謎と笑み

ニキはいつものようにオムライスを食べていた。僕が会うのは3日ぶりだからミロクが何も与えていなければ、3日ぶりの飯なのだろう。

君とバラキはそこそこ話が合ったようで色々話し込んでいるようだった、いや別に詳しく聞きはしないけどさ。

僕はと言えばバラキの先程の話が少し気に掛かっていた。わざわざ勤務中に外に連れ出してまで話したい苦労話、いや単に話がしたいだけなのかもしれないが、ならば今日の夜にでも日本橋下りまで足を伸ばせばビーフでも食べながらゆっくり話せる筈だ。それでもバラキは「今」を指定してきた。そしてなんとなくそれは、ニキに聞かせるべき話だと直感したのだ。

僕がコーンビーフのサンドイッチを頬張りながら、さてどうしたものかと思案しているとバラキが突然話し掛けてきた。

「なぁ、このコーンビーフ、本当にコーンビーフか? 何だか酸っぱくないか?」

「さあな、本物じゃあ採算取れないんじゃないか?」

「文句があるなら僕が食べる」

言いながらニキが横からひとつ掠め取った。

「ニキ、お前この3日間何も食べなかったのか?」

「いや、昨日ミロクさんが桜餅持ってきた」

どうやらニキは3日間桜餅しか食べなかったらしい。

「桜餅かぁ、そういやもうそんな季節だなぁ」

バラキも静かに溜息をつくが、医者のくせに感じ入るところは桜餅かと突っ込みたい。だがお陰で会話が途切れた、僕はあくまで軽く自然に、話を切り出した。


バラキの親父さんは一昨年の夏前に亡くなったらしい。親父さんから家業を継いだのはそんな理由からだったそうだ。

「いやな、あんまり大きい声じゃ言えねぇんだけどよ、どうやら自殺したんだよ、親父」

と大分大きな声で囁いた。

「自殺? 何でまた、経営難かい?」

「いや、俺と違って親父は真面目で几帳面だからンなことはねぇ。俺だって親父の威光で経営しているみたいなモンだしな。お袋はもう25年も前に死んじまってるし今更後追いってこともねぇだろ。遺書もねぇ、動機がねぇんだ。何で親父は死んだのか」

バラキは恥ずかしそうに頭を掻いた。

「ニキ、お前こういうの得意だったよな、なぁ何で親父は死んだんだろう」

「……知るか、そんなの僕じゃなくてイタコにでも聞いてくれ」

ニキは既に食べ終えたオムライスの皿を虚しそうに見つめながら答えた。相変わらず何一つ興味無さそうに。対するバラキはやはり少し苛立っているようだ、そりゃそうだろう。仕方ない、ここは「普通の人」として穏便にまとめるか。

「ニキ、オムライスもうひと皿でどうだ?」


結局ニキはオムライスでなく団子と餡蜜とココアを頼んだ。

「で、死因は?」

そしてようやく話を聞く気になったらしい。

「モルフィンの皮下注だ」

「モルフィン……?」

僕の問に答えたのはニキだった。

「モルフィン、モルヒネとも呼ばれる鎮痛剤の一種だ。たしか致死量は20g前後じゃなかったか?」

「いや、皮下注なら10gも要らない。うちにはゴロゴロ転がっているからな、入手は簡単だ」

何故ニキは薬物にそんなに詳しいのか、僕は少し気になったが話を折るのも気が引けたので、僕の頭の中の「ニキの謎リスト」に書き込んで先を聞くことにした。

「でもさ、わざわざモルフィンで時間を掛けて死ななくたって、もっとさっさと死ねる薬品なんていくらでもある、アコニチンとかコルヒチンとか……いや、コルヒチンじゃ同じくらいか?」

流石に医者だけあって聞いたこともない単語が次から次へと出てくる。

「アコニチンは解熱剤として用いられる、トリカブトに含まれる成分だ。コルヒチンはリウマチや痛風に効く薬だな、ユリ科の植物に含まれている」

ニキがポカンとしている僕と君とに説明してくれた。本当に、どうしてそんなに詳しいんだ?

