野ばら

紅野はんこ

名のない花

「久しぶりに顔を見せたな。まだ組織と付き合っているのか」

 私はアルバートという男を強く睨んだ。アルバートは睥睨を気にした風もなく薄ら笑いをみせる。数年ぶりに会いたいと連絡を寄越したからと期待していたが、出会った頃の純朴な青年だったアルバートという男はもういないことを痛感して辛かった。

「それで、いくら欲しいんだ。とりあえず用意してあるのはこの程度だが」

 正直に言って、アルバートからの連絡を受けて私は喜んだ。十中八九金の無心であるということは百も承知ではあったが、それでも彼のことはずっと気がかりだったのである。それを素直に口に出せない自分が歯がゆかった。

「いいや、先輩。今回の用はむしろ逆なんだ。今まで借りた分に多少色をつけて持ってきているんだよ」

 彼は鞄から封筒を取り出して、私に差し出した。私は驚いて、彼の顔を見つめる。

「汚い金じゃないだろうな」

「これについては間違いなくおれが稼いだ金だよ。神に誓ってもいい」

 アルバートの表情は真剣で、先程までの薄ら笑いとは全く違うものになっていた。その表情には、私たちがいいバンド仲間だった頃のアルバートという青年の片鱗がある。今の言葉は信用してもいい。私はそう感じた。

「わかった、受け取ろう」

 その封筒を受け取ると、彼は人懐こい笑みを浮かべる。彼のこうした表情を守ってやりたかったと思うが、今更手遅れだ。彼はもう黒い組織の一員であり、私はこれでも堅気でやってきている。二人の距離は絶望的であった。

「その代わりと言っちゃなんだが、先輩に頼みがあるんだ」

 アルバートはまた真剣な表情になる。私は身構えた。一体どんな話題が飛び出すか予想もつかない。犯罪の片棒なら担げないが、彼が組織の人間としてではなくアルバートとして私に頭を下げるのなら聞かないわけにはいかない。

「長くなりそうなら上がっていくか? 茶くらいなら出すが」

 彼ではなく、私自身が落ち着きたいという気持ちから彼を室内に誘った。しかし、彼は首を振って否定する。あくまでも玄関先で話を終えたいらしかった。

「いいや、単純な話だよ。この間、どこぞの富豪が亡くなってさ。まあウチとも繋がりがあったんで、遺産の一部がこっちにも流れてきた。下っ端のおれにも分け前としていくらか回ってきたんだが、その分厄介なものも押し付けられたわけ。おい、フローラ」

 その呼びかけで、彼が連れてきていた少女が一歩前に顔を出した。端正な顔つきだが、顔に大きな傷があるのが痛々しい。背丈は大柄なアルバートと比較すると小人と巨人だ。中背だと思う私から見ても随分低い所に顔があった。

「奴隷として飼われていたそうなんだ。誰かいい相手に売ろうにも、正直労働力としてはあまり価値がない。といって性奴隷として売るつもりもおれにはないんだよ。おれの信条に反する。でもおれの手もとに置いておくのは正直危険だ。場合によってはただ売られるよりひどいことにもなる。だからって、おれは真っ当な所に引き取って貰えるような人間じゃなくなっちまってる。それに、時間をかけていたら誰に掻っ攫われるかわからない。だから、先輩に頼みに来たんだ。

 難しい頼みなのはわかってる。それでもおれには先輩しか頼れるアテがない。どうか彼女を引き取って貰えないか」

 アルバートはそう語って頭を下げ、私の反応を待った。

 頷けば要らない責任を負うことになる。人身売買というわけではないし、保護だと言い張れば法を犯すことこそないかもしれないが、保護監督責任から逃れることはできない。

 では断ればどうなるか。仮に他の引取先が見つからなかった場合、アルバートの所属する組織が彼女をどう扱うか知れたものではない。彼の組織は麻薬密売に限らず悪事を働いているはずだ。それを知りながら見ないふりをするのは倫理に背くだろう。

 責任か倫理か、どちらかを選べとアルバートは言っているのだ。

 奴隷の少女と視線を交わした。見れば見るほど、顔の傷が痛ましい。どうすればそんな傷がつくのか見当がつかなかった。切り傷や火傷といった雰囲気ではない。傷をつける目的で暴力を働かなければつかない傷である。

