笑顔

 私が喘息の発作を起こしてから、フローラは明るく振る舞うようになったと感じる。感情を気兼ねなく表すようになったこともそうだが、普段の様子からも緊張が抜けたようだ。最初は怯えるようにしていた食事も今では楽しむようになりつつある。時折一緒に台所に立ち、料理を教えることもあった。

 彼女のことが一段落を迎えたので、額縁制作に割ける時間も増えていた。フランクの依頼のようにオーダーメイドの額縁を作ることもあるが、そういったものは所要時間からいっても月に二、三枚が限界だ。それだけでは当然生計が成り立たないので、規格に沿った簡素な額を画材屋に納品する仕事もある。こちらは同じサイズにカットし、シンプルに仕上げるだけなので一枚に三日もかからない。コーティングの乾燥に割く時間もあるので、並行して作業すれば五枚ほど同時に作ることも可能だ。

 これはオーダーメイドのもののように凝った紋様にはしないので、比較的精神力を使わない。集中を乱されて困るということもないので、作業中フローラは私の寝床になっているソファで寛いでいることが多くなった。今日も彼女はそこにいて、推理小説をめくっている。ストーブの石油消費量がアトリエ一台分で済んでいて、少し助かっていた。

 ふとストーブに意識が及んだことで、私は喘息の日の夜のことを思い出した。

 夕方頃には咳はほぼ治まって、体の重いような感覚が残っているだけだったのだが、フローラは頑として私にベッドでの就寝を推したのである。勿論、フローラの寝場所がなくなってしまうと拒否したのだが、彼女はアトリエで寝ると言って聞かないのだった。フローラをソファに押し込みたいとは思わなかったが、彼女の提言を退けることはとうとう出来なかった。その夜は彼女のベッドで眠れぬ夜を過ごしたが、それでも翌日に完治してくれた体には人生で災害の感謝を抱いた。その朝すぐにストーブを出して、アトリエで寝てもいいという了承を勝ち取ったのだ。夜、まだソファベッドに残っていたフローラの香りに動揺し、その夜もまた眠れない夜を過ごすことになったのだが。

 ソファにいる彼女の金髪を追いかけた。何度見ても美人だと思う。それを強く意識するようになったのは何故なのだろう。出会った頃には彼女の顔の造形よりもそこに刻まれた傷痕に目を奪われていたからかもしれない。それとも、近頃の彼女が感情を表に出すようになったからだろうか。

 私は頭を振って、彫刻刀を机の上に置いた。保護者としてあるまじき感傷だった。推理小説を読んでいた彼女が何事かとこちらを向いたのを感じたので、背伸びをして肩が凝ったように装った。

「少し肩が凝ったな。散歩にでも行かないか?」

 時計を見ると、二時を少し回った頃である。食料品は今のところまだ買いだめに余裕はあるが、彼女の生活用品や衣料品はまだ少し足りない。特に冬用のコート等がないとこれからの季節外出に困ってしまうだろう。

「お散歩ですか」

 彼女は困ったように首を傾げた。何か言いたげに左頬を触っている。

「傷なら気にしなくていい。難癖つけられるようなら私が庇う」

「いえ。どの服にしようかなと思って。どれが良いと思いますか?」

 少し目が泳いだのを見て、恐らくそれは取り繕った言葉なのだろうと思う。だが、あえてそんなことを指摘しても何にもならない。この場は騙されておくことにして、私は彼女が持っている服を思い描いた。

 よく着ているのはグレーのワンピースだ。現に今も袖を通している。ウエスト部分に絞りが入っていて、クラシックな印象だ。ただ、何度か洗濯した感想として生地は薄い印象である。今の時期では冷えるかもしれない。コートがあればいいが、桃色のカーディガンしか上着はなかったように思う。忍び寄る冬に立ち向かうには脆い鎧というほかない。飾り気の少ないブラウスにブラウンのスカートの姿でいることも多いが、暖かさで言えばさほど変わらないだろう。

「あまり着ていないが、セーターはどうだろう。もう外は結構寒いから、暖かくした方がいい」

「そうですね。家の中は暖かいからあまり着ませんでしたが、お出かけにはちょうどいいかもしれません。着替えてくるので、少し待っていてください」

 本をソファの上に置いたまま家の中へとフローラは消えていく。私はもう少しで目の前の額の彫りが終わるので、彼女を待つ間彫刻刀を滑らせて待つことにした。彼女と違って、マフラーさえ巻けば私の準備は終わりなのだ。