「まぁとにかく、モルフィンでわざわざ何の理由も無く親父が死ぬとは思えない。せめて何か遺ってりゃよかったんだが遺書も無い。なぁ、どうしてだと思う?」

「状況だけじゃ何とも言えないが……僕はこれから帰らなきゃいけないしミロクさんに会わなきゃいけないし、何より寝なきゃいけないから……」

ニキはそう言いながらココアを飲み干した。全く仕方の無い奴だな。

「東京風月堂のビスケットでどうだ?」


こうして僕らは再び原木外科医院を目指すこととなった。にしても君も物好きだね、毎度毎度僕らに付いてくるなんて、いや別に嫌っちゃいないぜ、ただ面白い奴だなと思ってさ。

原木医院には相変わらず患者は居なかった。バラキ妹の節子さんは戻ってきたバラキを見て、後ろに続く僕らを見て、患者じゃないと直感したのか再び業務に戻ってしまった。真面目な妹さんだ。

「彼女は?」

「ああ、俺の妹の節子だ」

ニキは道中買ったビスケットを片手に不思議そうな顔をした。

「こんなに患者が居ないのにあんな熱心に何の仕事をしてるんだ?」

「さぁな、領収書の整理とかじゃないのか?」

しかしそうではなかった。節子はニキに近付かれて、やはり一度顔を上げたが慌てて業務に戻った、ように見えた。けれどその業務もよく見れば真白い帳面に会計計算の練習をしているだけで、要は業務のふりをしているだけだったのだ。

「昔から割と人見知りする奴だったからな」

診察室に入ったバラキが呟いた。

「すまねぇな、悪い子じゃねぇんだ。ただ少し人と話すのが苦手で……昔から……」

どうやらバラキは妹さんが本当に大切らしい。デカい図体を小さくして必死に取り繕う姿は僕ですら可愛らしいと思ってしまったくらいだ。君もそう思わなかったかい?

一方そんなことには塵ほどの興味も示さないニキは、相変わらず人の敷地内だというのに容赦も遠慮も躊躇もなく薬棚を覗き始めた。

「モルフィンなんて、ないけど」

「そっちはそんな強い薬は置いてねぇ。そういった危ないモンは奥の棚に仕舞ってあんだ」

バラキが奥の棚を指さした。それは厳重に錠が掛けてある棚だった。

「患者に盗まれたりしたら只事じゃないからな、別に信用してない訳じゃないんだが、祖父さんの代からずっとそうなんだ。っつっても、祖父さんの頃はまだ徳川サマサマの時代だからな、そんなご立派な薬も西洋医学も無かった頃だけどよ」

バラキは肘掛け椅子に腰掛けながら言った。僕も君もそれに倣って近くの椅子に座った。ニキだけが黙って立ったまま錠の掛かった棚を見つめている。

「ということは親父さんが死んだ時もモルフィンやら何やらはこっちの棚にあった、ってことか。それを知ってる人間は?」

これは僕が言ったことだ、たまには僕も探偵みたいなことを聞いてみたかったんだ、いいだろ、たまには?

「俺と節子と親父と、当時務めてた看護婦と、でもまぁ患者だってちょっと学のある奴なら棚の中覗けば分かるだろうな」

なるほど、まぁ要するに誰でも知ることはできる、という訳だ。相変わらずニキは黙っているので僕が続ける。

「当時務めてた看護婦ってのはどんな人なんだ?」

「いや、まぁ普通の人だったけど……なんつーか、看護婦さんって感じの優しい人だったなぁ、割と昔から務めてた人で、ガキの時分にゃ、よく勉強見てもらってたんだ」

そんな話をしているところに受付から節子さんが顔を出した。

「あの……皆様にお茶を……」


節子さんは大分内気な人らしく、4人分のお茶とお茶請けを置いてすぐ受付に戻ってしまった。お茶請けの長崎カステラを見た途端ニキは奥の棚から戻ってきて僕らの輪に加わった。