 奴隷と言っても、労働向きに買われた命ではなかったのだろう。それでも毅然と、あるいは無感動に私と視線を合わせた。その表情から彼女の感情を知ることは出来なかった。新たな主人への希望も絶望もない。ただ流されるに任せるという諦めの表情である。その諦観が気にかかった。アルバートが私たちの追放された時の表情を重ねる。あの時は見ないふりをしたその表情を今度こそ私は見逃すわけにはいかなかった。

「わかった。引き取ることにするよ」

 これがアルバートからの頼みでなければ断っていただろう。私は責任を負うということが苦手だった。責任を負えば当然やり遂げなければならない。その奴隷が社会に復帰できるまで保護し、監督し、そしてサポートする責任を負うことになるのだ。普段の私なら、絶対にイエスとは言わない。

 それでも引き受けたのは、かつて私がアルバートを救えなかったからだ。彼と最も親しかった私が、彼を堅気に引き留めるべきだった。奴隷を引き取ることでその贖罪になるとは思わない。しかし、その罪を贖いたいという気持ちに嘘はなかった。

「良かった、助かるよ先輩。この娘をどう扱うかは先輩に任せる。おれはウチの方から先輩に迷惑がかからないように手を尽くすよ」

 頭を上げたアルバートは強く礼を言った。それだけ必死の願いだったのだ。その表情には安堵が見える。私はこれで良かったのだと自分に言い聞かせた。

「頼む。いくらなんでもそこまで対応は出来ない」

 私がそう言うと、アルバートは大きな礼をして去っていった。黒い車体に乗り込んで、颯爽と道路へと消えていく。そして玄関先には、フローラという奴隷の少女と私だけが残された。

「改めまして、フローラ・アーベントロートと申します。力仕事はあまり得意ではありませんが、よろしくお願いします」

「ハルトヴィンという。よろしく。額縁を作るのが仕事だ」

 形式ばった挨拶をされたので、適当にこちらも自己紹介をした。そこで会話は途切れてしまう。しかし、ずっと玄関に立たせておくというわけにもいかない。

「とりあえず家に入ってくれ。軽く案内しよう」

 引き受けたのはいいが、若い女性の扱いになど慣れていないことに今更気づいた。思った以上の責任を抱え込んだのかもしれないと溜め息が漏れそうになる。彼女は特別の抵抗もなく私に従った。


 広い家ではないので、案内と言ってもそう時間を取るものではない。玄関から入るとまず階段があり、そこから右に入るとダイニングがあり、キッチンとリビングに続いている。ダイニングからは仕事場にも通じているが、一先ずそこの紹介は省いた。

 階段まで戻り、奥へ進めばトイレや洗面所、風呂と言った水回りの施設と倉庫がある。と、そこまで案内を終えて気づいた。

「ふむ。君の部屋をどこにするか決めなくてはいけないな」

 二階に上がれば空き部屋はあるが、倉庫同然の有様で彼女にあてがうにはあまりにも不向きである。引き取ると責任を持った以上、彼女にはそれなりの暮らしを送ってもらわねばならない。少し考えて、私は二階の寝室へ案内した。

「とりあえずこの部屋を君の部屋として使ってくれ」

「ここですか」

 彼女は驚いたように言う。無理もない。かなり散らかっていて、人が眠れる環境には見えなかった。実際、私もここをちゃんと寝室として使ったのがどれほど前のことか覚えていない。眠るのは大抵仕事場に置いてあるソファベッドである。

「あとで掃除はするが。やはり気に入らないか」

 そうなればどこかの部屋を空けてベッドを買うことになる。アルバートが寄越した金も泡沫と消えてしまいそうだ。しかし、彼女の反応は意外なものだった。

「いいえ、こんなちゃんとしたベッドなんて私にはもったいないです」

 彼女の言葉に、前の主が彼女をどんな環境で囲っていたのかを想像したが、気分のいい絵面ではなかったので振り払った。私は努めて気にしないようにしながら答える。

「ふむ。しかし他に使ってもらえる部屋はない。ここで我慢してくれないか」

 困ったように部屋を見渡す彼女を改めて見つめた。顔は実に端正だが、伸びっぱなしの金髪がまともに髪を整えさせてもらってもいない事を示している。枝毛も多い。服にしても簡素なもので、ほとんどボロ布と言って差し支えなかった。そして最も目を引くのはやはり肌に刻まれた痛ましい傷痕である。顔の傷が目立つが、よく見ると腕や脚にも深い傷が残されている。手首や足首には拘束の跡らしい痣が残されている。正直、見るに堪えなかった。私は意識して目を逸らし、まだ迷っている彼女に声をかけた。

