第21話 yes or …

その約束が果たされたのは、夏休みも真っ盛りの8月初め。


あれから一ヶ月が経とうとする、蝉の音も騒がしいお盆休みの直前だった。



「うわ…」


額に滲んだ汗を拭って、みちるは現れた一件の家を唖然として見上げた。


『彼』に案内され、とある駅から歩くこと十数分の、綺麗に整備された住宅地。その東南角地の一角に建つ一際大きなこの家には、確かに、


(時田って書いてある…)


エントランスに掛かった石版に刻まれた文字を、食い入るように見て確認する。


「…そんなに珍しい?この表札」


ぽかんと口を開けて、呆気に取られているみちるを見て、涼しい声で悠介が突っ込んだ。慌てて石の表札からパッと視線を戻し、無防備に開いていた口をキュッと結ぶ。


「なか入って。暑いから」


悠介が、玄関ポーチの門をそっと開く。


カチャリ、と響く小さな音。


そして目の前に広がった光景に、みちるは感嘆の息を洩らした。


まるで、童話か何かの世界のようだ。


程よい感覚で敷かれた白いタイルの飛び石が、数メートル先の玄関まで、緩く弧を描いて誘っている。


その飛び石の間はバークチップで丁寧に埋められ、すくすくと育った花水木のシンボルツリーが居心地の良さそうな木陰を作っていた。


煉瓦で出来た花壇にはたくさんの季節の花、オレンジにピンクに赤に紫…名前はよく知らないが、青々と茂る緑の芝生の絨毯を鮮やかに彩って、その奥には薔薇の蔓をつたわせたポーチも見える。


等間隔に植えられた背の高いゴールドクレストの垣根も、きれいに剪定が施されていた。


丹念に手入れをされている様がよく窺える。


「すごく綺麗…!これ、庭の手入れは悠介のお母さんがしてるの?」


猫の額という形容詞がぴったりの、自宅のそれと比較したら何倍あるだろう。その広さと美しさに子供のように指を差しながら、いつの間にか追い越していた白いシャツの背中に問いかけた。


「ああ、趣味だからね」


もう見慣れてしまったのだろうか。みちるが指差した花壇をちらと見て、悠介はさして興味もなさそうにそう答えた。


白タイルの飛び石を踏みながら、玄関ポーチの階段を軽い足取りでピョンと上る。薄いベージュの総タイル貼りの家。一見カジュアルな作りの木製扉は、取っ手に小さなボタンの付いたキーレス仕様だ。


「って、言うか」


扉を開こうとした時、悠介が振り向きながら言った。


「…何で制服なの?」


(うっ…やっぱり突っ込むよねぇ、そこ)


予想通りと言うべきか。一学期早々、苦手な数学は赤点スレスレ。そんな成績不良者の為に、心優しい担任教師はその面倒見の良さを発揮して、補習という名の特別授業をこの夏休みに設けてくれたのだ。


そして今日はその帰り、だとは…まぁ、言えるはずもない。


「べ、別にいいじゃん。制服は女子高生の最強のモテ服なんだから」


思いついた咄嗟の言い訳は適当で、モテ服という雑誌から切り抜いたような単語が酷く浮ついて痛い。なんだそりゃ?と内心自分で突っ込みたくなる。



「モテ服ねぇ…」


ツンと顎を逸らして立っているみちるを一瞥して、悠介が呟く。


「ま、そうかもな。それ着てれば、みちるもどうにか女子高生らしく見えるし」


「ちょっとそれどう言う意味⁈」


「モテるかどうかは別って事」


口の端が歪んでいる。いちいちムキになって反応してしまう自分を、面白がっているに違いない。完全に子供扱いだ。


(どーせ私はネンネですよーっだ)


すでに背中を向けている悠介に、あかんべっとして見せた。が、同時に夏の陽をいっぱいに受けた彼の肩がシャツの中に僅かに透けたのを見てしまい、そのしっかりとした様にドキリとする。