「なんだかおしゃれな街ですね。私が知っている街とは全然違います」

 自宅前を流れる川沿いの道を抜けて大通りに入ると、彼女は感心したように溜め息を漏らしていた。寒気はまだ強くなかったが、風に当たると少し冷える。セーターを勧めたのは正解だった。

「そうだな。美術の街として栄えてきた歴史のせいもあるかもしれない」

 視線をあちらこちらへさまよわせながらふらふらと歩く彼女が、歩道をはみ出さないように注意しながら歩く。自然と彼女の服装にも目が行った。ブラウンのスカートに白いセーターが映えている。普段特に飾っていない髪を高い位置でまとめているのが実に可憐だ。髪が上げられることで右首筋の傷痕は目立ってしまうが、左頬の傷に比べると抵抗が少ないのだろうか。本人からはその傷が見えていないのかもしれない。

 彼女の歩調はゆっくりで、普段通りに歩くと簡単に追い抜いてしまいそうだった。気をつけて、二、三歩後ろにつくようにして歩いた。ふと、先行しているフローラが振り向いて訊ねる。

「どこかお店に用事ですか? それとも、特に目的はないんですか?」

「そうだな、フローラの服を少し買い足すつもりではいる。冬本番になるとこの街はかなり冷えるから、厚手のコートがあるといいと思ったんだが」

 来たばかりの彼女なら、もったいないです、などといって躱そうとしたかもしれない。しかしフローラは嬉しそうに微笑んでみせた。その碧眼には私の微笑が映っている。

「他にも良さそうなものがあったら買っていただけますか」

「勿論。まだまだ数が足りないだろうからね」

 実際、さっき候補に上がった服の他にはロングTシャツが数枚しかない。どれも着回しが出来るいいデザインで便利なのだが、洗濯が少し滞ると着替えがなくなってしまうということもあって、枚数があるに越したことはない。

「私はあまり詳しくないのだが、流行の服はどんなものなんだろうか」

「どうなんでしょうね。私もあまり詳しくなくて」

「先に雑誌か何かで勉強しておくんだったかな」

 そんなやり取りをしながら歩くと、服屋にはすぐ着いてしまった。アトリエからここまではそれなりの距離があるはずだが、彼女と話しながら歩くと驚くほど時間を苦痛に感じなかった。フローラに続いて店内に入ると、前回フローラの服を見立ててくれた女性店員と目が合った。

「いらっしゃいませ」

 恭しくお辞儀をされて、こちらも畏まってしまう。この間は値段の上品さにも驚かされたが、店員の対応も見るとどうやら質の良い服屋で売っているのかもしれない。

「この間はありがとう。詳しくないものだから助かりました」

「お役に立てて光栄です。今日は何をお探しですか」

 フローラは私を挟むようにして店員から少し斜めに立っていたが、店員の視線を受けると小さい礼をした。

「これから寒くなるだろうから、コートでもあればと思って。なにか良さそうなものはありますか」

「そうですね」

 店員が店内を案内しようとしたところをフローラが制した。

「あの、先に少し見てもいいですか。コート以外にも色々見たくて」

「はい、結構ですよ。試着室もありますので、ご利用ください」

 それを聞くと、フローラはまた礼をして私を店の奥に引っ張った。店員は特に気にした風もなく営業用の笑顔でこちらを見ていた。私は会釈をして離れる。

「いいのか? 詳しくないということだったが」

「どうも緊張してしまいますから。ハルトさんは結構センスもいいと思うので、一緒に見てもらいたいんです。お願いできますか」

 確かに、私も店員にあれこれと勧められるのはあまり得意ではなかった。彼女の言うこともわかる。当然、頼られれば断る理由はない。彼女の服選びに付き合うことにした。

「今持っている服はちょっと無難というか、華がない感じがするでしょう」

 思い返してみると、確かに落ち着いた色のものばかりだ。デザインにしてもシンプルで、可愛らしいのだが静かすぎるような印象もあった。

「ですからちょっと装飾が多い感じの。これなんかどうでしょうか」

 彼女が示したのはブラウスだった。首元のリボンが目を惹き、襟にはフリルがつけられている。紺色の飾り布も綺麗で、実に女性らしいデザインだと思った。

「試着してみるか?」

「はい!」

 彼女はその服を手に試着室に駆け込む。その間は退屈なので、その場に立ったままいくらか棚を眺めてみる。無理に勧めるものでもないが、今の服も色味としてはやや地味だ。もう少し明るい色の服があってもいいかもしれないと考えた。

