第29話 みちるの決断

「悠介だったら、来ないわよ」


口調は至って冷静だった。


西向きの教室に溢れた夕日が、彼女の鳶色の瞳をキラリと輝かせる。


しかしその眼差しは鋭く尖った熱い刃のようで、みちるは息を飲まずにはいられなかった。



それは紛れもない、敵意の現れ。



小柄な身体に西洋人形を思わせる顔立ちで、存分にその愛らしさを振り撒いていた昼間の彼女とは、まるで別人のようだった。










対峙する、二人の少女。



閉めきられた蒸し暑いハコのような教室。が、その中で、みちるはまるで吐息さえなくした氷像のように固まっていた。



激しく脈を打つ心臓。不意に額に浮かんだ汗は、暑さのせいか…


それが流れ落ちたとき、火蓋は切られた。


「あなた、悠介と約束していたんでしょ?けど、私も彼に用があって、今日はどうしても家に来て欲しいって、我儘を言ったの」


ごめんなさいね、と芹澤美桜は付け加えたが、その表情かおからは申し訳ないという感情など、微塵も伝わってこない。寧ろ、当たり前と言わんばかりの威圧的な物言いだった。


フゥッと、軽いため息を吐いて、緩くウェーブのかかった栗色の髪をそっと耳に掛ける…彼女が纏ったあの香りが、再び匂い立ったような気がした。






青陵ウチの制服着てるのに、見かけない顔だと思ったら。まさかと思ったけど、普通科の子だったのね」


コツ、コツ、と、静まり返った室内に、小さな足音が響く。


「綾の友達、で合ってるのかしら?私は芹澤美桜。特進科の1年よ。悠介…、時田悠介とは、家族ぐるみの付き合いをしているの」


みちるの中で淡いまま記憶していた花の香りが、徐々にその姿をはっきりと顕わして行く。一層強く香ったとき、少女が目の前に立った。美少女と呼ぶに相応しい、目鼻立ちの整った可憐な少女。息を飲むような白磁の肌を惜しげもなく西陽に晒して、芹澤美桜は驚くほど堂々とした態度でみちると対峙した。



「あなた、名前は?」


「…宇野…みちる、です」


「ふぅん、みちるっていうの。そういえばあの日、悠介も『みちる』って、あなたの事呼んでた」


「あの日…?」


「夏休み、あなた悠介の家に行ったでしょう?私もあの日、彼の家に行ったの。…二人して駅の方へ歩いて行くのを見たわ」


美桜の言葉に、やはり、と思う。あの日、自分と芹澤美桜はすれ違っていたのだ。そして彼女は、悠介と歩いていた自分のことを忘れる事なく、今日までその頭の中に記憶していた…


美桜が悠介を慕っているのは間違いないだろう。そしてその想いは強く、隠そうともしない。自分にも、他人にも。だからこんなにも堂々としているのだ。


自分を捉えている彼女の眼光が、一番それを物語っている…ここに現われた時から変わらない、突き刺すような鋭い眼差し。みちるは一瞬目を逸らした。


と、その時。


傍らに置いていたスマホが震え、画面がひかり、ラインの着信をひっそりと知らせた。



『悪い、ちょっと用が出来て行かれなくなった。埋め合わせは今度するから。本当にごめん』



「悠介からでしょ」


目を奪われていると、美桜が口を出した。


相変わらず高圧的な口振りに、沸々とわきあがる嫌悪感を、みちるは自覚せずにいられなくなっていた。


「綾の手引きで知り合って、どうやって家にまで上がり込むようになったのかしらね。あの女嫌いの悠介相手に」


「そんな嫌味を言いたくて、わざわざここまで来たんですか」


完全に自分を見下したその態度に、みちるは漸くいつもの口調で、美桜に言い返した。


一瞬口を噤むビスク・ドール。が、その発言は彼女のプライドを刺激したらしく、美桜は愛らしい顔を瞬時に曇らせ、不機嫌な様相を露わにして、薄くリップを引いた艶のある唇を僅かに引きつらせて言った。


「単刀直入に言うわ。あなた、悠介にピアノを弾かせたでしょう?」


「…ピアノ?」


「あの日、帰ってきた悠介はいつもより口数も多くて機嫌も良かったわ。けど、それは最初だけ。その内だんだん表情も沈んで、何も言わなくなって。…きっとピアノが原因じゃないかと思ったの。前にもそんな事があったから」


悠介が不機嫌になる?そして、その原因がピアノとは。なぜ?自分の前では、あんなに得意げに、楽しそうに弾いていたのに…


あの夏の日の状況と、美桜が言わんとしていることがリンクしない。事情が掴めず、みちるはワケもわからないままその疑問を彼女に投げた。


「どうして…悠介はピアノが好きなんじゃないんですか?だってものすごく上手くて…」


「悪いけど」


しかし、みちるが言い終えるのも待たず、美桜はピシャリと遮った。


「悠介のお父様はお医者なの。地元じゃ代々有名なクリニックで、悠介はその貴重な跡継ぎよ。お兄様が挫折した今、クリニックの後継者は悠介だけ。…彼にピアノを弾かせたのなら、あなたはその邪魔でしかないわ」


(悠介のお兄さんが…挫折?)


