予兆
披露宴当日の朝、私は目を覚ましてまず自分の体のことに意識を向けた。仕事の疲労は多少残っているものの、概ね平常通りである。私はソファから起きて、朝食を作るためにキッチンへ向かった。
「おはようございます」
アトリエの扉を出てみると、ダイニングには朝食の香りが満ちていた。フローラがキッチンで朝食を作っているらしい。彼女は私がアトリエから現れたのを察して、朝の挨拶を投げかけてくる。
「おはよう。今日は早いな」
私はテーブルに着いて待つことにした。凝った料理ならともかく、朝食用の簡単な調理はもう彼女一人で十分こなせるし、漂う香りから言っても手伝う作業は残っていないと見える。私は彼女の調理に信頼を置き始めていた。
それにしても、彼女が私より先に起き出しているというのは二人の生活が始まって以来一度もなかったことだ。朝起きた私はまず二人分の朝食を作り、彼女が起き出すのを待ってトースターにパンを投入する。それがいつもの朝の光景だった。今日、私が特別遅く起きたということもない。
「緊張してしまって、うまく眠れませんでした」
ヨーグルト、オムレツ、ザワークラフトとウインナーにパンと彼女は次々に料理を運んでくる。どれも手間のかかるものではないが、品数がやや多い。余程早く起きてしまって、落ち着かなかったのだろうと思った。
「そう緊張することはない。私たちが招かれるのは儀礼が終わったあとの食事会だから、それほど堅苦しい話をされることもない。参加する私の知人もいいやつばかりだ」
ようやく二人分の食事を運び終え、最後に紅茶を運んできた彼女は私の正面に座って笑ってみせた。
「そちらはあまり心配していません。ハルトさんがうまくやってくれると信じてます。ただ、ドレスを着るというのが初めてで」
「ああ、なるほど」
リビングに大事そうに掛けられているドレスに目をやる。少し丈が長めかもしれないが、膝丈では彼女の左足の傷が見えてしまう以上、仕方のない処置だ。
「大丈夫、フローラなら似合うだろう」
「そうでしょうか」
「文句なしだ」
太鼓判を押すと、フローラは微笑んで、パンをかじった。
事実、厄介なのは私の礼装であったりする。
「いつ見ても実に似合わないな」
鏡の前でブラックスーツに袖を通す。サイズが合わないということもなく、突飛なデザインというわけでもないのだが、自分で見ても厳つい風貌に礼装を加えるとまるでマフィアだ。
似合わないことを除けばパーティ用の服装としては問題ないので、一旦鏡の前から離れてリビングに移動した。時計を見ると時刻は九時半である。十一時前に会場に着けばいいのだが、それには遅くとも十時半の電車に乗る必要があった。駅まではタクシーを呼ぶつもりなので、アトリエ前まで迎えに来るように電話をかけてから十分というところか。
会場は隣町なのでトラックで行ってもいいのだが、披露宴となると酒を飲むことになるだろう。酒を飲んだほうが運転しやすいなどと言う輩もいるが、私はそんな危険な橋を渡ろうとは思わない。法令の規制に引っかからない量だとしても、厭わしい酩酊感の中ハンドルを握りたくはなかった。
ソファに腰掛けて、フローラの準備が出来るのを待つ。リビングに掛けてあったドレスが消えていて、ここ二、三日綺麗に咲いていた花が散ってしまったような妙な寂寥感があった。
「お待たせしました。変じゃないでしょうか」
ダイニングから声が掛けられたので、視線をそちらにやる。花が散ってしまったというのは大嘘だったと思い知らされた。
上品なピンクのドレスが彼女の艷やかな肌に映え、羽織った黒いボレロが印象を引き締めている。ピンクのドレスに袖がないので腕の傷が見えないかと心配したが、ボレロはそれを隠す役割も見事に果たしていた。
フローラは恥ずかしいのか、ぎこちない笑顔を浮かべているがその表情が余計に彼女の魅力を引き出していた。その姿はまさに、可憐な花そのものだ。略式のドレスながら、花嫁の美しさを食ってしまいはしないかと今から心配してしまう。
「大丈夫だ。とても似合っている」
一拍返事が遅れたことで彼女が心配そうな表情になったので、私は急いで感想を引き出した。彼女は安心したように笑ってみせる。
「ハルトさんもかっこいいです」
「いや、私はあまり好きじゃないんだがね。似合っていないだろう」
