狂気

 フローラの誕生日から数日経った。冬は一層寒気を増し、アトリエの中はストーブ一台ではやや肌寒いほどになっていた。私はその日もいつもと同じように納品用の額を制作していた。フローラはもう定位置となったアトリエのソファで今日は将棋の定石の本をめくっている。今日もジャケットとズボンを着用し、胸にはペンダントが光っていた。

 十二月は大きな品評会があまりないので、オーダーメイドの額の依頼は基本的に入らない。その分、画材店への納品用にする額に仕事量を割くことになる。いかに美術の栄えた街といえど、毎月毎週のように展示があるかと言えばそうではない。とはいっても、シンプルな額には常に一定の需要がある。額縁の細部まで虫眼鏡で見られるような品評会ではなくとも、絵を出品する機会は現役の画家には珍しくない。特にこの時期は美術大学の学生が冬の制作をするので、画材屋からの注文は多かった。

 常連客は最初電話で依頼を通してから会いに来ることもあり、私は完全に油断していた。突然アトリエの扉が開かれて、初めて見る顔の客が現れた。若い男性であった。

「いらっしゃいませ。ご用件は何でしょう?」

 作業を途中で止めて、接客に回る。既製の額が欲しいと言われれば画材屋を紹介すればいいと思っていた。

「この絵に合う額を作って欲しいのです」

 正直に言って、私の額縁はやや高い。彼がオーダーメイドの額が欲しいと言うとはあまり考えていなかった。

 彼が提示したのは油絵である。嫋やかな姿勢で立っている女性の絵だ。書き込みがとても丁寧で、愛のようなものを感じた。フローラが遠巻きにこちらを眺めているのを気配で察した。

「はい、わかりました。期限はありますか?」

「実は、二十三日までには仕上げてほしいのですが」

「二十三日! それは急ですね」

 急げば可能ではある。しかし、今からでは披露宴に差し支えないだろうか。今日は十三日で、披露宴は二十二日だ。フランクの額が五日で仕上がったのは塗装が比較的簡素だったからで、長めに見積もると七日から十日程度かかることもある作業だ。少し悩ましい。時間的余裕がなくなってしまうのだ。フローラ用の正装は以前世話になった服屋に注文を出しているし、自分の分の服も用意を済ませている。手土産は当日でも間に合うので、特別時間のかかる準備が残っているわけではない。ただ、仕事の遅れが許されなくなり、そして遅れが出なくても慌ただしくなってしまうのは間違いない。

 私は悩んだ。今度の披露宴は、新婚のディルクを祝ったり、ユリアンやパスカルとの再会だけが目的ではない。フローラがこれからどうやって生きていくかという相談を識者であるディルクと語る必要もあるのだ。仕事で欠席というわけにはいかないし、余裕を持って臨みたい場でもあった。

 気を揉んだらしい青年は、付け加えるように言った。

「恋人に贈る絵なのです。何件か、オーダーメイドで作っている工房を訪ねたのですが、今からでは難しいということで」

 それは事実だろう。この時期は私がそうだったように、品評会が無いと職人たちは油断をしているのだ。注文を受けてから木材を仕入れるような職人は今からでは到底完成させられない。それに加えて、クリスマス前となるとそれぞれ個人的に予定がある人間も多いだろう。彼の注文は難題であった。

「作ってあげられませんか」

 いつの間にか隣に来ていたフローラが青年に加勢する。私は唸った。彼女にそう言われてしまうと弱い。それに多少忙しくはなるだろうが、時間のかかる装飾を求められなければ可能な仕事ではあった。

「わかりました。時間的に出来ない装飾はありますが、注文次第ではお受けします。ただし、今からですとリテイクの時間はありません。気に入っていただけなければお代は頂きませんが、諦めてもらうほかなくなりますが」

 私は悩んだ末にそのように提示した。何重にも塗りを重ねたり、金箔を施したりするものになるとどうしても完成までの時間が伸びてしまうのだ。依頼者の希望に沿わない額は馴染みの画材屋にいくらか安い価格で売って、アトリエの宣伝用にするのが常だった。

