03 何も私を阻めない
×
「お、おかえり……。ご飯にする? お風呂にする? それとも――」
恥ずかしいならしなければいいのに、
「、」
絶句する
深夜十一時になってようやく自室へ戻ってみれば、ドアを開けた瞬間にこれだ。
ドアを開くと待ってましたとばかりに出迎えに現れた天王寺真射。彼女は小影が料理をする際に着用する質素なエプロンを身にまとっており、実際に料理でもしていたのか長い黒髪は一つに束ねられ、片手にはおたまを握っていた。
そこまでは、いい。まだ常識の範疇である。
しかし、エプロンの下に何も着ていないというのはいったいどういう了見だろう。
正気を――自分もそうだが、相手の正気も疑ってしまうような光景だった。
「あっ」
玄関でぼう然と立ち尽くしていると、部屋の奥からお湯の沸騰する甲高い音が聞こえてきた。真射がこちらに背を向けて――小影は思わず目を瞑った――廊下を駆けていく。
「し、正気じゃない……。いや、これは役得なのか……?」
見る分だけなら問題なくない? という邪な考えが浮かんだが、小影はそれを振り払うように頭を振って部屋に上がる。今のうちに寝室へと逃げ込んでドアに鍵をかけて閉じこもってしまおう。
(ヨコシマといえば……)
真射が裸エプロン状態なので、前面はエプロンが覆い隠しているが背中は肌色満開だろうと思い、彼女が背を向けた瞬間に目を閉じた小影だが、その瞬間に一瞬だがたしかに見えたものがあった。
素肌の上に直にエプロンを着ているかと思いきや、一応下着は上下とも着用していた。その下着の柄が青と白の横縞だったという話である。
友人のために性的な嫌がらせにも耐えようと心に誓って帰宅した小影であったが、思っている以上に自分はそういうものに弱いらしい。我ながら情けない。
溜息を吐きながら寝室へ向かう。ドアを開けようとノブに手を伸ばして、
「なっ……」
そこで彼は再び絶句する。
ドアノブを握ろうとした手が空を切った。何かと思って視線を落とせばそこにドアノブがなかった。今朝、家を出る前には確かにあったものがなくなっていた。確認はしていないが、そこで不都合が生じなかった以上、今朝の時点においてノブは確かにあったのだ。
何かの間違いだろうと現実を否定するより先に、小影の脳裏に浮かぶことがある。
(鍵を……かけられないんじゃないか、これ……?)
真射の方を振り返れば、おたまを放棄した彼女は手にしたヤカンからカップ麺にお湯を注いでいた。どうやらさっきのは格好だけだったらしい。
「邪魔だから、外しといたよ。全部」
小影の視線に気づいたのか顔を上げた彼女は、平然とそんなことをのたまった。
「……全部って」
「私と小影の間を阻む全て」
「……」
ここで取り乱したり動揺しないのが
「……室内は特に異状なし」
安全を確認し、小影はとりあえず着替えをとって寝室を出た。半日以上、外を探し回ったのだ。それなりに汗もかいた。ちょっとお風呂にでも入って疲れをとろう。さすがに彼女も入浴中にまでこちらに干渉することはないだろう。
……そうやって安全圏に逃げ込んで現実逃避しなければやっていけないと思ったのだ。
「小影。今日から私、ここに住むから」
「……はい?」
「もう決定事項。荷物も空いてる部屋に運んであるから」
そういえば今朝廊下に置かれていた見慣れない段ボール箱がなくなっていた。
「え、待って。ちょっと理解が追いつかないんだけどまずは問答無用でノーだからそれ」
「大丈夫。家賃はちゃんと折半してあげるから」
「……いや、そういう問題じゃ」
「小影がどっか行くせいで、私も帰り遅くなったから、今日の夕飯はカップ麺ね」
「ぁ――」
完全にマイペースというか、彼女の独特の雰囲気に呑まれてしまう。真っ当な常識を振りかざして糾弾するべき事態なのだが、もう何を言っても無駄のような気がした。
一日中外を歩き回り、その間も頭を働かせていて疲れていた小影は、それ以上何も言わずに浴室へ向かう。そのまま眠って全て忘れたい気もしたが、まずは体をきれいにしたかった。
「お風呂もか……」
浴室のドアからもノブが消えていた。向こう側が覗けている。この穴に指を引っかけることでドアの開閉は可能だが、浴室も鍵をかけることは出来ないようだ。
……まあいい。ドアノブが消えるなんて、友人が誘拐されるという事態に比べれば大したことではない。
――と考えるあたり、小影の思考はだいぶ麻痺していたのだろう。
