかった。ただ彼女がコートの硬い生地で涙を拭うのを見守ることしかできない。

 彼女はどういう心境で泣いているのだろう。手紙が嘘だったことだろうか、両親の最後を思ってだろうか。もしかすると、私には想像がつかない理由かもしれない。私は無力だった。ただ彼女がいなくなってしまわないように抱き留めておくことしか出来なかった。


 十分ほど静かに涙を流し続けたフローラが少し落ち着いた頃、扉を開く音がして、牧師はようやく姿を現した。どこかから私たちのことを見ていたのではないかというほど正確なタイミングで、私は不思議なものだと感じた。

「お待たせしました。何分随分昔のものですから、奥に紛れ込んでしまっていました。フローラ、これが貴方のご両親が最後に残した手紙です。保管環境が良くなかったらしく、多少紙質が劣化してしまっていて申し訳ないのですが」

 差し出された封筒を受け取ったフローラは、真っ赤になった目でその茶色い封筒に書かれた「レオン・アーベントロート」の名を見つめ、抱き締めた。その様子を見て、私も胸が熱くなる。同時に、彼女がその遺書を開いて本文を読むのを期待した。しかし、彼女は愛おしそうに封筒を抱いて目を瞑り、遺書を広げようとはしなかった。

「読まなくていいのか」

 焦れてそう声をかけると、彼女は私に微笑を向けた。

「なんだか胸がいっぱいで。落ち着いたら読みたいと思います。牧師さん、ありがとうございます」

 視線を向けられた牧師は優しそうな笑みを浮かべて、彼女の視線に応える。

 私も彼女の意志に背いてまで遺書を開こうとは思わない。そこに書かれているのは彼女を憎んではいなかったという証左である文章だけではない。彼女の両親が教義に背いてまで自殺という道を選んだ悲しい文章でもあるのだ。

 私たちは牧師に墓地の所在を聞いて、礼を述べて教会を後にした。時刻は四時半を少し過ぎた頃だった。冬に染まった外気は冷たく、上着を着ていてもなお刺すような痛みがある。日も暮れかけ、徐々に暗くなる気配を呈していた。

 両手で大事そうに封筒を持っているフローラを連れて車に乗り込み、五分ほど離れた墓地へと走らせた。その間も彼女は遺書が入った封筒を見つめ、時々祈るように目を閉じて両親に思いを馳せていた。

 今から両親に会うのだ。彼女は墓標に何を思い、何を伝えたいのだろうか。私には具体的にはわからないことではある。しかし、アーベントロート夫妻が娘を恨んではいなかったように、フローラもレオン、マリーという二人のことを恨む気持ちばかりではないだろうと思う。少なくとも、遺書を見つめる彼女の視線に怨恨の感情は一切込められていなかった。


 墓地は小高い丘の上にあった。綺麗に整備されていて、入り口には大きなトウヒがそびえている。その荘厳な姿は死者を見守ってきた歴史を語るようだった。落ちてきた日が夕焼けを呈しながらその樹の枝にかかり、赤い大きな果実がトウヒに生っているようであった。

 私たちは車を降りた。また外気に苛まれる。指先から凍結するような冷気は夜が這い寄るにつれて強くなっている。私は道中購入した小ぶりな花籠を左手に抱え、空いた右手はズボンの懐に潜り込ませた。

「ハルトさん、手をつないでもらえませんか」

 不意にフローラがそうねだる。振り返ると、先程まで遺書を握っていた手が私に差し出されていた。私は何も言わず、右手でその手を取った。彼女の小さい手も冷え切っている。私の体温が高ければ彼女を温められたのにと思うと心苦しかった。

 私たちは墓地に踏み入ると、墓石を一つ一つ見定めていく。牧師には墓地の場所しか聞かされていなかった。墓地はそれなりに広大で多くの墓石が並んでおり、どこに夫妻が埋葬されているのかはわからない。私もフローラも無言でアーベントロートの名前を探した。二手に別れれば早いだろう。しかし、二人とも繋いだ手を離そうとは微塵も考えなかった。