「それで構いません」

 青年は安堵したのか、力の入っていない声で言った。

「では早速構成を決めましょう。こちらへ」

 作業机が空いていれば大きいスペースで説明できるのだが、今は作りかけの額縁があるので休憩用のテーブルと椅子を二脚引っ張ってきて、彼と相談を始めた。フローラは満足げにして、またソファに戻って将棋の定石を読み始めた。


 彼が帰ったあと、私はまず木材をアトリエ内から集める仕事に取り掛かった。私は常使う木材はアトリエ内に買って保管してある。一旦置いておくことで木材が馴染むということもあるが、こういった不意の注文に応えるのも仕事の一つだからだ。他のアトリエでは出来ないスピード仕事の一因はここにもある。

 私が黙々と木材を運んでいると、運搬を特に手伝うわけでもなく、フローラが近寄ってくる。

「ハルトさん。恋人って何ですか」

 驚きの質問だった。てっきり、恋人という関係性を理解して彼に援護射撃をしたものとばかり思っていたのだが。

 今は木材を集めるばかりで頭は使っていないので、フローラに恋人の定義について教えようとしてみる。

「そうだな。大事な人、という意味では結婚する相手と同じだろう。ただ、もう少し淡いニュアンスもある。結婚というのは恋人がいつかたどり着く場所で、完全に恋人と同じというわけではないんだ」

 何とも上手くない説明である。案の定フローラも首を傾げ、うまく理解出来ていない様子だった。

「そうだな。本棚にツェツィーリエ・ヒルデスハイマーという作家の本がある。彼女の作品はどれも恋愛小説といって、誰かと誰かが恋人になる様子だったり、恋人同士の関係だったり、そういうものを書いている。私はこの作品に取り掛かっている間あまり構ってやれないだろうから、それを読んで過ごすのはどうだろう」

「そうですね。お借りします」

 フローラはリビングへと消える。私は一先ず木材を運び終え、型の作成に取り掛かろうとした。急に依頼された時には困ったと思ったが、丁度いいタイミングでもあった。私は少しフローラと距離を取る必要があったのだ。彼女に私の好意を気取られてはいけない。また私の好意が深度を増してもいけなかった。彼女をずっと手元においておくことは出来ない。もしもディルクに心当たりがあれば、全寮制であったり、住み込みであったりするような施設に入れば、彼女の未来にとって、私の家でずっと生活するよりも余程いいことのはずだった。

 一旦作りかけだった納品用の額をどけて、カット作業をしようとする。すると、本棚から本を持ってきた彼女がアトリエのソファへまたやってきた。

「フローラ。今回は急ぎの仕事だ。集中を切らす訳にはいかない。悪いが、作業中は家の方にいてくれないか」

 それは本音でもあったが、今は彼女と距離を取りたいという私の考えを隠したものでもあった。嘘を吐くことは心苦しいが、これは彼女のためでもあるのだ。フローラは困ったような顔をした。

「でも、この間は見させてくれたじゃないですか」

 フランクの仕事の時、フローラにアトリエにいることを許してしまったのがここに来て響くとは思っていなかった。当時はただここの生活に慣れて欲しいと思って許可したことだが、今となっては悔やまれる。

「今回は絶対にリテイクを出すわけには行かないんだ。何度も言うが、急ぐ必要もある。それに、この仕事を受けるように言ったのはフローラだろう」

 そう言われると、フローラは黙ってしまう。彼女自身が招いたことと言われれば反論できないだろうという目論見は見事に成功した。

「私は、ただハルトさんが真剣に仕事をしているところを見たいって思って」

 ほとんど泣きそうになって、それでも食い下がるフローラ。それはもうただのわがままだった。理論立てて私を説得しきれないのだ。心苦しい。彼女を泣かせたいなどと一回も考えたことはない。

