感謝の真偽

 フランクとの話が大体まとまり、彼が帰る頃になってもフローラは額縁や木材、作業机などを眺めて周遊していた。

「では、よろしくお願いします」

「勿論です。期待に添える作品に仕上げますよ」

 アトリエの外まで彼を見送ると、私は机を指でなぞっているフローラに声をかけた。

「あまり面白い場所ではないだろう。地面も打ちっぱなしで、そろそろ冷えるようになる」

「いいえ、興味深いです。作業はいつもここでされているんですか」

 私は驚いた。フローラがそのような質問を口にして、自分から私の事情に踏み込んでくるのは二人の生活が始まってから初めてのことだった。どうも今日の彼女の様子はいつもと違う。それはアトリエというものに対する興味のせいなのか、それとも他に原因があるのかは察せなかったが、この所外したことがなかった無表情の仮面を付け忘れているのは間違いなかった。

「ああ。基本的にはここで全ての作業をする。場所も取るし、木材が傷んでもいけないから、どうしてもこういう部屋というか、空間が必要になるんだ」

 彼女は膝を曲げて、置かれている木材を慈しむように撫でながら私に視線を向けた。少し緩んだ顔をしていて、美麗な顔に思わずドキリとさせられる。

「眠るのもここで?」

「そうだ。正直、部屋の中にいるよりリラックス出来る。だから、フローラはベッドを使うことを気にしたりしなくていい」

 遠慮がちな表情を見逃さず、彼女が次に口にしそうな詫びに先んじて楔を刺した。案の定、フローラは面食らったような顔になった。

「はい、ありがとうございます」

 フローラはそこで一度言葉を切った。何か訊きたいことがあるような表情が一瞬見えたので促そうか迷ったが、彼女が口を開くほうが早かった。

「ハルト様はいままで、ずっと一人で額縁を作ってこられたのですか」

「そうだ。私には誰かを雇える器量はなかった」

 寂しく肩を竦める。誰かを雇用すれば受けられる仕事の量も増え、作業も安定するだろう。しかし、誰かを雇えばそこには責任が生まれるのだ。それに耐える器量がないというのは真実である。

 彼女は納得がいかないような顔をして首を傾げた。金髪が揺れる。私がフランクと真剣に作品の構成を練っている姿を見て、もしくはアトリエ内の様子を見ることで、どこか少し気を許してくれたような雰囲気があった。

 もしかすると私は、今まで彼女の世話に終始して彼女に私のことをわかってもらおうという意思がなかったのかもしれない。距離感とは片方だけの問題ではない。私からも心を許さなければ、彼女もうまく信頼出来ないだろう。

「さてフローラ、将棋でもしないか。本格的に仕事を始めたら君と過ごせる時間もなくなるし、ああいうゲームをしているといいアイデアが浮かぶんだ」

「はい、お相手致します」

 アトリエの室温が下がるのを感じて、私は彼女を連れてダイニングへ向かった。そろそろ暖房器具を出さなくては風邪を引いてしまうかもしれない。私がアトリエを見渡しているので彼女は一瞬足を止めたが、先にダイニングに戻っていった。


 将棋盤を持ってリビングに戻り、一先ず割れたカップを片付けることにした。その惨状について、私はフランクとの会話ですっかり忘れていた。それを報告しにアトリエにやってきたはずフローラ本人も、リビングに戻ってみるまで破片が放置されたままということを忘れていたらしく、小さく声を上げた。

 大きな破片をちりとりで集めたあと、掃除機をかけた。軽くも硬い音が筒に響きながら小さくなっていく。その様をフローラは興味深そうに眺めていた。

「さあ、準備をするからテーブルについていてくれ」

 無言で従うフローラ。私は頷いて、盤の上に駒を並べていく。数日前にやった時と同じように、私は飛車と角を置かなかった。正直に言って、私も対人対局はあまり慣れていない。飛車角落としというのがどれほどの段位差で適用されるハンデかもよくわかっていなかった。

