冬を前にして

 フランクはすでにこの街でも認められつつある有望な画家である。その彼ですら必死になって私が作り上げた額縁が自分の作品に適切かどうかを見極めようとしていた。この街は世界有数の美術街と言われている。ここで認められるということは、画家としての人生の安泰を示すのだ。そのためには額縁まで一切の妥協は許さない。それが彼、フランクという男だった。

「いい仕事だ。これなら今度の展覧会も戦えますよ」

 一頻り完成した額縁を眺めたフランクは感激したように右手を差し出す。私もそれに倣って、強く握手をした。

「幸運を祈っています。フランク君ならきっと大丈夫ですよ」

 私は心の底からそう思った。彼の才能は本物だと絵画には明るくない私にもわかる。それなりに名の売れた職人として何人もの画家を見てきたが、彼が持っているセンスはだれでも得られるようなものではない。一種先天的に備わっているものだ。

 彼は私の額を気に入ってくれたようだが、きっと私の額縁である必要はないのだ。私は手作業でしか額を作らない。フランクの作品に合わせて金箔を施したりはしないので五日程度で仕上げられたが、複雑なものになれば二週間ほど要することもある。そして、かかる時間の分報酬を高く求めてしまう。画家に対して優しい職人ではないのだ。対して機械で大まかな作業をやってしまい、もっと早いペースで額縁を仕上げるアトリエはある。それでも毎回私のアトリエに作品を持ち込んでくれる彼には頭が上がらない。

「ではまた、結果は報告に上がります」

 額に収めた彼の絵『ほとり』を担いで、彼はアトリエから直接大通りに出るドアに向かって歩いて行く。私はそれを追いかけて彼を送り出そうとしたが、フランクは扉を開く前に立ち止まって口を開いた。

「そういえば、誰だったかな。フローラさん? はお元気ですか」

「ええ。元気にしていますよ。私が額縁制作に集中していたので、あまり世話してやれていないのですが。呼んできましょうか」

 フランクは笑って手を振ってみせた。

「いいえ。わざわざ呼んでいただくほどのことではないのですが。随分傷が深いようでしたから、なんだか心配で」

「はい。悲しい事故でした。彼女の中でも恐らく大きい心の傷だと思いますから、話す機会があっても無理に聞かないでやってください」

「もちろんですよ。その程度の分別はつきます。言うまでもないとは思いますが、ハルトさんもフローラさんに優しくしてあげてください」

「ええ、そうするつもりです」

 フランクは笑ってアトリエをあとにした。彼の絵を収めた私の額を持って。そうして額が私の手を離れる時、私はいつも多少憂鬱な気分になる。加えて、彼が最後に口にしたことが心に重石を載せている。

 彼女に優しくし続けることに自信は持てなかった。彼女を迫害しようとは思わないが、不意に彼女の痛む傷に触れてしまわないかという心配が常にある。下手に触れれば壊してしまいかねない。

 何気なく口にしたのだろうフランクの言葉で、私ははっきりと自分の気持ちを知ることになった。私は彼女と関わることを怖がっているのだ。自然とそんな言葉を口に出来るフランクならばこんな不安を抱くこともないのかもしれない。

 解決出来ないメランコリーを抱えながら、私はダイニングに戻った。彼女は何をするでもなくリビングのソファに深く腰掛けて退屈そうにしていたが、私の姿を見ると姿勢を正した。バネが弱くなっていて身を任せるとどうしても座面に埋もれてしまうので、余程背に力を入れないとそのような背筋の伸びた姿勢にはならないだろう。それだけ、彼女と私の間にはまだ距離があるのだ。

「フランクくんは気に入ってくれたよ。今回の仕事は終わりだ」

「そうですか」

 彼女は素っ気なく言って、私の方を向こうともしない。どこか違和感があった。

「どうかしたか、フローラ。何か不安か」

「いいえ、そんなことはありません。ハルト様」

 その言葉ではっきりした。呼称が様付けに戻っている。彼女がアトリエに入ってからと言うもの、どこかに置き忘れていた無関心の仮面がまた彼女の顔に嵌められているのだ。何があったのだろう。仕事中放っていたことをと怒っているわけではないはずだ。

 昨日夕飯を共にした時にはまだ『ハルトさん』と呼んでくれていた。今朝の朝食はどうだったろうか。私は額のことが気になっていて、食卓の席のフローラについて意識を割いていなかった。しかし、特別の会話はなかったはずだ。失言は考えにくい。失態も思いつくものはなかった。

 では一体何が彼女にその仮面を渡したのだろう。私は強くショックを受けていた。いくつかの出来事を通して、彼女とは随分近い距離まで近づけたと思っていた。それが、なぜ急にこんなことになってしまったのだろう。

「なあ、良ければ将棋でもやらないか。昼食まで少し時間があるだろう」

「遠慮しておきます。先程お茶は頂いたので、それも結構です」

 先回りで誘い文句を潰される。私はさらに打ちひしがれた。将棋も紅茶も彼女が初めてこの家に来た時には受け入れてくれたものだ。それすら拒絶されている。私たちの関係は、初対面より悪くなっている。