ジャケットの襟に少し触れて、自分の服装を見下ろしてみる。やはり、格好が良いとは思えなかった。フローラは首を傾げた。
「そんなことはないと思いますけど」
見方は人それぞれということだろうか。この服を着る度、仲間たちの嘲笑の対象になってきた記憶がイメージを曲げているのかもしれない。
「さて、少し早いが出発しよう。今タクシーを呼ぶ」
今からなら十時台の電車に間に合うだろう。彼女がソファに腰掛けるのと入れ替わりになって、私は電話をかけようと立ち上がった。
タクシーの運転手にも色々といるが、その運転手はあまり多くを語らなかった。たった四、五分では利益が出ないと憤慨していたのかもしれない。申し訳なく思って、少しチップを弾んでやると多少機嫌が良くなったようだった。むしろ、彼の無口さに救われた部分もあるので、どちらにとってもいい仕事だったといえるだろう。
フローラと二人、最寄り駅に降り立つ。あまり大きくはない駅だし、乗客の多い路線でもないのであまり心配はしていなかった。案の定、その時間隣町に向かうのは私たち二人だけだった。電車の到着まではまだ時間がありそうなので、二人でベンチに腰掛けて待った。
「駅って、もっと人が多い場所かと思っていました。『凍ったリンゴ』では随分混雑していると書かれていましたから」
「あれはかなりの都会が舞台になっているからね。ここらは郊外だから、利用客はいつも少ない。電車にもそれほど客は乗っていないだろう」
不思議そうに線路を眺めるフローラ。まだ彼女のドレス姿に慣れない。目に入る度に視線を奪われてしまうので、なるべく彼女を見つめないよう随分気を遣っている。彼女はそんな私の様子には気づいていないようで、無人の駅の様子をひたすら観察していた。
私は彼女の好奇心の邪魔をしまいと声をかけずに電車を待った。運良く電車はそれ程時を置かずにホームに入ってくる。私たちは立ち上がって、その赤い車体に乗り込む。
思った通り車内はガラガラで、ボックス式のシートには何人かの客が乗っているものの、満員には程遠い。私たちは容易にシートを選択できる、と思っていた。
「ハルトじゃないか」
その声のもとを追いかけると、私たちのやや前方にユリアンが座っているのが見えた。名前を思い出せなかったが、奥さんも一緒である。どうやら向かいが空いているので、私たちは彼の手招きのままに彼らの向かいに腰掛けた。
「そちらの女性は? まさか彼女じゃないだろう」
ユリアンはフローラを一瞥して、薄く笑いながら訊ねた。
「ああ。わけあって預かることになっていてな。ディルクに言えば連れて来ていいということだから、言葉に甘えることにしたんだ」
詳しいわけを今話すとパーティどころではなくなるので、一先ず事情は伏せておいた。
「こちら、フローラ・アーベントロートという」
フローラは緊張してしまっているようなので、私の方から彼女を紹介した。フローラが静かに礼をすると、ユリアンの嫁もそれに無言で応じた。物静かな質なのだろう。式の時もあまり話をしている姿を見ていなかった。
「よろしく。俺はユリアン・シュナイダー。こっちが嫁でエミリアという」
「今日はよろしく、フローラちゃん」
柔和に微笑んで見せるエミリアさんに、フローラも少し緊張が解けたようだった。微笑みを返してみせる。
「ところで、髪型はそのままで?」
ふと、思いもしない質問が彼女からかけられて、私とフローラは顔を見合わせた。
「何か問題があるでしょうか」
私が訊ねると、エミリアさんはまた顔が硬くなる。どうも、怯えられているようである。よくあることだ。強面というのは得をしない。
「ええと、フローラちゃんのように長い髪はアップにしないと失礼に当たるかもしれないので」
しどろもどろに答える彼女。そうか、髪型まで気が回っていなかった。エミリアさん本人も長髪だったが、確かに上げてまとめられている。
「すみません。女性の礼装に詳しくなくて。セットは難しいんでしょうか」
時間に余裕はあるので、隣町の駅についてから美容院に寄ってセットしてもらってもいいと私は考えたが、彼女は首を振って否定した。
「すぐ出来ますから、私がやりましょうか」
「本当ですか。よろしくお願いします」
