未来

 食欲が失せてしまった私は、自分の食事はそこそこにユリアンの食事が一段落するのを待ち、彼を誘った。フローラはエミリアさんに任せておけばいいだろう。短い時間で打ち解けてくれたことがありがたかった。パスカルもあれで悪い男ではない。安心して預けておけると私は考えていた。

 二人でディルクの席に近寄ると、彼も察したようでこちらへ歩み寄ってくる。三人で一旦店を出て、窓の外に見えていた見事な庭へ足を向けた。

「それで、一体どういうことなんだ。ハルト」

 庭に踏み入るなり、ユリアンはいきなり質問を投げかけてきた。私は何から話したものか迷う。少し考えたが、どうしても避けられない単語から口にすることにした。

「アルバートのことは忘れていないだろう」

 ユリアンは露骨に嫌な顔をした。仕方ないことである。彼は私たちのバンドを引き裂いた主原因だった。その名前は忌まわしい記憶として四人の胸に刻まれている。

「まさか、アルバートが彼女を傷めつけたのか」

「いや、そうではないんだ。順を追って話そう」

 私は、彼女の両親の事情、買い取られた先で彼女が受けた暴行、主人の死とそれを譲り受けたアルバートが、彼女を救う為に私のもとに連れてきたことをかいつまんで話した。

 ユリアンのみならず、彼女の人身売買の事情までは聞いていなかったディルクも驚きと憐憫の表情で話を静かに聞いた。

「そして、現状は私が預かっている、ということになる」

「ひどい話だ」

 ユリアンは絞り出すように言った。

「本当にそのとおりだ」

 沈痛な雰囲気を前に、何か口に出せることはないかと焦って、私はついずっと思っていたことを零してしまった。先程呑んだ酒のせいもあるだろう。

「私はアルバートが持ってきた話でなければ、引き取るなど考えもしなかったと思う。あいつに対して私が感じていた引け目がなければ、彼女はこれからもっと酷い目に遭うところだったかもしれない」

 それは紛れもない本音だった。人一人を預かる責任の重さを私は十分理解していた。それでもなお見ず知らずの女性を預かろうと考えたのは、彼の表情が本気だったから、その表情をしていたのがアルバートその人だったからだ。

「アルバートのことに関して、ハルトが責任を感じることはない。あれはあいつの罪だし、私たちは当時あまりにも無力だった」

 ディルクはそう言ったが、本質はそこではない。私が悔やんでいるのは、負った責任を果たせなかったことではなく、責任を負うことが出来る立場だったのにそれを厭うたことなのだ。

 それはもう遠い過去の話である。私たち五人は『レーゲン』というバンドを組んでいた。学生時代の趣味のようなものではあったが、ライブハウスに出演したり、イベントに呼ばれて演奏したりと、それなりに名の知れたバンドでもあった。

 キーボーディストだったアルバートが、他のバンドのピンチヒッターとして呼ばれたのは、人気も絶頂となった頃だった。脱退という話でもないし、公演に差し支える話でもないので私たちは快く彼を送り出した。そのバンドが非合法な薬物に手を染めているとは誰も知らなかった。

 気づいた頃には彼は薬物中毒者となっており、彼が所属するバンドはライブハウスから完全に排斥された。私たち「レーゲン」も例外ではない。人気絶頂期の私たちを引き裂いたのはアルバートだった。

 三人は彼を責めた。当然の怒りである。私はそれを批判しようとは思わない。けれど、アルバートは最後に、最も親しかった私には言ったのだ。

「ハルト先輩だけは信じてくれますよね。俺は騙されたんだ。こんなことになるなんて考えもしなかった。クスリだなんて知りもしなかったんだ。ハルト先輩」

 そこで庇えば、彼が組織に落ちて悪行の限りを尽くすこともなかったかもしれない。しかし、他三人との間に軋轢が産まれかねない。アルバートの更生をずっと待たなくてはいけない。そんな重い責任を背負うことを私は考えられなかった。私は言った。