「そうか、すまない」

 その場は引かざるを得なかった。単純に虫の居所が悪いだけかもしれない。少し時間を置けば、また元の関係に戻れるかもしれないと慰めのように考えた。


 一緒に昼食を終える。その間、言葉のキャッチボールはなかった。私が適当な話題を投げても返ってくるのは相槌か拒否だけで、とても会話と呼べるものは成立しなかった。

「なあ、フローラ。そろそろ食材の買い出しに行こうと思うんだが、一緒にどうだ。街に買い物に出るのも」

「お断りします」

 最後まで言わないうちに、拒絶の言葉が吐かれる。私はそれでもめげずに食い下がった。

「わかった。じゃあ何か食べたいものはあるかい? 買ってこよう」

「ありません。ハルト様の好きなものを買うべきだと思います」

 そこまで言われてしまってはもうどうしようもなかった。私はただ、買い物をしているうちにその仮面を彼女が外してくれることを祈った。

 自宅を出て川沿いの道を歩くと、一段と冷たくなった空気が頬を撫でる。いよいよ秋が過ぎ、冬がやってくることを風が喧伝していた。歩幅を小さくして、刻むように歩く。なるべく長い時間を潰したかった。家に帰りたくなかった。

 やがて頬を切りつける風に乗って、焦げるような匂いが鼻をつくようになる。市場の匂いだ。人の営みの匂いである。さらに少し歩くと視界にも市場の景色が広がった。昼下がりということもあり、買い物に出てきたのだろう女性や家族連れ、疲れたような男、その隙間を縫って駆ける子どもたちと色々な人間が行き来している。

 私は市場で買い物をすることはあまりなかった。人嫌いというのではないが、値段がわかりにくかったり、大きな列が出来ていたりして時間がかかるのが苦手だった。市場街を抜けて少し行くと狭いスーパーがあるのでそちらをよく利用している。今日もスーパーまでの道をゆっくりと歩いた。往来が激しく歩きにくいのが厭わしく、いつもは多少遠回りをしたりもするが今日に限ってはその混雑に救われるように思った。時間がかかるというのも悪いことばかりではない。それでも、市場を利用する冒険をしようとまでは思わなかった。

 やがてスーパーにたどりつき、硬貨を財布から取り出してカートをレンタルした。いつもどおり、毎日消費するパンや乳製品、ウインナーやジャガイモ等をカートに入れていく。一人なら然程気にしないのだが、栄養状態があまりよくないだろうフローラの為に野菜の類もいくらか仕入れた。肉や魚の料理も考えたが、今日は仕事終わりで疲労も残っているので凝った料理をするのは面倒だ。保存が効きにくいこともあり、今日は見送った。

 おおよそ主食や必需品をカートに入れたあと、フローラへの土産を考えた。菓子のストックはもうないはずだ。チョコレートやグミ、少し奮発してケーキを買ってもいいかもしれない。そう考えて、私はフローラの好みを知らないことに気づいた。嗜好品に限らず、普段の食事も私が出来るものをなるべく続かないようにローテーションするばかりで、彼女の好みに合わせるということをしていない。

 一際落ち込んでしまう。大きな作品を送り出したあとはいつもこうだが、今日ばかりはフローラの比重が大きい気がする。私は自分で想像しているよりもかなり強く彼女のことを気にかけているらしかった。頬を叩いて、しっかりしなくてはいけないと鼓舞する。元々、困難なことだとはわかっていたのだ。多少拒絶された程度で挫折してはいけない。

 売り場を悩みながらさまようと、巨大なシュトレンが目に入った。この辺りでは風習的にクリスマスまでの期間に食べる、砂糖でコーティングされたフルーツ菓子パンのようなものだ。それを見て初めて気がついたが、クリスマスまでそろそろあと一月という頃合いであった。私はそれをカートに入れて、人がまばらなレジを選んで最後尾に並んだ。

「いらっしゃいませ」

 私の番が回ってきたので、レジ横のレジ袋を二枚取ってベルトコンベアに載せる。レジ袋も毎回買っていると財布に優しくないとは思うのだが、それ専用のバッグを買って買い物の度にぶら下げてくるのは煩わしいと思えた。

「シュトレンですか、珍しい。誰かとお祝いでも?」

 ベルトコンベアの前に座って商品を右から左へ流している男性店員に声をかけられた。常連なので、古株の店員とはすっかり顔なじみである。名前を覚えるのが苦手な質で、彼の名前までは思い出せないもののよく話す相手ではある。

「ええ。どうも機嫌を損ねてしまったようなので、機嫌取りになればな、と」

 私は彼が流す商品を袋に詰めながら返す。

「彼女さんですか。羨ましいな、俺は結局今年丸々独り身でしたよ」

「いや、親戚のお嬢さんで。扱いが難しいですし、いいことばかりでもないですよ」

「そうですか? 家に一人じゃないっていいと思いますよ。今までお菓子はあまり買われませんでしたけど、食卓にも変化があったんじゃないですか」

 二人とも手元は忙しいので、視線を交わさず会話をする。彼の言うことは尤もだ。彼女がいる生活は、無味乾燥な一人暮らしとはまったく違っている。

「それはそうかもしれないですね。一人じゃないだけで随分生活が充実している気がします。今年はダメだったと言わず、年末を過ごす相手を探してみるのもいいかもしれないですよ」

「そうだな、それもいいかもしれない。出会いがあればいいんですがね」

 雑談はそこで終わって、私は支払いを終えてスーパーを出た。どう彼女に受け入れてもらうかという答えこそまだ出ていないが、彼女と暮らしていくことに自信が持てたように思えていた。

