第十九節 〇二一四。
いつも響く音は無機質で、出入りも限られる白い空間。
ここは、モルヤン・グランツァークの不可侵領域・白の拷問部屋。
本来、在るはずの無い数の気配を迎え入れ密度が増す。
「総本陣・ロスカーリアの〝メル〟との交信反応は良好ですぜ」管制塔・オルガゼルフが軽く報告を入れ。
「指定領域の走査準備も整えて御座います」管制塔・パルセフィアは堅く述べ。
「次元軸の算定も済みました。どうぞ御指示を」管制塔・ヴァイレルドが締める。
代表して受けるのは、深い頭巾が特徴にある黒装束の長衣を、一切着崩さずに立つロゼル。
下準備の細かな指示を続ける
「お~、あの服の色合いって善い感じだよなぁ」
「そうかな。ここって、今は夏でしょう? 季節にしては、浮き気味だと想う」
年令と身長の割には、少年の高さが混じる控え目な声で応えるのは、四男・
「頼もしいわねぇ、この余裕」
生命の総てが嫉妬と羨望を向ける、
「余裕など持って
低く
「恐らく、モルヤン周辺の経済圏で定数に達します」
「ちょっとぉ、それ本当なの? アーレイン=グロリネス御自慢の結界なのに」
「実は、効果を込めたのはアーレイン=グロリネスですが、範囲を指定したのは私です。
少々、気になる事がありましたので、小細工をしました」
「じゃあ、誘い出されて居るのは、連中の方って事ね」
「痕跡が曖昧で暫定ですが、連中の協力者が工作活動を
先に動くのは、協力者でしょうね」
「間違い無く、ヒトに準じる知的活動体よねぇ。
信じられないわ。
天下のグラーエンとグランツァークを敵に回すって、どんな神経してんのよ」
装飾は抑え気味だが、洗練される形状の、白い長衣の立て襟を整えつつ。
遂は刻々と変化し、多角的画面に流れる情報を拾いながら、ロゼルとの会話を並行させる。
「大体、これ程の短期間に、あの《
鍵盤楽器を演奏する優雅さで、複数のパネルを呼び出しては納める示が、怪訝に言葉を投げる。
「見方を置き換えると判るのよね。
主に連中が干渉する各経済圏は、特級を越える安定した〝地場〟。
おいそれと、他の空間と繋がったり、割ったり出来ないわよ。
何かの演習を、試みるとも考えられるわね」
再び話の筋の主導を取る遂の考察に対し、思慮を口にしたのは、脚を崩し床に直接座る吹だった。
「遥か昔、突然その歴史が途絶え、天貴人の巫覡の女王が治めた〝太阿の洲〟。
その最後の王族・アーレイン=グロリネス。
その総てを受け継ぎ現す、最高峰の結界操作を誇る、アーレイン=グロリネスの結界に手を出してるって事はさ、最終的には、俺らの《契約の地》が張る、境界線や結界を破壊しようってんじゃねぇの? それなら、この間、春兄ちゃんが言ってた話と辻褄が合うよな」
一室に居る誰もが押し黙る。
可能性よりも現実に近い吹の思慮は、最も起きて欲しくない事象そのものだ。
連中の目的も、その先に在る物だとするのなら、最高に悪い冗談だった。
「その件は追々として。
今は、索敵した九名を、
オルガゼルフ、走査開始」
「承知致しやした」
ロゼルの指示に、オルガゼルフを通し、応える白の拷問部屋全体が一つ呼吸を吐く音は、高く低く遊ぶ空間を乱反射する、チューブラーベルのよう。
それを合図に、作戦参加要員の九名の前に現れた緑色の空間画面には、それぞれが担当する標的情報が流れる。
「確認のため申し上げます。対象は九。
ブロエ対象番号・一 春さん。
『エフルエ』対象番号・二 遂さん。同じく・三 吹さん。
ゼランシダル対象番号・四 示さん。
モルヤン対象番号・五 エンレルグ。同じく・六
虚数座標リュリオン対象番号・八 ヴァイレルド。同じく・九は私が参ります」
「はぁ~い!」
ロゼルの確認事項に対する、元気な吹の返事を合図に、五から七を担当するために召集され、控えて居た面々が、正式仕様の繋ぎ目が無い白い仮面を装着する。
そこへ、遂と吹が送り出すため声を掛けて気遣いを差し入れた。
恐縮で応える大小の白装束の要員は、衣擦れの音も立てず、白い空間に溶けるように任地へと消失した。
「オルガゼルフ。さっきのは例の長官?」