「では先にどうぞ。どうも先手の方が有利と聞くからね」

 私も彼女の対面に座って、彼女との対局に気持ちを入れた。上手く手を抜く方法も知らないので、また圧勝となってしまうだろう。

 フローラは幾分か迷ってから一手目を指す。対して私は、それほど考えもせずに歩兵を動かした。またフローラは考慮時間に入る。

 間隙を縫って私はフランクの額について考えた。彼の指示は往々にして曖昧である。私の腕を信じてくれていると思えば誇らしくもあるが、万が一イメージの違う物を作ってしまっては申し訳が立たない。なので、制作会議に於いては作品への印象、イメージを共有するのが最も重要なことだった。

 今回は河と女性がモチーフになっている。彼の作品に共通の憂鬱な感触は前提として、河というモチーフから流線的、流動的と言ったイメージと、その側に佇む女性の静的なイメージの均衡が今回の作品に流れる大きなイメージだ。フランクは今回の額縁はある程度主張の強い物を望んでいるとも付け加えていた。

 彼の絵が元々持っている寂寥感を壊す華美な額縁は当然タブーである。しかし、無個性に過ぎてもいけない。バランス感覚が難しく、私の中でイメージはまだ像を結んでいない。

 フローラとの駒のやり取りをしながら、自分の世界の探求をする。駒と盤が立てる軽やかな音しかない空間に、一種の居心地の良さを感じていた。それはずっと一人で額縁とだけ向き合ってきた今までの生活にはなかった新種の平穏だ。

 しばらく私はその静かな音楽に身を任せていた。ところが、ふと気付くとどうも戦型が悪くなってきている。フローラに盤面を押されていた。

「ふむ」

 一時額縁についての思考を断ち切って、盤面に意識を集中する。いつの間にこれほど彼女が押していたのだろうか。やや悪いという段階ではなく、いつまで凌げるか怪しい危険な盤面に晒されている。

 次の一手に悩んでフローラを見上げると、彼女も盤面を食い入るように眺めて真剣である。私は腹を括って駒を指した。

 そのまま好転することはなく、私の負けでゲームは終わった。

「すごいな。まさか負けるとは思っていなかった」

 忌憚のない意見だった。私はチェアに深く腰掛けて、額に手をやった。

「勉強していた甲斐がありました」

 フローラは嬉しそうに笑って、ゲームの終わった盤面を眺めている。

 少し首を傾げたが、なるほど、彼女が日中読んでいたのは将棋の定石指南の類だったか。確かにリビングの本棚には定石や詰め将棋の本がいくらか詰められている。しかし、それをいきなり実戦で発揮できる人間がそういるとは思えない。彼女の才能も非凡なものがあるだろう。

「いや、感服した。素晴らしい。少し疲れたから、お茶にしないか?」

「はい、お願いします」

 屈託のない笑み。私との生活を始めて数日、こう遠慮のない笑顔が向けられたのは初めてのことだった。よほど将棋での一勝が嬉しかったのか。だとすれば、負けず嫌いな一面が彼女にはあるのかもしれない。この所ずっと張り詰めていたのは、勝ち逃げをした私への敵愾心のようなものであったのか。であれば、随分可愛い性質をしていると思う。

 お茶菓子と紅茶をテーブルに運ぶ。彼女はカップに口をつけて、大きく溜め息を吐いた。ちょうど初日の様である。二人でただ紅茶の暖かさに包まれている穏やかな時間が流れていた。

「しかし、こうなると手加減出来ないかもしれないな」

 私がお茶のアテとして用意したスティック状のチョコレート菓子を開封しながらそう呟くと、フローラは硬い音を立ててカップを立ててテーブルに置いた。

「手加減していたんですか。そんな」

 先程までの明るい表情が一変して暗くなる。よほど、その勝利に価値を見出していたのだろう。私は失言だったな、とフローラの頭に手を伸ばした。ゆっくり撫でてやると、困惑したような表情をする。

「ゲーム中、手を抜いたりはしていない。いくら相手が初心者でも、こういうのは自分の本気を出さないと面白くない。ただ、もうハンデはいらないかもしれない、と思ったんだ。誤解させたなら、すまない」

