約束

 重い朝に瞼をこじ開けられるように起き出す。寝つきがよくなかったのか、アトリエの時計はいつも起きる時間より二時間も進んでいた。私は頭痛を押しのけて飛び起き、ダイニングへ向かう。フローラの姿はない。当然かも知れなかった。今となっては彼女も一人で朝食を作るくらいはわけもなくこなせる。仮にいつもの時間にいつものように起きてきたとしても、先に朝食を摂っているだろうと考えた。

 自分の分のパンをトースターにかけて、二階へ上がる。昨日まで自分の家ではないような感覚だった二階に躊躇なく踏み込む自分に少し驚いた。それほどデリカシーに欠ける人間だという自覚は今までなかったのだが、その時の私は何か嫌な予感に囚われていた。

 彼女の部屋の前に着くと、夕食のトレイがそのままの状態で廊下に置かれていた。私は一気に体温が下がる思いがした。

「フローラ。居るのか、フローラ」

 ドアを激しめにノックするが、応答はない。やや躊躇ったが、私はドアノブに手を伸ばして一気に開いた。

 その部屋に中にはベッドと椅子と閉まっている窓しか見えるものがなかった。彼女の存在は影も形もない。私はすぐにその部屋を出て、二階のトイレや物置と化した部屋、クローゼットと次々に部屋を点検する。しかし、フローラの姿はなかった。二階にはいない。それは間違いない。

 私は階段を転がり落ちるように降りて、ダイニングとリビングを眺める。当然彼女の姿はない。一階の風呂や倉庫も開いてみたが、人の気配というものはまるでない。

 アトリエにも目をやったが、いるはずもない。私は現実を受け入れなければならなかった。フローラがいなくなった。

 自宅側の玄関に回ると、フローラの靴がない事実が厳然と私の前にそびえ立っていた。私は焦った。何からすればいいか完全に混乱してしまっている。

 警察に連絡をするべきだろうか? それほど大事になっているかはまだ私には判断出来なかった。そもそも、私たちの関係をなんと説明するのか。今悠長に知り合いから預かったという件を話すのか。そんなことをしている余裕はなかった。

 では誰に連絡すべきだろう。ユリアンは無理だ。この時間は既に出勤しているし、彼がどこの警察署に務めているかわからない。ディルクは開業医で連絡は取れるだろうが、既に診療をしている時間のはずだった。電話を受けてくれるかどうかわからない。となると、自営業で基本的には家にいるだろうと思われるパスカルしか私には伝がなかった。

 急いで電話の前まで駆けると、彼の番号をダイヤルする。呼び出し音がしている。私はただ出てくれ、出てくれと祈った。

 ノイズめいた雑音のあと、彼の声が聞こえた。

「もしもし、こちらベッカー製菓店。ご用件は」

「ハルトだ。朝起きたらフローラがいない。どうしたら良いだろう」

 息吐く間もなくまくし立てる。パスカルは尋常でない様子を察知したようで、営業用の声から硬い声に変わる。

「ハルト? 落ち着け。まず深呼吸をするんだ。落ち着かなければ、考えもまとまらない」

 彼の指示に従った。酸欠になりかけていたのか、空気がいやに肺を刺した。喘息の発作とは違う息苦しさがある。私はいつから呼吸をしていなかったのだろうかと思う。空気が体を巡るにつれ、意識はやや鮮明になった。

「それでいい。いなくなった時間から整理しよう。いつ頃かわかるか?」

「わからない。起きたらいなかったんだ。昨日の夕方には部屋にいる音を聞いた」

「ハルトがそれに気がついたのは?」

「ついさっきだ。昨日の夜は眠れなかったせいで、起きるのが遅かった」

 パスカルは唸る。この情報から得るものはない。昨日の夕方から朝までのいつかの時間に彼女はいなくなった。まだすぐ近くにいるかもしれないし、もうずっと遠くにいるかもしれない。

「では次は場所を考えよう。彼女が行ったことのある場所は? 元々は遠い街で暮らしていたと本人は言っていたが」

 彼にはアルバートからフローラを譲り受けた事情を話していない。信頼出来ないというわけではないが、結婚披露宴の席で不愉快な思いをさせる相手を増やしたくなかったためだ。しかし、今事の起こりから説明する余裕も必要もない。