確かに、彼の兄については過去に直人が口走りそうになって、地雷だから注意するようにと言われた事はあったが

…挫折とは、果たして悠介兄に何があったのか、そしてその事がピアノとどう関係してくるのか。やはり、みちるには話の意図が読めない。



「悠介のお兄さんの話は、よく知りません。けど、医者になるのに、どうしてピアノを弾いたらいけないの?だって、あんなに上手いのに、趣味で弾くくらい…」


「趣味?」


美桜は形の良い鼻をフッと鳴らし、嘲笑いを浮かべながらみちるを見た。


「あなた、悠介のこと本当に何も知らないのね?中学の頃、悠介はピアノで県知事賞を受賞しているのよ。それぐらいの実力だったの。当然、夢はピアニスト。でも、それはもう叶えられない。悠介が医者にならなければ、音楽の道を選んでしまったら、彼のお母様は肩身の狭い思いをして、自分を責め続けるのよ、自分の血筋が、そうさせたって!」



『…親が。母親が音大卒なんだ。だから昔、教わった。子供の頃』



真っ白になった頭の中に、悠介の言葉がポカンと浮かんだ。



ようやく、この話の真相が見えたような気がした。つまり、何かしらの理由で医者の道を挫折してしまった兄に代わって、悠介は自分の夢を捨て、医者になる決意をしたという訳だ。家のために、母親のために。


悲しい自己犠牲。それを彷彿とさせないよう、事情を知っているこの芹澤美桜は自分に忠告をしに来たのだ。


「これは私の両親から聞いた話よ。お兄様が医大受験に失敗したとき、お母様は相当周りから責め立てられたって。そして、その歪みは今も引き摺られたまま。多分悠介が、親戚一同が納得する医大に受からない限り解消しないだろうって」


だから、その邪魔をしないで。


暗くなりかけた教室で、念を押すように美桜が言った。



その時。



「誰⁈」


入り口の方で声がした。聞き覚えのあるそれは、若干の怒気を孕んでいるようにも思えた。美桜とふたり、瞬時に振り返る。



「やっぱり、美桜……」



走って帰って来たのだろう。息を弾ませ、微かに髪を乱れさせた綾が、強張った面持ちで立っていた。






◇◆◇◆◇






「何で…何でここに美桜がいるの⁉︎」


そう言うが早いか、乱れた息もそのままに、眉間に深い皺を寄せ、綾はツカツカと前のめりになってこちらに歩み寄ってくる。


「悠介とちょっとでも仲良くした女には、釘を刺しに来ないと気が済まないってわけ?彼女でも何でもないクセに!」


声色はもちろんのこと、今にも掴みかかりそうな勢いに、さすがの美桜も一瞬たじろいだ。


思わぬ展開。綾は自分より背の高いみちるをグイっと押し退けると、美桜の前に立った。


「ちょっと、綾、落ち着いて…」


静止しようとしたみちるを内川綾は鋭い刃のようにキッと睨みつけ、そのまま、怒りに任せて矢継ぎ早に話し始めた。


「みちるは黙ってて!昔からそうなんだから。私が生徒会の事で悠介を追いかけてたら、抜けがけしたとか、悠介にちょっかい出してるだとか、アンタの取り巻き達が変な噂流して…こっちはそんな気さらさら無いのに、メチャクチャ迷惑したあげく、当のアンタはだんまり決め込んで。厄介事には関わりのない、いつでも良い子ちゃんでいたいからね!」


「…その事なら、私はきちんと謝ったつもりよ。あの子達にも話をしたわ」


「いつ?いつ、アンタが私に謝ったの?あの子達にも話たって、どう話をしたの?嘘ばっかり。じゃなかったら、何で私は普通科にいるのよ⁉︎アンタ達のせいで、私は…」


悔しさで喉を詰まらせて、堰を切ったように綾は美桜を責め立てている。こんなに冷静さを失った彼女を見たのは初めてだ。


そしてその口から語られる事情も。あまりの事に、みちるはかける言葉を失ったまま立ち尽くした。



人間関係が原因でこの普通科に編入したと言っていたが、それが事の真相だったとは、まさか、思いもよらない。


「私だけじゃ飽き足らなくて、私の友達にまで嫌味を言いに来たんでしょう?いい加減にしなさいよ!そんな性悪だから、今だって悠介に相手にされないのよ!」


語尾が一層強くなったとき、綾の右手が宙を舞った。そのまま、美桜の頬を目がけて振り降ろされるーー




パシンッ!


目の覚めるような痛烈な音が、三人の頭上を駆け抜けた。



…ジワリと滲む、強い痛みと熱。それを同時に感じた時、目の前の光景が一瞬歪んだ。




「あ……」


赤みを帯びた右手を押さえて、綾が小さく呻いた。


血の気の引いた唇を、僅かに震わせて。


「うそ…、何で…どうして美桜を庇ったりしたのよ…みちる…」


漆黒の瞳が揺れ、切れ長の目尻に雫が光っていた。がっくりと項垂れ、顔を覆った黒髪の向こうで『ごめん、ごめん』と呟くように何度も謝罪を繰り返す。その声はしだいに涙声に変わり、ぽたぽたと小さな雫が足元に落ちた。



気がつくと、美桜を押しのけて二人の間に立っていた。瞬時に取った自分の行動の意図は、自分にも分からない。



…けれど、これだけははっきり言える。


「…二人の間に、何があったか知らないけど」


張り付いた痛みを払うように、叩かれた頬を手の甲で軽く拭う。みちるは背後で絶句していた美桜と向き直ると、真っ直ぐに彼女を見た。




「あなたの言ってること、よく分かった。私もう、悠介とは会わない」




そう言った自分の心中は、自分でも驚くほど、何の躊躇いもなかった。






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