「とにかく、もう昼だ。部屋のことはゆっくり考えることにして、先に昼食にしよう」

 彼女が後ろを着いてくるのを確認しながら一階のリビングに降りる。ダイニングに置いてあるテーブルチェアに座らせると、適当にスパゲティを茹でた。ミートソースを掛けて完成の粗い料理である。二人分を並べて、華のないことに愕然とした。

「最初の食事がこれでは呆れられてしまうな」

 自分一人食べるだけならこれだけでも文句はないが、今は食事を振る舞う側だ。冷蔵庫からキャベツとトマトを取り出して、適当に盛り付ける。もう一品あれば言うことなしだが、残念ながら急の需要に応えられる冷蔵庫ではない。即席サラダが出来ただけでも今は許してもらおう。

「待たせたかな」

 スパゲティとサラダをテーブルに並べ、私もチェアに腰掛けた。では食べよう、と宣言する前に、彼女が声を出した。

「あの、これ。私が食べて良いんですか」

 ミートソーススパゲティとサラダを指差して、彼女は問う。透き通るような碧眼が私を見つめている。とても困惑している様子だ。

 私は眉根を寄せた。これよりひどい食事があるのだろうか。彼女の今までの食環境に胸が痛んだ。しかし、遠慮をさせてはもてなす側として失敗である。私は意識して困ったように言った。

「食べてもらわないと困る。他に出せるものはないんだ。もしかするとトマトが苦手だったかな」

 彼女は頭を振って否定する。勿論そういう意図の質問ではなかっただろうが、まだ彼女の過去に切り込めるような仲ではない。今はただ鈍感な男のふりをした。

「結構。いただきます」

「いただきます」

 自分の食事を進めながら、彼女が食べる様子を伺った。食器の使いようが少し怪しいが、口をつけてはくれている。私は安心した。緊張している様子で食事を楽しむという風情は感じられないが、それは追々慣れてもらう他ないだろう。

 私もフローラという少女がいる日常に慣れなければならなかった。彷徨った視線が、また彼女の顔の傷を捉えた。


 午後からは急いで彼女の寝室を整えることにした。寝室に押し込んでいるようなものは大方処分しても問題なかったことが救いである。運び出して、次のゴミの日にまとめて出してしまえば良いだろう。

 その間、彼女はリビングの床に座して何事か考え事をしているようだった。私は一階と二階を行ったり来たりしながら品を運び出しつつも、彼女の様子を伺い続けた。テーブルにつくなり、ソファに腰掛けるなりしてくれればいいのだが、あえて冷たい床に座っているのはもしかすると私への無言の反抗なのかもしれない。

 荷物の搬出が終わったので、掛け布団を日光に当てることにした。ボックスシーツは何かの機会にもらった新品があったので、差し替えるだけでいいだろう。あとは軽く掃除機をかけてやれば十分眠れる環境にはなるはずである。

 一仕事終えたので、一階に降りてダイニングに入った。ふと彼女と目が合った。その碧眼が私を捉え、怯えの影がよぎる。私は努力して明るい声と表情を作り、彼女に訊ねた。変な形に釣り上がった頬の筋肉が痛んだ。

「紅茶かコーヒーならどっちがいい」

「そんな、もったいないです」

 わかった、と言って彼女から視線を外して、キッチンへ向かった。そう言われたからといって、何も出さないというわけにはいかない。私は紅茶にするつもりだったので、彼女の分も紅茶を淹れることにした。お茶菓子の類がないのがなんとも彩りに欠けるが、独身男の家はそうそう彩りに満ちてはいない。

 特別のこだわりで紅茶を用意しているわけではないので、湯を沸かしてティーバッグに注いだだけのものだ。ちゃんと茶葉を用意したり、蒸らしたりというのはどうにも気性に合わない。自分は砂糖を入れないが、彼女の方には来客用のスティックシュガーを二本添えた。

「どうも淹れすぎてしまったらしい。片付ける手伝いをしてくれ」

 私は演技っぽくならないようになるべく静かに言った。ティーカップを二つテーブルに運ぶ。彼女は困惑しているようだったが、一拍の逡巡のあとにリビングから出てきてダイニング・テーブルに着き、砂糖を二本とも入れた。

