第6話 「彼」
私は私。この世に生まれたその瞬間から、それは変わらない事実。
あなたはあなた。それも絶対に変わらない、永久不変の決まり事。
兄妹だろうと恋人だろうと、私はあなたになれないし、あなたも私になる事はない。
誰もが知ってる当然の事。明白な事実。
言うまでもなく。
だから、兄妹でもなく恋人でもない
私とあなたが
何の関係もない「私たち」が
「入れ替わる」なんてあり得ない。
例え、そのほんの一部でも。
そう思っていた。今日までは。
「よしっと」
真新しいチャムスのリュックを肩にかけ、玄関に揃えられた黒のローファーに足を突っ込んで、鏡の前に立つ。
ダウンライトの光に、胸元のブルーのリボンが艶やかに輝いている。そのまま一回転すると、チェックのプリーツスカートが鮮やかな弧を描いた。
「さすが青陵の制服だな。おまえが女子高生に見える」
その姿を見て、階段を下りて来た兄がニヤリと笑って皮肉った。
「うっさいなー。つーかもう女子高生だから」
欠伸をしながらリビングへ消えていく圭太の背中に、思い切り『べっ』と舌を出した。全く、いつもながらひと言多い。だから彼女も出来ないんだと言ってやりたかったが、その点はお互いさまなので、仕方なく口を噤んだ。
「行ってきまーす」
気をとりなおして外へ出る。すると、眩しい光と清々しい新鮮な空気に全身を包まれ、思わず空を見上げた。
春らしい、見事に晴れ渡った蒼穹が広がっている。ゴールデンウィークも目前の4月後半、朝の肌寒さも、かなり和らいできたようだ。
中学の頃とは逆の方向に道を歩いて行く。最寄り駅まで15分。そこから上り方面の電車に乗って2つ目の駅にみちるの高校はあった。
私立青陵学園。この辺りでは有名な進学校で、初等部から中等部、高等部とエスカレーター式の一貫校。編入生は帰国子女のみとしていたが、近年の少子化と急激な公立校人気の煽りを受け、生徒獲得の為高等部の入学試験を設け出したのは、ほんの5年ほど前からだった。
それでも以前は「お金持ちが通う進学校」として青陵女子イコールお嬢様という方程式が巷で成り立っていた為、自分の中でもそんなイメージのある学校に通えるのは何となく嬉しい。
…まぁ、本物の「頭の良いお嬢様」達は、大概がみちるとは別の「特進科」という特別に頭の良い科に属しているのだが。
特進科とはカリキュラムが違うので教室は別だったが、それ以外の部活やイベントは一緒だった。それに、そういった生徒の学力別に科を設けてクラス分けをするやり方は、青陵のみならず最近の私立高では主流だ。
ホームに降りると、間もなく快速電車が滑り込んだ。まさに時間通り。この1日のうちで一番込み合う通勤&通学時間に、1分の遅れもなく運行できるなんて神業ではないかと心から思う。
が、感心していられるのも束の間、目の前の電車はネクタイ姿のサラリーマン、制服の高校生、やたらに大きいヘッドホンを付けたお兄さん、髪の乱れを必死に直そうとしてるOL…色々な人が押し合いへし合い、もはや隙間も無い程のごった返しようだ。
それでも何故か乗り込めてしまうのは、もはや都市伝説の域じゃないかと突っ込みたくなる。
「暑い〜」
ギュウギュウ詰めの車両に埋もれて、思わず声が出た。
人の熱気で淀んだ空気の満員電車に揺られる事10分弱。
着いた駅はみちるの地元の駅より小さいが、最寄りに高校が4つもあり、朝の改札は高校生のはしゃぐ声で賑わっていた。そこから駅前の商店街を抜けて、初等部・中等部の校舎を通り越した奥に、青陵学園高等部がある。
「おっはよー!」
「みちる遅〜い」
すっかり葉桜と化してしまった桜の大木が目印の校門をくぐると、頭上から二人の女子の、朗らかな呼び声がした。
クラスで最初にできた友達、森下香奈と中等部から特進へは行かず、普通科に来た内川綾だ。
2階の教室前の廊下からこちらを見下ろして手を振っている。みちるも笑顔で振り返し、彼女らの待つ教室にかけて行った。
「おっはよー、ふたりとも。なあに、私のこと待っててくれてたの?」
少し息を切らせて階段を駆け上がると、さっきと同じ場所に立っていた二人が、顔を見合わせてウフフと笑った。
「それもあるけどぉ。『悠介くん』を待ってたの!綾が 教えてくれるって」
心なしか、白い頬をピンクに染めて、弾んだ声で香奈が嬉しそうに言った。
「えっ…?『悠介くん』って…誰それ?」
香奈が口にした聞きなれないその名前に、みちるはキョトンとして聞き返した。
(ウチのクラスにそんな名前の男子いたかな…?)