 私は彼女の頭に手を伸ばした。ゆっくりと撫でてやる。

「また今度、見ればいい。急がない仕事の時なら見ていてもいい。これは約束だ」

 嘘になるかもしれない言葉だ。それでも、彼女は救われたような顔をする。

「約束ですよ」

 私の手に満足したらしいフローラは、本を抱えて家の中に入っていく。泣きはしなかったが、微笑みもなかった。彼女は悲しそうな背中を見せて消えた。

「お赦しください」

 私は無宗教の身で特定の信仰は持たない。それでも神に声を届けたいと強く祈った。彼女を突き放す罪、そして、彼女を好きになってしまった罪の懺悔を。


 私はとにかく仕事に打ち込んだ。急ぐ仕事だからこそ、普段よりも丁寧にすることを心がける。焦っては青年の期待に応えられないかもしれない。一発勝負なのだ。油断は許されない。

 しかし、時間をかける理由はそれだけではなかった。そこに時間をかければかけるほど、彼女と過ごす時間から逃れる事ができる。彼女といるのに、自分の感情を伝えられない苦痛に苛まれることもない。私は彼女への好意を戒めるために彫刻刀を振るい、木材と一緒にその感情をも彫り落とした。机の上に散らばる木屑が苦しく香る。

 私は狂った。もう二日も徹夜している。食事は日に一度、ウインナーとパンを粗野に齧るだけだ。ダイニングテーブルに着くことすらしなかった。フローラはそんな私を非難もせずに、ただ私が示したツェツィーリエ女史が著した恋愛小説群を読んでいた。それでもシュトレンは欠かしていないのだろう。食事を求めてキッチンに入ると、毎日小さくなっていくシュトレンが目に入った。

 たった一人、ダイニングでシュトレンを食べるフローラを思いながら額を彫った。今まであれほど笑顔で食べていた彼女だが、想像の中の彼女には幸せの欠片もなかった。いや、それは私の願望に過ぎないのかもしれない。私とシュトレンを食べる彼女が一番幸せであってほしい、という欲がないと私には断言できなかった。私はその欲も彫り落とそうと、一層彫刻刀に狂った。

 フローラなら「顔、怖いですよ」と笑って諌めてくれるだろうか。思えば、いろいろな彼女の笑顔を見てきた。幸せの絶頂という笑顔、私の冗談に返す笑顔、儚げな笑顔、暖かい笑顔、自嘲気味な笑顔、弛緩した笑顔、私に将棋に勝って誇らしげにする笑顔、愛らしい笑顔、全て、私に向けられた笑顔だ。

 私は涙を流しながら彫った。彼女の笑顔が私には暖かすぎた。そして、その笑顔にいつも纏わりつく左頬の傷のことを思う。彼女の傷は特異だ。切り傷ではない。例えば、私が手にした彫刻刀で一閃したような傷ではない。

 それでも、その傷を受けた時は余程痛んだことだろう。私も彼女の痛みを味わえば、彼女をここに繋いでおきたいというような欲望から覚めて、そんな痛みを負った彼女の幸せを真に祈れる聖人になれるだろうか。私は彫刻刀と正対した。徐々に左頬に近づける。欲を彫り落とそうとしている。それは、それ以外ない正解にも思えた。もう少し力を込めれば、私は彼女と同じ場所に傷を負うことになる。

 ドアノブが回った音がして、私は彫刻刀を取り落とした。コンクリート張りの床に、硬い音が響く。

「すみません。お邪魔でしたよね」

 恐縮するような彼女の声。私は振り向く顔をなるべく笑顔にしようとした。頬が痛む。彼女に余計怖い、と言われた顔をしている。けれど、それが今の最善だった。自然な笑みなど、今の私からうまれるわけもない。