「一緒に行ったのは近場の服屋か隣町の大型スーパーしかない。他に知っている場所はないはずだ。スーパーまで歩いていくとは考えにくい」

「彼女が怒って出ていったなら、お前との思い出のある場所は避けて他の道をめちゃくちゃに歩いているということもあるが、何か目的があって出ていったなら知っている道を通っている可能性は高い。それだけ絞れているなら、まず一度その服屋までの道を調べてみたらどうだ」

 パスカルの言うことは尤もだった。彼女が知る道は少ない。それを当たれば彼女にたどり着く可能性は大いにあると言える。

「ありがとう、パスカル。今から探しに行ってくる」

「お前まで事故に遭わないように気をつけろよ。どうしようもなくなったら警察にも電話したほうがいい。一人では限界があるからな。手伝いに行けなくて悪いが、頑張ってくれ」

 彼の激励を聞き終えるや否や受話器を置いて、私は走り出した。自宅の扉を開け放って服屋に続く道を走る。車を出しても良いかもしれないが、道中の店に入っているかもしれないと思うと、却って見逃す危険性を上げるだけだと考えた。

 道路は既にそれなりの賑わいを見せていた。市場へ続く道は昼食の用意をするために買いに出た者や既に買い物を終えた者だけでなく、クリスマス・イブという日にいろいろな買い物に出る者もいて、人の数はいつもよりも多い。しかし、私は確信していた。彼女が視界に入ったら決して見間違うことはない。そしてその混雑も道路を覆うほどではなかった。

 私は路傍の店も覗きながら走った。私の財布からくすねていなければ、彼女の所持金はゼロのはずである。いくら彼女でもお金というものの役割について知らないということはありえない。入ったら払わないと出られないような店に入るとは考えにくかった。飲食店の類は除外していいだろう。あるとすれば雑貨屋や服屋、食料品店くらいのはずである。そうした店の一軒も見逃さないように左右に視線をさまよわせながら駆けた。傍目には余程奇妙な人物と映ったことだろう。

 出店が並ぶ市場への分かれ道に差し掛かった。彼女と市場に踏み込んだことはない。服屋へ行く時は少し遠回りをして、住宅街側を通っていたはずだ。しかし、彼女がきまぐれに市場側へ行ったというのは十分考えられた。ここまでの道は彼女も知っているものだし、市場は目を引く。興味のまま吸い込まれるということもあるだろう。

 私は迷った。住宅街か、市場か。

「いや、帰りに通ればいい」

 市場の可能性は一先ず考えず、住宅街を駆け抜けた。市場を通ると、距離はともかく人混みを縫う手間の分だけ時間がかかってしまう。その間に遠くへ行かれてしまうと、手の打ちようがなくなると考えた。

 住宅街側に店はほぼない。私は先程までのように左右を気にするのはやめた。人通りも少なく、視界を意識しなくても見逃すということはない。余裕の出来た頭でフローラと、そして私自身のことを考えながら走った。

 私はフローラを守るということばかり考えて彼女と生活をしてきた。しかし、彼女の気持ちまで考えたことがあっただろうか。彼女に彼女が喜びそうなものを押し付けるばかりで、彼女の気持ちに寄り添うことをしてきただろうか。彼女の好意を足蹴にしてまで守る保護責任とは一体何なのか。私は自分の好意を足蹴にしてその保護責任からも逃れようとしていたのではないか。

 答えがあるようでない問いが頭の中で回っていた。そのエンジンがなければ、走り続けるなどということはできなかっただろう。やがて住宅街は市場のあった通りとつながり、その先に何度か世話になった服屋が見えた。私はその服屋に駆け込んだ。彼女の姿はない。