とにかく入浴して息抜きしよう。それから、この疲労が満ちた体をお湯の中に沈めて、昨日から続く頭の痛い出来事についてまとめてみようじゃないか。そうすれば何かしら打開策が見えてくるかもしれない。
浴室で体を洗い、小影は湯船にて一息つくとぶくぶくやりながら、
(……なんだこれ。意味が分からない)
いろいろありすぎて理解できる現象ですら意味不明に思えてしまう。特に親交もなかったクラスメイトが友人を誘拐したと宣言した翌日、銃によって起こされ、挙句の果てには人の家に住むと言い出したのだ。理解できるやつは頭がおかしいとさえ思えた。
未だ不明瞭な友人の安否が気がかりだし、ここに住むと言い出した彼女の誘惑にこのさき自分が耐えていけるかというのも不安だ。懸念事項がありすぎて心がざわついたまま落ち着かない。
深呼吸して感情を理性によって支配しようとした、そのタイミングで、
「……小影」
堂々と、彼女は浴室に入ってきた。
「ちょっ、ばっ……」
慌てる小影などお構いなしにやってきた天王寺真射の格好は――幸いなことに、先ほど垣間見た下着姿だった。下着ではなく水着か。ビキニだ。これはこれで魅惑的な気もしたが、素っ裸で入ってこられるよりは幾分マシである。
マシではあるが……その格好で平然と湯船に入ってきて向かいで膝を抱えられ、おまけに頬を染めて上目遣いに見つめられたりしたら、何も隠す術を持たない小影にとっては十分に暴力的だった。
×
どちらかがのぼせるまでの根競べには発展せず、「ラーメンのびるよ」の一言とともに真射の方から浴室を出ていってくれたおかげで何事もなく済んだ小影は、一応彼女が用意してくれたカップ麺を食べてから、崩れるようにベッドへと倒れこんだ。そのまま拭われない疲労感に溺れていく。
このまま幸せな夢の世界へと旅立ってしまいたい。
が、
「小影、もう寝るの……?」
「…………」
「じゃあ、私も寝るね」
そう言って、ベッドに沈み込む小影の隣に彼女はその身を横たえた。
(…………)
もはや抵抗する気力もない。頭も投げやりモード。なるようになれ、だ。
明日になればまたいろいろ考えだすのだろうが、今はもう何もかもどうでもよかった。
「小影、おやすみ」
電気が消される。
……………………。
(うう……)
眠いのだ。眠くてしょうがないのだ。
なのに、頭が冴える。隣にいる少女の気配が感じられて居心地が悪い。
うつ伏せに倒れこんでいた小影は頭を横に向ける。そうすると真射と目があい、彼は寝返りを打って彼女に背を向けた。これはこれで危険な気もするが、彼女と向かい合ったまま眠りにつくのだけは絶対に不可能だと思えた。
(何なんだよいったい。ふつう男の隣で寝る? 何? やっぱり誘ってるの?)
据え膳食わぬは男の恥。そんなことわざが脳裏をよぎった。今だけはいらない知識だ。
(いや、落ち着け宮下小影。こんな風に悶々とさせるのが彼女の狙いだ。もし僕が無防備に眠る彼女に何か手を出したら、その瞬間に
あえて事態を重く考えて自分をいましめる。
逆に真射をどうにかして人質にとれば……などと考えもしたが、わざわざ彼女自ら乗り込んできているのだ。何らかの対策はしているだろう。たとえば他に仲間がいて、真射から仲間に定時連絡が入らなかったら……とか。
(仲間、か。組織ぐるみの犯行……?)
だとしたら、自分のようなただの高校生にいったい何の用があるというのだろうか。
(……『呪い』か……?)
いろいろと考えてしまってさっぱり眠れない。頭は冴える一方で、なのに体は全身どろどろに溶けてしまったみたいに動かしづらい。
そんな小影の背後から微かに聞こえてくるのは……少女の寝息。一定のリズムで、小さな呼吸の音がする。
(本当に寝てる? 正気か? 僕はこんなに寝付けないのに……)
もう一度寝返りを打って、彼女の方に体を向けると――
「…………」
寝息を立てながら眠る、安心しきったかのような寝顔があった。
まるで幼子みたいに無防備で、見てるこちらの邪心が柔く溶かされるかのような。
警戒心の欠片もないのか、それとも宮下小影には据え膳に手をつける度胸などないと甘く見られているのか。
あるいは、信頼ゆえか。
(何なんだろう、ほんとに……)
疑問は解消されないまま、夜は更けていく。
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