「大丈夫だよ。どうかした?」

「あまりに食べていませんでしたので。いくらなんでも、体を壊してしまいます。簡単なスープですが」

 じゃがいものスープ。私が初めて彼女に作り方を教えた料理だ。アトリエに入らず、立ち尽くしているフローラの所まで歩いて、私はスープを受け取った。

「ありがとう。もう少し追い込みたいんだ。もう少し待っていて欲しい」

 自分の悲しみは隠し通さねばならない。頬が攣りそうだ。フローラは不安な表情だった。

「隈が凄いです。寝ていないのでは」

「大丈夫。仮眠は取っているよ」

 大きな嘘であった。しかし、そう言わなければ彼女は引かないだろう。フローラは不安そうな表情を崩さない。騙されてくれ、お願いだ。私は何度も祈った。

「まだ、休むわけにはいかないのですよね」

「すまない」

 私は謝ることしかできない。頬は完全に攣ってしまい、笑顔は失われているはずだ。それでも、彼女がそれを疲労ゆえと勘違いしてくれるようにと強く祈る。

「応援しています。無理はしないでくださいね」

 彼女は一歩引いて、家の中に消えた。暖かいじゃがいものスープとスプーンが残される。その耽美な香りに私は立ったまま皿に口をつけた。スプーンなど使わない。扉の前に立ち尽くしたまま、喉を鳴らしてスープを飲み干す。生クリームが多かったのか、少し乳臭い。それは私ではない誰かが私の為に作ってくれたことの証左でもあった。

 私は狂気の淵を一度離れ、多少の正気を取り戻す。馬鹿なことを考えていたものだと思う。傷を共有したところで、何にもなりはしないのだ。彼女に余計な心配をかけるだけである。私は笑って、彼女がより幸せになれる場所へ送り出さなくてはいけない。

 私は皿とスプーンを休憩用の小テーブルの上に置いて、再び額縁制作へと向かった。


「ありがとうございます。素晴らしい出来です」

 青年は出来上がった額に何の文句もないらしかった。依頼から六日後、私は仕事を完遂していた。フローラにスープを貰ったあとは少し眠れたが、もう二日眠っていない。疲労はピークであった。青年に対しても、少し無愛想になってしまう。

「急いで仕上げたもので、不備があるかもしれません。返品は受け付けられませんから、よく確認してください」

 今ならまだ、多少力の入った作として懇意の画材屋に卸すことは出来る。青年の絵が既製サイズであったからだ。しかし、青年は首を振ってみせた。

「こんな額に会ったのは初めてです。なんというか、執念のような。愛のようなものがあって」

 それは、青年にこそかけたい言葉であった。無指向に掘り上げただけの私の額には過ぎた言葉だ。彼の絵からは、恋人のことを想う心が強く伝わってくる。恐らく、私と同じように絵に狂い、狂いに狂って、その狂気の淵でぎりぎり拾い上げた作品なのだ。

 しかし、同じ狂気という言葉を使っても、その性質はあまりに異なる。彼は狂気の中をただまっすぐに恋人を目指して描き、私は狂気の中で藻掻いた痕を作品と言い張っているに過ぎない。そしてその作品を彼に無責任に売りつけるのだ。

「絵も額も、どちらも素晴らしい作品だと思います。きっと、恋人の方もお喜びになると思いますよ」

 フローラが口を挟んだ。今の私からは出ない営業文句を代弁してくれて、非常に助かる。しかし、私の額には過ぎた評価だ。彼のように誰かを想い、責任を負って作り上げたものではなく、ただ一人で狂っただけの駄作である。口にはしないが、私はそう思った。いつもそうだった。額縁を作り上げたあとはどうにも気が沈む。絵に対して、見劣りをするという感覚が常にある。絵に寄生する形でしか価値を発揮できない。それは今回もまったく同じであった。

 彼は絵を抱き締めて、代金を置いて去っていった。恐らく、彼のような若い画家には苦しい金額であろう。それだけの愛なのだ。それだけの愛をぶつけてもいい相手がいるのだ。そして彼は、その責任に耐えられるのだ。私は強い嫉妬を感じた。