「仰せの通りです」
開始時刻までは、この場で情報収集に徹する事に決めた示は、まずは本社屋内の監視装置画像から、シグナの姿を指摘する。
「へ~ぇ、これが〝元・
まともに姿を確認するのは初めてだな」
「吹お兄さんも?」
「ふぅん。こんな感じの御方だったのね。
男も女も、老いも若きもお情けを振り撒く感じよね」
「気が合うんじゃ無いのか? 遂」
「春兄さんったら、冗談は止めて頂戴っ。
僕の愛は崇高で誠実なの。後ろ暗さなんて一片も無いわよ」
兄弟がじゃれて居ると、拡大画面の向こう側で黒いファイルに視線を走らせるシグナが、声を掛けて来た。
<……何の用件だ、管制塔。
少々、集中したい所なのだが>
グランツァーク財団の各社屋の監視装置は、定点ではなく死角もない。
社屋全体が監視装置と言えて、「見られている」感覚が麻痺する程に意識が絶たれる。一般の感覚では、注視される気配を感じるのは皆無に等しい。
「申し訳御座いません。先程お送りした資料の追加分の、お伺いをと存じまして」
それは事実だったが、不自然なオルガゼルフの言い訳を聞き流し、
<そこに、ロゼルが居るのか?>
「お察しの善い事で」
<圏内にロゼルが居るのなら、
出逢った時から、それは変わらぬ>
「隊長を御案内致しましょうか?」
<急ぎでは無い。ロゼルの用件が済めば伝えてくれ。それと、先程の資料の追加分を頼む>
「承知致しました」
さすがに観測を止めた兄弟達は、自然とロゼルに四色の視線が集まる。
「あいつの傍に居るなんて、大丈夫なの? それにほら、彤十琅って〝造り手〟もさ。
優秀なのは判るけど、悪戯とか仕掛けて来るんじゃ無い?」
「たまに、絡んで来ますが、吹さんが心配されるような事態にはなりません」
「立ち入った事だとは想うわよ? こんな状況だし、少しだけ距離を置いた方が善いんじゃないかしら」
「勘弁して下さい。シグナは私に添う大輪の華です。彤十琅様も同様です。
その長官の御指名なので、行って参ります。加え、そのまま作戦に就きますので、御了承下さい」
残る兄四名は、口々に挨拶や
ロゼルに変化は無い。
これ以上の干渉や、詮索を受け入れる雰囲気では無いとは、兄達も認ざるを得ず。
「御安心下さいやし。長官は、その気で近付かれやすが、一線は引いて下さるんで」
畏れ多くも、不憫に感じてしまったオルガゼルフは介助を買って出た。
「有能だってのは判るさ。〝上〟からの無理難題を上手く転がしてるし、実際、
吹は、白い手袋に包まれる手で、明るい金色の髪を撫で付け、再びシグナが、映し出される一角を追う。
「止めておけ。冬の私生活の場だ。あまり干渉するな」
四様の視線の先に居るシグナを眺める意味を、管制塔は不可侵として心得た。
●○●
三十六階層。談話区画の一角。
シグナは他を寄せ付けず、黒のファイルと社屋用のタブレットに鏡色の視線を走らせる。
乱れの一つも無い上質なダークスーツの重役は、就業時刻を過ぎようと、着崩しや
先程、白の拷問部屋で確認した位置に姿を現したロゼルは、シグナの元へ歩み寄る。
「また、
「何の事やら」
「制服姿の君が、どの口で応える」
「いつもの事だった。言い出せば退かぬ君の言動は、止めようが無い」
「それは、どうもありがとう」
「止められる訳が無い。我々は、君に負担ばかりを押し付けて居るのだから」
「気にするな。矢面に立つのは私の役目だ」
立ち上がるシグナが、手にするファイルをロゼルの胸に、軽く音を添えて置き、改めてロゼルを見据える。
「今日中に眼を通してくれ」
「承知した」
どの拍子と加減なのか、シグナの指先はロゼルの袖口を
本当は黒いファイルを渡す事さえ、口実でしか無いように。
「どこの迷い子だよ。離してくれ。用件を片付けておきたい」
「ロゼル、約束をして欲しい。
必ず戻って来い。決して、私を置き去らぬと」
シグナの視線は、摘む袖口に落ちたまま。
本当に子供のような心細さを抱えた響きが、極上な口元から零れた。
ロゼルとしては、今回の役割は、そこまで危険を帯びる事との認識は無く、現時点でモルヤンを離れる事も、シグナを置き去る意図すら念頭に無い。
