2 ニトリ

 心療内科に通っていて、それなのに薬を飲まずにクッキーの缶に溜めている、ということを、私は誰にも話していない。

 希から届いた手紙は一度だけ読んで、薬の缶の底に滑らせた。今年に入って三通目。返事は出していない。

 彼女は高校時代の同級生だ。十代後半私は毎日どうやって世の中から逃れようかそればかり卑屈に考えていたのに、彼女はなぜか、私のことを天才と呼んでいた。当時の私は生きていることが難しくてだから消えたかった。日常に於いて他人から失望されることを極度に恐れるがゆえにあらゆる道化を尽くして特徴や個性とかろうじて呼べる属性を捏ねくり出して鎧のようにまとって刹那の間、心の安寧を獲得していた。教室の机の横にギターを置いて休み時間のたび弾き語り、代わる代わる授業に来る教師たちの物真似をしながら流行曲のダンスを踊った。スカートを何度も腰のところで折り返してミニ丈にして、毛先だけピンクに染めた髪を頭の上で結って篠原ともえの若い頃みたいなアクセサリーを着けたりでかいピアス穴を空けてキーホルダーみたいな飾りをぶら下げていったりしていた。毎日、夕方になると頬が痙攣していた。両手で顔を触ると筋肉が笑顔の状態で硬直しているのが分かった。私の周囲にはいつもたくさんのクラスメイトがいたけれど、特段仲を深める気もなくて、だからクラス替えを済ませたらもう連絡を取り合うことも自然となくなった。

 軽蔑されないためだけに、かりそめの応急処置で私は青春をつぶした。怠惰で卑怯でなにもない女だ。彼女がそのことに気付いているかは分からないけれど、気付かれたとして態度が豹変するのではないかと思うと背筋が凍る。私は誰からも失望されたくないのだ。だから彼女を恐れ、遠ざけた。「才能があり輝いている私」という偶像を彼女の中に作り上げてしまったことに罪悪感はあるけれど、でも、じゃあどうすれば良かったんだろう、という点については何も思い浮かばない。

 私は今でもときどき母親のことを思い出す。実家には、母親が水商売で引っ掛けた男が日々訪ねてきた。子どもの頃の私は、男というものは砂ぼこりと皮脂と煙草が混じったような饐えた臭いがする生物だと思っていた。学校から帰宅したら一人でカップラーメンを食べて、蛍光灯が点滅する和室で国語ドリルをやった。隣の部屋からは、だだだだだ、とデンマが床で震える音が聞こえてきた。

 頬骨を削った輪郭が年々崩れていく不自然に広い二重まぶたの母親の顔を見るたびに、洗面所の戸棚に入りきらなくなり床に散乱したシャネルの化粧品を見るたびに、私は私が女として生まれたことに辟易したのだった。

 高校を卒業してからずっと、私は家賃四万五千円のアパートで比較的質素に暮らしている。ニトリで買ったカラーボックスに百均の布をカーテン代わりに取り付け、西友のワゴンで手に入れた調理器具や食器を収納している。本棚は町内のバザーで五百円だった。インテリアにこだわりはない。中古の冷蔵庫にはキャラクターの磁石が所狭しと並んでいる。一時期うちに寄生していたフリーターの男が大量に持ち帰ってきたペットボトル飲料のおまけだ。しゃがんで磁石を貼り付ける男の後ろ姿は、ズボンから灰色のハローキティ柄パンツがだらしなくはみ出して見えていた。家賃代わりのつもりだったのだろうか。卑しいと思った。

 決して美人でもかわいくもないけれどなぜだか求められる女。それが私だと思う。手を伸ばせば、ほんの少しの努力で簡単に手に入る。手頃だから、まあこれでいいかぁみたいな感じで選ぶ。私は男たちにとって、たぶんニトリの家具だった。ニトリの家具のまま馬齢を重ねていく。いずれはバウハウスになりたかった。せめて大塚になりたかった。若い頃はそれで良かったけれど、一度自分で貶めた自分の価値は二度と戻らないのだ、と、いいかげん私は気付きつつある。

 希はどんな暮らしをしているのだろうかと少しだけ考えてみるのだけれど、すぐに呼吸が浅くなって苦しくて、だから私はクッキーの缶から睡眠薬のシートを取りだしては一錠ずつ、ローソンでポイント集めて貰ったミッフィーの皿にあけていき、五十錠くらいあるそれを一気に流し込むのだった。缶チューハイの甘みとともに眠気がやってくる。これで何度目だろう。大丈夫。明日は日曜日だ。別に死にたくはない。私はいつだって、少し休みたいだけだ。

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