第20話 彼の提案

花壇の片隅に植えられた大株の紫陽花が、水縹色の大輪を付けて、暗がりにぼんやりと浮かび上がっている。


ショートカットの首すじを撫でる夜の風は、この時期らしい湿り気を帯びて、まとわりつくように吹き抜けて行った。



人通りも疎らとなった薄暗い広場。生地の薄いスカートの下のベンチは思いのほか冷えていて、その感触が、みちるの火照った頭と身体に冷静さを取り戻させていた。




「ホラ」


「えっ?…わっ!」


ふいに声がして顔を上げると、目の前に「何か」が飛んで来て、思わず両手を構える。


「ナーイスキャッチ」


褒めた割にはニコリともしない。持っていたペットボトルの蓋を軽く捻ると、悠介はみちるの隣に腰を下ろした。


「あ、ありがとう…」


手にしたボトルの、キーンと冷えた感触が心地いい。


(だけど…)


すぐ隣で、シュワシュワと涼しげな音を立ててジュースを飲む悠介の横顔をちらと見た。


(何を考えているのだろう…)


高い山の稜線のような鼻筋が、ぱっと目を引く。長い睫毛に覆われた瞳は真っ直ぐに前を見据えて、意志の強そうな光を湛えていた。


形の良い唇。顎のライン。


まるで全てのバランスを緻密に計算して作られたようだ。


(きれい…)


喉まで出かかったその『声』を、みちるは慌てて飲み込んだ。


この静けさと暗闇が彼の美しさを一層引き立てているのだろうか。悔しいが、やはりこの隣に座っている時田悠介を、美形だと認めざるを得なかった。


「…何だよ?」


みちるの視線に気づいた悠介が、ぶっきらぼうな物言いで問う。


「なっ、何でもないっ」


見惚れてしまった。みちるはハッとして視線を逸らすと、子供のようにプイッとそっぽを向いた。


背中の向こうで、悠介が微かに鼻を鳴らすのが聞こえる。それは、短いため息。


(初めて会った時からこんな風だからなぁ。いい加減呆れているのかも)


かくりと肩が落ちそうになった。


その時、


「どーでもいいけど。でもおまえ、ヨダレ垂れてるぞ」


(へっ⁈)


不意を突いた悠介の指摘に、慌てて口に手を持っていく。

無論、そんな感触は全くない。


「よっ、ヨダレなんか垂らしてないしっ!」


「大声出すなよ、ツバ飛ぶだろ」


「飛ばしてないからっ!」


「ピーピーうるせーな、ったく。いいから飲め、その水」


そう言って、悠介はみちるが膝の上に放置していたペットボトルに視線を落とした。


「あ…うん、じゃあ、頂きマス。でも…」


「何?まだ文句あんの?」


「な、なーんで水なのかなぁって」


「それならスキもキライも無いだろ。それに…」


そこまで言って、悠介は急にゴニョゴニョと口篭った。


「えっ?何、聞こえない」


「だから、喉にいいんだよ!水が一番負担なくて。だからおまえは水なのっ」


分かった?


そう言い切った悠介の頬が、心なしか赤みを帯びているように見えたのは、多分気のせいではない。


どうやら、彼なりに心配してくれているようだ。


「うん…、イェッサー!」


そんな悠介の心遣いが嬉しくて、はにかんだ顔が可笑しくて。みちるは明るい声で答えた。




◇◆◇◆◇




しかし、話はまだ終わった訳ではない。


これまでの経緯を、ついに悠介に全部話してしまった。後先をよく考えもせず、よく他人にバラしたものだと後悔の念が過ったが、こうなればもう後の祭りだ。それに悠介は…最初こそみちるの話をただの夢物語としてしか受け入れようとしなかったが、でハッとしたように目の色を変え、自分の話を真剣に聞きだしたのだった。