 覚悟はしていたことだが、彼女の仮面はまだ剥がれていなかった。

「今は結構です。あとで頂きます」

 シュトレンを見た彼女の言葉はそれだけだった。しかしそれは翌日も、その翌日になっても封が開けられないまま、ただクリスマスを待つ置物となってしまった。

 事がそこまで至って、ようやく私は悟った。彼女がつけた仮面は無関心のものではない。はっきりした拒否を示す拒絶の仮面だったのだ。


 季節は思ったよりも早足で冬を目指していた。クリスマスも近い十一月末だ。当たり前のことではある。私はアトリエで起き上がったその瞬間にそれを強く感じた。

「来たか」

 季節の変わり目、とくに秋から冬に変わる頃には気管の調子が悪くなる。医者に言わせれば喘息という病で、一生付き合う他ないという。

 喉元で笛が呻くような音がして、激しく咳き込んだ。こんな日は本当に何も出来ない。出来ないのだが、今回は今までのように一人ではなかった。フローラは恐らく言えば簡単な貯蔵食で済ませてくれるだろうが、本格的な調理は出来ないはずだ。ただでさえ制作中、それらで済ましてもらっていたのだ。栄養状態をあまり悪い状態で引きずるものではない。それは自分自身の実体験からも明らかである。

 重い体を起こして、朝食を用意することにした。咳だけで済めばまだしも、どうしようもなく重い気だるさがのしかかってくるのが実に厄介だ。私は何度も咳き込みながらアトリエを出てダイニングへ向かった。いつもは何でもない扉すら重く感じられる。

 アトリエも冷えていたが、ダイニングは余計に寒く感じられた。彼女にその寒さを味わわせては偲びないのでストーブに火を入れた。空気が悪くなるので、咳にはあまりよくないが仕方ないことである。

 キッチンに入り、スクランブルエッグとサラダをでっち上げる。ウインナーにも火を通しておく。移るような病でもないはずだが、人に出す料理に唾が入るのは私としても面白くないのでマスクを付けていた。布一枚挟む分、余計に息苦しくなる。喘息のことだけを言えばあまり良い処方ではない。実際、外出の必要がなければマスクを付けて過ごす習慣はない。

 時計を見やる。恐らくそろそろフローラが降りてくる時間だった。私が冷めた食パンが嫌いなので、パンは彼女の顔を見てから焼く事にしていた。よってまだ完成とはいかない。その間も、何度も咳き込み続ける。早く降りて来て欲しいと望みながら、階段に視線を飛ばした。

 二人の生活を始めてからというもの、二階は彼女の聖域だ。どう使っているか私は把握していない。恐らく毎朝身支度をしっかり整えているのだろう。降りてくる時には普段着に着替えている。そのせいで折角買った寝間着を着ているところを見た事はまだない。洗濯に出されることを見るに、無駄にしているという事はないようではあるのだが。

 今は特例で、その聖域を犯して声をかけてもいいかもしれない。発作はそれだけ私から余裕を奪っていた。そもそも彼女からの申し出があって二階に入っていないのではない。私が勝手に決めていることである。

 しかし、彼女が私を拒絶している今、不用意に距離を詰めるのは良くないだろうと私はその考えを一蹴した。一時の発作を理由に、その拒絶の仮面が彼女の顔に接着されることは受け入れられない。

 息苦しい。この発作が出ている間は妙に心細くなる。早く彼女が降りて来てくれればいいのだが。太陽が寝坊をしている。部屋はまだ薄暗く、部屋の端には夜が残っている。ストーブの熱も冷たい夜気を吹き晴らすことは出来ずに燻っていた。と、階段を軽い足音が降りてくるのを悟る。私はパンをトースターに投入して、フローラに声をかけた。

「おはよう」

「おはようございます」

 と言いかけたフローラは私の突然の咳に驚いたのか、言葉と足を止める。

「失敬、持病なんだ。寝ていれば治る。朝食は用意してあるから、食べておいてくれ」

 その間も大きな咳が続いて、たったそれだけのことを伝えるのにも苦労した。気管が万力で締められているような錯覚がある。呼吸が考えられないほど重労働で、言葉を発することが実に難しい。

「そんな。そんなに咳いているのに」

 彼女から働きかけるような言葉を久々に聞いたような気がして、妙に落ち着いた。

「移るようなものではないんだ。心配しなくていいよ」

 自分でもどこかずれているとわかるフォローをする。パンが焼けるのを待つのが実にじれったい。それが焼けてしまえば、もうアトリエに引っ込むつもりだった。

 彼女が立ち尽くしているダイニングに一先ずスクランブルエッグとサラダ、ウインナーを運ぶ。その間も咳は出てしまうので、万が一マスクの隙間から食器に飛んだりしないように服の腕部に押しつけるように咳いた。

「パンがもうすぐ焼けるから、先に食べ始めてくれ。しまった、茶がないな。いま淹れる」

「待って、待ってください。ハルトさんは、ハルトさんの分は」

 錯乱した様子のフローラは、何を言っていいかわからないという風に言葉を探りながら発した。私は頭を掻いて答えた。

「食欲がない。というか、こういう時は大抵気管に引っかかる。食べないほうがいい」

「いいえ、そういう時こそしっかり栄養を摂るべきです。お茶なら私も淹れられますし、簡単な病人食くらいなら作れます。ハルトさんは座っていてください」

 フローラの様子があまりに鬼気迫っているので、私は気圧されてしまった。

「ああ。なら即席マッシュポテトがある。お茶を淹れるついでに多めに湯を沸かして、混ぜあわせるだけでいい。冷蔵庫にバターがあるから、混ぜてくれると食べやすい。それから、私の分もお茶を頼む」

 ダイニング・テーブルについて、特に技能がなくとも出来そうなものを提示した。即席マッシュポテトなど、普段好んで買うものではない。額縁制作の間のフローラの食事として仕入れていなければ彼女が満足出来る病人食が完成するまで待たされるところだった。彼女の手料理が嬉しくないと言えば嘘だが、待っているのは辛いというのが正直なところである。