 ふと桃色のワンピースに目が止まった。彼女は既にグレーのワンピースは持っているが、明るい色味の服として選択肢にはなるだろう。しかし、それが流行に沿う考え方なのかは判断がつかない。やはり、個人的に勉強しておくべきだっただろうか。

 試着室のカーテンが開いた音がしたので、視線をそちらに戻した。

「どうでしょう、ハルトさん」

 現れたフローラに、そのブラウスは良く似合っていた。彼女の白くきめ細かい肌が、清楚な紺色によく映える。

「よく似合ってる。だが、スカートも色を揃えたほうが良いかもな」

 かなり暗いブラウンのスカートなので大きくミスマッチではないものの、やはり紺色で統一したほうが綺麗にまとまりそうだった。試着室内の大鏡を見て、彼女も同じようなことを思ったようである。

「そうかもしれないですね。このブラウスと紺色のスカートのセットをお願いしてもいいですか」

「ああ。良さそうなワンピースもあったから、一旦着替えて見てみよう」

「はい!」

 元気よく返事をした彼女はまた試着室に戻った。私はほくそ笑んだ。本当に感情を出してくれるようになったものだ。

「なんだか元気になられたようですね」

 店員が声をかけてくる。先程から心配そうにこちらを眺めているのには気づいていたが、どうも私たちのことを観察していたらしい。記憶能力が優れているのかと思ったが、彼女でなくともフローラの全身の傷を見てそれを忘れる者はいないか。

「ええ。どうやらこちらでの生活にも少し慣れてくれたみたいで。一安心ですよ」

「お客様にも懐かれているようですし、良かったです。あまりに傷が酷かったので、ずっと心配していたんですよ。もしかしたらお客様がつけた傷なんじゃないかとも思いましたが、どうやら通報の必要はなかったようですね」

 随分と手厳しいことを言う。礼儀正しいふうを装っているが侮れない人物だ。丁寧な笑顔の上で目だけは笑っていない。思えば、会計の際にも探りを入れられた気がする。その時は切り抜けたらしいが、今も下手なことを言えばまた警戒されるかもしれないと冷たい汗が流れた。

「それはどうも。なんとか上手くやっていますよ」

「結構なことです。何事も上手く回っている方が良いものですからね」

 彼女は少し柔和な表情に戻って、先程から手にしていた服をこちらに差し出した。

「こちらが流行っている服になります。よければ勧めてあげてください」

 ワイシャツの上にジャケットを重ねたものとダークブラウンのズボンである。私は怪訝そうな顔で店員を見た。

「どうも男性向けの服装のようだが」

「近頃は中性的なファッションも流行の兆しがあるようですよ」

 美術の街というだけあって、ファッションも最先端を行っているのだろうか。しかし、急に私がこれを勧めるのも気が引けた。

「しかし、服飾に疎い私が勧めるのはちょっと違和感があるでしょう。店員さんにお任せできませんか」

「いいえ、私がお勧めするよりもお客様が勧める方がお喜びになると思いますよ」

 不敵な笑みで私から離れる店員。心臓を掴まれるような思いがした。本当に侮れない。この短時間でフローラの気持ちを察してしまったのだ。

「お待たせしました。あれ、ハルトさん?」

 と、フローラが元のセーターに着替えて戻ってくる。私は手に店員に渡された服を持ったままだった。

「ハルトさんもお買い物ですか。ちょっと小さいようですけれど」

「いや、フローラにどうかと思って。ワンピースもいいが、今は中性的ファッションが流行していると聞いたことがあるのを思い出してね」

 不思議そうにジャケットとズボンを見るフローラ。かくいう私も同じ気持ちである。本当に流行っているのだろうか。店員に担がれているだけではないだろうか。

「とりあえず、一回試着してみますね」

 彼女はそれを受け取って、再び試着室へと入っていく。私は彼女が先程手にしていた紺色のブラウスを受取り、同系色のスカートを見繕いに行った。ほぼ同じ色で生地の良いスカートがすぐに見つかった。重ねるようにして見ると、実によくマッチしている。元より合わせるつもりでデザインされたものかもしれない。

