第十一節 在純 慶香。
天気予報では、午後から雲が広がり、雨の気配を連れて来る。湿度が盛夏の空気を抱え、不快な気温が屋外を席巻する。
ものともせず、脳天気な少年の歌声が、屋外練習場の一角で発生した。
「〝ロ=ミアラーレ〟で合宿~ゥ。楽しみ~、あァ~ァ、楽しみ~」
「……珍しいな。メディンサリが、浮かれて歌い出すとは」
「忘れるなよ。期末考査の、一週間前でもあるんだぞ」
メディンサリと同じく、本日、球拾い担当の礼衣、士紅は、当て付け気味に周囲へ声を渡らせた。
「神様~!」
「急に信心深くなっても、神様は助けてくれん、ぞッ!」
都長と千丸の一球と言葉の応酬に、練習表を確認しながら笑い声を立てる蓮蔵が、隣にいる青一郎に話し掛けたが、一点を見詰め、反応が薄い。
「在純君、今日は休んだ方が良いのでは? 朝練の時よりも、顔色が悪いです」
「……あ、大丈夫」
「今日は、普段と違う香気を焚きしめたのか」
「あ、ははは。少しキツい? 好きな匂いで、長めにくゆらせたから」
濃くもなければ、悪い匂いではない。青一郎の付近にある、空のカゴを取りに来た士紅には、嗅ぎ覚えがある。
血の臭いを打ち消す成分が含まれると、即座に認識したが、無言を通す。
「在純く~ん! ちょっと、お願い~!」
深歳の声に、青一郎は周囲に断りを入れ、向かおうとした。
「ついでに、少し休憩せェや」
「あははッ、平気だってば」
千丸の冗談半分、気遣い半分の言葉を、気丈に笑い飛ばし、背を向けて走り去った。
「在純、怪我でもしてんの? 最近、動きが変じゃねェ?」
「上の空って言うか、元気ないよね~。今日から楽しい合宿なのに、心配だな~」
仲間の動きを
「
「……うむ。丹布。……丹布?」
「さっきまで、ここにいたぜ」
「……
「あいつめ、肝心な時に」
「丹布に用事~?」
「少しな」
「丹布~! 出ておいで~!」
「犬猫じゃあるまいし。いつもの電話やろ」
都長の声に、四年のラヤーナが
会話を耳にした一同は、珍しい事態に顔を突き合わせた。
珍しいのは、それだけではない。輪から外れ、また礼衣が口早で通話中。見ようによっては、昂ノ介が壁となり隠している。
妙な空気が流れる中、呼び出されていた青一郎が戻って来た。
「青一郎、何か問題でもあったのか」
「青一郎!」
「……え? あ、ごめん。何?」
昂ノ介の一喝で、表情から姿勢まで弾かれ、意識を戻した青一郎は、ようやく周囲を確認する。
「丹布、いないんだね」
「くふふ。
「笑うなよ~」
程なく、練習場の外が騒がしくなった。黒服を引き連れた、女性が近付いて来る。
やがて、女性は防護柵の間際に立ち、深々と一礼した。
「皆様。息子の青一郎が、お世話になっております。
黒縁の眼鏡の奥には、社会の荒波を見極める黒い
女性の稜線は、
「在純の母様、相変わらず迫力ある美人だよね~!」
「二百点!」
「合宿前に、皆に会いたいって言うから」
都長、メディンサリの
昂ノ介と礼衣以外の全員には、そう、映る。
「素敵なお友達に囲まれて、青一郎は幸せ者ね」
「そ、そんな~」
今にも、鼻血を出しそうな都長が、頬を上気させ恐縮する。その姿に、慶香は素材本来の、麗しい熟女と慈母を同居させる、奇妙な微笑みで応えた。
顧問兼監督の深歳は、防護柵の外に出て、慶香と改めて挨拶を交わしている。
型通りの言葉を、早々に切り上げた慶香は、何故か士紅を名指し面会を求めた。口振りは丁寧だが、声の裏で強要している。
見かねた青一郎が、防護柵の内側から母親の無体を案じ、士紅の体調不良と、席を外している旨を伝えた。
「元気な様子で、登校しているのは確認済みなのよ」
「あ、でも、そっとしてあげた方が……」
会話の最中、慶香は鋭く獰猛な瞳に変え、叱責と共に青一郎へ叩き付ける。
「止めなさい」
「え……?」