何を察したのか。漠然とした先行きへの不安が湧き出したのか。
シグナは、
「涙の一つでも流し、縋り付いて止めるなら考えるが、シグナは、そんな選択肢を意地でも
だからこそ、私はシグナを留守番役に選んだ。
それだけの事だ」
シグナは、その言葉でようやく普段の視線の位置に戻し、向き直ったロゼルの似紅を見据える。
ロゼルの黒い制服の袖口から指を離し、間髪入れずロゼルの白い指先を上から掴む。
「今度は何だよ」
「
凄まじく整うロゼルの口元に、呆れ返ると言わんばかりの表情が浮き、間も無く親愛込めた苦笑に染まる。
ロゼルは、受け取った黒いファイルを卓に置き、空いた左手でシグナが誰にも触れさせ無い、生きる銀色の滝を幾度か白い手櫛で
流れで一房を取り上げ、ロゼルは口付けする。
「ほら、これで満足か?」
「どうせならば、
「っははは。そんなに私に喰われたいのか」
「駄目だな。
君を見る事も、触れる事も叶わぬか。……私には耐えられぬ」
「判ったら、そろそろ離してくれ。
想いの他、痛い」
言われたシグナは、想いの底から未練がましく、ロゼルが手に通す手袋の、シグナにしか判別不可な繊維一つ一つの感触を惜しみ、縛を解く。
「早く要件を済ませて来い。こう見えても、私は蒼海の優勝旗を期待して居るのだからな」
「ならば、〝
「……前向きに検討する」
淡い期待を込め、ロゼルが小さく整い過ぎる口元に浮かべ、社屋用のタブレットを片手に、シグナの方が場を後にした。
歩調で揺れなびく銀色の背面を見送ったロゼルは、シグナが座って居た同じ席に着き、後ろに流した頭巾の端を取り、目深に被る。
●○●
夜番勤務の社員の姿は少なく、三十六階層の談話室も、空調や機器の駆動音が耳に触る。
社内用にしては上質の乳白色の一人掛けのソファーには、見る者、知らぬ者すら圧倒する絶大な対象が、長い腕を、脚を組み腰を下ろして居た。
グランツァーク財団・私設武装強襲集団〝黒の群狼・ミスクリージ〟の、闇夜をも呑み込む黒い制服を隙無く装着し、余裕ある大きさの頭巾で、その整い過ぎる端正な姿形を鼻の先まで覆い隠す。
不意に、群狼は反動の一つも無く立ち上がる。
左手を後ろにやり位置を戻せば、浮き上がる白い手には、細長い棒状の何かを包む朱色の筒袱紗が握られた。
何も無い空間より、手品のように現れた物からは、祓いを込める
提げ刀風に持つ朱色の包みの上方に、ロゼルが右掌を添え、小さく鍔鳴りが
変化は、ただ、それだけだった。
長身の群狼が、席を立ち上がる。監視装置にも、その様子は克明に記録される。
にもかかわらず、モルヤン標準時刻・〇二一四。
同時刻。ブロエ、ゼランシダル、モルヤン各地九カ所で、九通りのヒトの惨殺死体が発生した。
ある者は、湖の底に沈み。
その者は、繁華街で血飛沫を勢い良く噴射し。無人の高層建築物の屋上で無傷で仰向けに倒れ。
別の者は、突然空中から四肢が離れ離れで落下し、新たな外傷を作り。
一方では、予兆もなく現れ、自重の勢いで路面に昏倒。何の縁故もない庭先で事切れ。一級河川で水音を跳ねさせ。
さらには、橋梁に妙な姿勢で引っ掛かり。未開に近い森林で斬殺された。
姿無き殺人事件は、場所、凶器、物証、証言、動機すら繋がらぬまま。
後日において、発見が遅れた遺体もあった程だ。ただ、同時刻に偶然発生した点と点を連ねる、真の意味に辿り着いた者は、慄然とするしかない。
モルヤン・グランツァーク財団本社屋の談話区画の片隅で、休憩して居た群狼が軽く朱色の包みに右掌を近付けた時には、〝九番目の現場〟に零時間で移動し、音も気配も相手に与えず凶刃を抜き放ち、返り血も撒き散らす臓物に堕ちた天貴人の臭気をも置き去る。
現場に居たはずの気配も、先に延びる時間をも回収し、納刀すると鍔鳴りは囁いた。
零の時間と空間を操作しても、なお余りある緊迫を張る糸に
ロゼルは、卓上の黒いファイルを白い手で
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