 彼女の髪に触れるのははじめてだった。随分傷んでいるが、清麗な金髪である。手入れをしてやれればいいが、風呂に一緒に入ったりするわけにはいかないし、私には技術もない。彼女用のシャンプーやリンスの類を用意してやるべきかもしれない。

「であれば、いいですけど。なぜ撫でるんですか?」

 その碧眼から怒りの色は失せているが、困惑の色は残ったままである。彼女はそうされたことがないのだろうか。

「なぜかといわれると困るが。一先ず落ち着いて貰いたかったんだ。嫌だったかな」

 手を離して、私は開封した菓子を一口かじる。彼女にも食べるように勧めると、釈然としない顔のまま菓子に手を伸ばした。

「嫌ではないですけれど、どうしていいのかよくわかりません」

「別に見返りを求めているわけではない。母の癖が移っているだけなんだ」

 フローラはまだ腑に落ちない様子で菓子を頬張った。どうやら口に合ったらしく、ぱくぱくと早いペースで食べてしまう。素直に可愛いと思った。元々端正な顔だと思っていたが、その仕草を眺めていると年相応の少女だと強く認識させられた。

「なんとなく、額縁のアイデアもまとまってきたように思う。ありがとう」

「そんな、ただお相手をしただけです」

「長らく一人身だからな。対戦相手もいないんで、本どおりに並べて遊ぶくらいしかしたことがなかったんだ。誰かと真剣に指すというだけですごく新鮮だった」

 そう言うと、彼女は照れたように少し右を向いて紅茶を啜った。その拍子に右首筋を伝う傷痕が見えてしまって、彼女との境界線を強く感じてしまう。

 今日一日で随分と近づけた気がしていたが、私と彼女の間には未だ埋めがたい世界の差がある。そしてそれを埋めるのは決して容易なことではないのだ。無害な同居人くらいに思ってもらえるまでは、この調子であればそう時間はかからないだろう。でもそこから一歩踏み込んで、お互いに傷ついてしまうということにならないだろうか。

 杞憂に過ぎなければそれでよかった。ただ、彼女との生活を続けていく中で、考えておかなければいけないことではある。

「フローラ。これから少しの間、私は額縁制作で忙しいと思う。あまり君との時間を取れないかもしれない」

 真面目な気配を察してか、フローラは私に向き直って黙って続きを待った。

「だから、先に聞いておきたいんだが。さっき、感謝していると言ってくれたろう。それは君の本心なんだろうか」

 彼女はこちらと視線を外さないままに沈黙した。

 即答はどうやら出来ないらしい。当然のことではあった。まだ一週間と生活を共にしていない。これから先、私がどんな悪漢と化すかわからないのだ。そんな相手に信用するような言葉を安易に伝えられないだろう。それでもこんなことを訊いてしまったのは、本心であってほしい、少しでも彼女の為にと思っている気持ちが伝わっていて欲しいという願望の顕れに他ならなかった。

 永遠にも思える沈黙。やがて彼女は口を開いた。

「嘘ではありません。少なくとも、現状では」

 言いづらそうに紡がれる言葉。十全の感謝を寄せているということではないのだろうことは容易に察することが出来た。それでも、来たばかりの頃の寝床や食事、一杯の紅茶にまで遠慮をしていた彼女がそれだけ正直な形で気持ちを言葉にしてくれたということに一種の感動があった。

「そうか。私も期待を裏切らないようにしようと思う。何か不満があったら言ってくれな」

 彼女はぎこちなく頷いて、また紅茶に口をつける。二人のカップから立ち上る湯気が部屋に満ちるようだった。鼻をくすぐったその香りは、彼女がこの家に来た日のそれよりも幾分か柔らかい匂いがした。


