フォーリング・ストーン

「ハルトさんって、顔と中身が全然違いますよね」

 ある昼下がり、フローラは出し抜けにそんなことを言った。彫っていた手が滑りそうになる。危うく商品か指のどちらかが犠牲になるところだった。

「どういう意味だ。それは」

 彫刻刀を台の上に置いて、ソファで寛いでいるフローラに視線をやった。フローラは何か変なことを言っただろうか、と言わんばかりに首を傾げ、不思議そうな表情をしていた。

「顔だけなら、私が会った人の中では一番怖いです。けれど、中身は私が会った誰よりも優しい。不思議ですよね」

 確かに私は強面ではあると思うが、あまりに酷い言い分だ。

「それを言うならフローラも負けていないだろう。私の知る女性で君より顔のいい人は稀だが、君ほど頑なな女性も稀だ」

 彼女の頑固さは一緒に暮らす時間が長くなるほど実感する。恐らく生まれ持っての性質なのだ。

「未だにシュトレンに拘って他の菓子を食べようとしない。あまり続けて着ると服がすり減ってしまうと言っても、この間買ったジャケットとズボンが洗濯から帰ってくる度に袖を通す。少しは私の言うことも聞いて欲しいものだ」

 図星を突かれて、ムッとする彼女。私も今、そんな表情をしているだろう。鏡を見ているようである。

「どちらも私にとっては譲れないものなんです。だって」

 そこで言い淀んでしまう彼女。シュトレンと洋服に通じるものはわからないが、要はどちらも気に入っているから離さないということだろう。

 結局フローラはその言葉の続きは口にせず、私への口撃に切り替えた。

「そんなに言うなら、ハルトさんも怖い顔を直してください。そうするなら、私だってこの服をずっと着ているのは諦めます」

 どうもシュトレンの方を諦めるつもりはないらしかった。私は溜め息を吐いた。

「いいだろう、私だって柔和な顔くらい出来る」

 頬を緩めて見せる。その表情のまま、額縁を作る作業に戻った。まだ三十秒も経っていないが、頬の筋肉が痛いように思った。普段使っていない筋肉だというのがまるわかりだ。

「なんだか、余計怖いです」

 フローラは若干身を引いてそう言い放った。私はまた刀を滑らせそうになって、今度は残念ながら左の人差し指が犠牲になってしまう。幸い傷は浅く、少し皮膚が傷ついた程度だ。血が多少滲む程度で大したことはない。痛みもないので放っておけばいいか、と思ったがフローラが飛んできて指の傷を見るやいなやダイニングに入ってしまった。

「彼女ほど大仰な女性もまた稀だな」

 私は座って、フローラが薬箱を持ってくるのを待った。今度は自然と頬が緩む。無理に作ったのではないその笑顔は、頬を痛めることはない。フローラと暮らしている内に使い慣れた表情だったからだ。


 その日の夕飯は、指の怪我を気にしたフローラが作ると言って聞かなかった。やはり頑固だ。しかし、また喧嘩を蒸し返しても面白くないので、すぐにこちらが折れた。

 このところ、夕飯を一緒に作ることも日課の一つになっていた。最初は心もとなかった包丁の扱いにも慣れ、手際も良くなってきている。元々の飲み込みの早さもあるのだろう。メニューのレパートリーこそまだ少ないが、台所を彼女に任せられる日も近いと思われた。いずれこの家を彼女が巣立つ時には必要になる技能である。私は教えられるだけの料理を教えようと思っていた。と言っても、私自身そう多くの料理が出来るわけではないのだが。

 今日は買ってあるスパゲティをミートソースで食べるつもりだったので、彼女に作業工程を伝えて、私はダイニングから彼女の調理の様子を眺めていた。麺を茹でて和えるだけなので失敗の心配はない。フローラも茹であがりまでの間退屈らしく、鍋の様子を見つつあくびを漏らしたりしていた。

 そういえば、彼女のあくびを見たのは初めてである。キッチンとダイニングの間にはカウンターがあるので、隔離感があるのだろうか。それとも、それだけ私に気を許してくれているということだろうか。

 彼女は私をどう思っているのだろうか。暮らしはじめのころはよく気になったことだが、近頃あまり気にかけていなかった。仕事中アトリエで寛いでいたり、彼女の方から将棋に誘ったり、一緒に料理を作ったりと、嫌われているということはないだろう。ではどんな存在なのか。

 父の代わり、信頼できる同居人、放っておけないペット、それとももっと別の関係性だろうか。彼女は再び大きなあくびをしたが、私と目が合うとキッチン棚の陰に隠れてしまった。どうやら、あくびを見られるのが嬉しくない関係性ではあるようだ。