 フローラは慌ただしくキッチンに入って、準備を始める。額縁完成以来、完全に距離を置かれてしまったと思っていたのだが、まるで意地を張っていたのを忘れてしまったようだ。そうなると余計になぜ距離を取られてしまったのかが気になった。本当に嫌われたのだとしたら、いくら私が不調でもこう甲斐甲斐しく動いてはくれないだろう。しかし彼女の気持ちをはかることは叶わず、何度も考えたような説得力のない予想が浮かんでは消えるばかりで、酸欠で朦朧とする頭には難しい命題だということがわかった。

 フローラは出来上がったマッシュポテトと紅茶、自分の分のパンを運んでくる。随分と長い間キッチンに篭もっていたように感じたが、私がだるい体を無理やり起こしているからそう感じるだけかもしれなかった。

「ありがとう。冷めないうちに食べよう。いただきます」

 フローラの着席を待たずに食事を始める。今までつけていたマスクを外すと、幾分か呼吸がマシに感じられた。

 マッシュポテトが危惧したとおり喉に引っかかる。これならスープの素でも買ってきておくのだったか、とどうにもならない後悔をした。激しく咳き込んで、逃れるように紅茶に口をつける。呼吸が不愉快な音を伴って呻く。下手な笛吹きが胸で暴れているようだ。

「済まない。食卓で礼儀が悪いのはわかっているんだが」

「そんなこと、今気にする必要はありません。ゆっくり食べてください」

 叱りつけるように言われ、仕方なく匙を進める。バターの塩味がやや薄く、食べ進め辛い。紅茶で流し込むように食べる。温かい紅茶は狭められた気管を解すような感覚があったが、どうやら砂糖が入れられていて妙に甘かった。ティーバッグの粗製なお茶に嗜みも何もあったものではないが、ストレート以外で飲むことがない私には抵抗のある味だ。それでも彼女が作ってくれた以上は食器を空けようと思った。その程度の礼儀はたとえ病で参っていようと失っていない。

 しかし彼女は私の食べっぷりにはさほど興味はないらしく、食べながら漏れる咳の音ばかりを気にして、その度に自分の食事を止めて私の様子を伺うのだった。これでは私はまるで幼児である。彼女が母だとすると、私には十歳ほど年下の母がいることになる。実に父親の顔が見たい。少なくとも、私の父のように神経質な顔はしていないだろう。そんな些末な妄想が浮かんでは消える。思考が上手く回っていなかった。

「ありがとう、美味しかったよ」

 遅々としたペースで食べていたせいで、完食は彼女より随分遅れることになった。彼女はその間ずっと心配げに私のことを眺めていたが、私が食べ終えたのを見て安心したのか大きな溜め息を吐いてみせた。そして、私の言葉に返事はせずに私の分の食器まで運んでしまう。

 昨日までの距離の取り方とはまったく違っている。苛立たしげにしているが、私に対しての拒絶は影も形もない。喜ばしいことではあるが、怒られているような気分だった。私は肩を竦めてアトリエに向かった。

「どこへ行くつもりですか」

 それを見咎めたフローラが棘のある語調で私を引き止める。

「アトリエの寝床へ。心配はいらないが、休ませてもらわないと治るものも治らない」

 それを言うと彼女の語調はいよいよ強く激昂の色を隠さなくなる。

「あんな所で寝ていたら、余計悪くします。いけません」

 そう言われても、と思う。外泊の用がある時を除けば、あのソファが正しい私の寝床であった。他に眠れるような設備はない。いい加減、彼女のお節介に苛立ちが募りはじめていた。善意で言ってくれていることではあるのだろうが、咳で精一杯の私はその善意を上手く処理出来ない。する事なす事否定されては不愉快にもなる。

「じゃあ私はどこで寝ればいいんだ」

 不意に語気を荒げてしまう。失敗した。そんなつもりではなかったのだ。しかし彼女はたじろぎもしなかった。

「私が借りているベッドを使ってください。でなければ、私はこの家を出ていきますから」

 怒りの深度は彼女のほうがずっと深い。今にも掴みかかろうかという剣幕で私に近づき腕を取る。私は抵抗の力を失くして、否定を差し挟む前に彼女の手に引かれて二階へと上がった。


「本当にいいのか。フローラがいつも使っているベッドだろう」

 彼女の部屋の前まで来て、今更どうにもならない質問をする。フローラは答えもせず、視線だけで私を制した。恐ろしい目だ。睨み殺されるかと思うような気迫の碧眼に、つい目を背けてしまった。

 その隙に彼女はその部屋の戸を開き、私を中に引きずりこむ。体格に随分差がある彼女に馬力で負けるというのも情けない話だ。彼女はそれだけ本気だったし、私はそれだけ弱っていた。

「ゆっくり休んでください。汚くは使っていないつもりです」

 それは謙遜だった。片付けて宛てがった部屋だが、それでも片付けきれなかった荷物が消えて、彼女の衣類等もきちんと収納されている。一、二時間ほど前に起きたばかりだろうが、ベッドの布団は整えられてまるで誰も使っていないようだ。

「きっといい嫁になれるな、フローラは」

「変なこと言っていないで早くベッドに入ってください」

 彼女に白い目で見られ、言葉どおりにする。掛け布団を胸まで被ると、フローラの香りが微かに鼻をくすぐった。それに合わせてまた大きく咳き込む。普段とは違う環境を楽しむ余裕はないと体が告げていた。仰向けになると呼吸が苦しいので横臥の体勢になる。すると廊下側のベッド脇の椅子に腰掛けて、じっと私の様子を見つめているフローラが自然と目に入る。眉間には皺が寄っていた。その皺のすぐ右隣を大きな傷痕が走っている。