「アトリエの方には人が来ることもあるが、こちらの部屋に人が来ることは稀だ。ソファでもテーブルでも自由に使ってくれていい」

 彼女は紅茶に口をつけて、熱そうな素振りをしている。言葉は届いているのだろうが、答える余裕がないという風だ。

「ですが、私のような者が」

「私が落ち着かないんだ。どうしても嫌なら無理強いはしないが」

 否定の言葉を遮って、私は彼女を優しく脅した。彼女は紅茶を見つめて沈黙してしまう。ダイニングには紅茶の柔らかい香りが沈黙と共に漂った。私は彼女の答えが出るのを静かに待つ。彼女の金髪が小さく揺れて、碧眼がこちらを見つめた。

「では、借りることにします」

「結構」

 私は紅茶に口をつける。上等な味はしないが、作業のあとの一服としては十分であった。溜め息が紅茶の湯気に混じって部屋に消える。それを見ていた彼女も紅茶を少し口に含んだ。張り詰めていた表情が緩む。温かい紅茶の温度が彼女の凍った感情を溶かしたようだった。弛緩した表情は笑みともとれる。私は上手くいったと安心してまた紅茶を飲んだ。

 一人で暮らしていた頃は日中電気をあまり点けないでいたのだが、彼女と一緒に紅茶を嗜んでいると、部屋の中が暗く思えて電気をつけた。外もまだ十分明るいので、特別視界がよくなったという程ではない。ただ電灯の光が紅茶の湯気をより明確に示し、彼女の柔らかい笑みも輪郭を強めた。

 今日これからのことを少し考えた。彼女と暮らす以上、必要になるものがいくつかある。彼女の着替えもそうだが、食料品の買い出しも必要だろう。とはいえ、慣れない掃除で体はだるく、額縁の仕事も大作を仕上げたあととあって、この時間から外出する気力はない。

 となると時間を持て余してしまうのだが、さて、と彼女の顔を見る。少し冷めただろう紅茶を啜って、溜め息をついている。いくらか落ち着いた様子だった。

「何でしょうか」

 その視線に気づいたらしく、彼女はまた表情を険しくして私を見据えた。また碧眼に怯えがよぎった。どうにも強い拒絶を感じる。それは前の主人にされただろう数々の仕打ちによるものかもしれないし、単純な私への不快感かもしれない。だが仮にそうだとしても、引き取ると言った以上引き下がる訳にはいかない。責任を負う、とはそういうことだ。

「いいや。時間が余ってしまったと思ったんだ。掛け布団はもう少し干しておかなければいけない。だから時間潰しでもどうかと」

「時間潰し。それは私で、ですか」

 どことなく違和感のある言い方だったが、一緒に時間を過ごそうという大意が伝わっているらしいので問題はないだろうと考えた。

「道具を取ってくるから、待っていてくれ」

「はい、わかりました」

 紅茶を飲んでいた時の弛緩した表情とも、私の視線を咎めた時の表情とも違う、感情がわからない表情をして、彼女は椅子に浅く腰掛け、背筋を伸ばした。

 私はその様子にどうも合点がいかないまま、アトリエへ向かった。


 ダイニングに戻った私は愕然とした。フローラは服を全て脱いでしまって、床の上に座っているのである。

「フローラ、どうしたんだ。一体」

 私は目を背けながら彼女に声をかけた。直視出来ないのは、彼女の裸体を見てはいけないというだけのことではない。その体に刻まれた痛々しい傷痕を見ていられないからだった。

「ご主人様が私で遊ぶと。ですから、準備はしておきました」

 彼女の言葉でようやく大きな誤解が両者にあったことに気付く。彼女の真意に気付けなかった自分を恥じた。

「服を着なさい。私はフローラを使って遊びたいんじゃない」

 衣擦れの音が聞こえる。その間、私は何と軽率な発言をしたのかと自責の念に駆られていた。大きな失敗だ。これでは責任を果たしているとは到底言えない。

「はい、着ました。ご主人様」

 その音の短さで、彼女が本当に最低限の服しか与えられていないことに気付かされるが、今から買い出しに行くのは時間的にも難しい。今日のところは我慢してもらう他ないだろう。私はフローラの方に視線を戻し、彼女がちゃんと服を着たことを確認した。