タツヤの声のガラス玉が、深海のような深い青色をしていた、と話した時だ。


それは、本来ならひかり輝いているはずだったが、主を失って、その輝きも力も無くしてしまったと。


「…先輩は、信じてくれるんですか?私の…さっきのはなし…」


みちるは緊張しながら、隣に座る悠介に恐る恐るそう尋ねた。


「…まぁ、おまえがオレに嘘付く理由がないだろ。それに、屋上で歌ってたの、実際聞いてるし。でも…」


「でも?」


「タツヤは本当に言ってたのか?もう歌えないって。あの声は出ないって」


「うん…。あの夢の中で、タツヤの声のガラス玉は光ってなかった。ただ深い海みたいな色をして…死んでるってタツヤは言ってた」


確かに。確かに夢の中で、タツヤはそう言っていた。


「でも、おまえは歌えたじゃん?完璧に。それにオレ、青い光を見…」


「えっ?」


「いや、何でもない。で、おまえはこれからどうしたいの?」


「…バイトします」


「はぁ?」


予想外のみちるの答えに、悠介は声を裏返した。


「夏休みにバイトして、ボイトレ通おうと思って。ボイトレしたら…もしかしたら、私の声も元に戻るかも知れない」


「でも、おまえの声はタツヤが持ってたんだろ?それにボイトレって…もしかしておまえ」


悠介の顔色がサッと変わった。

眉間にしわを寄せて、唇の端を噛みしめている。端正な顔の彼がすると、ちょっと怖い。


悠介はみちるの左肩を掴んで、自分の方に振り向かせた。心臓が飛び出そうになる。


「ちょっ…」


「おまえまさか、まさかその声消すつもりか⁉︎」


悠介のその表情は、まさに真剣そのものだ。

真っ直ぐに自分を見つめる瞳に、みちるは恥ずかしくなってふいと逸らした。


「さっきから、おまえおまえって…私ちゃんと名前あるもん…」


「えっ?あ…あぁ」


みちるの一言に、悠介は漸く自分が熱くなっている事に気付いたようだ。小さな肩を掴んでいた手をそっと外す。


「じゃあ、何て呼べばいいんだよ?」


ボソボソっと悠介が問た。呼び名なんて、本当はあまり気にしてなかったが、おまえと連呼されるのはあまり良い気分ではなかったし、何より、悠介に責められているようなこの流れを変えたかった。


宇野さんと呼ばれるのもピンとこない。みちるは少し考えて、結局一番無難なものを選んだ。


「…みちるでいいよ、みんなそう呼んでるし」


実際、中学の時はクラスメイトの男子にそう呼ばれたりもしていたのだが。しかし、相手が悠介となると…ちょっと恥ずかしい。


言って、顔から火が出そうになる。


「じゃあ、みちる。オレの事は悠介でいいから」


そんなみちるの要求を、悠介はさほど照れた様子もなくあっさり受け入れた。その応対を見ると、苦手とはいえ、女子の扱い方なるものを多少は身に付けているようだ。


「でも、みちるはそんなに嫌なのか?その、タツヤの声が…」


みちるの内心に配慮しているのだろう。悠介は少し躊躇しながらみちるに問う。


タツヤ声が素晴らしいという事は、みちるもよく分かっていた。けれど、それが自分の声として居座られるとなると、話は別だ。


「…私は私の声がいいの。それに…おとこ女みたいじゃない、あれじゃあ」


「はぁ?おとこ女⁈なんだそれ」


それは、心の奥底で、ずっと気にしていた事だった。けれど、そんなみちるの不安を一蹴するように悠介は言った。


「オレは、みちるのイメージに合ってると思ったけどな。大体、デビューしたての頃は、タツヤの声を女の声と間違う奴もいたんだし」


悠介の意見をみちるは黙って聞いていた。自分のイメージ云々は別として、後半の彼の言い分は理解できる。


けれど。


「…合唱は出来ない。私の好きだった歌…、ビリーブも、大地讃頌も、翼をくださいも、全部歌えない…」


あの声では。どうしても浮いてしまう。


「やっぱり、バイトしてボイトレ通います」


結局、この結論に至ってしまう。しかし、そんなみちるの答えに、悠介は納得行かないようだ。


「………」


口元に手を当てて暗い地面を見つめ、何やら考え込んでいる。


シンと、緊迫した空気が二人の間に漂った。

風が揺らす草の音と、虫の声だけが辺りに響く。沈黙の空間。


(こんな時、何て言ったらいいんだろう)


恋愛経験値0の自分には全く分からない。


長い長い静寂の中で、みちるはひとり、ドキドキと鼓動の音を高めていた。


とにかく何か言わなくちゃ、

そう思ったとき、


「分かった。けど、みちるがボイトレ通う前に一つ提案がある」


伏せていた顔を上げて、悠介が口を開いた。


「えっ?…なに、提案って」


答えを出した悠介の口調は、さっきまでの抑揚はなく、淡々としたものだった。そして、彼が何を言わんとしているのか、みちるには全く想像がつかない。


傍らに置いたペットボトルを手にして、「彼の提案」なるものに耳を傾ける…



「オレの家に、来て」



悠介のストレートなその言葉に、みちるの手からペットボトルが滑り落ちた。



















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