「いらっしゃいませ。どうかされましたか」

 いつもの女性店員が現れて、私の顔を認めると驚いたような顔をした。

「いつも私と一緒に来ていた女性を知らないか。朝から行方が知れない。こっちの道を来ているならここは通るはずだと思うんだが」

 私がそう問うと、店員は悲しげな表情を作った。

「いいえ、残念ながら見ていません。もしかすると、こちらには来ておられないのでは」

 火照った体から流れた汗が急速に体温を奪っていった。凍えるような外気に晒されて、私は立っているのもやっとという有様だ。

「そうですか。ご迷惑をおかけしました」

「お力になれず、すみません。もし見かけたらご連絡致します」

 礼儀正しく振る舞う店員には然程意識もやらずに、私は幽鬼のように外へ出た。絶望が冷気と共に重く背中にのしかかっている。帰りは市場を通ったが、彼女の姿はなかった。その間、思考は焼き切れてしまったエンジンのようにまったく働かなかった。彼女を見つけても彼女と気付けないかもしれないという、走っていた時は真逆の感覚が血液の代わりに体中を巡っていた。

 自宅にたどり着き、揺れながらキッチンに入る。喉が渇ききっていた。口の中に粘液状の絶望が広がり、呼吸を阻害している。私は冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出して口をつけた。そのまま扉も閉めずに台所の椅子に腰掛ける。ストーブを入れていない家の中はもともと冷え切っていたが、口を開けたままの冷蔵庫が吐き出す冷気が足元をさらに強く苛んだ。

 トースターで焼かれて、私の帰りを待つ間に冷たくなってしまったパンが恨めしげにこちらを見ている。もう硬くなってしまって食べられたものではないだろう。私は目を背け、冷蔵庫の中身を見た。そこにはシュトレンがある。披露宴の日からもう二日も手を付けられていない。今日と明日で食べきるはずが、四日分もそこに残されているのが妙に物悲しかった。

「彼女はこんなものを約束だと言ってくれたのにな」

 自嘲して、ふと何か違和感があることに気づいた。何かはわからない。何かを忘れている感覚だ。

「約束、か」

 昨日の論争の中で彼女が口にした言葉である。そして、シュトレンとアトリエの約束を声に出した。しかし、彼女はまだ何か言いたそうではなかったか。彼女と私の間に交わされた約束はそれだけだっただろうか?

 私はミネラルウォーターを冷蔵庫に投げ入れて扉を閉めた。時刻はまだ昼前である。

「間に合ってくれよ」

 車のキーを取り出して、私はエンジンをかけた。


 街を見下ろす高台に、野ばらは咲いていた。金色の髪が強い風に煽られる。ジャケットとズボンという姿で一見少年と見紛うその姿は間違いようもない。フローラ・アーベントロートその人だった。

「来てくれるとは思いませんでした。私との約束なんて覚えてはいないと」

 誕生日の買い物に出かけた帰り道、泣き出した彼女を連れてきた場所だった。車でしか通っていない道である。彼女が道順を覚えていて、しかもその距離を歩いてくるなどと考えもしなかった。

「ヒントが少なすぎる。服屋まで走ったぞ」

 車から降りる私を見据えた彼女は、希薄な笑顔を浮かべる。私が一歩寄ると、彼女も一歩後退った。彼女の背後には頼りない柵があるだけだ。その向こうは落ちれば命も道連れになる高度である。私は彼女に近づく足を止めた。

「それは惜しいことを。是非見たい光景でした」

「見たければこれから何度だって見る機会はある。だから帰ろう」

「そして、それを見せたら私を寮に預けるんでしょう」

 フローラの嘲笑が痛く刺さる。彼女はそれだけ傷ついたのだ。私が傷つけてしまったのだ、とそう強く感じた。

「また知らない所に連れて行かれるくらいなら、死んでしまったほうがいくらかマシです。私はハルトさんの家に行く道中でさえ、何度死のうと思ったかわかりません。お気づきではないかもしれませんが、家に着いてからも毎日どう扱われるかと不安で仕方なかったんです。優しかったハルトさんでさえ、恐ろしかった」