「〝あ〟と前置きする癖を止めなさい。見苦しい」
「……済みません」
言動も、生きる道すら掴まれる青一郎は、脊髄反射に似た反応速度で、心身の底から竦み上がっていた。
感情や生理現象まで表に出さずにいられる術は、心得ていたが、普段とは違う雰囲気だけは、封じるまでに至っていない。
ついに、家の外で追い詰められた姿に、居たたまれない思いを起こし、昂ノ介と礼衣は、救出に向かう。
「慶香様。あまりにも理不尽です。口癖の一つや二つ、誰にでもあります」
「そうね。人様の癖に口出しをするなど、出過ぎた真似。
忘れないで頂戴。青一郎は、在純の人間なの。
昂ノ介、礼衣。貴方々が付いていながら、何故、注意しないの。本家の人間が、見苦しい真似をしているのよ。何のために、貴方々が存在していると思うの? 分家らしく、その役目を果たしなさい」
慶香が築き上げ、周囲に巡らせ、生きる価値すら縛る言葉の
在純家の人間は個性すら廃し、家に殉じる型押しの置物を生産・育成を敷かれる生き様を
慶香の、嫌なくらい通る声は、青一郎の監視者を増やす結果に繋がった。
強化組の御曹子も含めて。
「社長。お客様が予定より早く、会合場所に向かわれたそうです。お急ぎを」
部下の一人が届けた報告が、湿る真綿が混じる空気に差し込む、陽光に思えた者は少なくなかった。
「分かりました。
先生。息子を、宜しくお願い致します」
「大切な息子さんは、私が責任を持って、お預かり致します」
「ありがとう存じます。皆さんも、お勉強と全国制覇、頑張って下さいね」
先程の、不穏な物言いを仕舞い込んだ慶香の激励に、傍にいる部員全員が、若く、腹からの声を挨拶に代えて答える。
反応に満足し、慶香は名家の夫人らしく、最後は優美に立ち去った。
「はい! 皆さ~ん、練習に戻って下さいね~!」
深歳の声と、両手を一拍打ち鳴らす音は、青一郎をはじめ部員達を日常へと戻す、気付け薬の役割を果たした。
○●○
慶香達が立ち去り、数分後。士紅はコートの内側へ戻って来た。
「……丹布。腹は大丈夫か」
待ちかねていた礼衣に、士紅は早速捕まった。不在時の騒動など、説明する時間すら惜しみ、礼衣は涼しげな視線に憂いを宿し、青一郎を見やる。
それだけで、十分だと身勝手な思いを士紅に押し付けた。
「在純一統の中で動きがある。在純当主の前に、丹布を招きたがっている。心配するな。青一郎の意志は、介在していない」
「ああなった青一郎は、貝のように口を閉ざす。
家で無理難題を言い渡され、弱っていく。過去に何度もあった。見えない場所に〝あざ〟を、たくさん作って」
唐突な礼衣の告白に、無表情を保ったまま士紅は沈黙する。
「習い事が厳しいのは知っている。我々から見ても、不自然なのは明白だが、青一郎は〝大丈夫〟だと言い張る。
今日から合宿だ。手が届かなくなる前に、責め苦が重くなったのだと思う」
本家の裏事情を一気に言い終え、礼衣は後悔ではなく、一人の少年を配慮する姿で、力を込め瞳を閉じる。
「怖いんだ。青一郎の周辺が、狂って行く気がして。あの家にいたら、青一郎が喰われてしまうのではと。
だから、安心している。今日からの合宿は、あの家から距離が出来るから……」
礼衣の話しが、急に途切れる。我に返った礼衣が、再び風景を映し出した領域には、青一郎がいた。
「どうしたの? 手が止まってるよ、礼衣。
それと、丹布。お腹の具合は……」
音がした。
特定の条件を持たざる者には判別不可な、音の波紋。
「……え?」
現実には存在していない違和感に、青一郎は気付きの声を小さく立てる。
同時に、無言を通して居た士紅が、白い握り拳を額に当て、伏せた表情は、陰りを濃くした地面に近寄る寸前だった。
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