「見損なったよ、アル」

 彼を黒い組織へと落としたのは私なのだ。そこでその責任から逃れたことが、今でも呪いのように私の体に染み付いている。

「ああ、ハルトのせいじゃない。それに彼女をこれからどうするか考えることがアルバートのためにも、フローラちゃんのためにもいいことのはずだ」

 ユリアンのそう言葉で、私は急激に回想から呼び戻された。

「私もそう思っている。それで、ディルクにはそういう人間の支援をしている場所がないかと聞くつもりできたんだ。どこか良いようなところはあったか、ディルク?」

 ディルクはタキシードから封筒を取り出して、指で振りながら話した。

「所見だが、さっき見たところでは彼女の対人能力はそこまで低くはない。多少怯えるような感じはあるが、重度ではないだろう。ユリアンはどう思った? 私より彼女のことを見る時間があっただろう」

 冷静な口調で語る彼の様子は、先程フローラにやさしげな笑顔を向けていた時の表情とは似ても似つかない。非常に厳しい視線で、難しい顔をしている。よそ行きの姿でないことからも、彼の真剣さが伝わってきた。

「ああ。俺は少し怖がられたようだが、エミリアは随分と馴染んでいた。多少相手を選ぶかもしれないが、特別支障があるということはないだろう」

 頷いてユリアンの話に同調したディルクは、タキシードから封筒を取り出して私に差し出した。

「同意見だ。だから、これらの施設に預けるというのも一つの手ではあるだろう。希望どおり、寮や寄宿舎を採用しているところを集めてある。一緒に集団生活をして社会性を育もうというスタンスだな。一定以上社会に馴染める体勢が出来れば、職業の斡旋も行っているところもある。もうすぐクリスマスで、イベントから入っていけば馴染みやすいだろうね」

 受け取ってみると封筒はやや分厚い。何件もの資料を取り寄せてくれたことがわかった。

「ありがとう、ディルク」

 その様子を見ていたユリアンが口を挟んだ。

「しかしハルト。お前のアトリエから通うのでもいいんじゃないか。そもそも福祉施設にこだわらなくとも、スポーツサークルや楽団に参加するという手もある。いきなり働きに出たって、フローラちゃんなら働けると思う。彼女は重度のケアが必要とまでは俺には見えないし、無理にケア施設にこだわる必要はないと思うが」

 彼の指摘に胸が痛んだ。本当はそうしたいところなのだ。私が彼女に好意を持ちさえしなければ、彼の案で進めるのも悪い選択ではないはずだった。

「それもそうかもしれないが、我が家の生活はかなり不規則だ。大きな仕事の最中はあまり食事も睡眠もとれないという場合もある。加えて男一人暮らしでバランスのとれた食生活も提供出来ない。彼女には私と住んでいる理由について、ずっと言い訳させ続けなければならないし、そもそも男女が二人暮らしというのもいい話ではないだろう。私は衣食住を共に過ごす友人がいたほうが良いのではないかと思うんだ」

 ディルクは首肯している。しかし、ユリアンは唸ってイマイチ納得がいっていない様子だ。

「それはそうかもしれないが、ハルトを信頼しているのも確かだろう。その信頼はところを変えて簡単に得られるものではない。遠ざける理由があるわけではないんだろう」

「確かに、ハルトなら間違いを起こすということもないとは思うが」

 言葉に詰まる。それがあるから困っているのだ。フローラをはじめ、ディルクやユリアンからも信頼されているハルトヴィンという男を私は信頼できない。最悪の場合、私は彼女の敵となるかもしれない。第二の『ご主人様』となって、彼女を囲い込むかもしれないのだ。

 私の沈黙を見かねたディルクが口を開いた。

「しかし、ハルトにとっても彼女との生活は大変なものがあるだろう。単純に料理や洗濯の量も二倍になるし、一人暮らしのように気楽とはいかない。フローラさんさえ良ければ、寮というのは有力な選択肢だと私は思うんだが」