「ああ、みちるが入院してた時に話したことだったから、知らないよね。悠介はね、特進科の『怪物』なんだよ。一級上なんだけどね」
肩にかかるしなやかな黒髪をかき上げて、ニコリと笑って綾が言った。一重だが大きな目がいかにも利発そうで、どことなく品が漂っている。
彼女が普通科に来たのは、人間関係があまり良くなかったからだと聞いた。まぁ、女子にはありがちな理由といえばそうかもしれない。が、しかし、エスカレーター式の中等部からこの普通科に上がる生徒は滅多におらず、かなり珍しいケースでもある。
『私、変わった事や変わったものが好きなんです』
初めの自己紹介でそう堂々と言いきっていた時点で、他とは違う空気を醸し出してはいた。良くも悪くも。
が、意外な事に、唐突な入院で高校生活に遅れをとってしまったみちるの面倒を、内川綾は率先して見てくれた。そのうちに…と言うのが彼女と仲良くなった経緯だ。
そして得られたこの情報。
「か、怪物?何それ、怖い人なの?すっごいキモいとか…」
「怪物」なんてあだ名が付いているなんて、正直あまり良いイメージが湧かない。みちるは怪訝そうに、はしゃぐ香奈を見返した。
「やだ、みちる逆だよ、逆!めちゃくちゃかっこいいんだよ〜ね、綾」
薄くリップを引いた唇を尖らせて、香奈が即座に否定する。どうやら早くも『悠介くん』のファンになったようだった。
「私は中等部の生徒会で一緒だったから見慣れちゃったけど、まぁちょっと目立つよね。かっこいいし優しいし、お父さんは医者で頭もいいし。この間の模試も、市内5位って…」
「えっ⁈模試で市内5位⁈うそっ」
衝撃的な話に、つい大きな声を出してしまった。
周囲の生徒らの動きが一瞬止まり、皆の視線が一斉にみちる達に注がれる。
「…スミマセ〜ン」
白い目を向けるクラスメイトに、愛想笑いを浮かべながら綾が軽く頭を下げた。
「みちるってば声大きいよぉ」
「ゴメン、だって…高校の数、40はあるじゃん、ウチの市」
「まぁまぁ、香奈もみちるも今度何かあったら悠介紹介するからさ。みちるもあと10分早く来れば、今日みたいに悠介教えてあげるよ。ただし取り巻きが結構いるけどね」
下の名前で呼んでいる辺り、綾はその『怪物くん』とやらとかなりの仲良しだったのだろうか。
(それにしても、噂のイケメン見るってだけに朝の貴重な10分を…しかも取り巻きが邪魔でよく見えないかもって…)
「あ、ああうん…そうだね〜よろしくね、綾」
そう返事はしたものの、面倒くさい気持ちのほうが大きく、たいした興味も湧かなかった。奥手というかネンネというか。
(そう言えば、今まで男子をそれほど好きになった事も無かったなぁ…)
ふと、暗闇の中を手を繋いで歩くタツヤとの記憶が蘇る。
(…いや、あれは私が見た夢だから。勝手な妄想だから)
あの後3日入院して、その間色々な検査をした。
喘息が完治したのかどうかは未だにはっきりしていないが、確かに母の言った通り、医者からも気道の炎症が見られない、嘘のように全く正常だと不思議がられながら退院したのはつい一週間前の事だった。
その後は何も無かったように、毎日を過ごしている。
7時半に家を出て、満員電車に乗り、友達の待つ学校へ通う。
新しい制服、新しい通学路、新しい学校、新しい友達…全てが新鮮で、そんな毎日が楽しかった。
みちるの中で、タツヤとの記憶は「夢」と分類され、だんだんと薄れ、それは知らぬ間に風化されていく…はずだった。
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