「このあとはどうしますか。少し眠りますか?」

 フローラが声をかけてくる。時刻を見ると、三時であった。今日は昼食を摂ったので、特別空腹ではない。眠気も今のところ激しい衝動ではなかった。

「そうだな。今は眠らない。お茶にしないか」

 彼女は顔を輝かせた。シュトレンの時間だ。と言っても、彼女にとってはこの六日間も欠かしてはいない日課である。今更特別ということもないだろう。

「では、用意してきますね」

 先にアトリエをあとにする彼女を見送って、私はアトリエを軽く清掃する。完成報告の前に木屑等は片付けているが、料金表やいくつかの機材は出しっぱなしだった。それが終われば、丁度いい時間のはずである。

 大方の片付けを終えてダイニングに入ると、ティータイムの準備はもう終わっていた。ダイニングチェアに座った彼女が今か今かと私が来るのを待っていた。私は彼女の正面に座って、ため息を吐いた。無事に仕事が終わってよかった、と今更になって思った。

「やっぱり、ハルトさんと食べるシュトレンが一番美味しいですね」

「そうだろうか。私はあまり楽しい話し相手ではないと思うが」

 ウィットに富んだ語りが出来るでもなく、彼女の話を上手く引き出せるでもない。話し下手だし、歳も離れている。

 いけない、と思った。やはり、仕事のあとで気が沈んでいる。発想が妙に暗かった。

「いいえ。ハルトさんは素晴らしいお茶の相手だと思います。一人で食べるシュトレンより、何倍も美味しい」

 彼女が幸せそうに笑った。随分、久しぶりに彼女の笑顔を見た気がした。沈んでいたはずの気持ちが引き揚げられる。ああ、ダメだったのだ、と悟った。いくら彫り落とそうとしても、狂おうとしても、彼女への好意は決して消えないのだ。彼女の傷のように、いや、もしかするとそれよりも深く私の体に刻まれてしまっている。

「そうか。それは、良かった」

 私は紅茶に口をつける。彼女が家に来る前、一人で飲んでいた紅茶と何の違いもないはずだ。だというのに、こんなにも美味しく感じられる。フォークを伸ばしたシュトレンも、昔は甘いばかりに感じていたが、これほどまでに美味しく感じられてしまう。私はまた大きく息を吐いた。

「久しぶりのお茶は落ち着くな」

 フローラは強く頷いて、けれどシュトレンを食べる手を止めなかった。幸せなティータイムが流れていた。


「そうだ、フローラ。披露宴まであと三日しかない。フローラの正装を取りに行かないとな」

 この国では、あまり結婚式の形式が決まっていない。キリスト教徒は教会で式をする事が多いが、無宗教の者だと市役所でサインをしてその場で祝福を受ける。ユリアンは確かそのあとカフェを貸し切ってバイキング形式の食事会をしたし、パスカルのパーティではDJまで呼ばれてダンスパーティの様相を呈した。

 フローラにも正装を用意するようにとディルクは強い語調で言ったので、彼の披露宴はある程度礼節が求められるだろう。

「正装というと、ドレスのようなものですか。すぐ手に入るのでしょうか」

「いつもの服屋に注文してある。仕事が入って忙しくなりそうだったから、フローラに相談無しで進めてしまったんだ。済まない」

 フローラは首を振った。

「別に構いませんよ。私はどういうものが適しているかもわからないので」

 そこがわからないのは私も同様だったが、あの店員ならば問題はないだろう。彼女が提示したジャケットとズボン姿はすっかりフローラのお気に入りになったし、観察力も並外れている。恐ろしい人物だとは思うが、私は彼女を仕事人として信頼していた。

「お腹が落ち着いたら取りに行こう。そろそろ出来上がっているはずだ」

「はい。行きましょう」

 スーパーでの事件から、フローラを買い物に連れ出すのは初めてだった。怯えるかと思ったが、どうやら大丈夫な様子である。例の服屋には何度か行っていて慣れているからだろうか。

 私たちはゆっくりティータイムを過ごし、そのあとトラックを走らせて服屋へと向かった。


 結論から言って、私の店員への信頼に間違いはなかった。彼女の傷が隠れるようにしつつもドレスとしては雰囲気を壊さず、かつサイズもピッタリと申し分ない。多少値が張ったのは仕方ないとしても、フローラも大満足の品だった。帰ってきて夕食を終えた今になってもリビングに飾っているドレスをながめてうっとりとしている。私はビールを煽りながら、そんな彼女の様子を眺めていた。