「そうだな、すまない。ハルトの苦労という点には考えが及んでいなかった」

 ユリアンが申し訳なさそうに眉を寄せるので、私は急いで否定した。

「いいや。ユリアンの言うとおりではある。ただ私が責任を負いきれないのではないかと不安になっているだけなんだ」

「それについては俺が保証するよ。ハルトは負った責任は果たす人間だ」

 ユリアンの言葉に、ディルクも同調するように頷いた。私は力なく笑って礼を言う。

「そう言ってくれると嬉しい。ありがとう。本人とも相談して決めることにしようと思うよ」

「それがいい。また何か力になれることがあれば言ってくれ。私も協力する」

「今度は俺に言ってくれてもいいぜ。これでも知人は多いんだ」

 心強い友人たちと握手を交わして、宴会会場に戻ることにした。主役があまりに長時間欠席するのはあまりよろしくないだろう。

「おかえりなさい、ハルトさん」

「どうしたんだ、これは」

 ユリアンと二人でテーブルに戻ると、そこには笑いが止まらない様子のフローラがいた。パスカルは実に愉快そうにそれを笑っている。エミリアさんも同じような状態だ。どうも酒を飲んだらしい。そういえば、彼女に酒を与えたことは無かった。

「頑張れよ、ハルト」

 私と同じく苦笑いを浮かべたユリアンに背中を叩かれて、私は頭を抱えた。


 帰途は眠ってしまったフローラの運搬が厄介な問題として私にのしかかった。会場を出たときにはタクシーから電車、電車からタクシーの移動にあれほど気を使うとは考えもしていなかった。彼女を背負って移動したが、スーツもドレスもあまり可動性の高い衣服とは言えない。無理な体勢になって服が破けたり、フローラの下着が見えてしまったりはしないかと気が気ではなかった。

 ユリアンたちも一緒ならせめて乗り込む時だけでも助けが借りられたのだが、彼らはどうも二次会までついていくつもりのようだった。私たちより遠方から電車で来たはずだが、帰りが遅くなってしまわないのだろうか。もしかすると、どこかで宿を取るつもりかもしれない。

 やっと自宅に着いて、私は溜め息を吐いた。長い一日だった。慣れない電車や高級料理店でまったく落ち着けなかったからだろう。決してフローラの重さゆえではない。彼女は実際、軽すぎるくらいだった。

 彼女を二階まで運び、彼女の部屋のベッドに寝かせた。布団をかけてやると何事か寝言を漏らしたようだったが、まだ起きる気配は無かった。

「呑気なものだな」

 それはいい傾向のはずだった。私は階段を降りる気力まで失くしてベッドサイドの椅子に腰掛けた。フローラの寝顔を眺めてみる。

 安らかな表情だ。少なくとも今は、手紙の悪夢に苛まれたりはしていないらしい。夢の中で今日の料理を反芻しているか、でなければもうじき満了を迎えるシュトレンの味でも確かめているのだろう。

「そうか、もうクリスマスなんだよな」

 十二月は中旬に受けた仕事のせいもあって、疾風のように過ぎた。日付感覚こそ失っていないものの、クリスマスを迎えるという実感はない。そもそも、一人で生活していると特別に意識するような日でもないのである。ケーキを買ったりしても侘しいばかりなので、ここ数年はクリスマスに因んだ行動をした覚えがなかった。

「随分華のある生活をしているものだ」

 自嘲が漏れる。実際、一人で暮らしていた頃には考えられないことだった。フローラのためのクリスマスプレゼントを考えたり、フローラのためにケーキを作ることを考えて当日まで彼女がシュトレンにこだわるだろうと気づいて破顔したり、そういったことは私の生活にはなかったものだ。そればかりか、フローラのために服を買い、フローラのために料理を作り、フローラのためにお茶を淹れた。そして、フローラのために私が人生で忌避し続けてきた責任を負った。生きている世界そのものが一ヶ月前の私とはまるで違う。

「やはり、責任は果たさなければならない」

 私は窓の外を睨んだ。アルバートが私に託した責任だ。違えるわけにはいかない。私には彼女を守り、外へ羽ばたかせる責任がある。そこに人間的好意はあっても、恋愛的好意が混ざってはいけないのだ。好意を自覚して以降何度も反芻した誓いだったが、クリスマスを前に私は再度深く誓った。

 私は最後にフローラの寝顔を確認しようとベッドに目をやった。寝返りをうったらしく、顔はこちらを向いていない。わざわざ回り込んで見るほどのものではなかったので、私はそのまま階下へ降りた。

 その日、彼女は夕食を食べに降りてこなかった。私は午前零時まで待ったが、彼女が降りてくる気配はなかった。フローラがそれほど酒に弱いとは思わなかった。これからウイスキーボンボンのようなものには気をつける必要があるだろう。