「どうしてそんな、何の遺書も動機もない状況で警察は自殺だと判断したんだ? 毒薬も注射器も誰でも入手できて、自殺の理由が不明なら当然捜査はされる筈だろ?」

その問をバラキは笑って誤魔化した。だがニキの質問攻めは止まらない。

「あの棚には錠が下りてるな。だが今見たら鍵は棚のすぐ横に掛けてあった。何故そんな厳重に仕舞ってありながら鍵自体はすぐ横にあるんだ? それ、鍵の意味あるのか?」

ああそれは、と言おうとしたバラキの答えも聞かずニキは尚も続ける。

「親父さんのご遺体が発見された時、奥の棚は鍵がされていたのか、これはとても重要なことだ。まだある、それだけ不自然な事件だったにも拘らず、その看護婦が全く疑われていないのは不自然だ。節子さんや他の患者ならともかく、皮下注射だったら看護婦でも打てる筈だよな」

そこまで言うとニキは手にした長崎カステラを半分口に入れた。その隙にバラキはまたも答えようとしたが、ニキはすぐにカステラを飲み込むと残りの半分を片手に更に続けた。

「その看護婦は親父さんが亡くなった後どこに行ったのか、解雇になった? それとも辞職したのか? だがお前がガキの頃から勤めているなら相当な歳だった筈だろう? 他にも節子さんについてだが」

「ちょっと待ってくれ、流石に忘れる」

バラキは漸くニキの言葉を遮った。僕の予想ではもっと早い段階で怒るか呆れるかすると思ったが、いや意外に忍耐力もあるんだな。

「ええと……奥の棚の鍵だよな、奥の棚の鍵をあそこに掛けてんのは俺だ。親父はちゃんと自分の机の抽斗の何処だかに仕舞っていたみたいだが、俺がそんなことしちまったら無くしちまうからな。親父が死んだ時に鍵は……どうだったかな、鍵自体は親父の袖口に入っていたんだが……看護婦は、お小夜さんって言うんだが、お小夜さんはそうだな、もう50くらいだったと思うが親父が死んだ後すぐに辞めちまった。今何処で何してんのかは知らんが……。後は何だっけか?」

その間僕も君も長崎カステラを食べていた。

「看護婦は何故疑われなかったか、だ」

「ああ、そうだったな。お小夜さんにはその棚を開けられないからだ。鍵も今みてぇに横に掛かってるわけじゃねぇし、そもそもその鍵は棚の1番上のところに付いてるだろ、お小夜さんの身長じゃ届かねぇからな」

バラキの答えを聞きながらニキも残っていた半分のカステラを食べながら聞いていた。

「ちなみに、親父さんが亡くなったのは正確に、いつのことだ?」

「ええともうすぐ二周忌だから……一昨年、大正10年の6月頭だな、厳密には6月10日の朝死亡確認だ」

「その頃と言えば丁度市電運転手の連続殺人事件があった頃だったな」

ほら覚えてるかい? 運転手の一家が2組も殺されたあの事件。

「原首相が暗殺されたのしか覚えてないな……」

そりゃ新聞も読まなければ外出もしないニキが覚えている訳はないだろう。というか原首相の事件は暮れ頃じゃなかったか?

「まぁとにかく一昨年の6月10日だ。6月9日の夜中か10日の明け方に親父はモルフィンを打った。で、何か分かったか?」

「いいや、何も。流石に物証も何も少なすぎる。僕は別に探偵じゃないんだ、そんな話だけで解決できる程都合良くはないさ、というかだ」

ニキはバラキの目をジロリと見た。

「お前は僕にどうしてほしいんだ? 本当にこの謎を解いて欲しいのか? それが今の僕にとって1番の謎だ」

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