「ああ、なら座席を変わろう。ハルトとエミリアが場所を変わればいい」
確かに、シートに向かい合わせの状態でセットをするのは難しいだろう。私は一旦向かい合わせのシートから出て、エミリアさんの移動が終わってからユリアンの隣に腰掛けた。フローラとエミリアさんは多少の距離感を取りつつも、初対面としてはお互い良い印象を受けたようである。
「しかし綺麗な娘だな。どんな関係なんだ」
ユリアンに問われ、答えに窮する。本当のことを言ってもいいのだが、どうしたものだろうか。彼に話すこと自体には抵抗はなかった。ディルクほど厳格かつ真面目な性格はしていないが、ユリアンも十分に話がわかる相手である。当然、アルバートのこともよく知っているので、説明も一段階省ける。彼は警官でもあるので、医療とは別の側面からの助言を求めることも出来るかもしれない。
だが先程も述べた通り、パーティの前にあまり不愉快な話をしたくないという気持ちはあった。ユリアン、エミリアさん両名にとっても不要な気を遣うことになるだろう。
「説明すると長くなるし、あまり愉快な話ではないんだ。パーティの落ち着いた頃には話すつもりだから、少し待ってくれないか」
ユリアンは不思議そうな顔をした。その後、不愉快な笑みを作る。何か妙なことを言うつもりだった。
「さては隠し子かなにかだろう。違うか?」
「まさか。彼女は二十二歳だ。それが本当なら私が初等教育を終える頃には子を持っていたことになる」
ユリアンのみならず、彼女の髪を結っていたエミリアさんまでもが私を見つめた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔である。窓の外を向いて、髪の完成を待っていたフローラは苦笑と言った表情を浮かべていた。
「本当か。随分幼く見えるが」
「嘘じゃない。彼女は随分栄養状態のよくない環境で育ったようだ。その影響が出ているんだと思う」
体の成長には栄養だけでなく遺伝も関わるとはいうが、彼女の場合は明らかに遺伝的要因だけで説明できないものがある。病的な発達不良というものでもない。私の仮説に過ぎないと言えばそうだが、さほど間違ってはいないだろう。
「つまり、現状はハルトが保護しているということか」
「まあ、そういうことになるだろうね。あまり愉快ではないだろう?」
話の流れ上、関係のアウトラインは語ることになってしまった。案の定、あまり心地よくはない空気が流れる。エミリアさんも、髪を結いながらも彼女の首筋の傷に目が行っているようだった。
「けれど、ハルトさんはよくしてくれています。今は私、幸せですよ」
「そうか。そうだろうね。ハルトは昔から良い奴だった。無愛想なこともあるが、決して悪いようにはしないだろう」
ユリアンの言葉で、凍りかかった空気が解ける。私は薄く笑ってみせて、その話は畳んでしまおう、と言外に示した。
「出来ましたよ」
エミリアさんが髪を結い終え、フローラに鏡を手渡す。彼女は感激したように声を上げていたが、正対している私は鏡に阻まれて彼女の髪が見えなかった。
「どうですか、ハルトさん」
どうにか盗み見ることが出来ないかと鏡を見つめていた私に、不意にフローラの明るい顔が向けられる。急に現れた彼女の表情に心臓が跳ねた。先程までのドレス姿に綺麗に整えられた髪も合わせて余計に美しい。私は言葉も忘れて、彼女に釘付けになる。
「賞賛はスピードだぜ、ハルト」
隣のユリアンに小突かれ、私は口を開いた。
「素晴らしい。まさにレディだ」
「同感。実に素敵だ。ディルクの嫁がどれほど美人でもフローラちゃんには敵わないだろうな」
ユリアンは実に褒め慣れたセリフを並べる。フローラは嬉しそうに頬を緩め、エミリアさんにその顔を向けた。
「ありがとうございます。エミリアさん」
「いいえ。なんだか口うるさくて、ごめんなさい」
彼女はそう謝るが、こちらからは感謝の言葉を述べたい。彼女が指摘してくれなければ、フローラは髪を束ねずに流したまま出席するところだった。厳格なディルクの両親の目に止まり、要らない小言を聞くことになってはフローラがいたたまれない。
