第一章 ストリップ・スリップ
01 誘拐犯と朝食を
「動かないで」
――まさか銃口を胸に押し当てられてそんな台詞を言われる日が訪れようとは、つい昨日までの
しかし今、彼は一番の安全圏であるはずの自室のベッドの上で、見知らぬ少女に銃を突きつけられている。
……いや、訂正せねばならない点が二つ。
まず、ベッドは時に一番の危険地帯と化す。特に相手がワイシャツ一枚で下には何も着てなさそうならなおさらだ。
そして、宮下小影を絶句させている少女は
だがその頭も瞬時に冷える。通常起動というにはやや非合法的ではあったが、宮下小影の脳は今までにないくらい冴えわたっていた。
薄地のシャツを通して伝わる冷たく硬質な感触。昨日の天王寺真射の発言。そして現状の彼女の服装。これで覚醒するなという方が無理な話だ。
銃や昨日の件はさておくとして、問題は目の前にある柔らかそうな二つの塊である。
ベッドの上で、壁際に追いやられた小影の上に覆い被さるような格好になっている天王寺真射。彼女は小影のものと思しき白いワイシャツを勝手に着ているのだが、その姿が男にしてみればとても暴力的な絵になっているのである。
彼女、ワイシャツの下にはやっぱり何も着ていないのだ。
つまり、素肌の上にワイシャツ一枚。その上、胸元を大胆に肌蹴ている。小影の感覚ではそれほど大きいとは思えなかったが、拳ほどのサイズはシチュエーションの魔法による補正でとても魅惑的なものと化している。案外着痩せするタイプだったのかもしれない。
そんな彼女、自分からやっておいて羞恥心はあるのか、頬をほんのりと染めながら、
「ねえ、ドキドキする……?」
否応なく心音は高鳴る。跳ねる。突きつけられる銃口を押し返さんばかりに鼓動する。
いろんな意味で、ドキドキする。
とても正気でいられるシチュエーションではない。今の彼女はとても魅力的で、そしてその魅力を自らアピールしながら誘っている。これで何も感じない方が男としてどうなのだろう。
何もするなという方が無理な話だ。
特殊な性癖でもない限り、ごく一般的な青少年であれば衝動に身を委ねてしまってもおかしくない事態である。
そして宮下小影は特殊な性癖もない、ごくごく健全で健常な青少年だ。少なくとも自分ではそう思っている。
ぐっ、となる。
だがしかし、宮下小影はそこを理性でもって堪え、自らを律する。動揺する心をやや強引に抑えつけて興奮を鎮め、冷静に状況確認が行えるように落ち着かせる。
――自分自身を支配する。
(まず、どうしてこんな状況が出来上がっているのか。それを思い出そう)
円周率を唱えるよりは建設的な思考で目の前の現実からいったんフェードアウト。
昨日の放課後、自分の身に降りかかった災厄。ここまではいい。小影はあの後、この怪しい女子を適当にあしらって帰路についた。彼女が後をつけてくるようなことはなかったし、何事もなく帰宅した。ここまでもいい。問題はそこからだ。
アパートの二階にある自室でしばらく過ごし、外が暗くなってきた頃、小影は隣にある
さすがに夜には帰宅するだろうと小影はその部屋で帰りを待っていたのだが……。
(結局帰ってこなくて……)
仕方なく自室に戻り、ベッドの上で読書をしながら、気付けばうとうとしていた。登和が帰ってくるまでは起きているつもりだった。しかし眠ってしまったのだろう。そして誰かの声で目覚めたら、突然銃を突きつけられてこのザマである。
……たしか、ちゃんと部屋には施錠したはずなのだが、どうして彼女はひとの私室に入り込んでいるのか。
(いろいろ謎だらけだけど、今はいい。重要なのはそこじゃない)
天王寺真射は昨日、繰り返し小影にこんなことを言っていた。
これから一週間、自分に一切の手出しをしなければ、鳴坂登和を解放する。
手出し、という言葉には暴力や性的なものも含まれると彼女は言っていなかったか。
つまり、今この場で自分が彼女に対し、何か良からぬ行為に及んでしまった場合。
(……っ)
ごくりと固唾を飲んだ。
性的なことはもちろんだが、これでは正当防衛もまかり通らないのではないか。
もしも手を出してしまったらどうなるのか。解放しない、ということになるのか。
解放しない、とはいったいどういう……?
「小影」
自分の現状より友人の安否を心配する小影に、真射は親しげに話しかける。
「朝ごはん、出来てるよ?」
「……え?」
予想外の言葉が飛び出てきた。毒か薬でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまうのは些か警戒のし過ぎか。
真射は小影から身を離すと、ゆったりとした動作で寝室を出ていく。その姿を目で追っていると、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂ってきた。つられるように空腹感を覚える。
「…………」
用心しながら、小影はリビングへ。いつ送られてきたのか、謎の段ボール箱が廊下に積まれている。そちらも気になったが、小影の意識は五感を刺激する料理に奪われた。思えば昨夜は何も食べていない。
匂いから想像はついていたがテーブルの上にはトーストと目玉焼き、そろそろ食べなければ捨てざるを得なかったであろう野菜類で作られたサラダが並んでいた。
毒や薬を混ぜ込む余地は多分にある。しかし真射にそうするメリットがない。メリットという話なら誘拐の件もそうだが、現状においての要点は、彼女が食事に何かを仕込む理由がない、という点である。
解放の条件を参照するに、彼女はこちらに危害を加えるつもりはないと見える。銃っぽいもので脅されはしたが、それも『銃で脅される緊張』を『性的な興奮』に差し替えるための演出だったのかもしれない。吊り橋効果というやつだ。
なので、食事に何かを仕込む理由がない。つまり、この料理は安全だ。
……そこまでを理性的に判断し、小影は真射の対面の席に着き、その手作り料理を頂くことにした。空腹感の方が理性を圧倒したともいう。
トーストをかじりながら、用心深く対面の真射の様子を窺う。
(誘拐といえば、身代金の要求っていうのがセオリー。なのに、何かしら僕に要求することがあるならともかく、手出ししなければ解放するなんて……)
いろいろとおかしい。手出しすれば解放しない。手出ししなければ、せっかく誘拐した人質を解放することになる。そもそも何がしたいのか意味不明だ。
相手の行動にどんな意図が含まれているかを探るには、まず相手にどんなメリットがあるのかを知る必要がある。たいていはそれが答えだ。
だが、一見すると彼女のしていることにはデメリットしかない。
相手の行動目的が分からない。
何を望んで、何をしようとして、その結果何が得られるのか。
「……天王寺さん、君は――むぐぐ」
考えるよりも直接訊ねてしまおうと思ったのだが、真射はそれを遮るように小影の口にパンを押し込んだ。無理矢理に黙らされる。
「ぐ……うぐ」
「美味しい?」
「う……」
実に皮肉なことではあったが。
続いて口に押し込まれた真射手作りのサラダは、素材をただ盛って適当なドレッシングをかけたというだけでは実現できないような見事な味付けだった。
つまり、美味しかった。
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