 結局、二十二日のシュトレンの味を知る者はいなかった。私はいつものようにアトリエで眠った。


「おはようございます」

 急に背後で発されたそのぎこちない挨拶に驚いて、私は勢い良く振り返った。なんのことはない。普段着のフローラである。慎重に階段を降りてきたので、彼女が起きてきたことに気づかなかったのだ。

「ああ、おはよう。気づかなかったよ」

「すみません。驚かせるつもりはなかったのですが」

 どうもかしこまった様子で雰囲気がおかしい。首を傾げたが、彼女は何かを言うということもなくダイニングに向かった。私はパンをトースターに入れながら、二日酔いだろうか、と考えていた。でなければ、昨日眠りこけてしまったことに対する恥であったかもしれない。彼女の遠慮がちな性質から言えば、ありえることではあった。もしそうだとすると下手に掘り返すのは良くないだろう。私は一先ずそれは気にしないことにした。

「変わり映えしない朝食で悪いが」

 トーストとチーズ、ウインナー。それから紅茶。フローラの分には砂糖を二スティック分入れてある。朝から潤沢なメニューを提供できればいいのだが、力不足だった。しかし、フローラは首を振って否定する。

「朝にご飯を食べられること自体無かったことで。なんだか心配です。太ってしまうんじゃないかって。他の奴隷が言ってたんですけど、太ると愛されなくなるって。本当でしょうか」

「どうだろう。私の母は太り気味だったが父には愛されていたと思う。昨日の結婚披露宴には出ていなかったが、パスカルの奥さんも太っている。しかし、パスカルは我々バンドメンバーの中では一番の愛妻家だ。私は恋愛において、体型はさほど重要な問題とは思わない。健康上、重度の肥満は避けたほうが懸命だとは思うが」

 フローラは真剣な表情でそれを聞いていた。食べる手が止まっている。

「それに、朝食は食べたほうが太らないそうだ。栄養が欠けることは太りすぎることよりよくない。フローラは今のところ痩せすぎだから、食べることに心配は要らないと思う」

 それを聞いて、彼女はようやく安心したように食事に手をつけた。私も安心して、トーストにかじりつく。この国のパンの宿命だが、やや硬い。日本という国に行って木工を学んだことがあるが、あの国のパンは実に柔らかかった。材料は同じ麦だというが、何が違うのだろう。私は黙々とパンを噛んだ。

 二人で食事を終え、余暇の時間になる。店舗納品用の額は十分な数出来上がっていたので、これから年末まで飛び込み依頼がない限りは暇が続く。

 フローラも特別何かしようと言う様子がないので、食器を下げたあとディルクから託された封筒をテーブルの上に広げた。

「少し相談したいことがあるんだが、いいかな」

「なんでしょうか」

 リビングに向かおうとしていた彼女を引き留めて、ダイニングのテーブルに着いてもらう。ディルクが用意してくれた福祉施設のパンフレット三件分が置かれている。どれも昨日の夕方、彼女が夕食に降りてくるのを待つ間に熟読したので、滞りなく説明できるだろう。

「昨日の結婚披露宴でディルクから紹介してもらったんだが、フローラがこれから生活していく上でどこか社会に関われる方法があればいいと思っているんだ」

「社会とですか」

 フローラはどうも得心がいっていないという様子である。私は続ける。

「ここに並べているパンフレットは、いわゆる対人恐怖症のような症状を持つ人が社会に復帰する手伝いをしているところの紹介だ。この世には、フローラのような酷い経験をしてその状態から戻りにくくなってしまう人がいる。そういう人たちが一緒に生活したり、作業をしたりして本人の望む形で社会にもう一度参加出来るようにするのがこういう施設だ」