エミリアさんの視線は相変わらず首元の傷に注がれていた。それを髪で隠していたことに思い至ったのかもしれない。彼女はちらとユリアンと視線を交わしたが、ユリアンは小刻みに首肯して気にする必要はない、と示していた。こういう細かい気配りがユリアンの長所である。実質的に私たちバンドのリーダーを務めていたのは、彼のそういった性質による。
「しかし、ディルクも結婚か。残るはハルトだけだな」
「私はもう難しいんじゃないかと思っているけどな。今のところいい相手がいるでもないし」
「まあその強面じゃなあ。中身は良い奴なんだが」
彼は意識的にフローラのことについて話題が及ばないように会話の場を作ってくれるので、私は大いに助かった。フローラとエミリアさんもやや打ち解けたようで、いくつかの質問を交わし合っている。
やがて、電車は目指す駅に着いた。私たち四人は下車し、駅前で客を待っていたタクシーを捕まえて会場を目指すことにした。
「あとで詳しく聞かせろよ」
と、乗車際にユリアンは耳打ちしてくる。私は、ディルクにも彼女についての相談をするつもりであることを告げて、宴の落ち着いた頃に三人でフローラについて話すことを約束した。
「すごいな、コレを貸切か」
私たちは披露宴の会場についてその華のある店名以外の知識を持たなかったが、辿り着いてみると間違いなく飲食店としては最高クラスの店構えであった。
「流石お医者さんは違う。俺は敵わなかったな」
肩を落としているのはユリアンだ。彼が行った結婚式を小奇麗なカフェを貸し切って行われたが、確かに格が違う。項垂れるユリアンを見て、エミリアさんが彼の元に静かに移動して腕を取った。
「私はあの式も良かったと思いますよ」
「ありがとう。お前がそう言ってくれるなら、気にするのはやめよう」
夫婦のやり取りを遠巻きに眺める。数年前に会った頃には微かにあった距離感の行き違いがいい塩梅に落ち着いたように見えた。
「なんだか、憧れてしまいますね」
フローラは私と同じ光景を見て言った。私は強く首肯する。彼らはいい夫婦関係を紡いでいるようだ。
ずっと店の前に立ち尽くしているわけにも行かないので入店すると、受付で名前を書かされた。ハルトヴェン・ヴェーバー、フローラ・アーベントロートの名を並べて記す。引き出物はそこで受け取ってくれるそうなので、事前に聞かされた通りのものを預けた。カップルによるが、欲しいプレゼントのリストを作って各招待客にプレゼントの指定をする文化があるのだ。こちらとしては、プレゼントを考える手間が省けて実に助かる。
エミリアさんの記名も終わったのを見て、私たちは中へと進んだ。まだ少し早いが、席はほとんど埋まっていた。恐らく、夫妻ともに最低限の客しか呼んでいないのだろう。両家の親族らしい一団を除けば、用意された席はごくわずかだった。親族は恐らく午前中の式にも列席したのだろうから、十数程度の席に友人たちが集えばそれで全員集合となるはずである。
「おうい、ユリアン、ハルト! こっちだ!」
上品な店内に似合わない、よく通る声が私たちを呼んだ。遠慮がちに手を振って、自分の居場所をアピールしている。彼にとってはその声でも抑えたトーンなのだ。私たち四人は呼ばれるままに彼のもとに歩いた。痛い視線が刺さる。ユリアンや私は慣れっこだが、エミリアさんとフローラはいたたまれないというような雰囲気で歩いた。
「久しぶり、パスカル。一人とは珍しいな」
私が声をかけると、愉快そうに笑う。バンド内でもっとも豪放なのがこの男、パスカルだ。大変な愛妻家で、結婚以来一人で社交場に現れるのを見るのは初めてだった。
「ハルトが恋人を連れてくる方が珍しいだろうが。おれのカミさんは今入院中だよ」
「入院? それこそ珍しいな。そんなことになれば片時も傍を離れないものだと思っていた」
ユリアンの言うとおりだ。普段のパスカルなら嫁の急病という時に結婚式などに出てくることはない。しかし、パスカルは不敵な笑顔を浮かべたまま私たちに着席を促した。
私たち四人は、円形のテーブルを囲むように座る。私から見て、時計回りにフローラ、エミリア、ユリアン、パスカルというふうにネームプレートが並んでいた。パスカルの嫁は最初から来ない予定だったのだろうか、ネームプレートが置かれたり、不自然な空席が存在していたりすることもなかった。
「まあ今日明日というものじゃないだろうしな。現状は順調だし、そう心配はいらない。早めに退席させてもらおうとは思っているが」
