第12話 青い閃光
居間にはピアノが置いてあって、それは音大卒だった母の花嫁道具でもあった。
家族が休みの日、母はよくピアノを弾いていた。父が好きでリクエストしていたのも理由だが、母が奏でる音の中で過ごす時間は何より穏やかで、きっとあの人も好きだったはずだ。
自分たちの成長と共にそんな時間は減っていくと、いつの頃からか何となく分かってはいたけれど。
その終りが、こうも呆気なく早く訪れるとは。
「あの人」が出て行って
大事なピアノを納戸にしまい、
自分の心も閉じ込めた母親。
怒ることも、泣くことも、無意味にイラつくこともない。相変わらず、彼女は優しい。
ただ心から笑わなくなった。そして自分も、父親も。
数メートル程の距離。歌い終えた少女は、軽く息を吐いていた。
心なしか、その横顔は青ざめている様にも見える。
ただただ深妙な空気を醸し出したまま、昼休みの喧騒溢れる校庭を見下ろしている。校庭には沢山の生徒の姿があったが、誰一人としてその女生徒には気が付いていないようだった。
その姿を呆然と、無言のまま悠介は見つめていた。
(今の…、この子が歌ったんだよな?)
ついさっき自分の目の前で起きた出来事なのに、信じられない。
上手いとか、そんな次元の話じゃない。まるで彼女にタツヤがのり移ったような……
そう、歌っていた彼女は
真っ直ぐに前を見据えて、凛として堂々と。
その様はまるでいつか見た、
いつか見たタツヤのように、眩しく輝いて見えた…
フェンスに絡んだ細い指が、ゆっくりと解かれていく。
「あ…」
不意に漏れた声。
無意識に伸ばした手に風が絡み、気配に気付いた少女が振り返る…
さすがに驚いたのか、ハッと短く彼女は息を飲んだ。
絡み合う視線。形の良い黒目がちな瞳がキラリと光る…訝しげに悠介を見つめながら、彼女は一歩後ずさった。
(あ…)
明らかに自分を警戒しているようだったが無理もない。初対面の、全く知らない人物がこうもいきなり現れたのでは。
「あっ、ああ、ごめん、オレたまたまソコで
メシ食ってて、そしたらキミが来て…」
慌てて取り繕ってみる。が、そこまで言いかけて悠介は口を噤んだ。
「…いてたの?」
地を這うような、低い、覇気のない声。
僅かに震えを帯びたそれは、さっきとはまるで別人のようだ。
「えぇっとまぁ、聞いてたっていうか、たまたま聞こえて来たっていうか…でも、キミの声ってタツヤにメチャクチャソックリで…」
けどやはりそれ以上、彼は何も言うことは出来なかった。
「ソックリなんかじゃないわ!!」
青空に突き抜けるような、悲痛な叫びが辺りに響いた。
(え…)
その時だ。
「おっ、ユウ!探したぞ。こんなトコにいたのかよ」
ガチャリという音と共に再び塔屋の扉が開く。出てきたのは背の高い男子生徒。腕まくりしたシャツから、筋肉質な腕がスラリと伸びている。
それはイヤというほど付き合いの長い、よく知った顔の人物。
「直人…あっ、ちょっと…」
悠介の視線が自分から逸れたのを見計らったかのように、スルリと彼女が走りだした。
そのまま、「直人」の横を小走りに擦り抜け、塔屋に飛び込もうとしている。
「待って…!」
呼び止める声に反応したのは、多分反射的なもの。
少女が振り返る。
その一瞬。
制服の白い襟元で、何かが光った。
空のような、海のような。
青い閃光。
眩しいその光とともに、彼女の姿は消えた…。
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