 それらを携えて試着室前に戻ると、フローラはまだ不思議そうな顔で試着室から現れた。

「なんだか変な感じがしますね。シャツが少し女性っぽいからか、変でもないように思いますけど、どうでしょう」

 店員の言うことは聞いてみるものだ。白いシャツに落ち着いた橙がとてもかわいらしい。ダークブラウンのズボンも、彼女の女性らしさを引き立てこそすれ、損なってなどいなかった。華奢な彼女の体が強調されるようで、女性ものの洋服を着ているより可愛らしさが映える。

「可愛いな。これは確かに流行るのもわかる。いや、フローラだから似合うんだろうか」

 知らず、分析的な言葉を述べてしまう。彼女は赤くなってまた試着室に入ってしまった。けれど出てきた彼女はその服を大事そうに抱えていて、支払いの時まで離そうとしなかった。

 それらの他にも先程私が見ていた桃色のワンピースとワインレッドのコート、白黒で模様の編み込まれたマフラーを買って服屋を出た。やはりそれなりの値段がしたが、彼女が嬉しそうにしているのを見ると決して無駄な買い物ではなかったと思う。

 外へ出ると、寒気が頬を撫でた。これから日が傾くにつれどんどんと気温は下がっていくので早く帰らないと冷えてしまうが、立ちっぱなしで服を選んでいたので体が少し疲れていた。

「少し疲れたな。どこかに入って軽く食べようか」

 服屋のある通りは自宅からは結構離れているので、今すぐ歩いて帰るのは大変だ。彼女も疲れたのか、よろめくように歩いていた。

「いいえ、このまま帰りましょう。今日もシュトレンを食べなきゃいけませんから、今何か食べるわけにはいきません」

 不意に真剣な顔を向けられて驚いた。彼女がお茶の時間を心待ちにしているのは知っていたが、それほどまでにシュトレンを楽しみにしていたとは予想外だった。

「しかし、世にお菓子はいっぱいある。もっと口に合うものがあるかもしれないよ」

「いいえ。クリスマスまで毎日食べるのが約束ですから」

 約束などと、そんな大仰なものを交わしたつもりはない。しかし、彼女にとってはそれだけ大きな存在に感じられたのだろう。その感情を無下にしてしまうのは心苦しかった。

「そうだな。ではちょっと大変だが、家まで頑張って歩こう」

 私の言葉にパッと顔を輝かせる彼女に、心臓がはねた。いい表情をするようになったのは良いのだが、端正な顔で急にそんな表情をされると、こちらがもたなくなってしまう。

 頭を軽く掻いて帰途を向く。フローラは少し駆けて、私より前に立った。服を入れた袋が重そうに映った。

「持とうか。色々と買ったから重いだろう」

 小柄なこともあるが、あまり運動をしなかったらしい彼女は重い物を持つのは苦手なようだった。彼女はすぐには返事をせず、逡巡するように私と袋を見比べてから言った。

「いいえ、私が持って帰りたいです。ダメですか」

「もちろん構わない。だが疲れたら言ってくれ。いつでも受け取る」

 彼女は薄く笑って、また私の先を歩き始める。行きよりも歩調がゆっくりだった。それに合わせて、私も緩いスピードで帰路を辿る。結局、家にたどり着くまで彼女は袋を私に委ねようとはしなかった。


「冬は風邪を引きやすいから、先に手を洗っておいで」

 マフラーを外しながら言うと、フローラが洗面所へ向かう足音がする。彼女も疲れたろうが、私もかなり疲れていた。最後は彼女のほうが元気なくらいで、私が家に入ったのは彼女に三十秒ほど遅れてのことだった。

「今度服を買う時はやはり車を出すべきかもしれないな」

 前回、店員に服の見立てを頼んだ時にはトラックを出した。あまりいい車ではないので大きく揺れるし、小奇麗でもない。仕事がなければ進んでハンドルを握ることはない。だが、彼女の足に合わせると服屋まで歩いて半時間ほどかかってしまう。話が弾めば体感時間は然程でもないが、疲労は嘘をつかなかった。