「やはり同居人としては信頼出来る、というところだろうか」

 とりあえずの回答が得られて、どことなく満足した。それと同時に、もう一つの疑問が浮かび上がる。私は彼女をどんな風に思っているのだろう。娘か、同居人か、それともペットなのか。

 その問いに答えを出す前に、彼女がスパゲティを運んでくる。私は思考を中断して、彼女との食事を楽しむことにした。

「どうしたんですか。何かいいことがありましたか」

「特別何かがあったということはないが。強いて言えば美味しそうだとは思っていた」

 首を傾げる。なぜそんなことを訊かれるのだろうか。

「そうですか? とても嬉しそうに笑っていたので」

「そうだろうか。気づいていなかった」

 笑うような愉快なことは特別なかったと思う。私はなぜそんな顔をしていたのだろう。

「けれど、そういう顔のハルトさんも素敵ですね」

 彼女がスパゲティをフォークで巻き取りながらそんなことを言う。今が仕事中でなくてよかったと思った。あまりの衝撃に、絆創膏を貼るだけで済まない傷を負う所だ。

「普段、それほど怖い顔をしているだろうか」

 今まで、強面と言われたことは少なくない。顔だけでアルバートと私のどちらがマフィアの一員かと聞かれれば、十人中八人は私を指差すだろう。慣れている暴言のはずだったが、フローラに言われると妙に気が揺らいだ。

「少し。けれど、私は普段のハルトさんも好きですよ」

 恥ずかしげもなくそんなことを言われて、言葉に詰まる。私もフローラの顔が好きだ、とでも言い繕っておけばいいものを変にまごついてしまって、結局口を閉ざす。フォークを取って、私もスパゲティを口に運んだ。

「もしかして、照れてますか?」

 追い打ちだった。私は喉に麺が詰まってしまい、水に手を伸ばした。一瞬サディスティックな笑顔を見せたフローラも、その様を見て慌ててしまった。私は左手で平気だとジェスチャーをして、大きく溜め息を吐く。どうやら麺は胃に向かったらしい。

「死ぬかと思った」

 二重の意味だ。スパゲティの絞首台もさることながら、彼女の右ストレートもきつく脳を揺らしている。

「すみません。からかいすぎましたね」

 笑ってみせるフローラに、こちらも苦笑いを返した。また私の顔について妙なことを言われては困るので、先程考えていたことを口に出した。

「しかしよかった。フローラが思いの外すぐにこの家に馴染んでくれて。今でもまだ仇敵のように扱われていたら、私のほうが参っていたかもしれない」

「本当ですね。私もこんなに早くハルトさんのことを信じられるようになるなんて思ってもみませんでした。いいえ、いつまで経っても慣れることは出来ないだろうって考えていました」

 いつか、彼女が言い淀んだ言葉があまりにも簡単に漏れる。私のことを信用していると言葉で聞いたのは初めてのことだ。彼女の人生の中で、どれだけ信用出来る人間がいただろうか。奴隷としての暮らしの中で信じられる友がいたとも思えない。家族にも売られ、裏切られた。それでも家族のことを嫌ってはいなかったかもしれないが、母からの手紙を覚えているほどである。信頼を裏切られたという気持ちは少なからずあったことだろう。

「フローラが来てくれたことで、私の生活も随分充実したように思う。こうして誰かに料理を作ってもらうなんて久しぶりだ。礼を言うよ」

「そんな。こちらこそ感謝しつくせません」

 お互いに自然な笑みが交わされる。初めてこの家を訪れた時の彼女からは考えられない。そう回想して、ふと思い出した。

「そういえば、初めて一緒に食べたのもミートソースパスタだったな」

「そうでしたっけ。あの時は正直恐ろしくて、食べている気がしませんでしたから」

「見ていてもそうだろうと思ったよ。あの頃はとにかく、どうやったら気を引けるかと必死だった。然程やったこともない将棋を持ってきたりね」

 あれからも時々私たちは将棋を指している。ルールを覚えた彼女は強く、一方的に勝てたのは最初の数局だけだった。今ではハンデをつけなくても勝率は五分五分といったところだ。私があまり強くない、ということもあるだろうが。

 その日の食事はとても話が弾んだ。あれやこれやと語り合って、二人の皿に盛られたパスタはまったく減る様子を見せなかった。


 食事が終わる頃、私はふと思い出して彼女に訊ねた。

「そう言えば、誕生日が近いと言っていたな。いつなんだ?」

「十二月十日です。今日が七日だから、ええと、三日後ですね」

「本当に近いな」

 私は驚いた。もっと先だと勝手に想像して油断していた。彼女は「もうじき二十二になる」としか言っていなかったのだ。当然、いつであっても不思議ではない。よく気づいたものだと思った。