「私はこれで遊ぼうと思ったんだ」

 テーブルの上に、自作の将棋盤を置く。駒入れも隣に並べた。私は努めて彼女に視線を向けないようにした。

「これは」

「将棋と言う。日本という国のゲームなんだ。チェスは知ってる?」

「はい、チェスなら簡単なルールはわかります」

「結構。おおよそ似たようなルールだから、簡単に説明をしよう」

 私は将棋の説明をすることで、彼女の裸体やその傷痕、彼女がそういう振る舞いをするまでに調教した前の主人のこと、色々な事を考えないように努めた。

「私は経験者だから、飛車と角は使わないことにしよう。いいかな?」

「はい、ご主人様」

 考えないよう努めたが、現実には触れなくてはいけないこともある。仕方なく彼女と目を合わせた。その左の瞼を横切る痛々しい傷が目に入る。私は眉間に皺が寄りそうになるのを必死でこらえた。対して、彼女は驚くほど無表情だ。将棋に興味を示している風でもなければ、先程の出来事を引きずっている雰囲気でもない。

「ご主人様というのはやめてくれ。私は君を奴隷として買ったのではないし、好きな呼ばれ方でもない」

「では何と呼べばよろしいでしょうか」

 彼女の感情は読めないままであった。恐らく、服を脱ぐと決めた時に何らかの一線を引いてしまったのだろう。事務的に私の言葉に答えるのみで、紅茶を前に安堵したり、パスタを前に驚いたりと言った彼女の素と思しい感情は全く計れなくなってしまった。

 私はそんな彼女の様子に努めて気づかないふりをした。先程のことは事故であって、私という存在は無害だとアピールしなくてはいけない。感情がわかりやすいよう、身振りを加えて語った。

「知人にはハルトと呼ばれることが多いな。名前を呼ぶのに抵抗があれば、オジさんでも良い。他にフローラが呼びたい名があるならそれで呼んでくれ。ご主人様以外で」

 フローラは一拍固まる。そして、彼女なりの結論を出した。

「では、ハルト様と」

 慣れない呼ばれ方に否定を挟みたくなるが、無理に呼び方を矯正するというのも上手くないという気がした。一先ず、前の主人と私を切り離した存在と認識してくれれば合格といえる。

「いいだろう。では始めよう。紅茶も冷めないうちに飲んでくれ」

 彼女はさっきよりもまた少し冷めただろう紅茶のカップを手にとって、口をつけた。また溜め息。それは紅茶に残る温かみに誘われたものだったのか、彼女の不満の結晶であったのか、無表情の仮面を被ってしまったフローラから伺うことはできなかった。


「もったいないです、ハルト様」

「いいや、着替えてもらわないことには私が君を虐待しているととられかねない。私の世間体のためでもあるんだ。付き合ってもらいたい」

 彼女を街に連れ出すだけでも苦労したが、服を買う段になってもこう食い下がられるとは思っていなかった。実際、彼女はよれたワンピース一枚と下着一セットしか着物を持っていない。その状態では服を洗濯することすら出来ない。見栄えだけでなく、衛生的にも良いこととは思えない。

「わかりました。では、ハルト様のお好きな服を」

「いや、私にはどれがいいのか。女性ものの服にはまったく疎い。着たい服を選んで欲しいんだが」

 そう言ったが、彼女は頭を振って否定した。その傷んだ金髪が揺れる。彼女の碧眼と視線が絡んだが、その目はどこか虚ろで表情といえる表情はない。

「私には決められません」

 無表情の仮面を被ってはいても、強情なことに変わりはない。なにがそこまで彼女を卑屈の海に沈めてしまったのだろう。まだ年若い彼女なら、服に一喜一憂したり、友人との食事や会話に花を咲かせたり出来ただろう。それを奪われた彼女が哀れで視線を合わせていられなくなった。

「わかった。すみません、この娘に似合いそうな服を数セット見て頂きたいのですが。それから、下着のサイズも見て頂けますか」

「ありがとうございます。娘さんですか?」

 女性の店員を呼んで、服の選択を任せることにした。大体、四十になるだろうかという店員が応答する。しかし、若い女性を連れた中年の男が言うには不自然な注文だったのだろう。柔らかく関係性を確認されてしまった。

「いや、親戚の娘なんだ。夫婦とも火事で亡くなって、この娘も身寄りがなくて引き取ったんだ。服も現状これ一着しかないから、なるべく着回しの利くようなものだと助かるんだが」