 私はキッチンに入り、そちらの水道で手を洗う。時計を見るともう四時だった。三時ごろには帰ってくるつもりでいたが、見通しが甘かったらしい。ポットに水を入れて火にかける。流しにもたれるようにして、湯が沸くのを待った。

 ダイニングに目をやるが、彼女はいないようだった。キッチンから見えないリビングの方にいるのかもしれない。そちらのソファは彼女のお気に入りで、食事時以外はそこで本をめくっていることが多かった。

「しかし、日中本を読むくらいしかすることがないのは退屈かもしれないな」

 何か彼女の暇つぶしになるようなものでもあればいいのだが。私も仮に仕事という時間を奪われては何をしていいか困ってしまう。額に向き合う時間があるからこそ、本を買ったり読んだりするだけで余暇の時間を過ごせていたのだ。

 いいアイデアは沸かなかったが、湯が沸いたので二人分のカップを用意する。シュトレンの厚さはいい加減にすると彼女が怒るので、どの程度にすべきか訊こうとリビングへ向かった。

「フローラ」

 声をかけようとして、彼女がソファに横になっているのに気づいた。喉を意識して締めて、彼女を起こさないように音量を絞る。

 近寄ると、規則正しく肩が上下していた。余程疲れたのだろう。腕に服屋の袋を抱えたままで眠っている。実に安らかな寝顔だった。彼女が眠っているところを見たのは初めてだった。

 服に皺が寄るといけないのでどうにか腕から救出出来ないかと思ったが、強く抱き込んでいるようなので諦めた。

 私はアトリエから自分が使っている布団を持ってきて、彼女にかけてやった。身じろぎをしたので起こしたかと思ったが、どうやら無意識に寝姿勢を整えようとしただけのようである。

 キッチンに戻り、自分の分だけ紅茶を淹れて喉を温めた。そして、彼女とのこれからについて考える。

 いずれはフローラには独り立ちしてほしいというのが私の目的だと反芻した。その味を忘れてはいけないと強く思う。ずっと手元で飼い殺すのでは、監禁と軟禁の差こそあれ彼女の前の主人とやっていることは変わらないだろう。彼女はまだ二十一歳の女性で、社会においても活躍の場がある。顔の傷が足を引っ張るかもしれないが、それを理由に彼女の可能性を奪うことはない。

 軽い接触の場に送り出すことも考えられた。スポーツサークルだったり、バンドや楽団だったりと可能性はいくらでもある。

 ふと、アルバートの顔がちらついた。彼は悪いバンドに入ったことで、その芽を摘まれた者の一人だ。彼もフランク同様、有望な画家の一人だった。それが今では、クスリを売り歩く組織の一員である。

「おれは真っ当な所に引き取って貰えるような人間じゃなくなっちまってる」

 フローラを私の許に連れてきた時の彼の表情が蘇った。彼は大きな更生への期待を込めて私の許に彼女を連れてきたに違いなかった。フローラとの生活があまりに刺激的で忘れていたことだ。私には同居人として彼女のケアをするだけでなく、父親代わりとして彼女を真っ当な社会に送り出す責任もある。となれば、どこかにただ預けるというわけにはいかないだろう。二人目のアルバートを産んでしまうことは避けなければいけなかった。

 紅茶の味が良くなかった。淹れ方は特別変えていない。考えていることのせいかもしれなかった。夕暮れの日差しが斜めにダイニングに差し込んで、床を橙に染めている。

 考えていても上手い方策が産まれそうになかったので、夕飯の準備に取り掛かろうとした。彼女が楽しみにしていたお茶の時間は夕食後にすればいいだろう。そうすると、多少軽く食べられるメニューが良いと考えた。腕組みをして、何を作るべきか考えた。

 一人暮らしの頃の癖で、余らせて腐らせがちな肉類魚類のメニューはあまり作れない。そのせいで野菜やウインナーをメインにした料理が続いているが、栄養を考えると肉や魚のメニューも覚えるべきだと感じてはいる。しかし今日はそういう食材を仕入れていないし、何より軽いメニューにするという方針に反していた。ザワークラフトとウインナー、マッシュポテトあたりが良いところだろうか。

