第7話 そして翼は奪われた
「音」を「楽しむ」と書いて音楽。
だから決して「音学」ではない。
高校に入って最初の音楽の授業は、先生のそんな話で始まった。
ああだから、私は音楽が好きなんだ。
……まさかキミの一番好きも「音楽」だなんて。
キミの中では「音楽」さえ、「音学」とインプットされているもんだと思ってた。
音楽ってスバラシイ。
その日の午前中最後の授業は、音楽だった。
1階の隅の特別室へ、クラスごと移動する。
5年前に生徒を増員させたのを機に、合わせて校舎の増改築を行った青陵学園の内部は馴れない新入生にとって軽く迷路のようでもあり、たかだか一つ下の階の教室に移動するだけでも少し時間がかかった。
しかも昼休み直前のこの時刻、年頃の高校生には一番気だるい時間なのかも知れない。移動しながら「だり〜」だの「腹へった」だのと、既にやる気の失せた声がチラホラ飛び交っていた。例にもれず、みちるもそれなりに空腹を感じていたが、青陵に入って初めての大好きな音楽の授業、そんな空腹感よりも期待でワクワクする気持ちの方が遥かに大きかった。
香奈や綾達と雑談しながら前を行くクラスメートについて歩くこと数分、音符マークのピクトグラムを掲げた音楽室にどやどやと入り込む。
白い壁の教室には、春らしい柔らかな木漏れ日が程よく差し込んでいた。風に晒された木々の影が揺れている。 五線譜が書かれた黒板、その前に堂々と置かれたグランドピアノ。後方の壁にはバッハやモーツァルトなどの歴代音楽家の顔がプリントされた肖像画がズラリ…
音楽室といえば、どこの学校も大体こんな造りだろう。一通り見回して、教室と同じ位置の席に着いた。
「みなさん席に着きました?大丈夫?」
程なくして、長身のロングヘアの女性が一人、颯爽とした足取りで入って来た。
「音楽講師の宮園玲子です。よろしくお願いします」
生徒全員の注目を集めながら簡単に自己紹介を終え、小脇に抱えていた教材をピアノの上に置いて、宮園玲子と名乗った先生はニコリと笑った。
パッと花の咲いたような笑顔。けれど大人らしい落ち着いた雰囲気も兼ね備えた、かなりの美人。
(綺麗な先生…)
「はい先生ー、講師ってことは非常勤なんですかー?」
そんな事を思っていると、すかさず後方から浮ついた声の質問が飛んできた。どこのクラスにも一人はいる、お調子者男子。
「去年まで常勤でしたが、結婚を機に、今年から非常勤になりました!」
教師という職業がら、ありがちな洗礼なんだろう。早速のふざけた質問に顔色を変える事もなく、宮園先生は左手を上げてひらりと裏返して見せた。その薬指に小振りの
生徒達の反応に満足したのか、先生は「はい」と言って軽く目礼をし、今度は黒板に向かって白いチョークで何やら書き始めた。
印象に違わない、綺麗な筆跡の読みやすい文字が並ぶ。
(音楽と…音学?)