 その墓石を見つけたのはフローラの方が早かった。

「ハルトさん、ここです」

 私も一拍遅れて見つけた。レオン・アーベントロート、マリー・アーベントロートと飾り気のない墓石に刻まれている。フローラの両親の名だった。

 貧困に喘いでいた彼らにきちんとした墓があるのは、牧師の計らいがあってのことらしい。夫妻を救えなかったこと、遺書に従えなかったことを悔やんで建立してくれたそうである。おかげでこうして墓に参る事が出来ている。

 フローラと並んで、墓石に正対する。教会か街が管理してくれているのだろう。芝生も綺麗に整えられ、放置されているという気色ではなかった。

 私はひとたび手を離し花籠を供えようとしたが、フローラが遺書を差し出すので意図を察して籠と遺書を取り替えた。

 フローラが跪いて墓前に花籠を供える。私はそれに合わせて目を閉じ、彼ら夫妻の魂の平穏と、フローラと私の明るい未来を祈った。そして、彼女をこれからずっと守っていくと誓う。十も年の離れた恋人を両親は受け入れてくれないかもしれない。一時の逃避から額縁職人という不安定な職を選んだ男では尚更である。それでも私は私を選んでくれたフローラを信じたいと思う。その選択を両親もきっと信じてくれると思った。

 私は目を開く。フローラは跪いたまま、まだ何事かを祈っているらしかった。私よりも彼女の方が両親に語る内容は多いだろう。膝を曲げて彼女の隣に座る。

「ここは冷えます。先に車に戻っていてください」

 彼女はこちらを見ずに言った。

「しかし」

 抗議をしようとする。しかし、こちらを見た彼女の目に浮かんでいるのが涙だと気づいて私は言葉を取り下げた。

「いや、ゆっくり祈るといい。冷えるから、風邪をひかないように。車で待っているよ」

 彼女は何も応えず、また目を閉じて祈る。私は立ち上がって、彼女から離れた。トウヒを目指して歩く。車で待つとは言ったが、彼女とこの冷気だけでも共有したかった。私はトウヒの樹の下で待つことにした。

 墓石を探しながら歩いた墓地はとても広く感じられたが、トウヒまでの距離はそう離れてはいない。墓石の一つ一つはそれほど大きくなく、また背の高い植物もトウヒだけで、樹の下からフローラの小さい背中が震えるのが見えた。ハンカチがないことをまた悔やむ。今度から常備しておくようにしなければいけない。もっとも、彼女を泣かせるようなことが起こらないのが私の望みなのだが。

 トウヒに体重を預け、左手を吐息で温めた。右手には遺書を握っている。そちらを湿らせるわけにはいかないので、私は冷気が右手の感覚を殺してしまうのに任せていた。

 ふと、車がやって来る。墓参者だろうか。トウヒの樹がヘッドライトを浴びて黄色く照らされる。黒い車体。運転手の顔は眩惑されて見えなかった。その車から降りた人物が私に声をかけるまでは。

「先輩」

「アルバート」

 お互い驚愕の表情で相手を見たが、事態を飲み込むのは彼のほうが早かった。自嘲的な笑みを作って、鼻を鳴らした。

「そうか、おれは出遅れたらしい」

「どうしてお前がここにいるんだ」

 私はまだ理解が及んでいなかった。この墓地にアルバートの知人が眠っているということだろうか。そうだとしても、どうしてこの時期に、私たちが墓参している時なのだろうか。様々な疑問が浮かんでは消え、うまく思考がまとまらない。

「要するに、アフターサービスだよ。フローラを引き取らせるだけ引き取らせて、何もしないんじゃ義理に合わないと思っていた。だから彼女に関することで何か先輩の役に立つことはないかと思って色々と探っていたんだ。遅かったみたいだけどね」

 思いもよらない理由が彼の口から漏れる。自嘲するような笑いが貼り付いている。私の知るアルバートの純朴な表情ではない。恐らく、組織の中で生きていくうちに身に着けた表情だ。