「それはわかる。しかし、施設ではそんな恐ろしいことは起こらない。それに、フローラのご両親だってそんなことを望んでは」

 しまった、と思ったが遅かった。その言葉はフローラにとって逆効果だ。彼女にとって、両親は彼女の不幸を願う存在でしかないのだ。

「私が話した手紙のことも、もう忘れてしまったんですね」

「忘れたわけでは勿論ない。しかし、あれは本心ではないと私は思うんだ」

「ご冗談でしょう。ハルトヴィンさん」

 フローラの薄い笑いが私を貫く。一歩下がるフローラ。説得は無理だ。私に彼女を救うだけの言葉はない。となれば、もう私に出来ることは一つしかなかった。

「聞いてくれないか、フローラ。私の話を」

 私のことを語る。それで理解してくれるかは賭けだった。

「私は責任を負いたくないと思っていた」

 フローラは怪訝な顔をしつつも、私が語りだすことを聞く姿勢を取った。


 私は責任を負いたくないと思っていた。

 責任を負ってしまう前に、うまくそれを背負わないように振る舞う。悪癖と言っていいだろう。一種、特殊な精神構造を持っていた。

 しかし、負った責任を放り出したことはなかった。だから、私は責任感が強い人間だと思われていたんだ。実際は違う。自分が軽々とこなせる仕事以外は自分に回って来ることがないように動く。それが私の処世術だった。

 仕事にしたってそうだろう。私は額縁を作る。直接自分の彫刻作品が評価されるのが怖いからだ。絵の付属品でいるうちは一定以上の仕事をこなしてさえいればいい。誰に咎められることもない。評価はあくまでも絵が主体だ。私の額は、いわば寄生虫のようなものだ。単独で生きていく自信がないから、評価を得た画家の額を作ることで、自尊心を満たしている。他の額縁職人に顔向けできない。私は打算のみでこの職業を選んだ。

 勿論、自分でもいい癖だとは思っていない。しかし、恥じているかといえばそうでもなかった。アルバートが道を踏み外すまでは。

 フローラも知っているだろう。君を私のところに連れてきた男だ。彼は今や黒い組織の一員だが、昔は将来有望な画家だった。私やユリアンたちと一緒にバンドを組んでいたんだ。

 だが、ある時彼は過ちを犯した。ユリアンたちは彼を強く糾弾した。アルバートは私の後輩ではあったが、ユリアンやパスカル、ディルクから見れば友人の後輩に過ぎない。そんな男のせいで、彼らのバンドは崩壊した。アルバートは追放されて、組織の一員になるまでになった。

 それを見過ごさず、庇うことが出来たのは私一人だった。彼に最も近い人間であり、かつ彼に最も信頼されていたのが私だったんだ。私はその時、彼を庇うべきだった。しかし私は彼を庇うという責任を負いたくなかった。結局、仲間と一緒に彼を糾弾した。

 それからの彼を眺める度、私は辛かった。彼はどんどん落ちぶれ、何度も私に金の無心しにやってきた。私は彼にだけ、責任を取らなかったことの詫びを払い続けた。そして、その逆を行くように責任を負わない質にも拍車がかかった。あれほど親しかった彼の責任を負わなかった手前、彼より浅い付き合いの他人から責任を負うわけにはいかない。私は徹底して責任を負わない人間になるしかなかった。自分で自分自身に枷を嵌めた。自分に呪いをかけたんだ。額縁職人を志したのもその頃だ。

 私はそうやって生きてきた。だがある時、アルバートはフローラを連れてきた。私は彼の頼みを断れない。私は君を責任感から引き取り、守り、そして社会に復帰する責任を負ったと考えていた。父代わりにならねばならないと思ったアルバートの真意も、フローラの意志も関係なく、私がそう勝手に思いこんでいたんだ。

 しかし、その保護責任を揺るがそうとする存在が現れた。私自身だ。


 フローラは驚いたように目を丸くして見せた。しかし、私の話がまだ続くことを知ると、また怪訝な顔を作って続きを聞く。


 率直に言って、私もフローラが好きになっていった。同居人としてではなく、恋愛感情として、だ。

 それは、フローラをずっと手元に置いておきたいという欲望だ。私が勝手に負った父代わりとしての保護責任とは真逆のものだろう。君を私の手元に留めておきたいという気持ちだ。私がその欲望に素直になれば、フローラが社会に出ていく上で邪魔な存在になってしまう。

 私は稼ぎも多くなければ、特別顔が良いわけでもない。愛想がいいとも言えない。男性としての魅力は乏しい部類だ。フローラにはまだより良いパートナーを見つけうる余地がある。自由な街に住み、自由な仕事をして、自由な生活を送る権利がある。私はまだ家と奴隷以外の世界を知らない君を手元に留めて、詐欺のような優しさでずっとそのままにしておくことが許せなかった。