 彼女はまだ怒っているのだ。私は咳が一段落すると、彼女に声をかけた。

「なんだか今日はよく喋っているな、私は。うるさくないか」

「いつもどおりですよ。特別ということはありません」

 彼女が怒りの残滓を感じる口調で放った言葉に納得した。普段より発声に余分なエネルギーが入っているから疲労しているのか。納得はしたが、それを言葉にしてフローラに伝えたり、妙なことを言ったと謝罪をしたりしてはここで会話が途切れてしまう。何かいい話題はないものかと考えていると、大きく溜め息を吐いたあと、彼女が口を開いた。

「しっかり休んでください」

「ああ、そうするつもりだが。今日は随分優しくしてくれるんだな」

 彼女は驚いたような表情をする。顔に走る傷が、少し緩い角度になる。怒りが収まってきているようだった。

「よければ教えてくれ。少し前から私と距離を取っていただろう。私は何か悪いことをしたんだろうか」

「いいえ、そんなことはありません」

 彼女はそう言ったあと、また大きく溜め息を吐いて一拍置いた。そして微妙な表情で語り始めた。

「苦しければ返事はいいですから、聞いてくれますか。少し前、夢を見たんです。昔の夢でした」

 その顔は怒りでも無感情でもない。といって、悲しみでもなかった。最初に彼女がこの家にやってきた時に見せた、諦観のような表情だ。何もかも諦めてしまっている。過去のことも未来のことも、明るい出来事は自分にはまったく関係がないというような表情だった。

「私は貧しい家の出で、その日食べるものにも困っていました。医療費などどこからも出ないお金です。いつか、私の父は病気でした。激しく咳いて、息が出来なくなる病気です」

 いくつか思い当たる病はあった。そのいくつかは重篤化すれば命に関わるものである。私の喘息にしても、重篤な発作が起こる患者はいるそうだ。彼女の父もそういう呼吸器系の病を持つ病人だったのだろう。

 彼女は言葉に迷いながら続けた。辿々しく言葉の少ない語りだが、胸倉を掴まれるように話の内容に引き込まれていく。

「母だけの稼ぎではどうにもなりませんでした。私は売られ、そして後に両親とも同じ病で亡くなったことを知りました」

 流行り病だったのだ。幸運にも彼女はその病の魔の手を逃れた。難病に苦しんで亡くなる。それはとても辛いことのはずである。私はまた咳き込んだ。けれど、彼女の両親の苦痛はこんな咳の比ではなかったのだろう。

 しかし、その幸運は富豪の家に奴隷として買われるという不運でもあった。彼女がそこで受けた苦痛と病の苦痛、どちらが苦しく辛いものか、私には想像が出来なかった。彼女は続けた。

「私は生き残ってしまった。今でも自殺を考えない日はありません。私ばかり幸せになってはいけない、って。ハルトさんに甘えてしまう自分が怖かったんです。ですから、距離を取ろうとしていました。ハルトさんに嫌われて、今の幸福を失えるように」

 それが彼女の拒絶の仮面の真相であった。その仮面の下に涙は見えない。そんなものはもう枯れ果ててしまったのだろう。

「しかし、両親はそんなことは望んでいないだろう」

「そう思われますか?」

 通り一遍の擁護を聞いて、フローラは自嘲気味に笑った。薄く伸ばされた諦観が膜のように彼女の顔を覆っている。

「母から最後に届いた手紙がありました。一字一句忘れずに覚えています。『あなたがもっと高く売れていれば、父さんが亡くなることもなく、私がこんなに苦しむこともなかったのに。どうしてあなたを産んでしまったのか、後悔に耐えません』。あえて不幸になることを望んでこそいないかもしれませんが、幸福になってくれなんて思ってもいないでしょう。私が夢に見たのは、まさにその手紙を前の主人が私の前で読み上げるところでした。主人の寵愛を受ける奴隷たちがくすくす笑って、私が泣くのを眺めていました」

 私は黙ってしまった。彼女の経験した人生の深さ暗さに私の想像力はまったく及んでいなかった。下手なことを言って気を悪くさせただろうか。彼女は相変わらず、諦観のヴェールの向こう側に姿勢正しく座っている。

「ですがそれでも私の両親です。私だって、救えるものなら救いたかった。もしも私がもっと成長していたら、でなければ力仕事の出来る体であれば、もっと高い値段で買われていたのに。そうであれば、もしかしたら両親を助けられたのではないか、と何度も考えました。でも及ばなかった。どんな罰を受けても仕方ない身なんです、私は」

 私が考えて勝手に決めつけた彼女の心情のなんと薄っぺらだったことか。実際は真逆だ。彼女は一家心中をこそ望み、さもなくば自分がどんな苦痛を受けてでも両親を救う事を望んだ。その希望は高潔などと言ってしまっていいものではない。どこまでも深く横たわる海溝よりもさらに暗い絶望ですら、彼女にとっては叶うことを願う希望だったのだ。

「このままハルトさんに嫌われ続けて、追い出すなり、殺されるなり、また売られるなりしたかった。ハルトさんは優しい。私には優しすぎます」

 そんなことを言って、彼女はまた私を遠ざけようとする。けれど表情は素直だった。今まで被っていた諦観のヴェールを破って、私に悲しげな表情を見せる。その顔は私に助けて欲しいと確かに言っていた。