「じゃあおれは帰るよ。墓参りを邪魔するつもりじゃなかったんだ。悪かった」

 そうして去ろうとするアルバートを追った。車に潜り込もうとする彼の左腕を捕まえる。

「待て、待ってくれアルバート。私はお前に謝らなくてはいけないことがある」

 彼は怪訝な顔をした。

「謝る? 一体何を。先輩はおれに謝るようなことは何もないだろう」

「いいや。聞いてくれ」

 車に入りかけたアルバートはその身を車から出し、ドアを閉めて車体にもたれかかった。腕を組んで、どうやら話を聞く体勢を作ってくれたらしい。

「まず一つに、フローラのことだ。私は彼女を保護するつもりで引き取った。しかし、彼女に告白されて、それを受け入れてしまった。お前に対する裏切りだと思っている」

 彼はそれを聞くと吹き出した。真剣なつもりで話したのだが、意図が伝わらなかったのだろうか。

「先輩。おれはフローラのことは任せると言ったはずだぜ。それは自由に扱ってくれていいって意味だ。おれは先輩が望むなら、あれを性奴隷として扱ってもらっても構わないと思っていた。そんなことをする度胸が先輩にあるとは思っていなかったけどね」

 あっけらかんとした様子で笑うアルバート。自嘲や薄ら笑いとは違う、彼が本来持っていた笑顔だ。彼は嘘を吐いていないのだと察した。

「しかし、アルバート。私は」

「気にしなくていいよ先輩。彼女のことはこれからも先輩に任せる。その様子じゃまだ手を出したってわけでもないんだろう。いやしかし、先輩に恋人を紹介することになるなんて思っていなかったよ。世の中面白いことがあるもんだ」

「待ってくれ、アルバート。私はまだ謝らなくてはいけない」

 アルバートは首を傾げた。これ以上におかしいことがあるのか、というような笑いを湛えている。私は長年抱え続けた後悔をぶつけた。

「私はお前がクスリに手を出した時、信用してやることが出来なかった。それがなければ、お前は黒い組織の一員になることもなかったはずだ。私はずっと気がかりだった。お前が私を憎んではいまいかと」

 今度こそアルバートは腹の底から笑いだした。私は困惑する。今の話のどこに笑い所があったのだろうか。

「それこそ気にすることはないよ。先輩はそれからあと、おれの味方をしてくれた。組織に納める金に困ったときも、手を貸してくれたのは先輩だけだった。おれは失望したと言いつつも救おうとしてくれている先輩を知っていた。恩こそあれ、恨みなんてあるはずもない。おれは先輩に感謝しているよ。先輩? なぜ泣いているんだ?」

 そう言われて、目元に手をやる。温い湿気を感じた。知らず涙が溢れていたらしい。

「泣かないでくれよ。おれ、困っちまうよ。それにここだけの話、おれは組織から抜けられたんだ。フローラを囲っていた富豪は結構大きなパトロンでさ。その遺産が分配されるっていうんで組織の中は大荒れになった。上層部同士揉めあって空中分解寸前になってる。

その隙に逃げちまったってわけさ。だからもう先輩が責任を感じる必要はない。組織の力が使えない分、フローラの情報を伝えるのが遅くなっちまったけど」

 アルバートの言葉に涙が止まらなかった。私は長い呪いから解き放たれたような感覚に襲われていた。それはあまりにも長く私を苛んでいた責任という名の呪いだった。あまりにも急に消えてしまうので、私は急に軽くなった体が恐ろしかった。腕を組んで転倒に耐える。堪えきれない分は涙として溢れた。

「ほら、先輩。恋人が戻ってくるよ。格好つけていないと台無しだぜ。ハンカチ貸すからさ」

 アルバートが取り出したハンカチで涙を拭う。彼の表情を見ると、おかしそうに笑っている。私もつられて笑った。それを見て、アルバートはウインクをしてみせる。

「オーケー、いい男だ。ほら、彼女を迎えてやんな」

 私の手からハンカチをもぎ取り、彼は車へ戻ろうとする。私は最後に伝えようと思ったことをなんとか口に出した。

「いつか落ち着いたらでいい。自首してくれ」

「考えておくよ」

 ドア越しに手が振られて、黒い車体は逃げるように墓地から消えた。入れ替わりにフローラがやってきて、私の背後から声をかける。

「誰かとお話していたようですけど、どなたですか」

「いや、古い友人だよ。偶然通りがかったんで、少し昔話をしていたんだ」

 振り向いて答える。アルバートのおかげで、フローラに涙を見られることはなかった。フローラは不思議そうな顔で首を傾げたものの、そういうこともあるのか、と納得したようである。その目は赤く腫れて泣いていたことはわかるものの、もう涙を流してはいなかった。