 それとは相反して、君を好きな気持ちは大きくなっていくばかりだ。私はつい焦った。君を早く手放さなければいけないと強く思った。でなければ、いずれ君を社会に送り出そうと考える私は殺されて、君をどうにか手元に置いておこうとする欲望だけの私が生き残ってしまう。それだけは許されない。他の誰が許しても、私が許せないと思った。

 しかし、事を急いでフローラを傷つけてしまった。


「申し訳ないと思っている。昨日は少し、勝手を言い過ぎた」

 一度に喋って、舌が回らなくなっても私は自分の感情を語った。語って語って、語り続けて、語ることがなくなるまで語った。自分の中に蓄積していた膿のようなものを無理やり絞り出したような痛みが全身を刺している。

 フローラは辛抱強くそれを聞き、ようやく言葉が枯れたのだと悟って口を開いた。

「ハルトさんの気持ちはわかりました」

 彼女は目を閉じて言う。私は口を閉じたまま彼女の次の言葉を待った。

「けれど、いくつか納得が出来ません。ハルトさんは一所懸命に額縁を作っていたことは私が知っています。それに、他人の絵を預かる緊張があるって言っていたこともありました。決して責任を負わずに済む仕事ではないし、ハルトさんは逃げてその道に進んだのではないはずです」

 フローラの言葉に反論は出来なかった。心中を吐露した今ならわかる。私は額縁職人を逃げ場だと勝手に決めつけていただけだ。自分でも気づいていないふりをしていただけだった。

「それに、ハルトさんがいう保護責任にしたって好意と矛盾することではないはずです。ハルトさんは父代わりだと思っているかもしれないけれど、実際に血縁関係があるわけじゃない。私が社会に復帰することにしても、ハルトさんが恋人で何の問題もないはずです。ハルトさんはただ私を好きだという気持ちから逃げているだけでしょう。それを責任を果たせないからなんていう理由で否定されるのは不愉快です」

 殴られるような感覚があった。私はただ屁理屈でフローラへの好意を黙殺していたのだろうか。好意を抱くことを怖がり、好意を受け入れることも怖がっていただけなのか。私という存在が揺らぎそうになる。なんとか踏みとどまった。

「それは違う。私は君を守る責任のことだけをひたすら考えていた。そして、君を好きになることはそれを犯す行為だ。私はそれを許せない。私は責任を果たさなくてはいけない」

 彼女は溜め息を吐いた。呆れた、という表情をする。

「そう言うなら、わかりました。では、ハルトさんはこれからどっちの責任を果たすつもりですか」

 フローラの言い方からは感情が読み取れない。私は彼女の質問の意味をはかりかねた。

「私を守って社会に出す。アルバートさんと交わしたその責任か、私を惚れさせた責任か。ハルトさんはもうその二つの責任を負っているんです。ハルトさんがそれらを矛盾する責任だと言うなら、どちらを選ぶべきか決めてください。もっと正確に言うなら、ハルトさん自身がどちらを選びたいかということをしっかり考えて答えを出してください。ハルトさん風に言うならそういうことです」

