第30話 送信、消去、完了。そして



「…どういうこと、なの…?」


背中越しにかけられた声はか細く、湿り気を帯びて僅かに震えていた。



再び二人きりになった教室。が、漂う空気はつい小1時間前のそれとは全く違う様相を呈していた。はじめに口を開いたのは綾だった。


「…もう帰ろ?暗くなって来たし。私、お腹空いちゃった!」


こういう時、女子高生に限らず大体の人の振る舞いは決まっている。ハハッと、何事もなかったように軽く笑って、みちるは傍らに放っていたスマホに手を伸ばした。親友の顔を見ることもなく、テキパキとした動作で帰り支度を始める。スマホをカバンに滑らせたとき、文化祭用にと用意していた水色のハンカチが目に入った。


「ほら!これで顔拭い…」


「ごめんね、みちる…」


振り向いた瞬間、スラリとした華奢な白い手が伸びた。


まだ若干の火照りを残した左頬を静かに、伝う。


冷たい指先。


自分の身体がピクリと反応した。



向き合った綾の瞳には、大粒の光が込み上げていた。


「ごめんね…、泣きたいのは、みちるの方だよね?私、思い切り叩いたりして…」


しゃくり上げながら肩を震わせている。まるで小さな子供のようだ。普段の彼女からは想像もつかないが、実は本当の姿なのかもしれない。


「悠介は…悠介ともう会わないって、一体なんなの?なんでそんなこと言うの、みちる…今日だってこれから…」


「用事が出来たからって、さっきラインきて無しになっちゃった。ごめんね綾。あ、でも直人先輩は行くのかな?けど遅いよね」


多分来ないねと、日が沈み暗くなった窓の外を見遣る。


直人も、来ない方がいいだろう。多分綾も自分も、酷い顔をしているに違いない。今は、誰にも見られたくない。


「帰ろ?明日も文化祭だし、ね」


万が一直人と鉢合わせにならないよう、みちるは綾を促した。



ひと気のない廊下を足早に歩く。いつもなら、綾が先を歩くのに、その元気はなさそうだ。みちるの後ろで、彼女は一言も発することなく、ただ黙っていた。



◇◆◇◆


「いいですよ!先輩も忙しいだろうから、また今度で!…って」


制服のまま、自室のベッドに寝転んで1時間。手にしたスマホとにらめっこすること30分。


いい加減手が痛い。最近機種変したスマホは画面が大きすぎて、ただでさえ馴染みが悪いのにと、みちるは眉根を寄せた。時刻は19時。いつもなら空っぽだと騒ぎ立てる腹も、今日は黙り込んだまま。何の音すら響いてこない。


…こんなたわいもない一文送信するのに、自分は何をそんなに躊躇っているのだろう、と思う。


これを送って、ラインは消去、はい完了!それだけの話なはずだ。


「はぁ…」


何とも弱々しいため息だった。つい数時間前、芹沢美桜を相手に強気に言い放った自分はどこへやら。



嫌な思考に囚われそうになって、みちるは意を決して腹に置いたスマホを再び握りしめた。


「送信、消去、完了、送信、消去、完了、送信、消去、…完了!!」


呪文か念仏か。ゴトン、と重たい音を立てて、スマホが床に落ちた。


「…あーあ…」


あまりにも呆気なく、その作業は済んでしまった。


悠介とは…きっと縁がなかったのだろう。あんなトラブルに巻き込まれていなければ、お互いの顔すら知らなかったかもしれないレベルだ。



声さえ、歌声さえなくさなければ、こんなことにはならなかった。彼とだって出会うことなく、今頃は…


「今頃、ワタシは…」


鉛と化した重たい身体を引き、ベッドの脇に漸く手を伸ばす。硬いタイルのような感触。拾い上げたそれは無機質で、やはり愛着などとは程遠い代物だと感じた。


そもそも、自分は『どうしたかった』のか…。自分が一番やりたいと思ったこと。それは…それは…



「みちるー、ご飯よー?聞こえないのー」


いつもの夕食を告げる声が、ドア越しに響いた。

よく通る声。そう言えば母は歌も上手い。



歌いたい。前みたいに。以前の声を取り戻して歌えるようになったら…そしたら…


全部、元どおりのはずだ。



きっと出来る、必ず。


「…やらなくちゃ…」



暗い部屋の中で、手にした新品のスマホが唯神々しく光っていた。眩し過ぎて目が痛くて、涙が出そうになる。静かに画面を閉じて、みちるは部屋を出た。








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