「なんだか難しそうですね。どうしてこれを?」

「つまり、フローラもこういう施設に入らないかということなんだ。クリスマスが近いから、パーティをやるところも多い。馴染みやすい時期だと思うんだ」

 彼女はやっと私が何の話をしようとしているのかを察したようである。

「なるほど。良いかもしれないですね」

「そうか、良かった」

 私は肩の荷が降りた心地だった。強い安堵に包まれるようだ。同時に彼女を手放したくないという欲が鎌首をもたげたが思いきり踏み潰した。

「あとは場所選びだな。たとえば、ここは寮制になる。食事は作らなくていいし、掃除も分担制だ。相部屋になるから、他人と一緒に寝ることにはなるが」

「ちょっと待って下さい。どういうことですか?」

「だから、寮と言うのは施設についている住居スペースで、ここの場合は相部屋に」

「そうじゃありません!」

 フローラが拳を机に叩きつけて私を遮った。彼女のそんな怒声を聞いたのは初めてだ。私は驚いて彼女を見つめた。

「なぜ私が外で生活することになっているんですか。私はこの家が良いんです。通うだけならともかく、住み込みでなんて絶対に嫌です」

 折角の安堵の椅子を蹴り飛ばされたような不快感があった。私もつい強い語調になってしまう。

「言っただろう。私の作る料理では栄養も偏るし、話す相手が私だけでは社会復帰につながっていかない。当然通ってもいいだろうが、いずれはここを出るんだ。早いか遅いかの違いだけだろう」

「なぜですか。ハルトさんはそんなに私のことが邪魔なんですか?」

「それは違う! しかし、フローラのことを思えばこそ外で暮らすほうがいいと言っているんだ。ずっとここで暮らしていくわけにはいかないだろう?」

「私のことを思うなら、少しは私の言うことを聞いてくださいよ!」

 フローラの語気が強くなっていくのに対して、私の語調はどんどん勢いを欠いていく。とうとう反論が出来なくなって、私は黙ってしまった。

「約束はどうするつもりなんですか」

「何の約束だ」

 私は絞り出すような声で言った。

「シュトレンを食べるって。クリスマスから他の場所で暮らせというなら、ハルトさんは約束を破ることになります」

「クリスマスを終えるまで家にいればいい。寮に入るのはいつでも構わない」

 冷静に返す。こちらとしても、何も急いで寮に入れとまでは言わない。ただ、いずれ彼女は飛び立たなければいけないのだ。

「仕事を見せてくれるという約束もあります。それに他にも」

「新年になれば、仕事は増える。入寮は来年からでも構わないだろう。しかし、なるべく早いほうがいい。フローラの時間は有限だ。あまり時間をかけていると、復帰できるものも復帰できなくなるかもしれない」

 体中の力をぶつけて、叱りつけるように言った。フローラはまだ何か約束を取り出すつもりだったらしいが、私の声を聞くと黙り、こちらを強く睨んだ。私はたじろいでしまう。ここに来て、今まで知らなかったフローラの一面をいくつも見せられている。たった一ヶ月の生活では彼女の半分も見てはいないのだと強く感じた。

 彼女は最後に、聞いたこともないほど低い声で凄んだ。その目は潤んでいて、表情とはちぐはぐな印象を受ける。怒っているのか、泣いているのか。そのどちらもなのかもしれない。

「昨日、責任をとらなくてはいけないって言いました」

「聞いていたのか」

 それは昨日彼女をベッドに預けた時に漏らした言葉だった。彼女はあの時、既に目を覚ましていたのだろう。顔を背けて聞いていないふりをしていたのだ。

「本にありました。責任を取るというのは、結婚するという意味だって。ハルトさんは私と結婚してくれるってことじゃないんですか」

「結婚というのは愛し合う二人の間でしか出来ないんだ、フローラ。そう簡単に誰とでも出来るものじゃないんだよ。それに責任を取るというのはそういうことじゃない。私はフローラを守って、社会に復帰させる責任を負っているんだ。だから」

 フローラは私の論述を遮って、まっすぐな視線で私を見据えて言い放った。

「私はハルトさんが好きです。愛しています」

 その言葉に、頭をハンマーで殴られたような衝撃があった。いや、薄々勘付いていたことではある。恐らく彼女は私に対して好意を持っているとはわかっていた。それでも言葉にされると、私の欲が責任を侵してしまいそうになる。私はそれを必死で振り払った。

「ダメだ。受け入れることは出来ない」

 冷酷に言い放つ。彼女は私を睨み続けていたが、やがて大きなため息を吐いて俯いた。

「わかりました」

 彼女はそれだけを言い残して二階へ引っ込んでしまった。何がわかったのだろうか? 入寮の了承だろうか。それとも、ただ私が彼女を受け入れられないということだけだろうか。