「今朝、ハルトさんが咳いているのを見て、ハルトさんまで死んでしまうんじゃないかって。私はハルトさんに嫌われようとしていたのに、ハルトさんが死んだら私は今度こそ耐えられない。私は、ハルトさんが」

 フローラは続ける言葉を失い、沈黙した。その先は未だ彼女にも答えが出ていないのだろう。彼女の中で私は優しいだけの人間なのか、あれば助かる生活用品なのか、それとももう失いたくない人間になっているのか。

 そして私にもその答えを聞く勇気はなかった。私は手を伸ばして、彼女の頭を撫でる。ヴェールはもうない。彼女の柔らかな髪の質感が伝わった。彼女は力なく笑ってみせる。

「それ、本当に好きですね」

「言ったろう、癖なんだ。発作が出ている時、母はよくこうして頭を撫でてくれた。昔は胸でも撫でてくれた方が余程いいと思ったものだが、どうやら頭で正解だったな。お陰でフローラに嫌われずに済む」

 そんな冗談を言って、彼女の頭を撫で続けた。フローラはいくらか明るい表情を取り戻した。

「他の誰が望んでも私はフローラに不幸になってほしいとは思わない。私がフローラの幸せを望んでいる。ついでに付け加えると、私は死なない」

「信用していいんですか」

 彼女は真面目な顔で質問をした。私も出来る限り真面目な顔で答える。

「勿論だ。幸福になってもらわないと困る」

 フローラの傷を癒やすことは今はまだ出来ない。きっと今話したことでさえ、彼女の傷の全てではないのだ。それでも彼女の痛みを少しでも和らげることが出来たら、と思う。

 フローラは微笑み、迷いながら切り出した。

「もしかして、今も頭を撫でてほしいですか」

「いいや、いくら何でもそんな歳じゃない。第一、フローラが母親だなんて、父さんがとんだプレイボーイになってしまう」

 神経質そうな顔で、厳かな咳払いをしてみせる父の顔が思い浮かんだ。フローラはまたくすりと笑う。その表情には先程までの怒りも諦観も悲しみもない。私は安堵した。

「確かに。ハルトさんと私とでは二十は離れていますし、お父様とでは五十近いかも」

「二十? いくらなんでもフローラが十二歳ということはないだろう。精々十五歳差というところじゃないか」

 フローラは首を傾げた。私も同じように首を傾げる。

「二十歳年下で十二歳って、ハルトさんってお幾つなんですか」

 指折り数えるような仕草をする彼女を眺める。もしや、計算を習ったことがないのだろうか。両親が彼女を売った歳によってはありうることだった。

「三十二だが」

 フローラはええっ、という絶叫とともに椅子を立ったが、すぐにハッとしたように椅子に座りなおす。つまり、私は随分上に見られていたようである。力が抜けて、仰向けの体勢になった。胸が少し苦しくなる。

「すみません」

 彼女はその仕草を怒りと取ったのか、謝罪の言葉を述べる。怒ってはいないが、少し意地悪を言ってみたい気分ではあった。

「怒ってはいない。ただ、撫でられてみるのも悪くないと思っただけだ。頼む」

 元はと言えば彼女が言い出したことだ。多少撫でやすいように顎を引いて待ってみる。やがておずおずと手が伸ばされ、私の頭に触れた。

「なんというか、毛が硬い感じがしますね。自分以外の髪を触るなんてあまりないので、新鮮です」

「そうだな、フローラの髪は細いし、実に綺麗だ。しかし繊細だから、傷みが目立ってしまう。今度出かけたら、いい洗髪道具を揃えよう」

 ただ触っているだけのフローラの手のひらを感じた。少し冷えている。台所仕事で手が濡れたせいだろう。

「良ければ、お願いしたいです」

 ゆっくりと撫でる動きに変わる。彼女の手のひらは柔らかく、予想以上に心地がよかった。この歳になっても、母という存在は未だ強く残っているものらしい。揺籃の記憶に浸り、私は包まれるように眠気に襲われた。

 眠ってしまう前に訊かねば次訊く機会はないと思われる質問だけ、意識を奪われない内に彼女にぶつけることにした。

「それで、フローラは今何歳なんだ」

 フローラの手が一瞬止まり、またゆっくりと動き出す。

「もうすぐ二十二になるはずです。今は二十一です」

「なんだ、ずっと近いな。母は困るが恋なら出来る年齢差だ」

 心中つぶやきながら眠りに落ちる意識の中、彼女の手が微かに震えているように感じられた。


 目を覚ますと、知らない匂いがした。アトリエで寝なかったのか、と朦朧とする頭を整理する。随分と柔らかい布団で寝ている。一体何があったのか。左を見ると、椅子の背もたれに腰掛け、顔を少し俯けて眠っているフローラの姿があった。

 意識が明朗になるにつれて、ここがフローラの部屋であることや発作が起きたことを徐々に思い出していく。その拍子に、思い出したように胸の笛吹きが妙な音を立てて息を吸い込み、大きく咳き込んだ。腹筋が痛む。どうやら寝ている間も咳き続けていたらしい。そして、その咳でフローラはハッと目を開き、姿勢を正した。