 ビールを飲むなど、随分と久しぶりな気がした。パスカルにでも言わせれば非国民と詰られるだろうが、酩酊感があまり得意ではないのだ。余程疲れて、浅くても眠りにつきたいという時にしか積極的に飲むことはない。

「私もいつか、こういうドレスを着て結婚式をしてみたいです」

 ピンクのドレスに触れもせず、崇めるように眺めている彼女はそんな風に語った。

「出来るだろう、フローラなら。その時はもっといいドレスを旦那に買ってもらえ」

「旦那さん、ですか」

 ずっとドレスを眺めていたフローラはこちらを向いて、神妙な顔つきになる。私は首を傾げた。何か言いたいことがあるのだろうか。

「ツェツィーリエさんの本をいくつか読みました。恋愛は実に素敵だと思いましたよ。あの男の人も、きっと燃えるような恋をしているんでしょうね。『凍ったリンゴ』のような」

 彼女の作品、『凍ったリンゴ』はフローラが言うように、燃えるような恋の物語である。東西に走る壁で分かたれた男女が、お互いに求めあって壁をどうにかして抜け出そうと試みる。そして、壁を抜けることには成功するのだが、相手もまた壁を抜けてしまっていたのだ。彼らはすれ違い、そして脱走者として処刑されてしまう。そして天国で今度こそ邂逅を果たすのだ。

 絵を持ってきた彼の顔を思い出す。必死に額を求めて奔走していたのだろう、私のアトリエに着いた時は疲労困憊という様子だった。

「ああ、そうだろう」

 彼はまさに大恋愛をしているに違いなかった。燃え尽きるような恋だ。私には経験がない類の恋だった。

「私はそんな激しい恋は知りません。けれど『紅茶のあと』のような恋であれば、知っていると思うのです」

 ツェツィーリエ女史の本としては『紅茶のあと』はあまり有名ではない作品と言える。ツェツィーリエ作品の醍醐味は燃える恋の焦燥感で、『紅茶のあと』が示した恋人との緩やかな生活というような作品を読者は求めていなかった。

 しかし、私は『紅茶のあと』が好きだ。同棲している恋人と紅茶を飲んだり、飼っている猫を可愛がったり、時たま些細なことで喧嘩しあったりする様は『凍ったリンゴ』のような恋よりも身近で、胸が温まるように思う。

「恋をしたことが?」

「はい。『紅茶のあと』を恋愛と呼んでいいのなら。ハルトさんはどう考えますか」

 フローラの顔は真剣そのものだった。その恋をした相手というのが私なら、という期待と不安が胸を締め付ける。まさか、あり得ない話だった。十歳近くも歳が離れている。では、彼女の人生のどこかで『紅茶のあと』のような、平穏な生活が他にあったのだろうか。私にはそれもありえないことのように思われた。

 私にはイエスともノーとも答えが出せなかった。他の誰かへの恋慕なら、応援しなくてはいけない。仮に私への恋慕であるとすれば、決して肯定してはいけないのだ。

「私はこう思う。『凍ったリンゴ』の二人にとっては、燃えるような恋愛だけが恋愛だ。『紅茶のあと』の二人にとっては、静かな恋こそが恋愛だろう。人にはそれぞれ、恋愛の形がある。『凍ったリンゴ』の二人にとって『紅茶のあと』の恋は恋ではないと思う。フローラにとっての恋の形は私にはわからない。そして、多分まだフローラにとってもわかっていないんだろう。『紅茶のあと』に共感したからといって、それが恋だとは限らない」

「そうですね。そうかもしれません」

 フローラは俯いた。何を考えているのだろう。私の自意識過剰で落ち込ませてしまったのだろうか。そうであれば、悪いことをしたと思う。だが、どうしても手放しにそうだ、と応えることはできなかったのだ。胸がひどく痛んだ。

