第22話 lesson1


「だから、そうじゃないって」


小さな窓から差した日に、黒いシルエットがゆらり、揺らめく。椅子から立ち上がった悠介は、クシャクシャと前髪を掻きむしった。


「もっと力抜いて、喉開くんだって」



(そんな事言ったってさぁ…)


今までそういう類のレッスンなど、まともに受けた事のない人間が、そう簡単に出来るはずもない。



みちるが悠介の問いに『yes』と答えてから、一時間も経っただろうか。


肩や顔のストレッチ、腹式呼吸のやり方や喉の開き方云々…悠介は、ボイストレーニングのやり方なんて知らないとしれっとして言っておきながら、未だに歌など歌わせてくれない。


ーー否、始まりに、少しだけ歌わせてはくれていたか。


『歌った』という表現が相応しいとも言えない、ワンフレーズのみだが。


『それ』を聞いて、しばらく歌う事から逃げていたみちるに『いきなり歌うのは無理』と、彼は判断したようだった。



ピアノからそっと手を放すと、肩を回せだの首を振れだの、しまいには百面相ばりの表情筋トレーニングをさせられる始末。


続いて来たのが腹式呼吸。姿勢を正してお腹に手を当て、そこが上下する感覚を掴むまでスーハー、スーハーと。


「肩が上がってる。それから息を切るな

。…ほら、また一気に吐きすぎてる」



(ううっ、この鬼め!)



この部屋に来て、何度そう思った事だろう。


みちるは悠介の背中をキッと睨みつけた。


「何?」


小学生の時、担任教師がよく言っていた言葉を思い出す。先生の背中には目がついてるんだよって。この人もそういうなのだろうか。切れ長の涼しげな目で、それはそれは冷ややかに、嗜めるように見返された。


(鬼、いや悪魔よ、白悪魔!)


着ているシャツの色にかけて、みちるは悠介のことを、心の中でそう呼ぶことにした。


が、しかし、ただのいち高校生が、よくここまで詳しく知っているものだ。


「…ねぇ、でも悠介はよく知ってるんだね。歌の事。誰に教わったの?」


もうすっかりぬるくなってしまったペットボトルのお茶を鞄から取り出し、一口含む。カラカラに乾いた口が幾分潤い、滑舌が良くなった所でみちるは悠介に問うた。


「…親が。母親が音大卒なんだ。だから昔、教わった。子供の頃」


気のせいか、そう答えた悠介の声色は翳りを帯びているように思えた。ちょっと重々しい口調。けれどそれが返ってみちるの好奇心を擽り、もう少し聞いてみたくなる。


「ピアノも?」


「そう。まぁよくある話…」


「聞いてみたい!」


悠介が言い終えるのも待たずに、みちるは声を弾ませた。


「えっ…?」


「だって、あんな素敵な庭を作るお母さんが教えてくれたんだもん、聞いてみたいよ!」


「聞いてみたいって…まだおまえの練習途中だろ」


「えー、いいじゃん、ちょっとくらい。けちー」


そうだそうだ、自分を散々虐めておいて。今度はそっちの番だ。みちるは口を尖らせた。


「…ったく、分かったよ。その代わりおまえハナヂ出すなよ?あまりのウマさに」


観念したのか呆れたのか、軽い冗談を交えながら、譜面台に用意していた楽譜をパラパラと捲る。何の曲を弾くのか、悠介はピアノの前に座り直すと、長い指をそっと鍵盤の上に並べた。




そのまま、スゥっと息を吸い込む。



ゆっくりと、力を込めた両の手が、静かに音を紡ぎ出した。




◇◆◇◆◇




二人きりの空間に、悠介が奏でるその音色が、ただ静かに流れている。


そして、彼が弾いているのは、有名なクラシックの曲でも流行りのポップスでもなかった。



(この曲は…)



有名な合唱曲、「believe」。


みちるの大好きな曲の一つだ。



そして、最初に彼が豪語した事は満更でもなかったと思い知る。



悠介が奏でるピアノの音色は、不思議な引力を備えていた。


聞いているだけで晴れやかな気持ちになれる、


ワクワクするような、楽しい気分にさせられる。


そんな音色が、みちるの胸をゆっくりと満たしていった。



きっと、音の強弱や間の取り方が絶妙に上手いのだろう。




気が付くと、自分も歌い始めていた。




◇◆◇◆◇




この曲を初めて歌ったのは、確か中学2年の頃。


先生やクラスのみんなに『歌が上手』って、よく褒められるようになった頃だ。



歌うとすごく良い気持ちになれたし、なんでも出来そうなくらいワクワクして、とても楽しかった。


それが自分の特技だと、胸を張れるのがまた嬉しくて。



ちょっとレベルは高かったけど、青陵学園に有名な声楽部があると知ったのもこの頃だった。


絶対に入りたい、そう思った。




絶対に合格して、声楽部に入って…うまくすれば1年生でもレギュラーになれるかも知れない。



友達も沢山作ろう。そして放課後の練習が終わったら、いつものファーストフードでお茶を飲んで、たわいもないお喋りに明け暮れて…


夏休みの恒例と言われていた山荘合宿にだって、もちろん参加するつもりだった。降り注ぐ日差しに汗をしたため、延々と続く練習に愚痴りながらも頑張る自分の姿を、幾度も頭の中に思い描いた。



…好きな人とかも出来るのかな?