「その答えはここで出さなくちゃならないのか」

 フローラは無言で頷き、柵から離れてこちらに歩み寄る。近くまで来た彼女の碧眼が私の目を縫い付けた。

 私は考えた。アルバートへの責任は無下には出来ない。一方彼女を惚れさせた責任ももう既に発生し、確かになっているものだ。それを放り出すことは出来ない。

 いや、と私は思った。彼女の言葉どおり、私はどちらを選びたいかで彼女への返答を考えるべきだった。

 手を伸ばす。髪に触れようとすると、フローラはその手をはたき落とした。

「言葉で言うか、もっとわかりやすく示してください。それじゃあどっちかわからない」

 私は頭を掻いた。どうも、今度は私のほうが恋愛について教わる番らしい。

「私はアルバートへの義理を守って生きてきた。それを曲げるのはとても難しい。それはもう、私の身に染み付いて離れない呪いなんだ」

 彼女は悲しい顔をした。今にも泣き出しそうに、目元には涙が溜まっている。私はそんな彼女の傷ついた顔に触れて、少し屈んで口付けをした。

「それでも私は君との責任を果たしたい。私と付き合って欲しい」

 短い口付けを終えてそう言うと、フローラは複雑な表情で微笑み、私に抱きついた。私もそれに応える。お互いに強い抱擁をして、もう一度口付けをした。


 何とも気恥ずかしい空気が流れていた。恋人という間柄になっても、特別なことをするわけではない。厳密にはするかもしれないが、それは直ちに行われることではない。

 だと言うのに私たちはアトリエへ帰る車の中で、口を開くことが出来ずにいた。勿論、私にとって嬉しいことではある。彼女にとってもそうであってほしいと願っているが、不意に貼り替えられてしまった二人の関係のラベルを私たち二人は顔を見合わせて眺めるばかりだった。

「帰りにちょっと買い物をしたいんだが」

 このまま家に帰ると気まずい雰囲気を引きずってしまいそうだったので、私はそう提案した。彼女が無言で首肯したので、私はスーパーの方へ車を向けた。今日はアクセサリーを買ったりする必要はないので、隣町まで行く必要はない。山道を抜けると、間もなく駐車場が見えた。フローラは来たことのない店の筈だが、車を停めても特別の反応を示すことはしなかった。

 先行すると彼女を見失わないかと不安だったので彼女が先に立って歩いて欲しい気持ちが少なからずあったが、彼女もどうやら似たような感傷を持っているらしく、二人で車から降りた状態のまま立ち止まってしまう。一瞬睨み合いのようになるが、諦めて私が先に立って歩いた。彼女がすぐ後ろをついてくる気配がある。私たちはスーパーの入り口をくぐった。

 買い物に来たとは言っても半分は口実に過ぎない。私は何を買うでもなく店内を周遊する。フローラもそれに続いた。時々私が立ち止まって商品を眺めると、これを買うんですか? と言わんばかりに首を傾げてこちらに視線を投げてくる。そうなると、特別買う必要があるわけでもないな、と思ってしまい、棚に戻す。その繰り返しで、カゴの中は空のままだった。

「そういえば、明日はもうクリスマスですよね」

 私が困っているのを察したのだろう。フローラはそう言って無理やり会話を始めようとした。

「ああ。とうとう、という感じだな。やっとシュトレンの日々から解放される」

「あれ。もしかして嫌だったんですか」

 彼女は驚いたような顔を作ってみせた。それ自体は今までも何度も見てきた顔だが、その何気ない表情が何とも愛しく思えた。恋人というラベルのせいだろうか。

「嫌というわけではないが、たまに別なものが食べたくなることはあったな。世には美味しいものがシュトレンの他にもいっぱいある。新しい味覚の探求もまた、一つの楽しみだ」

 フローラは一転、申し訳なさそうな顔になる。妙に心が痛んだ。彼女の喜怒哀楽に私の感情が追従している。励まさねば、と思った。

「しかし、良い日々でもあった。フローラが言うとおり日々味が変わっていくシュトレンをここまで楽しんだのは人生で初めてだ。むしろ、明日でそれが終わってしまうのが惜しいくらいだよ」

 下手なフォローだったが、彼女は頬を緩ませる。私まで頬を緩ませてしまう。車中での困惑はゆっくりと解けていき、フローラという女性が恋人なのだという実感が徐々に芽生え始めていた。

「確かに惜しいですよね。約束が一つなくなってしまって、私は正直怖くもあります」

 彼女はまだその実感を得ていないのだろうか。私は彼女のように感情豊かな表情をする方ではないし、私を見ていても、私が彼女を眺めて感じるほど幸福になれるとは思えなかった。ならば、言葉でしっかり表現していかなくてはいけない。気障になるのを承知で私は恥ずかしいセリフを口に出した。

「しかし、ずっと一緒にいるという強い約束をしただろう。私は二度とフローラを離さない」

 言ってしまってから恥ずかしさはやってくる。のしかかるそれに耐えきれず、彼女より二歩先を歩くように歩調をはやめた。彼女の表情は知れない。喜んでくれていればいいのだが。

 ふと、お茶の陳列棚に目が止まる。甘味はシュトレンがなくなる明日まで受け入れてもらえないだろうが、上等なお茶を買うのは悪くないアイデアだと思われた。ゆっくりと歩調を落とし、彼女がつんのめってしまわないようにして、棚のお茶を眺めた。