 私は遺書を彼女に返した。

「さあ帰ろう。ここは冷える」


「とても多くのことを話しました」

 フローラは家へと向かう車の中で、そんなことを口にした。

 その頃にはすっかり日が暮れて、辺りの景色も些か輪郭を失ってきていた。輪郭のぼやけた道を私たちを乗せたトラックがうるさい音を立てながら走っている。その中にあっても、彼女の声は明瞭に私の耳に届いた。

「来る途中は話すことが出来るだろうか、って心配でした。でもお墓を前にして、言葉は溢れるばかりで。両親の手を離れた時の悲しさ、奴隷として飼われていた時の辛さ。誰にも頼れない寂しさも伝えられました。けれど、今は幸せに生きていること。嫌なことはあったけれど、両親のことは恨んでいないこと。そして、今は隣にハルトさんがいること」

 彼女は遺書を手に、幾分かすっきりしたような顔で語った。私は面映い思いでその話を聞いていた。彼女の幸せの一端に私の名前が加えられていることはとても嬉しいが、同時にかなり恥ずかしい。

「なんだか、呪いが解けたって気がします。いいえ、きっと呪いなんてかけられていなかった。私が勝手に自分を呪っていただけなんです」

「わかるような気がする。私も自分のことを呪っていた。自分は幸せになってはいけないと思っていた。誰かを不幸にした自分のことを一番嫌っていたのは自分だったと思う」

 フローラが頷く。私が今日味わった感動と彼女の感想はとても良く似ていた。私たちは同じように自責の念に苛まれ、同じような時間を生きてきた。彼女が言う呪いのことが、私にはよくわかった。

「なんというか、体が軽くなった気がして。現実感がないんです。ふわふわしていて、昨日お酒を飲んだ時みたいなんですけど、それにしてははっきりしていて」

 フローラは何かが引っかかったような喋り方をする。私は先を促すこともせず、ただ彼女が続きを口にするのを待った。

「ですから、今日は一緒に寝てもらいたいんです。なんだか不安なんです。これが夢なんじゃないかって、眠ったらまったく違う現実があるんじゃないかって」

 私がいつか否定した願いだった。また否定されるのではないか、と恐れているのだろう。私は彼女に一瞬目をやり、その碧眼が怯えるように揺れているのを見た。

「ああ。一緒に眠ろう」

 視線を合わせるのが恥ずかしくて、私は努めてフロントガラスの外の景色に注視した。運転中であることが幸いした。彼女を見つめていなくても不自然ではないのだ。

「はい。それで、出来ればこれからずっと一緒に眠りたいって思うんです。アトリエで眠るのは咳にもよくないと思いますし」

 彼女の懇願は続く。驚きはあったが、今フローラの目を見たら碧眼に囚われて事故を起こしてしまう。やっと呪いから解き放たれた私たちはここで事故を起こすわけにはいかないのだ。私はひたすら運転に集中した。

「ああ。落ち着いたらダブルベッドを買おう。私もフローラと一緒に眠って、一緒に朝を迎えたいと思う」

 それでも心臓は暴れる。フローラはどんな表情をしているのだろうかと思う。

「はい」

 声が少し遠のいたので、彼女はこちらを見ていないのではないかと思って盗み見た。彼女は俯いて項垂れている。恥ずかしさに耐えているのは彼女も同じなのだ。遺書を持つ手に力が入り、封筒が少したわんでいる。

 私はまた前を向いた。車は今のところ、分岐のない道をまっすぐ進んでいる。ヘッドライトが照らす道は明るく、突然道が途絶えたりするような心配は今のところない。

 これから私たちは二人でいろいろな経験をしなければいけない。時に道は直線ではなくなるものだ。分岐に悩まされたり屈曲していたりすることもあるだろう。二人の道程は必ずしも幸せなものばかりとは限らない。それでもフローラと一緒に同じ道を歩んでいく。彼女が歌い始めた『野ばら』を聞きながら私は強く誓った。

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