「誕生会をしなくてはな」

「祝ってくださるんですか?」

 勿論、と頷くと幸せそうな表情をするフローラ。愛おしい表情だ。私は手を伸ばして、彼女の頭を撫でてやった。

「何か食べたい料理はあるかな」

「ううん。世にどんな料理があるのかもいまいちわからなくて。パーティと言えば、というものってあるんでしょうか」

 そう言われるとすぐには思いつかなかった。ケーキは恐らくシュトレンを持ち出して蹴られるだろうから、敢えて口には出さない。自分の過去の誕生会ではどんなものを作ったかと考える。

 私の住んでいた地域では、誕生会は自分が開くものというのが一般認識だ。知人に招待状を出し、ケーキや料理を作って振る舞う。周囲に友人がいなくなった今ではご無沙汰だが、若い頃は盛大なパーティを企画したものだ。その頃は私にも恋人がいたし、もっと幼いころになると母がいた。私が作れる料理は限られているので、多分に彼女たちの助力があったはずだ。今回は私が作れる料理でなくては意見を出しても意味がない。それも、特別感のあるものでなくてはいけないだろう。そう考えていくと、思いつくものは限られていた。

「そうだな、キッシュはどうだろう。塩味が効いて、とても美味しい」

「いいかもしれませんね。どんな材料を使うんですか」

「タマネギとベーコン、タマゴあたりは貯蔵があったな。強力粉やドライイーストは置いていないから、買いに行かないといけない。今日はもう遅いが、明日ちょっと遠出して買いにいこうか」

 フローラを食糧品の買い物に誘うのは初めてだった。服屋と違って、客も店員も品数も多い。当然視線も多くなるので、彼女が怯えるかもしれないと思って避けていたのだ。実際、彼女は逡巡するように左頬に指を這わせる。彼女の傷のうち、平時一番目立つのが左頬から眉までを貫く一筋の傷だ。次に目立つのは右首筋の傷だろう。近頃、彼女は髪を高い位置で束ねていることが多いので余計に目立つ。両手首両足首に残った錠の痕も、スカートやワンピースといった袖の短い服を着ていると目立ってしまう。そして、傷はそれで全てではない。彼女の服の下にはさらに非道な傷痕がいくつも眠っているのだ。

「やはり気になるか。何か言われるようなら私が庇うが」

 迷うような目をしていた彼女は私の言葉聞いて一転、強い目になる。覚悟を決めたのだ。

「いいえ。大丈夫です。一緒に行きましょう」

「ああ。楽しみだ」

 また彼女の頭を撫でた。彼女は本当に心地よさそうにされるがまま、緩やかな笑みを浮かべる。改めて厚い信頼を感じて、私も微笑んだ。


 翌日、彼女の誕生日まであと二日となった十二月八日。朝食を摂った私たちはトラックに乗り込んで、隣町の大型スーパーを目指していた。食糧品だけなら歩いて十分のスーパーでも揃うが、私は今日の内に彼女の誕生日プレゼントにも都合をつけるつもりでいた。明日一人で出直すのも変だからだが、今日一緒に済ませてしまう都合上、スーパーの中で彼女に待ってもらう必要がある。この辺りでは誕生日を迎える前にフライングで祝われると長生き出来ないという迷信があった。迷信は迷信、怯えるほどではないのだが、どうせならサプライズ的に渡す方がいいだろう。

 彼女は先程から、揺れる車体を気にもせずに自分の側の窓から見える景色を凝視していた。

「悪いな。揺れるし狭いだろう。仕事用の車だから、あまりいいものじゃないんだ」

「いいえ、楽しいです。外の街はこんな感じなんですね」

 窓の外を駆けていく景色を貪欲に眺める彼女を横目で見る。今日は髪を下ろし、紺色のブラウスのボタンをきっちり上まで留めて首筋の傷を隠している。袖は少し丈が短く、両腕の手錠の痕らしき傷が少し顔を出していた。

 脇見運転をして二人で命を失うわけにはいかないので、すぐに前方に視線を戻して運転に集中する。遠くに曇天が見えた。雨の気配はまだないが、いつ降り出すともつかない。店内への出入りの頃に降っていなければいいのにと考えた。

 ふと、綺麗な調べが聞こえる。ストリートミュージシャンでもいるのかと視線を彷徨わせたがそういう気配はない。よく聞けば、歌っているのはフローラだった。窓の外の景色を楽しそうに眺めながら、しかし歌っているメロディはどこか寂しげである。