「お茶を買うんですか?」

 フローラは先程までは仕草を通して伝えていたその感情を今度は言葉に出して伝える。

「ああ。明日はクリスマスだし、今日はクリスマス・イブだ。ちょっと上等のお茶を買うのは悪くないだろう?」

「いいかもしれませんね。どれが美味しいお茶なんですか?」

 考えるまでもなく、私は一つの商品をカゴに入れる。

「家では、上等なお茶といえばこれだった。ローズヒップティーだよ」

「ローズヒップティー? どんなお茶なんですか」

「そのまま飲むと酸っぱいかな。よく蜂蜜を入れて飲んだものだ。なんでも咳に効くというんで、父がよく買ってきてくれた」

 フローラは宙を見つめて、ローズヒップティーの味に想いを馳せているようだった。

「それほど飲みにくいものじゃないよ。もし合わなかったら、いつもの紅茶を飲んでもいいしね。二人で色々試していこう」

 彼女は私を穏やかに見つめて、嬉しそうに頷いた。


「つまりお前は惚気話をするために電話をかけてきた、というわけだな」

 帰宅した私は、まず電話を取った。彼女を発見した報告と、交際することになったことをパスカルに伝えたところ、そんな嫌味を言われてしまった。

「心配をかけたと申し訳なく思っているだけだ。その後のことは伝えないわけにいかないだろう」

「どうだか。彼女の挙動の何をとっても愛しく思っているような状態の奴に言われても説得力がない」

 あまりにも的確な表現に黙ってしまう。その沈黙を捉えて、パスカルは愉快そうに二の句を継いだ。

「どうやら図星だな。ハルトは昔から実にわかりやすい」

 豪快に笑うパスカル。これで、パティシエとしてそれなりに名誉を得ているのだから人生わからないものである。とはいえ、あまりにズバリ言い当てられて腹が立ったので居直った。

「ああ、そのとおりだ」

「ハルトも面倒な奴なのにな。フローラちゃんは苦労するよ。今度は子どもが出来ても責任を取れないから抱かないとか言い出しそうだ」

 私は正直、驚いた。パスカルがそこまで私のことを見抜いていたとは知らなかった。そもそも、私が責任について拗れた価値観を持っていることを話したのはフローラが初めてだ。誰にも察されてはいないつもりで今まで生きてきた。

「知っていたのか」

「それなりの付き合いだ。お前の面倒な性分くらいわかってるさ。どうもディルクやユリアンは気づいていないらしいがね。元からその気はあったが、アルバートのことがあってから余計責任に敏感になった。額縁職人なんて、元のお前からはかけ離れた職についたのもそのせいだ。違うか?」

 驚愕が続いて、奇妙な笑いがこみ上げた。パスカルはそれを気味悪がるでもなく、愉快そうに笑って聞いていた。

「本当に筒抜けらしいな。誰に聞いたんだ」

「お前がそんなことを誰かに漏らすわけないだろう。察しただけだよ。これでも人の気の動きには聡いんだ」

 聡いというだけでそんな心中まで見破られてしまうものなのだろうか。癖とはいっても、表に出るものではない。パスカルは心を読めるのではないかと一瞬本気で疑った。

「油断していたよ。普段適当な態度を取っているから、てっきり鈍い方なのかと」

「おれに言わせれば仲間内で一番鈍いのはユリアンだけどな」

「それは違いない。アイツは実に鈍いよな」

 パスカルとこうして談笑するのは珍しかった。バンドの中でも付き合いが薄かった相手だ。もともとはユリアンの友人で、私から見れば友人の友人というところである。その距離感が、彼に私の内面が透けた理由でもあるかもしれない。近すぎるものは得てして見辛いものなのだ。