パスカルは一拍を置いて、不思議な顔で彼を見つめる私たち四人を見回すように首を動かした。十分に勿体をつけてから口を開いた。
「要するに、二人目が腹にいるんだ」
「それは目出度い。おめでとう」
ユリアンの祝辞を筆頭に、フローラとエミリアさんからも歓声が上がる。私は反応に出遅れて、拍手で祝意を示した。
「まあそれでも出席するかは悩んだんだが、兄さんが『僕がママを見てる』って言うんでな。子どもの成長は実に早いよ」
妊娠を期に結婚したはずなので、パスカルの長兄はもうすぐ六歳になるだろうか。もっと幼い頃に何度か会ったことがあるが、もうそんなにしっかりした意見を言うようになったのかと驚いた。他人の子どもの成長は早いというが、あながち嘘というわけでもないらしい。
「しかし、おれは第二子、ディルクは結婚、ハルトは恋人ときたもんだ。ユリアン、お前からも祝い事があればバンドメンバー全員の祝福となるわけだが、何かそういう話はないのかい」
私は反論の準備をしていたが『バンドメンバー全員』という言葉に含まれていないアルバートの顔がちらついて、不意に言葉が出なかった。それを悟ってか、こちらに軽く視線を飛ばしたユリアンが口を開く。
「いや、俺たちは今のところ平和に生活しているよ。それが一番の祝い事と言っても良い。それにパスカル、お前は勘違いをしている。フローラちゃんはハルトの恋人ではない」
「なんだ、てっきり彼女かと思った。しかしハルト、友達でいるのも楽でいいが、どうせなら責任をとるのも良いものだぞ。当然厄介も多いが、責任を果たすことで、相手にとっていいだけではなく自分も救われるということは多々ある」
それは私にとって受け入れがたい主張だった。無策に責任を負って、それを果たせなかった時、私は私を許すことが出来ないだろう。パスカルが言うように、気ままに責任を負うことは私には絶対にできない。
「考えておくよ。人生の先輩のありがたい言葉だからな」
その思考が透けないように、なるべく朗らかな笑顔で冗談めかして返した。特に違和感なく、次の話が始まる。私が責任を負う事そのものを嫌っていると悟っている者はいないはずだ。そのことは特に注意深く隠していることだった。フローラに好意を隠すのとはわけが違う。頬の妙な緊張も起こらなかった。それだけ、慣れた手順なのだ。
「ご来場の皆様、お席にお着きください」
マイク越しに女性の声がして、今夜の主役の登場を予感させる。いつものように惚気話を展開していたパスカルとそれを聞いていたユリアン、隣同士で小さく会話をしていたエミリアとフローラも、窓際に視線を注いだ。
「大変長らくお待たせ致しました。ただいまより、新郎新婦様のご入場です」
今まで開かれていた窓に黒いカーテンが引かれ、店内がやや暗くなる。その闇を縫って、楽団が窓際の右手に集うのが見えた。ずっとそこに鎮座していたピアノも、奏者がその前に座ったことでただの背景から楽器へと主張を変える。
一瞬にして、窓際の空きスペースがステージに変わってしまった。店内は益々主役を待つムードに染まっていく。私たち以外の客も静かにざわめいて、ディルクと新婦の登場を待ちわびていた。
「凝ってるな」
肩を落としているのはユリアンだ。余程規模で負けたことがショックと見える。ユリアンの結婚がディルクより遅れなくてよかったと心中思った。身の丈に合わない式をして、夫婦生活がいきなり転倒しかねない。
そして、店内の照明が落とされる。楽団の演奏も同時に始まった。小編成ながら、それほど広くない店内には楽器の音がよく響く。とてもダイナミックな演奏に感じられた。その音の嵐の中に灯台が現れる。その光は暗闇の中歩いてくる新郎新婦をライトアップして、彼らを窓際の壇上へと導いた。ディルクはタキシード、新婦はドレスで、しっかりと着飾っている。
ディルクと新婦が礼をしたのを合図に拍手が贈られた。私もそれに倣う。フローラも戸惑った様子ではあったが、小さな拍手をしていた。
人数は少ないながら、大きく響いた拍手が止んでいくに合わせて音楽もフェードアウトしていき、静かになったタイミングを見計らって司会者は言葉を発した。
