第九節 願いと現実。




 見覚えのある白壁に差し掛かる。言わずもがな、昂ノ介が住む邸宅。

 以前、通った道とは違う筋の向こう側からも、認識出来る非常識な敷地を見無かった事にした士紅は、集中する対象を戻す。


「冗談だよ。栖磨子さんは、在純の事を信用し、心から在純の話を楽しみにして居る。

 仄暗い気持ちを、溜め込む気配は無い。安心しろ」

「……ありがとう。そう言ってくれて。

 ねェ、もう少し、この話をしても良いかな」

「もちろん」


 青一郎が語り出したのは、庭球との出会い。


 最初に始めたのは、礼衣だった。有名な庭球ハウスに在籍する選手の活躍に一目惚れをした礼衣の父・『実音』の提案から、リメンザのセツト支部に通い始めたのが切っ掛けとなり、青一郎、昂ノ介、栖磨子が礼衣の練習風景を見学していた。


 当時は快活だった栖磨子は、ラケットを借りコートに出たいと言い出す。

 我を押し通し、叶った栖磨子の思いにコーチが付いたのだが、思い切り打ち込んだ一球が、隣のコートでプレイ中の女性に向かってしまった。


 事故になると、見ていた誰もが背筋を凍えさせた瞬間。


 相手からの返球と、栖磨子の打球を、時間差で二球の勢いを削ぎ落とし、華麗にしのいでしまった。


 泣いて謝る栖磨子に、その女性は怒りもせずに栖磨子の力強い打球を賞賛し、しばらく教示してくれたのだと。

 とても美しい容姿で、当時の頃合いでは高校生くらいの年頃の女性だったと、朧気おぼろげに記憶している。


 そう、話を閉じようとしていた。


「あの頃は、あんなに元気だったのに。髪も目も肌も五感だって、おれと同じだったのに。

 気付いた時には、妹はあの姿。庭球なんて、もう出来なくなっていたよ」

「だから、その御令嬢みたいに上手くなって、栖磨子さんが元気になる事を信じて、一緒に庭球場に戻るために、在純は強くなったのか。

 ……成る程ね」

「丹布君には、一度も勝てないけどね」

「私は別格だからな。誰にも負け無いよ」

「あはッ。参ったな」


 青一郎は、静かに俯いてしまった。本当の罪悪感は、自己満足や虚栄心を疑われる事ではなく、別の所にあったからだ。


「なぁ、在純」

「うん、何?」

「楽しいと想っても、善いんじゃないのか? 実際、楽しいだろう。庭球は」

「……え?」

「在純の庭球に対する厳しい姿勢は、妹に気を遣う余り、楽しいと感じる後ろめたさがあるからだろう? 自身を律する、美しい姿だよ」


 陽がすっかり落ちた外は薄暗く、当然車内も同じ明度が浸透する。


 時折り車中に射し込まれる街灯に照らされた青一郎の表情は、悲痛が強張こわばり、触れようとする体温だけで、崩れてしまいそうな薄氷のようだった。


 封を掛けた心の底まで見透かされた恐怖と、忍辱にんじょくあばかれた思いに揺れる黒い視線が、似紅に問うようにすがる。


「そんな愧色きしょくを向けるなよ。各地を転々として居たと言っただろう? その分、色々な相手にも想いにも出会って来た。

 経験値も上がるよ」

「メディンサリが好きな、ゲームの話じゃないんだから」

「それもそうか。一緒にしては駄目だよな」


 士紅が小さく笑い、釣られて青一郎も白い歯を見せて笑い出すと、年令不相応な重い空気が、少しだけ軽くなった。


「迷うな在純。栖磨子さんに残された時間を勝手に天秤へ置くな。

 栖磨子さんは、周りが騒ごうが気遣おうが懸命に生きて居る。

 在純が心の底から楽しむから、栖磨子さんも同じ思いで楽しいと応えてくれるんだぞ」

「……丹布君」

「善いか? 在純。

 一つでも楽しいと感じる事があるのなら、流れに逆らう必要も無く、変な意地を張ら無くても生きて居られるものなんだ。

 生きる生命は、案外丈夫だよ。諦めるな。

 〝橙色のお兄ちゃん〟は、頑張る奴の味方だからさ」

「……え?」

「まぁ、怒らせると怖いけれどな」

「待って、丹布君。

 その〝橙色のお兄ちゃん〟って人は、実在するのかい?」

「あぁ、居るよ。別に話を合わせた訳でも、嘘を吐いた訳でも無い。