 額縁制作はいつも命がけの作業だ。

 仕事に挑む朝、いつも手順と恐怖を反芻する。ひたすら額縁と戦う手順。それが苦痛を伴わないことはない。そして、今は満足に動いている体が動かなくなった時、従業員もいない私のアトリエは本当に立ち行かなくなるという恐怖。三十代前半という私の年齢が、若いと言えなくなってきているのは承知していた。

 フローラに朝食を提供して、テーブルを挟んで彼女に大体のことを説明した。作業中、どうしても食事が不規則になること。フローラの分の食事も定時とはいかないこと。不意の事態には呼んでもらいたいが、基本的にあまり邪魔をしないで欲しいこと。いくらか買ってある保存食やパン類は自由に食べて良いということ。彼女は静かに頷いてそれを聞いていた。そして、食事を摂り終えた頃、彼女は口を開いた。

「お仕事、そんなに大変なんですか」

「楽な仕事ではない。自分を追い詰めるのが必要条件だ。他人の作品を預かるわけだから、気を抜くことも出来ない」

 そう言うと、彼女は迷うようにして視線を揺らした。何か言うのを躊躇しているという風だ。ちらちらと彼女の傷痕が見えて、私は息を呑む。まだ、彼女の闇に踏み込む決心はつかない。

「あの、お手伝い出来なくて申し訳ないのですが。頑張ってください」

 彼女はそんな何気ない言葉を遠慮がちに言った。私は微笑んで返す。

「ああ。大丈夫。また暇が出来たら、将棋の相手をしてくれ」

 フローラの頭に手を伸ばし、優しく撫でる。くすぐったそうに目をつぶったフローラは、前ほどそれを嫌がっているという感じはしなかった。

「では済まないが、家のことは頼む。と言っても、無理に家事をしたりはしないでいい。火事や怪我には気をつけるように」

 そう言って、私はアトリエに向かった。

「行ってらっしゃい」

 また遠慮がちなフローラの声が聞こえたので、振り返って微笑を向けた。彼女も同じようにして返してくれる。

 そして、私の戦闘は始まった。


 フローラがいるからと言って、仕事の手を緩めたり、妥協したりすることは出来ない。私は十数年やってきたように真摯に木材と絵に向き合っていく。

 採寸、仮組みをしたあと、いよいよ装飾を施していく。彫刻刀一本でまっさらな板を削っていく。フランクの絵がまとうに相応しい衣装、或いは外殻を見出していく。集中しなければとても見えないものだ。ひたすらに木との格闘を続ける。

 とは言っても、いつもと違うことはある。これまで、作業の山場ではどうしても食事が疎かになりがちだったが、フローラの存在がそれを許さない。私たちは少なくとも日に二度は顔を合わせ、食事を摂った。

「私が料理の出来る人間なら良かったのですが」

 二日目の夕食の席でフローラはそんなことを言った。

「別に気にすることはない。一人でも飲食せずに作業をすることはないし、一人分も二人分もさほど変わらない」

 砂粒ほどの嘘が混じる。彼女に心配をかけたくなかった。だがその嘘はさほど効果をあげなかったようで、彼女は不安げな表情を私に向けた。

「大丈夫、フローラはよくやってくれている。こちらこそ申し訳ない。もし私に妻がいれば家のことの心配をさせずに済んだのだが」

 冗談めかして言うと、彼女のまとった空気が弛緩した。力強くはないが、薄く笑ってくれる。私はまた彼女の髪に手を伸ばして、静かに撫でた。

「なんだかわかる気がします。ハルトさんは女性を扱うのが苦手そう」

 痛いところを突かれる。不意に手が止まってしまう。その拍子に、あっ、と彼女は残念そうな声をあげた。私はまた撫でるのを再開した。

 いつからか、フローラは私のことをハルト様ではなく、ハルトさんと呼ぶようになっている。それだけで、随分と会話がしやすくなった。ハルト様と呼ばれる度、彼女との距離感を強く覚えてしまうのだ。

「そうだな。あまり上手くないのだと思う。付き合った女性はいたが、長く一緒にいた女性というのはいない。仕事も不定期で収入も安定しなかったし、特別に顔や性格が優れてもいなかったしね」