 『野ばら』だ。ヴェルナーのメロディである。フローラは詩までは知らないのか、ハミングでメロディをなぞるだけだった。私は彼女の唇がその曲の終わりまで奏でるのを待った。耳を傾けていると、ふとフローラの香りが鼻をつく。トラックに許されている空間は狭い。私とフローラはとても高い密度で空間を共有していた。彼女の香りと歌声に包まれている。とても心地よい時間だった。それでも、やがて歌は終わる。私は名残惜しさを感じながらも口を開いた。

「『野ばら』か」

「『野ばら』? そういう曲なんですか?」

「ああ。ヴェルナーという音楽家の曲だ。どこかで聞いたのか」

「父がよく口ずさんでいました。どこで知ったかはわかりませんけれど」

 誰もが知るとまでは言わないが、特別に音楽に詳しくなくても知っていておかしくない曲だ。決して裕福ではなかった彼女の家の人間が知っているのも当然あり得る。

「有名な曲だからね。知っている人は多いだろう」

 ヴェルナーのことを思う。彼は肺結核で若くして亡くなったという。もしかすると、彼女の父も結核を患っていたのかもしれない。伝染する咳の病なら、疑われるべき病である。自らの病を知り、自分をヴェルナーに重ねていたのかもしれない。

「ハルトさんも歌えるんですか」

「勿論。ゲーテという詩人がつけた歌詞も覚えている。聞きたい?」

 フローラが強く頷いたのが見えた。私はそれに従い、『野ばら』を歌ってみせる。元々はゲーテの詩だったものにヴェルナーがメロディをつけたという成り立ちから、この曲では歌詞が持つ意味がとても大きい。

 野に咲く自由なばらに見惚れた少年はそれを手折ってしまう。野ばらには多少の棘で彼を刺すくらいのことしか出来ない。語られていないが、やがて手折られた野ばらは枯れてしまうだろう。それを知らない少年の若さ、愚かさのようなものが歌い込まれている。もっと言えば、その野ばらとは女性の比喩でもあるかもしれない。

 詩の中の野ばらはまるでフローラである。運命に翻弄されて、抵抗という抵抗も出来ずに折られてしまった。彼女がどれほど傷つくかも知らず、何人もが彼女と言う花を手折った。歌の中の野ばらとは違って彼女は生きているが、それはいくつかの奇跡の結果である。沸々と怒りが沸き上がる。しかし、彼女はそんな私には気付きもせずに、歌の終わりに拍手をした。

「歌、お上手なんですね」

「これでも、昔は仲間と一緒によく演奏をしていたんだ。ほら、今度披露宴に招待してくれた男もその一人だよ」

 しきりに感心しているフローラ。そんな彼女の様子を伺いつつも、私は『野ばら』のことについてまだ考えていた。

 彼女が彼女自身の運命についてどう思っているのかは察する他ない。私が今更怒ったところで何の足しにもならないだろう。今私に出来るのは二日後の誕生日に彼女が二十二年生きてきた奇跡を盛大に祝うことだけだった。


 道中もずっと窓の外の景色に夢中でご機嫌だったフローラだが、大型スーパーに着いた彼女の機嫌の上がりようはその比ではなかった。

「大きい! この中が全部お店なんですよね?」

 子どものようにはしゃいでトラックから飛び降り、一歩遅れて下車した私を引っ張ってスーパー内部へと走る。

「車が通って危ない。ゆっくり行こう」

「待ちきれませんよ! 早く行きましょう!」

 彼女に引かれるまま、道路に気を払いつつも店内へ入る。

「わあ。すごいなあ」

 中に入っても彼女の感動は止まらなかった。フードコートから漂う匂いや陳列してある商品の一つ一つに気を取られて、行くべき売り場にたどり着けない。

「フローラ。私は先に買うものがあるんだが、待っていられるか」

 そう声をかけると、はしゃいでいたフローラは振り返って、実に悲しそうな顔をした。先程までの上機嫌が嘘のようだ。

「そんな、庇ってくれるって言いました」

 そうだった。彼女がとても楽しそうにしているからすっかり忘れていたが、彼女は恐怖を押して買い物に出てきたのだ。

「済まない。そうだった。実はフローラに誕生日プレゼントを買いたいんだが、誕生日より先にお祝いを言われると長生き出来ないと言うだろう。出来れば隠れて買いたいと思ったんだが。よく考えれば、置いていく必要はないよな」