「おはよう、フローラ」

「おはようございます、具合はどうですか? 寝ながらもかなり咳いていましたが」

 上半身を起こして、胸に手を当ててみる。呼吸の度に異音はするので気管はまだ狭まった状態なのだろうが、幾分か呼吸は楽に感じられた。

「少しいいようだね。フローラのお陰だ。一人なら何も食べずにアトリエのソファで眠る所だった」

 そう言うと、フローラは安心したという風に深く椅子に腰掛ける。

「もう昼ごろだろうか。何か作ろう」

「私が作りますよ。料理も出来るようになりたい、と今回思いました」

 マッシュポテトと紅茶を思い出す。正直あまり美味しいものではなかったのだが、そのあたりは探っていく他ない。

「では簡単な調理を教えよう。降りようか」

 まだ重い体を引きずって、フローラと共に一階に降りた。そのままキッチンに入ろうとするとフローラはそれを阻んだ。

「椅子を持っていきましょう。立たせたままでは私が作る意味がありません」

 拒む理由はないので、彼女が運ぶのを眺める。その程度なら運んでもいいのだが、言っても彼女に叱られるだけだろう。

 私はキッチンに置かれた椅子について、彼女に何を教えるか思案した。どうやらガスの扱いは問題ないようなので、包丁を使う料理だろうか。それでいて難しすぎないとなると私にあまり候補はなかった。

「ジャガイモのスープにしようか。基本的な料理だし、引っかからなくて食べやすい」

「はい。まず何をすればいいでしょうか」

 まずベーコンとタマネギ、ニンジンに加えて主役になるジャガイモを取り出してもらう。まな板と包丁も用意するように言った。

「本当は色々と切り方があるんだが、この料理は最後にミキサーにかけるから、火のとおりやすい大きさにすればいい。まず簡単なベーコンからやろうか」

 フローラは最初こそ手つきが危うかったものの、簡単なアドバイスをするとすぐに包丁という道具を扱えるようになった。ジャガイモの皮むきも私より上手いくらいだ。ニンジンも切り終え、タマネギに取り掛かる。

「まず皮を剥いて、半分にしてから切れ込みを入れるんだ。全部切ってしまうとばらけてしまうから、端の方は切ってしまわないように」

 言われたとおりにテキパキと作業を進める。料理の素質はあると見えた。味付けのセンスの着地点さえ見えれば、台所を彼女に任せることも出来るようになるだろう。

「オーケー、あとは切れ込みとは違う向きから切ってやればバラバラになる。みじん切りと言うんだ」

 彼女はそのとおりにやってみせたが、不意に包丁を置いて手の甲で目をこすった。

「あれ、なんで涙なんか」

「ああ。タマネギを切ると涙が出るんだ。なんでも、刺激物が出ているらしい。目には見えないし、沁みる程度で害はないよ」

「そうでしたか。私、今結構幸せで。嬉し涙というものかな、なんて思いました」

 振り返って笑ってみせる彼女に、不意にドキリとさせられた。幼気の抜けない、緩い笑顔だ。何度か彼女の笑顔は見てきたが、初めての笑顔だった。

「さあ、火を点けてベーコンから火にかけよう。十分火が通ったら、野菜を入れて炒めるんだ」

 私は照れを隠すように次の指示を出した。彼女は気にした風もなく調理を進める。私はその様子を見ながら、先程彼女が見せた笑顔を頭の中で繰り返し再生していた。


 完成したジャガイモのスープに二人で口をつける。私は食欲がまだあまりなかったのでパンは食べないことにしたが、フローラのスープにはパンも添えられている。果たして、その味はとても素晴らしい出来だった。簡単な料理とはいえ、初めての作品としては上出来である。

「美味しいな。これからスープはフローラに任せても良さそうだ」

 忌憚ない意見を述べると、彼女は照れるようにして笑った。また新しい笑顔である。どうも今回のことで、フローラの心は少し開かれたようだった。私の望んだことではあった。けれど、実際その様を目にすると恐ろしくなってしまう。彼女は実に美しい容姿をしており、下手をすると心を奪われてしまうそうになるのだ。今までも整った顔だとは思っていたが、感情をストレートに表現する今の様子を見ていると、それは過小評価だったのだと思い知った。

「そう言えば聞かねばと思っていたんだが、フローラはなにか好きな料理があるかな。デザートでも構わないんだが」

 今度も意識的に話を逸らした。彼女は今度もそれと気づかなかったようで、思案するように人差し指を顎に当てて天井の方を見つめた。その様もまた可憐に映る。

「そうですね、マッシュポテトかパンくらいしか食べてこなかったのであまり料理の種類には詳しくないのですが。ハルトさんのこのスープはとても美味しくていいと前から思っていました。あとは、将棋をしたあとに食べたお菓子が美味しかったです。名前は忘れてしまいましたが」

 そうか、と思った。貧しい家に産まれ、富豪の家に売られて、そこでも自由の効く食事は出来なかっただろう彼女はそもそもどんな料理があり、どんな菓子があるかを知らないのだ。

「では、食後のお茶にこの間買ってきたシュトレンを食べないか。きっと気にいると思う」

 そう聞いた彼女は身を乗り出して、催促をした。

「早く食べちゃいましょう、ハルトさん。お茶は私が淹れますから」

 未知の甘味に色めき立つ彼女。本当に急激に感情を表出するようになった。その度、庇護欲というのか、守ってやらないといけないという気持ちが沸々と湧き上がる。魔性の魅力とでも言うべきだろうか。

