第25話 「彼女」

9月某日、快晴。



その日、青陵学園は多くの来客を迎え、たくさんの老若男女で賑わっていた。


月の最後の週末。お彼岸も過ぎて、本当ならとっくに秋めいていてもおかしくはない時期なのに、夏の気配は未だしつこく漂っていた。その上こうも良く晴れてしまうと、爽秋には程遠い。


照りつける日射しを避けようと、手にした紙のパンフレットを頭に翳した人々が、眼下を行き交っていく。



2階の階段脇にある、小さな部屋。控え室となった狭い資料室の窓際に座り、そんな光景を眺めながら、みちるはクラスメイトの作ったカップケーキを一口、静かに頬張った。



「…ん、美味しい!」


昼下がりの空っぽのお腹に染み渡る心憎い甘さ。一人きりの部屋で、みちるは目を輝かせた。


砕いて混ぜたミルクチョコが良い具合にとろけて、アーモンドプードル入りの生地との相性も最高だった。イチゴのような赤い紙カップも洒落ていて、見た目も悪くない。予想以上の出来栄えだ。100円にも満たない値段で、高校の文化祭に出す商品なら十分だろう。



「文化祭かぁ…」


呟くと、窓下の喧騒が一気に遠のいたような気がした。何となく物悲しいと感じるのは、やはり季節が少しばかり秋に近づいているからだろうか。


大きく開いたサッシの手摺りに凭れるように身を乗り出す。すると熱気を帯びた太陽光が小鳥のように両の腕でチリチリと跳ねて、みちるのセンチメンタルなど、一瞬でついばんでいった。


「太陽のチカラって、偉大だなぁ」


夏休みに通った補習中に、若い数学教師が『太陽の光はなぁ、万能薬なんだぞ!』と、ドヤ顔で語っていたことをふと思い出した。後ろにいた男子生徒が『理科じゃねーのに』と、かったるそうにぼやいていたっけ。


その数学の補習もさることながら、友達と遊んだり、バイト先を探してみたり…家族旅行にでも行こうものなら、1ヶ月ちょっとの夏休みなど、あっという間に終わってしまった。



本当に、あっという間に。




…悠介と会ったのも、結局あの日一度きりだった。


あの日の夜にラインで簡単な礼文を送ってはみたものの、向こうの反応は薄く、会話は繋がらなかった。



(どうしたんだろう。昼間はあんなに得意げにピアノを弾いて、楽しそうに笑っていたのに)


少し距離が縮まったような気がしたのは、自分だけだったのだろうか。気にはなったが、悠介も勉強やその他の事で色々と忙しいはずだ。邪魔になっても嫌なので、それ以降連絡を入れるのは控えてしまった。



けれど、もう一度聴いてみたいという、自分の中に湧き上がってくる好奇心のような感情を否定する事は出来ない。


無論、悠介のピアノを、だ。


自分の好みもあるだろうが、演奏を聴いてあんなに心地よい、楽しい気分を味わったのは久しぶりだった。



(悠介が好きだって言うなら…)


「この声だって、暫くこのままでもいいかなって思ったのに」


僅かに高くなった空を瞳に映しながら、自然と口を吐いた言葉に、みちる「ん?」と眉根を寄せた。


「やだ私、何言ってるんだろ?」


「よっしゃー、ノルマ達成!あー、もう当分カップケーキなんか見たくないわっ!」


ガチャリ、と音がして、小さな部屋のドアが勢いよく開いた。霧のようにみちるの独り言をかき消して、これまた威勢よく入ってきたのは内川綾だった。


前傾姿勢になりながら、ツカツカと早足でこちらに向かって来る。


デニム地のカジュアルなエプロンがよく似合っている。が、彼女は堅苦しいスーツでも脱ぐような顔をして素早くその紐を解いていった。同時に乱れたロングヘアを手ぐしで直すと、綾はみちるの方を向いて言った。


「まぁったく!香奈もみちるも。彼氏とどっか行っちゃうわ、自分の分売り切ったらすぐ下がっちゃって。最後大変だったんだからね!」


「え、だって、綾が『みんな先に下がって、あとは私が全部売るから』って言うから…」


それはつい小一時間ほど前に綾本人がクラス皆の前で発した言葉だったのだが。乾いた口を尖らせて矢継ぎ早に詰め寄る彼女に、みちるはたじろいだ。


「…あれ、そうだっけ?必死過ぎて忘れてたわ」


まさかと思うが、どうやら無意識に発言していた言葉だったようだ。必死だったのは本当だろう。呪縛が解けた本人は、今目覚めたかのように小首を傾げてケロリとしている。


「忘れてたって、文化祭でカップケーキを売るのにどんだけ必死こいてたのよ?」


「だって、2組の方が断然お客の入りが良かったんだもん。負けたくなかったの!」


(…なるほどね)