 同じ専門店の中にいても、品を隠すことくらいは出来る。彼女は強く頷いて、私の腕を取った。彼女の柔らかい感触が右腕を包む。

「何を買うか決めるまで、離しません。決まったら教えて下さいね。少しだけ離してあげます」

 にっこり微笑んで、彼女は私の腕の感触を楽しんでいるようだった。妙に心臓が跳ねる。しかし、悪い気はしなかった。私たちはそのまま、食糧品の多い一階から専門店の並ぶ二階へ上がった。

 女性へのプレゼントを考えるのは久々だったので、私たちはたっぷり時間を使って二階を周遊した。まさかこれほど時間がかかるとは思っていなかった。フローラを待たせなかったのは正解だった。

 彼女も色んな品物を眺めて、あれはどうかこれはどうかと提案する。まるでこの場にいない誰かに贈るプレゼントを決めているようだ。これが欲しい、あれが欲しいとは決して言わない。ただ商品に感想を述べているばかりだった。彼女としては判断材料を提供しているつもりかもしれないが、彼女の真意が読めなくて私は却って困惑した。

 多少ちぐはぐなウインドウショッピングの果てに、私はプレゼントを二つまで絞った。片方はやや値が張るが、もう片方は比較的安価である。プレゼントが一つでなければいけないということはないだろう。私はそれら二つを彼女へのプレゼントとすることにした。

「よし、フローラ。決まったから、買ってこようと思う」

「本当ですか。じゃあ、少しだけですよ。少しだけ離してあげます」

 彼女は本当に名残惜しそうに私の右腕を解放する。フローラをベンチに待たせて、私は小走りで会計を終えてきた。時間にして、三分もかかっていないはずだ。しかし戻ってきた時、フローラは左頬を抑えて悲しげに座っていた。私が近寄ると、また右腕を掴む。

「どうかしたのか?」

 彼女は無言で俯いたままだった。なにがあったのかまで察する事はできない。しかし、何か悲しいことがあったのには違いなかった。私たちは必要最低限の食糧と、パーティ用のコーラを買って、車へと戻った。着いた時のはしゃぎ振りとはまったく違って、彼女は沈黙して左頬を抑えたままだった。


 往路の車中とはまったく違う雰囲気が車の中に満ちていた。私は何度も彼女の様子を伺いながら運転する。集中しなければならないのだが、どうしてもフローラの様子が気がかりだった。それに、前を向いていても空を覆った雲で気が重くなるばかりなのだ。

 彼女はずっと左頬の傷を抑え、俯いて座っていた。車体の振動に合わせて力なく翻弄される。その度に揺れる金髪が今にも窓から消えてしまうのではないかと私は何度もフローラの実在を横目で確かめた。フローラが漸く口を開いたのは、車が走り出して十分ほどした頃のことだった。

「男の子が通ったんです。そして、私の傷が変だって」

 私の中で怒りが沸き立つ。彼女の人生を何も知らないで、そんなことを言った子どもに対しての燃えるような怒りだ。まだそういうことがわかる歳ではないのかもしれない。それでも許される言動ではない。そのせいで彼女はここまで傷つき、もしかするともう買い物に行くことを受け入れられないかもしれないのだ。今からでもスーパーに戻り、出口から現れたところを轢いてやろうかとすら考えた。しかし私は子どもの顔を見ていない。そもそも、彼女を置いて刑務所に入るわけにもいかない。深呼吸をして怒りを堪える。暴力に訴えても何にもならない。

 私は何度も深呼吸を繰り返して怒りを飲み込み、フローラをどうにか慰めようと考えた。

「大丈夫、フローラ。私は君のその傷も好きだ」

「嘘です」

 涙を堪えた震える声だ。窓の外を向いているので、詳しい表情はわからない。

「嘘じゃない。それは今までフローラが耐えてきた苦しみだ。辛かっただろうし、痛かっただろうと思う。それでも耐えて、生きていてくれた。だから私はフローラと会えたんだ。もしもフローラが耐えられなくて、自殺なんかしてしまっていたら、私は一生キミという女性に出会うことはできなかった」

 それは私の本心だった。ただ彼女を慰めたくて言った言葉ではない。フローラはもう涙を隠しはしなかった。今まで私に見せたことのない涙。過去のことを語った時ですら浮かべなかった涙を、彼女は耐えきれず漏らしていた。

「少し寄り道するよ」

 嗚咽の中、彼女の返事は聞こえない。すぐに帰りたいと思っているかもしれない。けれど私は車を走らせた。アトリエのある市街地には入らず、少し高くなった山道へと入っていく。その間も彼女の目からは涙が溢れ続けて、その涙を拭ったブラウスは透けるほど濡れてしまっている。