『今日はウチ、誰もいないから』


駅から歩いている途中で聞いた、悠介の言葉をふいに思い出す。


「…みちる?」


冷んやりとした空気が足元を攫った。気がつくと、玄関のドアはとっくに解放されていて、中で悠介が柳眉を寄せて立っている。


「あ、ああ、ごめん。おじゃまします」


真っ白いタイルが眩しい。大理石かもと思いながら、高い天井を見上げた。2階まで吹き抜けていて、明かりとりの細長い小窓がいくつも付いている。


(ほんっとにオシャレな家…)


脱いだローファーを揃えて中に上がる。悠介に付いて、長い廊下をキョロキョロしながら歩く。家の中はどこも涼しく、夏の陽に晒された体の火照りが徐々に冷めていった。


(ここで…この家で、一体何をするんだろう?何で私を呼んだんだろう?)


実のところ、それについて悠介は何も教えてはくれなかった。ただ、ちょっと時間がいるから待っていてほしいと、呼ぶから、と言うだけで。



「結局誰にも言わずに来ちゃったけど…良かったのかな…」


通されたリビングで、出されたオレンジジュースを飲みながら、思わずひとりごちた。



広々とした、開放的な空間。ざっと見ても20畳以上はありそうだ。広すぎて少し殺風景なくらい。しかし、大きなワイドサッシの向こうに見える童話の庭が、そんな印象を和らげていた。


「お待たせ、みちる、こっち来て」


リビングの扉がカチャリと開いて、悠介が軽く手招きをした。


「う、うん…」


その言葉に鼓動が跳ねた。緊張のあまり、手と足が同時に出そうになる。ぎこちなく動く身体を漸く引き摺って、呼ばれるがまま、手招きしているその方へ、ゆっくりと歩いて行った。





◇◆◇◆◇




案内されたその部屋は、廊下のつきあたり一番奥の、比較的こじんまりとした空間だった。

小さな窓から、陽の光が薄っすら差し込んでいる。


組みになったハイアンドローの箪笥、背の高い大きな本棚、収納チェストの横にはシーズンオフのスポーツ用品、


そして、



「ピアノ…」


シーリングライトの光を反射して、片隅に置かれた黒のアップライトピアノが、艶やかな光沢を放っていた。



「今は納戸にしてるけど、この部屋はもともと防音室なんだ。…親の昔の趣味で」


ピアノの上に敷かれた青い天鵞絨のカバーを外して、悠介は静かに言った。


鍵盤蓋をそっと開ける。


「古いけど、メンテナンスは定期的にしてたから。音はちゃんと出るよ。ま、楽譜探すのと練習にちょっと時間かかったけど」


「れ、練習って…悠介ピアノ弾けるの?」


ピアノを弾けること自体初耳だったが、悠介が何を意図しているのか、みちるには理解が出来なかった。まさか、歌わせるつもりなんだろうか。あんなに嫌がっていた、jetstreamの歌を…


込み上げた不信感が、みちるの顔を曇らせる。が、しゅんと項垂れたその頭に、何か紙のようなものがポンと置かれて、ふと顔を上げた。


「この間みちるが言ってた歌、中学の合唱コンで弾いたやつだったから。カン戻すのに時間かかったけど、また弾けるようにしといた」


「えっ…?ええっ⁉︎」


驚きのあまり、頭を覆っていた紙を乱暴に掴んでしまった。クシャクシャと皺だらけになった譜面。

そこに載っているタイトルはjetstreamの歌ではない。大好きだった歌の名前だ。



「ボイトレとか良く分かんねーけど、おまえ歌うたいたいんだろ?だから、オレに出来そうな事でやってみた。…この前も、みちるの気持ち考えないで悪いことしたしな。けど…」



やるかどうかは、みちる次第だ。



「歌ってみる?」



真っ直ぐに見つめて、悠介が問う。



(歌ってみるって、そんな、急に言われても…)


譜面を持った指先に、ギュッと力が入る。


みちるは悠介を見返した。が、彼は何も言いはしない。必要なのはyesかno。自分の答え唯一つなのだから。



ピンと張り詰めた空気が漂う。




ゴクリ、と喉が鳴る音が響いた。











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