「ハルトさん、お願いがあります」

 やがて私に向き直ったフローラは、また真剣な表情だった。

「今日は一緒に寝てほしいんです」

 ビールを注いだジョッキを机の上に置いて、私は断言した。

「それはダメだ」

「なぜですか」

「男女は同じベッドで寝てはいけない。恋人以外の男女に許されることではないんだ。そして私とフローラは恋人ではない」

 フローラは私を見つめたまま、黙ってしまう。すぐに反論は出来ないが、まだ引くつもりはないのだ。

「私は、よく同じ夢を見ます。昔にも話した、手紙の夢です。その夢を見る度、私は苦しい。朝起きて、目覚めなければよかったと思うことが何度もあります。そして、ハルトさんが仕事をしている間、私は毎夜その夢を見ていました」

 文面はすぐに思い出せる。『あなたがもっと高く売れていれば、父さんが亡くなることもなく、私がこんなに苦しむこともなかったのに。どうしてあなたを産んでしまったのか、後悔に耐えません』。そんな夢を毎夜見る彼女。私には想像できない苦しみだった。

「ハルトさんがいれば、きっとそんな夢を見ないで済む、ってそう思うんです。ハルトさんは私を庇ってくれると言いました。忘れたわけではないですよね」

 それは、彼女を買い物に連れ出す口実でしかない。ここで引き合いに出すようなことではない。彼女はあからさまに私の責任に訴えようとしていた。そして、その企みは見事に成功してしまった。彼女にそこまで言わせてしまう自己嫌悪に責任が勝ったのだ。

「寝るまで隣りにいる。それならいいだろう」

 フローラの碧眼を私も強く見据える。しばしの沈黙が流れる。それを破ったのは、フローラが瞼を閉じる微細な音だった。

「わかりました。では、お風呂のあとには呼びますから」

 彼女は私を置いて、風呂へと走っていく。私は大きく息を吐いて、またビールを煽った。今無理やり寝てしまったらどうだろう。彼女の甘い誘いから逃れることが出来ないだろうか。答えはノーだった。今日逃げたところで、明日も明後日も夜は来る。仮に二十二日に即日でフローラが入れる施設の手はずが出来たとしても、二回も夜を超えなければいけないのだ。いくらなんでも無理だった。了承してしまった以上、約束は守らなくてはいけない。私は大きく深呼吸をして、呼ばれるのを待った。


「どうぞ」

 部屋に招かれるのは二度目だった。大きく違うのは、彼女の格好である。湯上がりの彼女に会ったことはあるが、今までに見たことのない寝間着姿で、長い金の髪はしっとりと濡れている。私は躊躇った。それでも、彼女に背中から強く押されて、入室を余儀なくされる。

 相変わらず綺麗に整頓された部屋だ。根が几帳面なのだろう。私はベッドサイドの椅子に腰掛けて、彼女がベッドの中に潜り込むのを眺めた。

「この前とは場所が逆ですね」

 フローラはそう言って笑ってみせた。私はその妙に色っぽいフローラに魅了されてしまわないようにすることに精一杯で、上手く返事が出来ないでいた。

「寝る時に誰と一緒なんて、初めてかもしれません」

「両親とは寝なかったのか」

 どうにか冷静を保って、彼女の言葉に返事をする。たったそれだけのことが妙に難しかった。

「どうでしょう。物心ついた頃には父はもう病床でしたし、母はその治療で精一杯でした。私が売られるまでもそう時間はなかったはずです」

「売られたのは何歳なんだ?」

 彼女は私から視線を外してしばし考え、またこちらを向いて答えた。

「確か、九歳か十歳だったと。それから十二年、ずっと奴隷として飼われていました」

 想像以上の年齢が飛び出して、私は眉をひそめた。そんな年齢で売った母親にも、買った富豪にも怒りがこみ上げる。しかし、それを表にはしなかった。私が怒っても仕方のないことだった。