 展望台のある高台の駐車場に車を停める。私が先に降りて、彼女の側のドアを開いた。彼女はまだ泣いていたが、私に抱きつくように降りてくる。軽い体だ。ゆっくりと地面に降ろして、よろよろと歩く彼女をベンチまで引導する。

「ここは私が苦しい時、悲しい時によく来る場所なんだ。ここから見える街が好きだった。フローラも気に入るかわからないが、落ち着いたら眺めてみて欲しい」

 私は彼女の隣に座った。彼女の手のひらが私の手に重ねられたので、柔らかく握り返す。彼女の涙は静かに、ゆっくりと引いていった。そしてあとには幼い少女のような硬い表情だけが残った。

「あのあたりに私のアトリエがあるんだ。家の近くの河が見えるだろう」

 彼女は私の指の先を追う。展望台はあるものの、正直雄大な眺めというわけではない。曇天で雰囲気も良くなかった。ただ美術の街が一望できると言うだけだ。フローラが何を感じるかはわからない。ただ、繋いでいる手の指に力が篭もったように思った。

「この景色には、特別なものはない。だから好きだった」

 言葉には表し難い感情だと、連れてきた今になって思った。

 私は少なからず、この美術の街という特需に助けられて額縁職人を続けられている。それがどうしようもなく悲しくなることがある。私には何もないのだ、と感じる。しかし、ここから眺めた街に特別なものはない。誰が見ても才能があるフランクや、何人もの芸術家達。彼らもここから眺めた街の一部でしかないのだと、私は自分を慰めていたのだ。

 そんな感傷がフローラに伝わるはずもない。私は彼女の表情を伺った。彼女の碧眼は強い視線でその景色を見ていた。どんなことを考えているか、私にはわからなかった。

 とうとう黒雲は雨となって街を濡らした。私は空を睨んだ。それで雲が散るわけでもない。傘も持たずにここで濡れているわけにはいかない。

「帰ろう、フローラ」

 私はそう言った。ここに連れてきたのは正解ではなかったかもしれないが、彼女の涙は一先ず止まっている。もっと冴えたやり方があったのかもしれないが、一応悪くなかったと思っておくべきだろう。

「はい」

 私は彼女の手を引いて、車に戻った。痛い沈黙がエンジンまで止めてしまいそうだ。そんな危惧にも、無遠慮にエンジンは回る。無機質が妙に頼もしかった。

 エンジンの音だけがする車がアトリエまでの道を走る。フロントガラスに降り注ぐ雨粒をワイパーが軋みながら払った。坂道を降りて、いつもどおりの道に戻る。フローラは食い入るように濡れる窓の外を見つめていたが、彼女の知っている道に入った頃に重い口を開いた。

「また、連れて行ってください」

 彼女の方を見ると、乞うような目がこちらに向けられていた。不意にその碧眼に射竦められて運転を誤りそうになる。私は急いで前方に視線を戻した。

「ああ。必ず連れて行く」

「約束ですよ」

 強い語調にもう一度フローラを盗み見たが、彼女はまた窓の外に視線を投げてしまっていてその感情を読むことはできなかった。


「誕生日おめでとう。フローラ」

「ありがとうございます。ハルトさん」

 朝の挨拶がそんな言葉に置き換わる。彼女は微笑んで礼を述べた。昨日はまだ少し塞いでいた彼女だが、今の表情は悪くない。今日は桃色のワンピースに袖を通していた。

「気に入るかわからないが」

 遅くなるとお互い気恥ずかしくなるので、朝食よりも先に先日買ったプレゼントの包みを彼女に手渡した。

「開けていいですか?」

「もちろん。私は朝食の用意をするよ」

 彼女は輝くような笑顔を浮かべて、開封を始める。その様を見ているとこそばゆいような気がしたので、私はキッチンに逃げ出した。私が贈ったのは手袋とペンダントだった。どちらも特別上等の品というわけではないが、祝福の気持ちが伝わるものではあると思う。

 フローラは喜んでいるだろうか。喜んでいればいいと思う。焼きあがったパンとヨーグルト、チーズとザワークラフトをトレイに並べてダイニングへ向かうと、彼女が前面から抱きついてくる。

「少し待ってくれ、朝食がダメになっては困る」

 それを制して、私はテーブルにトレイを置いた。すると、背中側に衝撃がある。後ろから抱きつかれたようだった。

「嬉しいです。ハルトさん」

 そんな簡単な言葉を何回も繰り返す。それほど喜んでもらえるとは。いや、驚きというほどではない。むしろ、期待や予想どおりの反応ではあった。それでも、喜んでもらえるのはこちらも嬉しくなってしまうものだ。ただ、その様をフローラにあまり悟られたくなかった。いい所でフローラの腕を解いて、テーブルにつく。