 メニューが決まってしまえば、どれも然程時間のかかる料理でもない。今から作っては彼女の目が覚めるころには冷めてしまっているだろう。私は結局、彼女をこれからどう扱うべきかという悩みに戻りそうになる。

 それを遮ったのは電話の音であった。その音で彼女が起きてはいけないと瞬時に思って、急いで受話器を取る。

「やあハルト。元気かい? ディルクだ」

 電話の相手は実に懐かしい名前を名乗る。アルバートがまだ道を踏み外していなかった頃のバンド仲間だった。私たちのバンドはアルバートが他のバンドに移ったあと分解してしまったが、交流自体は浅く続いている。それでも前に話したのは四、五年前のことである。

「ディルク! 久しぶりだな。こっちは正直参っているよ」

 電話のあるダイニングからはリビングが見える。彼女の方を伺いながら喋った。フローラに自分が迷惑をかけているとは思わせたくない。

「なんだ、景気の良くない声だな。何かあったのか」

「あとで話すよ。まずそっちの用件を聞こう。久々に掛けてきた以上、何かあるんだろう」

 ディルクは豪放に笑ってみせる。余程嬉しいことがあったと見えた。

「じゃあ先に言わせてもらうが、結婚することになったんでな。出来ればお前にも披露宴に列席してもらいたい」

「結婚、本当か! おめでとう。ぜひ行かせてもらおう。日取りはいつだ?」

 電話の向こうから紙をめくる音が聞こえた。日取りを忘れているわけではないだろうが、確認しているのだ。慎重さにかけて、彼の右に出る者を私は知らなかった。

「ええと、今月の二十二日だな。空いているか」

「今日は三日だから、大体二十日後か。問題ない、空いてるよ。ユリアンやパスカルには声をかけたのか?」

 ユリアン、パスカルともに昔私たちが組んでいたバンドのメンバーである。私たち『レーゲン』は五人組だった。私とディルク、ユリアンとパスカル、そしてアルバート。

「ああ。二人とも来てくれるそうだ。全員集合だな。それで、ハルトは何を悩んでいるんだ」

 アルバートの名が上がらないのは暗黙の了解だった。パスカル、ユリアン、ディルク、そして私で『全員』である。しかし、フローラの話をするならば最後の一人の名前を上げなくてはいけない。

「一月ほど前、アルバートが訪ねてきたんだ」

 空気が凍る。仕方ないことではあった。彼が抜けた時にはバンド内が大荒れしたのだ。今でもその名前は禁句だった。

「予想以上に不愉快な話らしいな。それで、いくらせびられたんだ」

「いいや、今までの借りを返すと言って、貸した金に色をつけて持ってきた。それはいいんだが、同時に厄介なものを押し付けられてな」

 まだフローラはリビングで眠っている。それでも彼女に聞こえないよう、出来るだけ声のトーンを落として喋った。

「厄介なもの? まさかクスリじゃないだろうな」

「いや。どこかの家で飼われていた奴隷の女だよ。左眉から頬にかけて大きな傷が走ってる。足や腕にも傷があるようだから、全身見ればもっとひどい傷があるかもしれない」

 以前、事故で彼女の裸を見たときのことを思い出す。傷のひとつひとつ列挙すれば時間がいくらあっても足りない。裸体を見たと思われても面白くないので、その説明は省いた。

「主人が死んだからアルバートに処理の仕事が回ってきたそうなんだが、殺すわけにもいかないし、アイツの許に置いておくとまた人身売買の商品になるかもしれないというんで、今は私の家に住まわせている」

「なるほど、確かに困った話だな。その娘との関係はうまく行っていないのか」

「いや、今は概ねうまく行っていると思う。しかし私の家にずっと置いておくわけにも行かないだろう。歳を聞けばまだ二十かそこらだというから、いずれ自立出来るように社会に出してやりたいんだが、残念ながら私にはツテがなくてな」

 ディルクは唸った。彼は隣町で開業医を営んでいる。更生施設の類には明るいかもしれないと打ち明けたのだが、心当たりはないのだろうか。

「まあ本人の状態にもよるだろうな。対人関係が難しい状態だとまずリハビリが必要になるし、すぐ仕事というのは難しいだろう。と言って、あまり閉じ込めておくのも良くないしな。丁度いい機会だ、披露宴に連れて来ないか? 状態が良さそうなら紹介出来るところもあるかもしれない」