「悪い人だ」

 私が呟くと、フローラは首を傾げてみせる。何か悪いことを言ったろうかという顔だ。私はなんでもないと首を振って、彼女の興味を促した。

「私はまだあまり食欲がないから、ゆっくり食べたい。フローラが食べ終えたら、先に用意しに行っていい。私の分もお茶を淹れてくれ」

「はい!」

 元気よく返事をして、スープをハイペースで口に運ぶ彼女を眺める。と、大きく咳き込んでしまい、彼女が先程までの溌剌とした様子を潜めて心配そうな表情を作った。

「すまない。さあ、早く食べてしまおう」

 私が笑うと、彼女もそれに倣った。そしてまた真剣にスープを食べ進める。私はそれを見ながら、ゆっくりとスープを味わった。朝とは違って食事を楽しむ余裕も出てきている。朝の食事の味に問題がなかったとは言わないが、素直に彼女への感謝を感じられるのはまったく違う点だった。

 彼女は雷のような速度で食べ終え、見当違いな礼を述べた。

「美味しかったです、ハルトさん」

「今日のは君が作ったんじゃないか。でも確かに良く出来ている。素晴らしいよ」

「ありがとうございます!」

 そう嬉しそうに言いつつも、彼女はどこか落ち着かない様子だ。余程シュトレンの事が気になっているのだな、とほくそ笑んだ。

「私のことは気にせず、お茶の準備をしてくれ。シュトレンは大きく切りすぎないように。あれはいっぺんに全部食べるようなものではないんだ。これくらいかな」

 指で大体の厚さを示してみせる。数字で言っても、彼女が教育を受けていなければ伝わらない。指の厚さを模倣した彼女は台所へ駆け込んだ。その溌剌さが彼女本来のものなのかもしれない。

 今はもうポットを火にかけて、湯が沸くのを今か今かと待っているだろう。それとも、先にシュトレンを切りにかかっているだろうか。背中側になって見えない彼女の様子を思い描きながら、スープを食べ進めた。時々まだ咳が出るせいもあって、彼女のようにすぐ食べ終えてしまうという芸当は出来なかった。

「お茶が入りました」

 トレーに二人分の紅茶カップとシュトレンの皿を載せてフローラが現れた。

「こっち、ハルトさんの分です」

 わざわざ、そんな風に指定するのは砂糖を抜いてくれたということだろうか、と口をつけるとやはり甘かった。

「どうでしょうか」

「ティーバッグに湯を注ぐだけだからもちろん特別下手ではないが、私はあまり砂糖を入れない。今度淹れる時は、砂糖を抜くかフローラの分だけスティックシュガーを持ってくるかしてくれると嬉しい。カップが同じでわからないからね」

 これからどれだけの時間一緒に過ごすかわからないので、我慢せず正直な気持ちを告げた。フローラは少し勢いを失ってしまったが、切り分けたシュトレンを見ると上機嫌を取り戻してフォークでそれを切り分け、口に運んだ。

「美味しい! 美味しいです、ハルトさん」

 顔を輝かせるフローラに、思わずこちらも顔が緩んでしまう。

「シュトレンを食べたことはないのか」

「はい、初めてです」

 やはり、相当厳しい環境で育ってきたのだと思う。彼女がこの菓子について詳しければ、切り出すのはまだ早いと言われてしまうところだ。まだ十一月末である。本来は十二月の頭から食べるもののはずだ。

「このシュトレンというお菓子は、クリスマスまで少しずつ切り分けて食べるものなんだ。クリスマスまでゆっくり食べ進めることにしよう」

「でも、こんなに美味しいんだから早く食べてしまいたくなりますよね」

 彼女はパクパクと食べてしまう。見るからに甘そうでそんなハイペースで食べるようなものとは思えないが、彼女が楽しんでいるなら水を差すことはないだろう。

「なんでもフルーツやナッツの風味がどんどんパンに馴染んでいって、日ごとに美味しくなっていくらしい。そうしているうちにだんだんクリスマスが待ち遠しくなっていく。その日には一番美味しいシュトレンが食べられるんだそうだ」

「すごい。素敵ですね」

 フローラは頻りに感心しながら、ついにそれを平らげてしまう。お茶の相方にするつもりが、お茶にまったく目もくれずに食べ尽くしてしまった。

「でも、なんだか不思議な味でした。この間、将棋のあとに食べたお菓子もそうですけど、美味しいけれどスープとは違った美味しさですよね」

 私は首を傾げた。チョコレートとシュトレンに通じる味覚に想像がつかない。と、ふとある可能性に思い至る。

「甘い、という言葉を知っているかな」

「甘い? 味の表現ですよね。実際味わったことはないのですが」

 菓子類の種類に疎いのは知っていたが、それほど甘味と無縁とは思ってもみなかった。

「美味しい、の一種だ。シュトレンやチョコレートが持っている美味しさということになる。紅茶に入れるスティックシュガーも甘いだろう」

「そういう言葉があるんですね。甘い、甘い。なんだか素敵な響きですね」

 彼女の感性に頷きながら、私はやっとスープを食べ終えた。紅茶に手を伸ばし、温かさを甘受する。甘いものをまったく受け付けないというほどではないのだ。

 と、フローラの視線が私のシュトレンに注がれていることを悟った。出来る限り気づかない振りをしつつ、少し無理をして咳き込む真似をした。

 彼女は怯えるように視線を私へと移す。やはり、それだけ彼女の中で咳というのは大きなトラウマなのだろう。しかし、トラウマも使いようである。

「実に甘そうで美味しそうだが、まだ喉にひっかかるようなものは食べられそうにないな。よければフローラが私の分も食べてくれないか」

 心配げな表情がパッと明るくなって、元気な返事と共に私のシュトレンの皿を自分の前に移した。

 クリスマスまでの間こんな彼女の様子を見続けられると思うと、私も嬉しくなった。その笑顔で彼女が私の遠慮を悟らないように、私は紅茶のカップに口をつけて隠した。

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