 事前に考えてあった言い訳だ。彼女の傷痕の説明にもなるだろうから、我ながら悪くない釈明と思われた。問題があるとすれば、彼女がボロを出さないかということだったが、黙っていれば詮索してくることもないだろう。案の定、店員はばつの悪そうな顔をしてそれ以上の追及はしなかった。そして彼女を連れてあれやこれやと服の提示を始める。私はその場を任せて、店の外に置かれているベンチに腰掛けた。

 こういう時、煙草を吸える男は暇が潰せていいと思う。肺に病がなければ、私も悪友の誘いに負けて吸っていたかもしれない。

 私は溜め息を吐いた。ここ二日間、フローラの事に振り回されて息をつく暇もなかったのだと思い知った。背もたれに深く体重を預けて空を仰ぐ。どこまでも続く曇天が広がっていた。今にも雨が降り出しそうななまぐさい臭いがして、私は顔をしかめた。

 ほんの一週間前まで私は機械的に額縁を作る生活をしていた。毎日ひたすら木材に向き合い、基本的に得意先の店の者や依頼人としか会わない。趣味といえば読書くらいのもので、それも月に一冊読むか読まないかというところだ。それがこんな洒落た服屋で連れの女性を待っているというのは妙におかしい気がした。

 しかし、贅沢な暮らしを送っていなかったことで私にはフローラを養えるだけの貯金はある。敬虔なクリスチャンの友人に言わせれば、彼女がやってくることまで見越した神の思し召しだ、ということになるかもしれない。私はキリスト教徒ではないが、無神論者というわけでもない。私に出来る限り、彼女とうまくやっていこうと強く思った。

 店内に戻ると、おおよその見立ては済んでいてあとは精算という段階であった。

「採寸の際見えてしまったのですが。すごい傷ですね」

 私が財布を取り出しながら精算台へ向かうと、店員は鋭い視線をこちらに向けた。先日の事故の際に一瞬見た程度だが、服に隠れた彼女の傷はかなり多い。火事というだけでは訝しまれても仕方ないかもしれない。それに、彼女の傷はよく見れば見るほど切り傷や火傷とは違っている。その部分だけ表皮が薄くなっているようなのだ。普通にしていて出来るものではない。

 私は無表情で立っているフローラに視線を投げた。目は合わない。彼女の視線は店内を手持ち無沙汰に彷徨っていた。それでも彼女の傷は見えてしまう。深い悲しみが不意に私を襲った。

「はい。生きていてくれて良かったと心から思います」

 それは心から出た言葉であった。店員が驚いたように私を見つめている事に気付くまで一拍の間があった。

「すみません。迷惑をかけてしまって」

 私は焦って間を取り繕った。店員は営業用の笑顔を作ってみせた。

「いいえ。美人さんですから、色々とお勧めする甲斐がありました。こちらお会計になります」

 店員は洋服の値段を提示した。すごい額である。私は彼女と上手くやっていけるか、という不安を強く抱かされた。彼女は相変わらず無表情に私の隣に立っていた。


 フローラとの生活は無感動に流れていった。先日買った服に喜ぶという素振りも見せなかったし、新しいメニューを取り入れても通り一遍の感謝の言葉が聞けるだけで二人の食事を楽しむということはまだ出来そうになかった。

 彼女は日中、本を読んでいるようだ。といっても、私がアトリエからリビングに入る気配を察すると急いで本を隠し、ソファに姿勢よく腰掛けていた風を装うので何を読んでいるかはわからない。私がリビングに詰め込んでいる本は雑然としていて、実用書から娯楽小説まで幅が広いので彼女の琴線に何が触れたのか察することも難しかった。

 そうなると私に出来ることは何もなくなってしまった。話しかければ適当な返事はもらえるものの、上手く話は繋がらず、彼女の側から話しかけてくるということもない。部屋にも文句はないらしいが、むしろ、何かしらの文句でも意見を述べてくれた方が彼女と付き合っていく参考になったのではないかと思うほどだった。

 将棋に誘った時の事故がまだ彼女の中で一種の怒りとして残っているのだろうか。少なくとも、それを境に彼女の感情が全く表に出なくなったのは確かである。

 自分という人間が彼女を引き取るという責任を負ってしまってよかったのか、と自問することが増えていた。私は女性の扱いに特に優れていたり、心的外傷を負った人間のケアに優れていたりする人間ではない。安請け合いがすぎたのかもしれなかった。