 願ってもない申し出のはずだ。私はすぐにでもその方向で話を進めるべきだと思った。しかし唇はどうにも重く、即答することが出来なかった。

「一度、本人に訊ねてみてもいいだろうか。見る限り対人恐怖症という感じはないんだが、彼女の気持ちもあるだろう」

 数秒考えて、答えは保留にした。事実、彼女の意思は大事だ。彼女に復帰の意思がなければ、まずその意識から変えていく必要がある。

「そうだな。それがいいだろう。なんなら、披露宴が済んで余裕が出来たら私が出向いても良い」

「ありがとう。恩に着るよ」

「しかし、アルバートがな。もう違う世界の人間のつもりでいたよ。そんな情が残っていたとはな」

 彼にとってはその部分も多分に衝撃的だったようである。アルバートはそれだけのことをしたのだ。

「私も驚いた。昔のような表情をしていたよ。案外、人間は根本までは変わってしまわないものなのかもしれないな」

「そうだな。流石に披露宴に呼ぶことは出来ないが、一度くらい会ってみても良いかもしれない。悪いが、もう数件掛けなければいけない先があるから、この辺で失礼するよ」

「引き留めて悪かったな。また連絡するよ」

 受話器を置いて、溜め息を吐いた。ディルクの結婚は素直に喜ばしい。これで昔バンド仲間で独り身なのは私だけだ。大した収入もなく、顔もあまり良い方でもない。名前が売れているということもないし、生活も不規則でよほど適切なパートナーが現れない限りは生涯独り身だろうと自嘲した。

 リビングに足を運ぶ。フローラはまだ規則正しい寝息を立てて眠っていた。袋を離す様子もないままで、穏やかな寝顔である。

「君はどうやったら幸せになれるのだろうな」

 頭を撫でる。ソファの前に座って頭を撫でてやる。薄い声が漏れて、ゆっくりと目が開いた。起こすつもりはなかったのだが、悪いことをした。

「おはよう、フローラ」

 声をかけると、朦朧とした目でこちらを見る。ゆっくり身を起こそうとしているようだが、布団がかけられていることに気づいて違和感を覚えたようだ。やがて意識がはっきりしてきたのか、顔を赤くして起き上がる。

「すみません。どれくらい寝ていましたか」

 彼女の問いに答えるため、時計を見た。リビングには時計がないので、ダイニングに置いてある時計を目を細めて見つめる。

「今が五時だから、一時間位だろうか」

 彼女は嘆息してみせる。

「シュトレン、食べなきゃいけなかったのに」

「夕食を軽めにして、食後のデザートにしよう。何時に食べなくちゃいけない、ってことはないはずだよ」

 元気がない様子で頷くフローラ。被っていた布団を畳んで私に手渡す。私はそれを受け取り、アトリエのソファに運んだ。部屋に戻ると、フローラは起き上がってダイニングの椅子に腰掛けていた。

「そうだ、フローラ。私の昔の友人が結婚するらしい。フローラも来ないかと誘われているんだが、どうだろう?」

 彼女は首を傾げた。何か伝わらない単語があったのだろうか。

「結婚というのはなんでしょうか」

「そうだな。大人の男性と女性が一緒に暮らそうと誓うことかな。基本的には一生で一人、生きていくパートナーを決めるんだ」

「そうですか。それはきっと素敵なことなんでしょうね」

 フローラはうっとりと言った。あえて家族と説明はしなかった。彼女にとって家族の記憶は傷そのものであるはずだった。

「素敵なことだ。そのお祝いに私とフローラが招待されているんだ。人が一杯集まる場所で緊張するかもしれないが、行ってみるか?」

「はい、是非参加させてもらいたいです」

 強く頷くフローラを見て、胸がチクリと痛んだ。そんな傷みを感じる必要はないはずだ。少なくとも彼女にとって、私のもとに居続けるよりいい選択肢が見つかるかもしれないのだ。

「では夕食にしよう。シュトレンも食べなきゃいけないから、軽めのメニューにするよ」

 私は逃げるようにキッチンに入った。フローラはシュトレンという単語に幸せそうな笑顔を浮かべるばかりで、私のそんな様子は気にもしていないようであった。

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