第24話 悠介side
月が出ている。
穏やかな、暖かみのある光を称えて、雲ひとつない紺碧の空にソフィアの如く輝いている。
満月、いやほんの少し、下弦が欠けているような。どちらにしろ、澄んだ空から射すその光は、満遍なくこの世界を照らしているに違いない。
…もちろん、眼下に見えるこの景色にも、だ。
『すごく綺麗…!』
昼間にみちるが発した、感嘆の声がふと蘇る。
「唯一の趣味、か」
時折吹く夜風が、いたずらに小さな草花を揺らし、周囲の木立ちをざわめかしていた。すぐ側の街灯に寄るのは鬱陶しい羽虫ばかりで、人影など映しはしない。
22時を過ぎて、何がある訳でもないこの住宅街に人通りなど皆無なのはいつものこと。月の光と街灯が照らし出すのは、彩を失ったモノクロのような庭。自室の窓から見遣る光景に、やはり感動など得られなかった。
見慣れてしまったといえばそれまでだが、理由はそれだけではない。それどころか、感動などとはまるで真逆の、やるせない、なんとも言えない感情の湧き上がりは自覚できたが。
それを振り切るように、悠介は外を眺めるのを止め、カーテンを引き、視線を外らせた。真っ先に見えたのは、10畳程ある部屋の隅のベッド。ツカツカと歩み寄り、躊躇いもなく一気に全身を預けると、小さな悲鳴を上げながら、いつもの様に主の身体を否応無く受け止めた。
悲鳴が収まり始めたのを見計らって、仰向けに寝転ぶと、冷たいシーリングライトの光が目を刺した。思わず、手をかざして遮る。
『康介はお医者さん、悠介は…ピアニストかな?』
瞬間、そんな懐かしい声が耳の奥で木霊して、細めていた瞳をパッと見開く。
朗らかで明るい、優しい声。
夢と希望に満ちて、穏やかな…
この手がまだ、もっと小さかった頃の、それは彼女の口癖だった。幼な心にゆったりと、小鳥の囀りのように響く。
最後にそれを聞いたのはいつだったか。頭の奥底に封印したはずの遠い記憶は、同時に厄介な情熱まで蘇らせた。
あれに触れている時間が、何より一番楽しいと。
けれどそれを自覚してはならない。自分はもう、捨てたのだ。大きく寝返りを打った時、枕元に置いたスマートフォンが小さな音を立てた。
手にとって、画面を覗く。簡潔ではあったが丁寧な言葉遣いの、みちるからの礼文だった。
読み終えるのに1秒とかからない。しかし、冴えた瞳で暫くじっと、悠介はその画面を見つめ続けた。
…今思い返しても、やはりよく似ている。昼間、再び聴いたあのみちるの声。多分、目を瞑って聞いたものなら自分でさえ、タツヤ本人が歌っているのではと錯覚するほど。
(…タツヤの歌を初めて聴いたのは、いつだっただろう)
真っ直ぐに大空を駆ける、自由な鳥のようだと思った。
自身の未来なのに、選択権がない。そんな事実に気付き始めた自分に、タツヤの歌は、あの歌声は、えもいわれない解放感を与えてくれた。
聞いている時だけが、唯一許された自由な時間。
けれど、タツヤは逝ってしまった。彗星の如く現れて、キラリと瞬いたかと思った瞬間、幻のように闇に溶けた。
彼にとって、それが不本意な死だった事は分かっている。けれど、世間は皮肉なもので、それが返って人々の心を捉えて離さない。タツヤの存在を、伝説の逸材として語る輩は今でも多い。
単純に考えると、ある意味アーティストとしては成功者のようにも思える。名声だけ残して、彼は本当に自由な鳥になったのだ。
さらに貴重なその声を、偶然にも『宇野みちる』という少女に託す事も出来たのだから。
みちるは受け入れ難く思っているが。
あの時。
ピアノを弾いていた後ろで、みちるがあの歌を歌いながら必死に嗚咽を堪えて、それでも絶えなきれなくなって声を詰まらせていた。よほど自分の歌声に未練があるのだろう。その気持ちも良く分かる。…かつての自分がそうだっただけに。
けれども、そのみちるだって…彼女の言う通り、ボイストレーニングにでもきちんと通ったら…もしかしたら取り戻せるかも知れない。彼女の『元の歌声』を。
「…自由じゃないのは、オレだけか」
吐き捨てるように呟いて、嫌味なほど眩しく光る部屋の明かりをオフにした。
希望、情熱、そして未来。奈落の底のような真っ暗な闇の世界に、悠介は全てを投げ出した。
、
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