第23話 cherry blossom
時刻は午後の3時すぎ。
扉を開けると、その向こうの太陽は少し西の方角に傾き始めていた。しかし、その威力は衰える事もなく、燦々と絶え間なく降り注ぐ光に、みちるは目を細めた。
「駅まで送るよ」
庭の小径を歩きながら、悠介が言った。
その声色が、明らかに来た時と違う。みちるは先立って歩く悠介の眩しい背中をふと目で追った。
冷静で、どちらかと言うと愛想のない印象の彼だったが、今はもう、そういった空気を感じさせない。
今まで何となく一線引いてたものがフッと解けたのだろう。
「うん、ありがとう」
そんな変化が嬉しくて、自分の声のトーンもついつい上がる。
陽の暑さでは、一番高い時刻なせいか、表には誰もいない。
門を出たところで、並んで歩いた。
「そう言えば、悠介のクラスも何かやるの?文化祭で」
ふとそんな行事が控えていた事を思い出し、みちるは悠介に話を振った。
この夏休みが開けたら、9月の末には文化祭の予定が入っている。みちるのクラスはカップケーキを焼いて出すだけ、というかなり何の捻りもない案が支持されていて、納得出来ない綾がブツクサ文句を言っていた。
『男子がメイドのカッコでもして、出せばいいのよ』
じゃなきゃ、面白くも何ともないわ。
脳内で、ため息まじりの親友の声が、やけにリアルに再生された。
「…メイド喫茶」
「えっ⁉︎」
同時に、隣にいた悠介がぽつり同じ事を呟いて、まさか自分の脳内を読み取られたのかと、驚きで肩がビクリと上がる。
そんな訳、あるはずもないのだが。
「何だよ?」
「あ、ううん。特進科のクラスもそんな事するんだなって」
「女子がやったら生々しいけどな。ま、男がやるなら受け狙いで済む…」
「えぇっ⁉︎ってことは、悠介もやるの?メイド!」
何なんだ、と思う程、今日は色々とビックリさせられる事ばかりだ。しかし、最後に来たこの話はかなりショック、というか衝撃的。
声を張り上げずにはいられない。
「バカ、声デカいっての」
驚き、そしてにやけるみちるに、悠介が嗜めるように言った。
その顔が薄ら赤く見えるのは、多分陽に晒されたせいだけでははない。
「行きたい、見たい!行っちゃダメ?」
円らな瞳をキラキラさせて、自分より15センチは高い悠介に、ずいと詰め寄る。悠介は「うっ」と、言葉を詰まらせた。
(絶対に行きたい。ダメと言われても内緒で行く。もちろん、綾と香奈も連れて!)
イケメンの悠介が女装なんて、メイドだなんて、一見の価値はあるに違いない。
「…やだね、おまえうるせーし。それにオレはまだやるとは決まってな…」
「写メとか撮りたーい」
「撮りたーい、じゃねーだろ。立ち入り禁止だっつーの」
長い午後の静かな住宅地に、二人の賑やかな声が響く。
「だって、綾も喜ぶって絶対に〜」
そして、悠介の家を出てから、数十メートル歩いた角を曲がったときだった。
「ん?…あれっ」
蝉の音と、真夏の日差しの間に一瞬、香る。
花のような、それでいてもっとハッキリとした、甘い香りが鼻先をくすぐった。
(何だろう…香水?)
歩みを止め、辺りを見回そうと首を捻ったが、誰も居ない。
(おかしいな…)
「おい、みちる!」
呼ぶ声に、現実世界に引き戻されたようにハッとした。逆光を背にした悠介が、暑さで滴る額の汗をシャツの袖で拭っている。
「ごめん、何でもない」
パタパタと背中のリュックを震わせて、怪訝顔の彼のもとへ小走りに駆け寄った。
花のような匂い。けれど違う。
ある花をイメージした香水だ。
…多分それは、春に咲く
儚く淡い、桃色の
(桜の香り…?)
もう一度、子犬のようにくんと鼻先を鳴らす。
その刹那、悪戯な夏風がびゅうっと吹いて、可憐な桜を搔き消した。
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