「さあ、朝ごはんを食べよう。折角の誕生日にお腹が空いていてはいけないからね」

「はい」

 正面に座った彼女はもうペンダントを着けていた。宝石などのついた華美なものではないが、素朴ながら上品なデザインだと思う。フローラ本人には勿論、ワンピースにもよく似合っていた。


 告白すると、私はお祭り騒ぎがあまり得意ではない。フローラの誕生日だからといって、クラッカーを買ってきて火薬の匂いにむせたり、彼女のために歌を歌ってみたり、普段は行かないようなところへ行ってみたりということは考えていなかった。

 そんな私が考えた唯一の行事が夕食のキッシュ作り、ということになる。彼女にしてみれば不服かもしれないと思ったが、果たしてそれは杞憂であった。

 午後のティータイムに、彼女の気持ちがシュトレンにないというのは私たちの生活で初めてのことだった。食べる手こそ止まっていないものの、彼女はキッシュとはどんな料理かとか、私は何回くらい食べたことがあるか、とかそういうことを聞きたがった。

「この分なら、ケーキを買ってきても良かったかもしれないな」

 そう漏らすと、フローラは大きく首を振った。

「ちゃんとシュトレンも楽しんでますよ。本当に毎日味が変わるんですから」

「そうだろうか。いつも一緒に食べていると思うが、味の変化なあ」

 私は気づいていないことだった。今まではアドベントという、クリスマスを迎えるまで気持ちを高める文化に合わせた方便で、中身のないおとぎ話だと思っていた程である。

「本当に小さな味の違いなんです。だから、他の甘いものを食べたらわからなくなっちゃうと思うんです。甘いはすごいけれど、強すぎますから。私は一日一日のシュトレンを絶対に見過ごしたくないって思います」

「フローラはすごいな。作った人も本望だろう」

 過ぎていく一日、という意味では今日はもっと意識されるべきだ。彼女が二十二歳を迎える誕生日は今日一日しかない。ケーキが最上級だとは言わないが、一日程度シュトレンの味を見失ってでも祝う価値があると、私は思う。思うが、口には出来なかった。フローラにとって、産まれたことが本当に祝うべきことだと私には断言出来ないのだ。

 彼女の母からの手紙を思い出す。私も彼女同様、一字一句違えずに覚えていた。『あなたがもっと高く売れていれば、父さんが亡くなることもなく、私がこんなに苦しむこともなかったのに。どうしてあなたを産んでしまったのか、後悔に耐えません』。彼女がこの手紙を今でも胸中に抱えているなら、もしかすると彼女は産まれたくなんてなかったと考えているかもしれない。

 それでも祝ってあげたいと思うのは、ただの傲慢だろうか。最早私にとって彼女はもはやペットでも同居人でも娘でもなくなっている。今までは自分で誤魔化してきたが、それももう限界だった。もはや疑う余地もなかった。私はフローラが好きだ。そんな彼女の誕生日を祝わないことは出来ない。

「本当に産まれてきてくれてありがとう。私はフローラに会えて幸せだ」

「私もそうです。ハルトさんでよかった、っていつも思ってます」

 彼女はやや面食らったようにしながらも、嬉しそうに微笑んでみせる。私は手を伸ばして、彼女の頭を撫でた。

「やっぱり、怖い顔をしてますけどね」

 笑っていうフローラに、私は笑って返せなかった。気づいてしまっても、好きだなどと打ち明ける訳には行かないのだ。彼女との間に、一本の線を引かなくてはいけない。羽ばたく彼女を無理やり手元に留めておくのでは、彼女の前の主人と何の違いもない。

 彼女の誕生日は穏やかに過ぎていった。好意を自覚した私と彼女がずっと同じ家で生活をしていくのは危険だ。私は今日が私とフローラが一緒に過ごす最後の誕生日になるべきだと思った。私はその一分一秒を忘れないように、時間の砂を手のひらで受け止め続けていた。


 私はフローラが風呂に向かったことを確認して、彼女が出席する旨の電話をディルクに掛けた。彼女の未来について、相談しなければいけないことがあった。

「そうか、フローラさんも出席してくれるんだな」

 ディルクは嬉しそうに言った。彼にとっては他人であるフローラが、邪魔になったりしないのだろうかと思ったが、彼の厚意に水を差すのは本意ではない。そのことを口には出さなかった。