プクッと頰を膨らませ、子供のように拗ねる綾を見ながらみちるは内心苦笑した。彼女らしいと言えば本当にそうだ。


全く、と言いたいのはこっちの方だがそんな所もまたこの親友の長所なのは、これまでの付き合いで理解していた。


「仕方ないよ、隣はホットドッグだったんだから。昼時なんだし」


「仕方ないって、そもそもそう言う考え方が私はキライな…」


再び綾が口を尖らせかけた時、きゅるきゅると言う間の抜けた音が二人のあいだに割って入った。



「…人のカラダって、本当に正直ね」


空腹を訴えた自分のお腹を冷ややかに見つめて、綾は苦虫を噛み潰したような顔をした。



◇◆◇◆◇



ホットドッグを昼食に、手早く済ませて二人が向かった先はーー


「おっ!何だよ綾、来るなら連絡くらい入れろよ」


久々に会った直人は部活に忙しかったのか、一段と日に焼けて、その身体つきも一段と逞しくなっているような気がした。


白いYシャツにズボンとお揃いの黒いタイは細めでスタイリッシュ。濃い臙脂色のエプロンを腰から垂らし、見た目はもう、すっかりバリスタそのものだった。


「なぁんだ、メイド喫茶がどうのって悠介が言ってたみたいだけど、フツーに喫茶店じゃない?」


そんな直人には目もくれず教室内を軽く見回して、綾はさもツマラナイといった口調でそう言った。


「ちょっと、綾ってば…」


遠慮なく言い放つものだから、その発言は直人だけでなく他の客らにも聞こえただろう。さすがに顔から血の気が引いた。媚びが無いのは良いのだが…果たして、これは長所と言うべきか。こうまでバッサリ切ってしまうと身もふたもない。


しかし、そんな綾との付き合いも長いせいか、特に嫌な顔もせず直人はいつものように飄々と話した。


「メイド喫茶?ああ、オレが推してたヤツね。ま、どう考えても確実に却下だろ?ウチの学校で。それでも隣のクラスのミスコンは通ったからな、大分砕けてはきたと思うけど」


「「ミスコン⁉︎」」


直人の言葉にみちると綾は揃って声を上げたので、室内にいた数人の客が振り返る。直人はゴツゴツした人差し指を口元に当て、小さく「シッ」と言った。


そんな企画があるなんて、全く知りもしない。二人にとって、それは思いもよらない意外な情報だった。


「何よそれ。特進科オンリーの小規模な企画?…っていうか…」


そこまで言いかけて、綾は何かに気づいたように、もう一度教室内を見回した。


「悠介は?」


だから、と直人が窓の外を見る。


「隣のクラスの女子にさっき連れ去られて行ったよ。向こうの中庭に」



◇◆◇◆



『もう始まってるはずだから、行くなら早く行った方がいいぞ。そんなデカい企画でも無さそうだし』




「みちる、走るよ!」


そう直人が言い終えるや否や、綾はみちるの手を取って走り出した。


広い校内はいつもと雰囲気が違う事もあって、まるで迷路のようだった。しかもここは特進科の校舎内。普通科の生徒のみちるが足を踏み入れるような事はない。


がしかし、綾は大体知り得ているようだった。どこをどう走ったのか、彼女に連れられるまま、みちるは大勢の人の間を縫うように中庭まで一気に走って行った。




普通科と特進科の校舎を繋ぐ渡り廊下の下にある小さなスペースが、通称「中庭」と呼ばれているものだ。


正確には特進科校舎の昇降口に続く前庭で、渡り廊下の向こうが校庭と言う造りになっている。



大きなケヤキの木が一本、我が物顔で立っている。


その真下には結構な大きさの黒山の人だかりが出来ていた。


ざっと見たところ、青陵学園の生徒ばかりだった。学年は分からないが、大半は女子生徒だ。やはり特進科ばかりの集団なのだろうか、見かけない顔が多い。


気が引けたが、相変わらず綾はみちるの手を離そうとはしない。それどころか一層強く握ったかと思うと、人混みを掻き分けてそのまま集団の中に突っ込んで行った。





「パンパカパーン!それでは2年B組による、青陵学園初、勝手にミスコンアンドミスターコンは、1ーAの芹澤美桜さんと、2ーAの時田悠介くんに決定しました!皆さん、拍手して下さいっ!!」


元気の良い司会の女生徒の声を人の群れの中で聞いた。ケヤキの木の下に、女生徒達の黄色い歓声と男子生徒が吹く冷やかしのような口笛が鳴り響く。


「…はぁっ」


熱気を帯びた人集りを抜けると、頭に手作りの王冠を被せられたバリスタの格好の悠介が目の前に立っていた。


一応愛想笑いを浮かべているが…あまり嬉しそうには見えない。


そして、その隣にいるのはーー



「美桜…」


はしゃぐ集団の中で、綾がその名を呟いた。見ると、唇の端を噛み締めてじっと一点を見つめている。


「…なに、綾、知ってる子?」


みちるは悠介の真横に出てしまったので、ミス青陵の女の子は見えない。


背伸びをしながら、綾の方へと少し移動してみる。

間も無く、風に遊ばせた嫌味のない薄茶色の髪が、フワフワと舞ってるのが見えた。


「…わっ!」


刹那、自分と同じ事を思った輩に体を押されて、バランスを崩し声を上げる。

転びそうになる寸前。何とか踏み止まって振り返ったみちるの視線を「彼女」は釘付けにした。


細身の身体に、子供のような小さな顔がちょこんと乗っている。透き通るような白い肌。意思の強そうな大きな瞳は挑発的にも見えたが、キラリと輝いて、誰もを吸い込んでしまいそうだった。


隣の悠介を見上げて、ふっくらとした艶やかな唇を綻ばせている。



これほど可愛らしい人を、自分は今まで見た事があっただろうか…。


同性ながら思わず見惚れてしまうほど、『芹澤美桜』は美しかった。



…そして、どこをどう見ても悠介と彼女は『お似合い』だ。






悠介の存在が、目の前の二人の姿が、とても遠く感じた。





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