なんてことも、ふと思ったり。



たわいもない、本当にたわいもないそれはごく平凡な、ありがちな未来予想図。



あの学園に入学した時点で、それは絶対に実現するはずだった。叶うと信じて疑わなかった。


当たり前だと思っていた。



なのに、なのにどうだろう?実際の自分は、訪れたこの現実は…まるで思ってもみない。



出る声はまるで他人。あんなに入りたかった声楽部には入部届けさえ出せずにいる。


胸に抱いていたあるはずの未来はガラガラと音を立てて崩壊し、大勢の友達も、合宿も何も…


あるのはただーー



知り合う筈もなかった先輩と、こんな小さな部屋でふたり、誰にも知られずにこっそりと歌う自分。



(何で…どうしてこんなことになっちゃったんだろう…)


自分は何か、そんなに悪い事をしたのだろうか。学校だって、たまに寝坊はしたけれど、サボった事はなかったし、友達を虐めたりなんて勿論していない。料理は得意じゃなかったけど、食べたお皿は毎回ちゃんと洗っていた。


(帰りが遅いからって、お兄ちゃんの分のアイスを勝手に食べてたから?数学の時間、いつもうたた寝してたから?それとも、それとも…)


閉ざされた希望。予想だにしなかった現実。こうなってしまった事に、理由など無い。全ては偶然に起きた事故のようなもの。そんな事は分かっている。けれど、止めることが出来ない。みちるは頭の中で延々と自問自答し続けた。


その思考が全てを支配した時、何かがぐっと込み上げてきて、目頭が強い熱を帯びた。同時に歌を歌っていた喉が詰まりそうになって声を失うーー


(だめ、泣いちゃだめ!)


ギュッと固く目を瞑る。迸りそうになる涙を堪えて、心の中で強く叫んだ。


刹那、みちるの『内なる声』と、『別の声』が重なった。


「信じーてるーっ!」


力強く押された鍵盤は、そのボリュームを一段と増して、小さな部屋いっぱいに響き渡った。


そして、それにも負けない大きな声を張り上げて、悠介が最後のワンフレーズを歌ったのだ。





スッと、身体中に込み上げていたものが嘘のように引いて行く。


「えっ…?」



「…はい、よくできました」


さっきの態度とはまるで違う、静かな光を湛えた瞳で、悠介はみちるを見上げた。


「よくできましたって…あれ、私いつの間に…」


悠介の奏でる音にいざなわれて、いつの間にか自分は歌っていたんだと、その時、改めて気がついた。


「最後、ブレなきゃ完璧だった」


白い悪魔が初めて褒めた。が、嗚咽で喉が詰まりそうになっていた事は、やはりバレていたらしい。


恥ずかしい。演奏を終え、立ち上がろうとする悠介から反射的に顔を逸らせた。と、それと同時に、二人の間に、ヒラヒラと一枚の白い紙が舞う。



「あ…、何か落ちた」


咄嗟に身を屈めて拾い上げ、表を向けて覗き込む。何かの楽譜らしい。


「これって…」


譜面を読み取ったみちるの眉が僅かに動く。ピアノはかじる程度しか経験がなかったが、それが何の曲なのか、すぐにピンときてそのタイトルを呟いた。


「アンパン…」


何でこんなものが?みちるは小首を傾げ、目の前の悠介を見上げる。


「…指慣らし。それが一番いいの」


悪いかよ。悠介は、ふて腐れたようにボソッと言った。


「…えっとつまり、これが時田悠介の十八番おはこって事?」


目が点になった。あれだけの腕前を持ったイケメンの十八番がこれとは…


「笑うなっての」


そんなみちるの頬っぺたを、悠介がキュッと捻る。


「いたたっ!だって可笑しいんだもん、悠介がアンパンって、一体どんな顔して弾いたのかなって…」


思わずにやけてしまう。想像すると笑いが止まらない。


「そりゃ、おまえ、至って真面目に決まってるだろーが。誰もが知ってる名曲を」


「め、名曲って〜」



悠介の冗談に、みちるはお腹を抱えて笑い転げた。



そして初めて、二人は声を上げて笑った。









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