「ただいまより、ディルク・ヘアプスト、レナ・アプフェルご両名の結婚披露宴を始めさせていただきます」
出だしの豪勢さに比べると、新郎新婦の紹介、祝辞やスピーチといった流れはやや退屈に過ぎた。やっとバイキング式の食事が始まるという段階になると、フローラは少し表情にハリがなくなっているように見えた。
「疲れた?」
「はい、少し。結婚披露宴ってどこもこんな感じなんですか?」
「いや、これはかなり過剰な部類であるな。ユリアンも店を貸し切って行ったが、もっとラフだった。パスカルなんかはダンスパーティという感じで、こういう硬さとは無縁だったな」
ここまでかしこまっているのはディルクの家柄のによるものだろう。しかし、ディルク式の結婚式が主流の国もあるはずだ。この国では然程結婚に重きが置かれない。子どもが出来ても入籍しないカップルも少なくないと聞く。当然、ディルクのようにしっかりと式を挙げる者もいるので、最終的には価値観の問題だ。自由があるのは、基本的にいいことだと思う。
「とりあえず、何か料理を取りに行こう。もう儀礼的な行事は残っていないだろうからね」
ユリアンたち三人は先んじて料理を取りに向かっていた。フローラは頷いて、私たちは席を立った。
こういう高級料理店のメニューというのが私はあまり得意ではない。グルメな質でもないので、庶民的な料理の方が好ましかった。事実、並んでいる料理を見てもそれがなんという料理であるかさえ曖昧であった。
何を食べたものかと悩む私に対して、フローラは先程よりいくらか元気そうな様子になって、肉料理をいくつか皿に取っていた。我が家では買っても余らせてしまうのであまり買う習慣がなかった肉類だが、彼女が好むようならそういうメニューの開拓を進めるべきかもしれない。
いや、と私は思った。彼女にとってはもう私の家から離れてしまう方が幸せなのかもしれない。ディルクはどうやら保護施設の類に心当たりがあったようだし、警官であるユリアンならまた別の解決策を提示してくれるだろう。そう思うと、未知の料理を前に嬉しそうな彼女の笑顔が胸に沁みた。
「やあ、ハルト」
声をかけてきたのは今夜の主役、ディルクだった。私は暗い顔を見せまいと努めて明るく返した。
「ディルク! 今日はおめでとう」
「ありがとう。そちらがフローラさんかな?」
ディルクは私を挟んで反対にいるフローラを覗くように見つめる。フローラは恐縮したように姿勢を正して、手元に取った料理のやり場に困っていた。
「はい。フローラと言います。今日はお招き頂いてありがとうございます」
「そんなに緊張しなくていいよ。今日は来てくれてありがとう。ハルトから、大体の事情は聞いてる。楽しんでいってくれ」
そう言って、ディルクは柔和な笑顔を浮かべた。彼は昔から人好きのする顔をすることが出来た。フローラもその表情に安心したのか、多少硬さが取れたようだった。
「しかし、あれは緊張するだろう。私も多少肩が凝った」
非難するのではないが、自然と口からそんな言葉を零してしまう。ディルクは苦笑いをして話した。
「まあそれは私たちもだよ。しかし、盛大にやればやるほど簡単に別れられなくなる。責任を自然と受け止められる、って父さんが言うから仕方なし、だ」
それは一理あるかもしれない。人一人の人生を背負う責任は、簡単に背負えるものではない。堅苦しいのは苦手だが、時にはそれが適切な場合もあるのだ、と私は妙に納得をした。
「そうだ、ハルト。披露宴のあとも予定が詰まっていてな。少し腹に入れたら、声をかけてくれ。庭の方で話そう」
厳しい表情を作って私に向かって話すディルク。私は首肯した。彼の中でも、フローラのことは気になる一件になっているらしい。
「わかった。ユリアンも話を聞きたいと言っていたから、連れていくことになると思う」
「オーケー。じゃあフローラさん、食事を楽しんでいってね」
「はい。ありがとうございます」
にこやかなやり取りが交わされて、ディルクは立ち去った。どうやら、相談の件を伝えるためだけに寄ってきたようである。私はユリアンへの説明も含めて何と語ったものかと頭を悩ませた。気が進まない食事が、余計に遠いものに思われた。
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