 こういう時、相談できる相手がいないというのはとても心細い。せめて育児経験のある女性が知人にいればいいのだが、フローラを引き取ったということを漏らしても平気な人間はそういない。彼女との関係は袋小路であった。ただ河の流れを見ているような生活が続いた。

 私のほうが参ってしまう所だったので、そこに舞い込んだ大きな仕事はストレス発散の意味でもありがたいものだった。

「いい絵ですね。毎回、フランク君はいい絵を持ってくるから緊張してしまう」

 フランク・ベッケンバウアーという若い画家の作品にあてがう額縁作りの仕事だ。彼は新進気鋭のアーティストである。フランクのように自分の力を試そうとこの街にやって来る若者は多いが、彼はその中でもずば抜けて高い芸術センスを持った者の一人だ。近頃では名も売れ、それなりの値段がつくようになっている。安い作品だから無下に扱うなどということはないが、価値の高くなるものにはどうしても気を引き締めさせられる。

「ええ。それで、今回もお願いしたいのですが」

「勿論。フランク君の作品の一端を担えるのは光栄ですよ」

 彼は初期から私の額縁を使ってくれていた。恐らく駆け出しの頃は高い買い物だったろう。大画家となりつつある今でもずっと私を指名してくれる恩がある。信頼してもらっている身として、余計に下手な物は作れない。私は意識して深呼吸をし、彼の作品に向かい合った。薄い黒で表現された河のほとりに、一人の可憐な女性が立っている。空は不穏に曇って、いつも彼の作品から漂う寂寥感のようなものがこの絵からも感じられた。

「では額縁のイメージは。どうかしましたか」

 フランクが今回の作品に望む額縁がどういうものかを彼に尋ねようと顔を上げると、彼の視線はアトリエから自宅に繋がる戸の方に向いていた。

「いえ。あちらの女性には初めてお目にかかるな、と思いまして」

 私はフランクが見つめているダイニングに続く扉に視線を投げた。そこに立っていたのはフローラである。困ったような表情をしていた。

「すみません。カップが割れてしまって」

「ああ、大丈夫。あとで掃除をしておくから、近づかないように。怪我はないか?」

 フローラは頷いて、アトリエの方に降りてくる。アトリエは自宅の床より低くなっていて、その戸から四段ほど階段を降りたところに地面がある。そういえば、彼女をここに案内したことはなかった。

「こちらはフローラと言いまして。親戚の家に不幸があって、引き取ることになったんですよ。火事で残されたのは彼女だけという有様で。傷のことは気にしないでやってください」

 彼女をフランクに紹介すると、フランクの方も名乗ってお辞儀をした。倣ってフローラも軽く礼をする。

「お気の毒です」

 彼がフローラに悲しげな表情で言うと、フローラは首を振った。

「私、大丈夫です。ハルトさんは優しいですから。感謝しています」

 彼女の言うことが私にはとても意外だった。私の話に合わせて呼称を変えたこともそうだが、感謝しているという言葉が出るとはまったく予想だにしていなかった。

「それは本当に。良い職人さんですし、僕も尊敬していますよ。今回も仕事を頼もうと思っているのです」

「実際仕事を見たことはないですが、良い腕と聞いています。きっといい作品になると思います。ハルトさん、もう少しこの辺りを見ていてもいいですか」

 了解を告げると、フランクにも礼をしてフローラはアトリエの中を周回し始めた。基本的に美術品とセットで私の手を離れ、美術館や画廊を放浪する私の額縁は、アトリエにはほとんど残っていない。オーダーメイドではない既成品の額がいくらか置いてあるが、それらは比較的装飾がシンプルで、見てもあまり面白いものではないと思われた。他に置いているものと言えば材料の木材や加工機材くらいのものである。

「素敵なお嬢さんですね」

 フランクはそんな彼女の様子を目で追いながら、微笑みと憐憫の中間の表情を作っていた。

「恐縮です。ですが、今までまったく接点がなかったもので、どう接していいか困っているんですよ」

「でも、彼女はいいように思ってくれているみたいじゃないですか。きっと大丈夫ですよ」

「そうだといいんですが」

 フランクの言葉に肩を竦めた。彼女が感謝しているというのは、この所の無感動な彼女の振る舞いからは信じられないことだ。

「話が逸れてしまいました。デザインの話に戻りましょう」

 フローラの発言の真意を訊ねたいと思ったが、今は仕事の話を疎かにするわけにはいかない。アトリエを探検する彼女のことは一旦意識の端に追いやってフランクとの相談に戻った。

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