「キリスト教式の堅い式典は午前のうちに親族だけで行うことになっている。披露宴は午後十一時半からだ。友人を招いているのは披露宴の方だけだ。ハルトにもこちらに列席してもらうことになっている。料理店を貸し切っての食事会の予定だが、正装で頼むよ」

「ああ。ディルクの披露宴だ。当然そうなると思っていた。ちゃんと用意しているよ」

 彼の家は敬虔なクリスチャンの家系で、ディルク本人も両親ほどではないにせよ信心深い男だ。彼が式を挙げる以上は当然堅いものになる。披露宴もその流れを汲むことになるだろう。私は正装に袖を通し、仕立て直さなくとも着られることを確認し終えていた。

「ハルトは意外に抜けたところがあるからな。フローラさんの分の正装を忘れたりしていそうだ」

 笑って茶化した私を茶化し返すディルク。私は黙ってしまった。彼の言うとおり、フローラのドレスについては考えていなかった。

 その一瞬の沈黙を悟って、ディルクは私を追い詰めた。

「おい、まさか」

「失念していた。そうだよな、フローラのドレスも用意しなければ」

 彼に溜め息を吐かれてしまう。

「確認して良かった。夜のパーティじゃないから、ドレスはセクシー過ぎないものにしてくれよ。わからないようなら服屋の店員に直接オーダーした方が確実だ。昼の披露宴に客として出席することをちゃんと伝えるんだぞ」

 言われたことをメモする。披露宴が十一時半からだということもついでにメモした。この分では妙な失敗をしてしまいかねない。こういったところは確実にしておくべきだ。

「すまない。気をつけるよ」

「まあ、まだ時間はある。十分用意する時間はあるだろう。気にするなよ、ハルト」

 笑って済ませてくれるディルク。慎重で神経質だが、器の大きいのが彼の長所だ。私は礼を述べて、彼の温情に感謝した。

「そう言えば、フローラさんの行ける場所を探してくれないかということだったが。そこから通えるところとなると何件かに絞られてしまいそうだよ。美術に明るく良い街だが、やはり少し交通の便がよくないようだ」

 私は彼女がまだ風呂から上がってきていないことを確認した。彼女の未来についての話だが、ある程度まとまってからでなくては彼女も困惑してしまうだろう。

「その件なんだが、ディルク。寮か寄宿舎のあるような施設はないだろうか? 引き取ったのはいいが、男一人の家に恋人でもない女性がずっと住んでいるというのはよくない。職業柄、食事も不規則になりがちだ。であれば、いっそここから離れるのも一つの方策だろう」

 ディルクは電話口で唸った。その件について、思考を巡らせてくれているのだろう。

 フローラが他の生活拠点を持つべきだというのは彼女への恋心を自覚した私が真っ先に考えたことだった。彼女と暮らしていく中、私はどんどん彼女を好きになってしまうだろう。その好意のまま動けば、私は彼女の可能性を限定してしまう。ディルクの言ったとおり、美術の街という点を除けば特段暮らしやすい街というわけではないのだ。彼女をここに縛りつけるのは私の傲慢である。彼女を守り、そして社会に送り出していくのが私の責任だ。父親代わりになるというその責任に背いて、彼女を恋人とするわけにはいかない。

 少し考えたあと、ディルクは私の考えを認めた。

「確かにハルトの言うとおりだろう。ハルトにしか懐かないようなら今はハルトが預かっておくしかないが、対人関係に問題がないなら外へ出てしまった方がフローラさんのためになる。そっちの方の資料も集めておこう」

「恩に着るよ」

 ディルクが納得してくれて助かった。と、フローラが風呂場から歩いてくる音が聞こえたので、私は話を切り上げることにした。

「夜遅くに悪かったな。それじゃ、披露宴で」

「ああ。待っているよ。気をつけてきてくれ」

 電話を切ると、フローラがダイニングの外を横切って階段を上がるところだった。私はそれを追いかけて声をかけた。

「おやすみ、フローラ」

 二段ほど上がったところで、やっと彼女の背丈は私と同じくらいである。彼女は手すり越しに私と視線を交わして、可憐な笑顔で言った。

「おやすみなさい、ハルトさん」

 その表情を見るに、どうやらフローラの処遇についての話は聞かれなかったようである。私は安堵して、自分も寝床へ向かった。ソファベッドの中、彼女のおやすみなさいという言葉を反芻する。溜め息が漏れた。

 どうしてこれほど好きになってしまったのだろう。どうしてこれほど胸が焦がれるのだろう。答えは出ないまま、夜は更けていった。

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