「二人目が産まれたら見に来いよ。きっとフローラちゃんを孕ませたくなるぜ。女性は偉大だ。そう思うだろう」

「それは間違いない。フローラは偉大だ。ずっと私にのしかかっていた責任という呪いを緩めてくれたように思う。妙に肩が軽くなったよ」

「おれにも経験がある。しかし、それだけではお前は女性の偉大さの半分も知らない。子どもが産まれてみろ。頭が上がらなくなる」

「それは面白そうだ。尻に敷かれているパスカルを見に行かなくちゃな。第二子が産まれたら是非教えてくれ」

「ああ。待ってるぜ。じゃあ今度は怒らせないようにうまくやれよな」

「ありがとう」

 受話器を置く。妙な幸福感があった。ずっと抱えていた問題を吐露したからかもしれない。パスカルの言うとおり、フローラは偉大だ。彼女は話を聞いただけなのに、私にかかった呪いを緩めてしまった。すぐにその拗れた価値観を変えられはしないが、これからの彼女との生活の中で徐々に解いていけばいい。

 背を丸めて電話していたので腰が痛んだ。背筋を伸ばし、振り返ってダイニングを見るとテーブルに着いているフローラと目が合った。

「待たせて悪い。今お茶を淹れるよ」

「よろしくお願いします」

 今日はハルトさんが淹れてください、というのがフローラが帰りの車で私につけた注文だった。今日はローズヒップティーを振る舞う側なので、私にも異存はなかった。

「今日は昨日と一昨日の分、そして今日の分で三切れ食べて、明日はハルトさんの昨日の分と一昨日の分、そして明日の分を食べるんです。怒らせた罰です」

 彼女は注文と同時にそんな宣言をしていた。私は笑って了承した。

 私はフローラの注文どおりに、三切れ分と自分の分を一切れ切り分け、ローズヒップティーを淹れた。これに関しては、私も蜂蜜を入れずにはいられない。幼いころからのもので、もうそういうものだと決まってしまっているのだ。

 ダイニングに運ぶと、フローラは目を輝かせた。

「シュトレン、なんだか久しぶりに見る気がします。二日分の味がわからなくてもったいないですね」

「逆に言えば、味が馴染んだ状態でいっぱい食べられるということじゃないか」

 彼女はなるほど、というように目を丸くして頷いた。パスカルの言うとおり、彼女の一つ一つの動作が愛しくて堪らない。パスカルの事をもう愛妻家と馬鹿にすることは出来そうになかった。

「素敵な考え方ですね。ロマンティックです」

 どちらかといえば食い気の張った色気のない思想だと自分では思ったが、彼女が満足そうにシュトレンを口に運んでいるので、あえてそれを遮りはしなかった。

 私としては彼女がローズヒップティーに抱く感想が知りたくて焦れているのだが、彼女は三日ぶりのシュトレンとの対面に精一杯という様子で、お茶に手を伸ばすまでとても長い時間がかかった。それは彼女が二切れ分のシュトレンを食べ終えて、三切れ目に手をつけようというときだった。

「さすがに三切れはちょっと多い感じがしますね」

 苦笑して言うフローラ。彼女がいくら甘党でも、シュトレンの暴力的な甘さの前では限界を迎えても仕方ない。そして、ようやく彼女の手がローズヒップティーに伸びた。カップに口をつけて口に含む様をじっと見つめた。それだけ、私はこのお茶に思い入れがあるのだ。

 フローラは目を見開いて、一旦カップを置き、味わうようにしてから私を見つめた。碧眼が明るく輝いている。

「美味しい! さっぱりしていて飲みやすいですね」

 私は自分が褒められたような気になって、笑って返した。誇らしい気持ちがじんわりと溢れた。私も自分のお茶に手を伸ばし、口に含んだ。爽やかな酸味を蜂蜜の柔らかい甘さが包み込んでいて、とても美味しい。慣れ親しんだ味だった。

「これなら、三切れ目も食べられそうです」

 フォークを最後の一切れに通した彼女は、そこで止まって私を見つめた。なんだろう? と見返すと、恥ずかしげに切り出した。

「明日は折角一番美味しい日ですから、二切れずつ食べましょう。仕方ないから、シュトレン一切れ分だけ許してあげます」

 目を逸らして拗ねている風に見せてはいるが、少しも本気ではないことが見て取れた。いくら彼女とは言え、やはり三切れは厳しいのだろう。より希望的に言えば、私とシュトレンを共有したいということかもしれない。

 私は彼女の輝く金髪を撫でて答えた。と、急にこちらを向いた彼女が椅子から立ち上がって、静かに唇を近づけてくる。私はそれを迎えるようにして、口付けを交わした。

 彼女との口付けは、ローズヒップティーの香りがした。

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