 冗談めかして語ると、フローラがやっと優しげな笑みを向けてくれたので、私は安心して手を離した。

「さて、フランク君の都合にもよるが、あと二、三日で決着がつきそうだ。今夜から明日は追い込みをかけるから、食事はいつになるかわからない。まだいくらか蓄えがあるはずだから、適当に食べてくれ」

 食事のあとの一服も済んだので、彼女にそう告げてアトリエに戻ろうとした。しかし、フローラが私の腕を引き止めて、強い視線で私を見る。真剣な面持ちだが、言いづらそうに視線が泳いだ。

「言いたいことがあれば、遠慮なく言ってくれ」

 なかなか決心がつかないようなので、促すように声をかける。

 それでも一拍の時間が置かれた。そして、やっと決心がついたという様子で私の顔に視線を定める。私の手を握る小さな両手に力が篭もった。

「お仕事をしている所を見たいんです」

 本当に真剣な様子で、彼女はそんなことを言った。

「ふむ」

 彼女がいることで集中出来ないということはありえる。作品のクオリティを落としては、フランクはもちろんのこと、今までの自分にも申し訳が立たない。それでも彼女の様子を見ると、本当にそれを願っているのだろう。私はどう答えるべきか迷った。

「やっぱり、無理でしょうか」

 私の手を握っていた両手から力が抜け、するりと手が離される。とても大きな落胆があった。とても悲しそうな表情だった。そんな顔をしていて欲しくない、と純粋に思った。

「手もとを覗いたり、作業机を触ったりしないと約束出来るなら構わない。満足したら、二階の寝室に戻って寝ること。アトリエは少し冷えるから、何か一枚羽織ってきなさい」

 そう言うと、彼女は慌ただしく動いてカーディガンを持ってきた。私は彼女とともにアトリエに続く扉を開いた。


 彼女は静かに座って、少し離れたところから私の作業を見ていた。まったく気が散らないと言えば嘘だ。普段と違う環境に、どこか落ち着かない感覚がある。

 普段、広いと感じるはずのアトリエが急に狭くなったように思われた。そんなはずはない。幅十メートル、奥行き二十メートル、高さ四メートルはある空間なのだ。木材や作業機械、保管棚やソファベッド等で場所は取っているものの、人間が一人増えた程度で窮屈に感じるような部屋ではない。

 それでも没入しづらさを感じていたのは最初だけで、警戒は柔らかく解けていった。それさえなくなれば、いつもどおりに仕事をするだけだ。私はひたすらに額縁と戦いはじめた。

 どんな額縁にするかはもう決まっている。その頭の中のイメージを現実に額縁の上に昇華させていく。少しの指の震えも許さず、ただ木材に向き合っていく。

 その様を彼女はどういう気持ちで見ていたのだろう。あまり面白いことは無いと思う。設計図どおりに彫られていく木材、彫っては産まれる木くず、それを払ってはまた彫る私、という単純な繰り返しがあるだけだ。彼女はそこにある何をそんなに見たがったのだろうか。彼女は口を開くでも、身動ぎをするでもなく、ただ座って作業を見ていた。

 体の芯まで徐々に沁みいるような緩慢な寒気にゆっくりと犯されていく。もうじき冬がやってくると体が感じた。そろそろ暖房具なしの作業が難しくなる。だが燃えるものが多い上に木材のコンディションや預かった絵の保管状況のこともあり、可能な限り暖房具は出さないことにしていた。

 やがて、静かに立ち上がったフローラが部屋に戻ろうとした。声を掛けず行くのは私に気づかせないつもりだろうか。甘えてもいい配慮だったが、私は敢えて声をかけた。

「おやすみ、フローラ」

 視線まではやらなかった。手元から目を離すわけにはいかなかったのだ。

「おやすみなさい」

 彼女のかすかな声が聞こえて、扉は閉められた。

 先程までとはうって変わって、アトリエの広さが沁みるようだった。妙に閑散としてしまったコンクリート張りのその空間で、私は夜が明けるまで格闘を続けた。

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