『音楽』と『音学』。そうとだけ書いて先生はチョークを置き、目の前の生徒全員を見渡した。
「えー、高校生になった皆さんにはもうお馴染みの音楽の授業ですが、授業とはいえ他の教科とは少し違います。数学、化学、哲学などもそうですが、音楽は決して『音学』とは書きません。音を学ぶのではなく、『音を楽しむ』、書いて字の如く音楽の授業とは、そういう授業だと私は思っています」
ハキハキとした明るい声が教室の隅まで響き渡る。彼女の持論を聞きながら、なるほどなとみちるは思った。ああ、だから自分は音楽が好きなんだ。妙に納得。
「と言うわけで、これから1年間、如何に楽しくこの音楽の授業を進めて行くかお話しします。まず教科書を開いて…」
宮園玲子の指示に従い、真新しい教科書をパラパラとめくって行く。折り目も汚れも何もない、手付かずの真っさらなページ…それをなぞる感覚が、何かとダブった。そう、氷のように冷たくなったタツヤの背中に触れた時の…
(違うよ、あれは夢だ、あれは夢…私が勝手に見た…)
そう思えば思うほど宮園先生も皆の姿も遠のいて、再び『夢の世界』に引きずり込まれていった。頭の中で一つ一つ再現されて行く…真っ暗闇の世界、出会ったのはジェットストリームのタツヤ、彼の手のひらで眩しく輝いていた自分の『声』。
そして自分に託された、タツヤの『声』…光を失って、持ち主にさえ『死んだ』と断言されてしまったあのガラス玉はタツヤと同じ、氷のように冷たくて、初めて触れた時はまるで針のように…
「痛っ」
刺すような痛みに、思わず小さな声を出してしまった。人さし指の先端に微かに血が滲んでいる。教科書をめくる紙の摩擦で切れたのだ。
「それじゃあ今日は最後に、この教科書に載っている好きな曲を一曲、クラスみんなで歌ってみようと思います。何でもいいので、皆さんで決めて下さい」
気がつくと授業終了まであと20分という時間だった。いきなりの宮園先生の無茶振りに生徒達からどよめきが起こったが、それを遮るように一人が手を上げた。
「大地讃頌がいいと思いまーす!」
さっきのお調子者男子…名前は確か吉岡ナントカ。
「バカじゃねーの、おまえ。あんなのイキナリ歌えるかよ」
そう言いながらも半笑いを浮かべて満更でも無さそうなのが、普段から吉岡と仲の良い斉藤という男子生徒だった。
「だってこんなレベルのイキナリ歌うとか凄いじゃん。大体ウチのクラスの選択授業、音楽だし。フツーじゃつまんねーし。みんな知ってるっしょ?この歌」
「でも、パートはどうするのよ?」
みちるのすぐ後ろに座っていた綾が突っ込んだ。鋭い指摘に、吉岡は「えっと…」と口篭ってしまった。確かに大地讃頌はこの年齢なら誰もが知ってる曲だろうが、いかんせん混声四部合唱だ。今からパート分けて歌うなんて無理がある。
知らないし、という意見こそ出てこなかったが、知っているからこそ簡単には取り組み難い曲だ。
が、行き詰まったところで宮園先生が口を開いた。
「じゃあ、単純に男女だけ分かれて歌ってみましょうか。みんな知ってる様だし、確かに面白い挑戦ね。特進科もその発想は無かったわ」
そう言って、止める間もなくグランドピアノの蓋を開け、譜面を広げると軽やかな手つきで冒頭部分を弾き始めた。
「さっすが先生、話わかる!3組の団結力見せてやろーぜ!」
「じゃ、私が指揮する!去年の合唱コンでやったから。15ページに載ってるからみんな開いて。それで男子は右に、女子は左に集まって」
宮園先生の『特進科にも無かった』と言う一言が効いたのか、急に空気が盛りあがってきた。言い出しっぺの吉岡はともかく、綾までノリノリだ。宮園先生のとなりに立つと
、テキパキと指示を出し始めた。
「みちる、なんか凄いね〜綾。仕切りうまい…」
「そうだね…ま、元々ここの中等部出身だしね。慣れてるんだよ、きっと」
いつの間にか香奈がすぐ後ろに移動して来ていた。綾の行動力に圧倒されながらも、二人は顔を見合わせて笑った。
クラス全員が一通り移動し終えること数分、先生から渡された指揮棒を持ち、マエストロ役の綾が両腕を構えた。それを合図に、皆が足を開く…まるで中学時代の合唱コン練習のようだ。つい数ヶ月前の事なのに、何だかとても懐かしい…
「時間が無いから、みんな、一発勝負でお願いね」
そう前置きをして、宮園先生は指揮者の綾に目配せをした。
二人がアイコンタクトを取り、いよいよ指揮棒が振られる。
この曲の前奏は殆どない。すぐに歌に入る。
「母なる大地のふところに…」
みちるがこの歌を最後に歌ったのは、中学の卒業式だった。その前は秋の合唱コンクール…。合唱コンは3年連続で優勝し続け、卒業式には「相変わらず歌うまい」ってみんなに褒められて…
(…なのに、なのに何だろう?この違和感…)
その異変に気が付いたのは、歌い始めて間もなくだった。
…声が、出ない。
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