「前の主人は、私を暴力を振るう為に買ったそうです。そして、体が大きくなったら、性奴隷にしてしまうつもりだったとあとから聞きました。けれど、私は然程成長はしなかった。水とパンだけの生活では当然だと思いますが」

 事実、フローラはかなり幼く見える。身長は百五十センチメートルもないだろう。百四十センチメートルを切っているかもしれない。女性らしい膨らみもあまりなく、未成熟のままという感は否めない。

「ですから、私はずっと暴力を浴びていました。それも、どんどんと酷くなります。多分、上手く成長しないことに苛立っていたんだと思います。今残っている大体の傷は、二十歳を超えてからつけられたものです。ここまでしなければ、もう私で楽しむことは出来なかったんでしょう」

 非道極まる話だ。彼女はまるで人間らしい扱いを受けていない。サンドバッグよりまだひどい。私は眉間に皺を寄せて話の続きを聞いた。

「あの人には他に性奴隷もいて。彼女たちは随分と愛されているみたいでした。彼女たちもご主人様の寵愛を受けられない惨めなやつだと言って、私を詰りました」

 そこまで語って、彼女は笑ってみせた。

「おかしな話でしょう。私は彼女たちの方が余程惨めだと思っていました。豚に噛まれようが腹が立つだけですが、豚に愛されるなんで御免被ります。私たちはお互いに見下しあって、自分が壊れないようにしていました。私は、ただ暴力を受けるだけなら気にならなかったんです。母からの手紙を読まれるまでは」

 その手紙が彼女を完全に壊してしまったのだ。私はただ黙って彼女の話を聞いていた。彼女は特別な感情を込めず、天井を見つめながら訥々と語り続けた。風呂上がりで赤く染まっていた頬が、ゆっくりと温度を失い始めていた。

「いいえ、読まれるだけなら良かったんです。あの人は、私がその手紙を大事に仕舞ったことを知ると私の目の前でそれを焼いてみせました。本当に私がダメになったのはその時でした。そんな手紙でも、母からのメッセージだったんです。それを失って、私はもうどうでもいいと思っていました。それから一年ほど経って誰かが彼を殺し、私はあのアルバートという人の所へ渡されました。そこから先の話は、ハルトさんの知っている通りです」

「そうか」

 アルバートが彼女を連れてきた時の、諦観に満ちた瞳を思い出す。今の彼女の眼には欠片もなくなった影だ。

「なんだか、面白くない話でしたね。折角一緒にいてもらっているのに、すみません」

「いや、いいんだ。フローラが話したいと思ったのなら」

 彼女はこちらをみて、弛緩した笑顔を浮かべる。私も笑ってみせた。

「ハルトさんには感謝しています。本当に」

「いや。力及ばずで申し訳ない。もう少しフローラのために色々と出来ればよかったのだが」

「なら、今からでも一緒に寝てくれますか?」

 フローラは少し身を動かして、シングルベッドに空間を作る。私は首を振った。

「冗談ですよ」

 彼女は笑って大きく息を吐いた。安易にそれを受け入れることが、彼女を余計に傷つけてしまう。私は彼女を受け入れてはいけないのだ。

「なんだか、少し眠れそうかもしれません。頭を撫でてもらえますか」

 私は椅子をベッド寄りに動かして、彼女のまだ少し湿った髪に手を触れた。いつもより暖かい彼女の体温を感じる。

 もしもこのまま、口付けを交わせたらどんなに素敵だろう。このまま抱きしめられたら、このまま彼女を自分のものに出来たら、どんなに幸福だろうか。しかし、それは私だけの独善的な幸福なのだ。

 私は私の裡に流れる欲望から目を逸らすために、静かに歌を口ずさんだ。『野ばら』だ。彼女はそれを聞いて一度大きく目を開いたが、やがてその静かなメロディに溺れるように目を閉じた。私は彼女が微かな寝息を立て始めるまで『野ばら』を歌い続け、彼女の頭を撫で続けた。せめて今夜だけでも、彼女が悲しい夢を見ないようにと願った。

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