 私には彼女を追うことは出来なかった。二階は彼女の世界である。基本的に簡単に踏み込んでいい場所ではない。私は一人ダイニングに残されて途方に来れた。テーブルの上には、彼女が見やすいようにこちらから上下反対の状態で置かれたパンフレットが三枚、無味乾燥に並んでいた。


 昼食だと呼んでも彼女が現れる様子がないので、私は仕方なく二階へ踏み込んだ。寝室のドアをノックすると、中で物が動いたような音がする。しかし、返事はない。

「昼飯、置いておくからお腹が空いたら食べるように」

 やはり返事はないので、私は大人しく一階へ帰った。気配からいってまだ二階にはいる。一階は通っていないから当たり前なのだが、二階には窓という物騒な出口もある。彼女がそこから外へ、または別世界へ旅立つということになっては責任どころではない。いくら二階の権利を彼女に移譲しているからと言ってまったく様子を見ないわけにはいかなかった。夕食の頃にも見に行く必要があるだろう。

 私はリビングのソファに体を預けた。自分の分の昼食を摂る食欲はなかった。

 危惧していたとおりのことが起こった、というのが素直な感想だった。暮らしの中で、彼女が私に好意を示していたことに気づかないほど呆けてはいない。それが同居人としてのものなのか、恋愛対象としてのものなのかは曖昧だったが、私は半ば願望的にその好意が同居人としての私に向けられたものであるようにと祈っていた。

 彼女はそれを恋愛感情だと語った。それが真か偽か、彼女自身にもわからないだろう。恋人としての好意について彼女が知るのはツェツィーリエの小説に書かれている程度のことが全てだ。そして、それだけを基に自分の感情をどれだけ正確に分析できるだろうか。それほど正確であるとはいえない。

 そして、ストックホルム症候群というような例もある。誘拐や監禁の被害者が犯人に対して好意や同情を持つことで、私は彼女を監禁しているわけではないものの、似たような環境にあるということも出来た。

「いや、欺瞞だな」

 私はそれらの空論を切って捨てる。無責任だ。それは責任を負わないことよりも悪い。負っておきながら果たさず逃げるのは私の人生哲学に反した。

 彼女は間違いなく私に恋愛感情を持っている。そして私も彼女に恋愛感情を持っているのだ。もはや疑いようのない両思いだった。それを知るのは私だけで、彼女は私の好意が自分に向いているとは今はもう思っていないだろう。私にはその事実を隠し、保護責任に徹する義務があった。

「せめて、彼女が私のことを好きになっていなければ」

 もしそうなら、どれだけ簡単だったことだろう。私がただ恋愛感情を封印すればいいだけのことだったのだ。

 悔やんでも仕方がなかった。今の私の使命は彼女が絶望して誤った道を選ばないようにすることだった。しかし、私には彼女に正対し続ける勇気は無い。どこで私の好意が牙を剥くか自分自身にもわからないのだ。

 永遠のような時間を過ごした。何度も何度も彼女が私のことを恋愛感情で見ていることについての反論を考え、その度に彼女の告白のまっすぐな視線を思い出して否定する繰り返しだった。その行為はむしろ、彼女の好意から逃れられないように自分を雁字搦めにしてしまった。それでもどうにか自分に都合のいい事実を盲信できないかと試行をし続けた。

 いつしか日が沈み始めたことに気づいた私は夕食を作って彼女の部屋の前に持っていった。昼食のトレイの上には綺麗に食べられて空になった食器類が並んでいる。昼食はどうやら食べてくれたようであった。私は同じように夕食を置いて声をかける。

「夕食を持ってきたから、食べてくれな」

 同じようにして夕食を彼女の部屋の前に置いておく。中でまた物音がしたので、彼女は部屋から出てこないものの、外出の意志はないらしい。私の言葉に応答するつもりがあるのかはわからないが、いつか落ち着いて彼女の未来について考えられるはずだと私は考えた。そのまま階下へ戻り、アトリエへと向かった私はソファベッドで先程の思考を続けた。彼女の好意を認めれば詰みだ。もうどう見ても詰んでいる将棋の逃げ道をそれでも血眼になって探す。時を戻して数手前に戻ろうが、もうどうやっても詰みを回避出来ないと悟る頃、耐え難い睡魔がのしかかってきて、私は潰されるがままに眠りについた。

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