 本当に背が高くて、長い髪は橙色。常に薄笑いを浮かべて居るし、顔は……、好き好きかなぁ。普通だ」

「名前って、教えて貰えるのかな」

「在純なら、大丈夫。〝橙色のお兄ちゃん〟の名は、アーレイン=グロリネス。

 モルヤンでは、八住規士と名乗って居たよ。今は、訳あって不在。以上だ」

「ありがとう、丹布君。そうだったのか。

 本当にいたんだね」

「信じてやれよ。大事な妹の言葉くらい」


 白い手を伸ばす。

 少し毛足を残した癖があり、柔らかいが芯を感じる心地好ここちよい、青一郎の黒髪に差し入れ、数度と櫛げる。


「シグナの髪に似てる」

「え、誰なの?」

「いつぞや、私を迎えに来た銀髪の大男が居ただろう。だよ」


 ああ。あの人か。間髪入れず記憶から浮かび上がる、総てが極上の男性を思い出した青一郎は、士紅から受ける現状が新鮮過ぎて、違和感も恥じらいもなく受け入れる自身に驚いた。


「やっぱり、丹布君ってモテるんでしょ。

 こんな事、普通やらないよ?」

「私も、誰彼かまわず触ら無いから安心しろ」


 青一郎の頭頂に一つ白い手を置いた後、その手を収め薄く笑う。

 やはり、釣られて青一郎が小さく笑うと、街の灯りは明度を増す。

 トウミ駅前の賑わいを、知らしめ出していた。




 ○●○




 翌日の放課後。


 中等科の庭球部屋外練習場に整然と並んだ部員に、監督兼顧問の深歳が来週末に控える、全国への次の関門に当たる〝セツト大会〟についての日程と心構えを手短に伝えていた。


 伝達も済み、部員の返事を得て言い終えた深歳が、部長の青一郎に場を譲ろうと声を掛ける。

 所が、目線一つ下に落としたまま、青一郎は内側への思いに集中している様子で、反応が鈍い。

 強化組と言わず、部員にも不安が広がり始める。


「在純君、大丈夫ですか?」

「……はい。済みません。

 少しだけ、よろしいでしょうか」

「ええ、もちろん」


 深歳が、快く発言の場を譲り、にこやかに数歩下がった。

 その深歳の心遣いに感謝し、青一郎は一礼の後、一同に揺るぎなく向き合う四肢には、幼いが締めた表情は凛々しく、積み上げていた思いを口にすべく言葉を紡ぎ出す。


「皆さんにとって、庭球とは何ですか?」


 青一郎の声に、昂ノ介と礼衣は普段とは異なる様子に互いに目配せ。


 都長、蓮蔵、千丸、メディンサリは唐突な問い掛けに間の抜けた声を立て、士紅は無言。


 他の部員はさざなみが連鎖する。音の波をかき分け、青一郎は話を続けた。


「おれにとって庭球は、ただの言い訳でした。

 理由を付けて強くなりたいと願う、自己満足よりも虚栄心よりも醜い現実でした。

 気付いていなかった現実をあばかれて突き付けられて、ようやく気が付いたのです。

 庭球は楽しいと。楽しいと感じても良いのだと。

 今は、庭球のあり方、考え方が改まりました」


 少年の声は優しさのため浅く柔らかいが、胆に音を置く響きは意志を移し言葉となり、聞く者に深く届いた。


「言い訳を果たしてしまった時、おれの中に何が残されるのかを考えてみました。

 ……考えるまでもありません。庭球に関わった全ての時間。

 その思いは、決してなくならない」


 全員が見守る中、青一郎は高らかに宣言した。


「おれは、庭球が好きです。

 こんなに楽しいと、おれの全てが包み隠さず肯定しています。

 その先に全国があるのなら、おれはこの場所に戻って来ます。

 何度でも、何度でも」


 青一郎の黒い視線は、まず前列に並ぶ強化組に向けられる。

 誰も、青一郎からの視線を逸らさず受け止める。


「この決意を支えて下さるのは、強化組の皆や、先輩方、監督、この庭球に関わる全ての方々です」


 次いで、深歳、部員達に向け決意を配る。当然、反意の色は誰も浮かべてはいない。


「おれは、この場にいる全員と全国へ行きたい。

 勝ち上がり、その舞台に上がりたい。

 行きましょう、全国大会! 優勝旗を蒼海学院に持って帰りましょう!」


 青一郎の普段は封をする、感情や熱量そのままを込める思いが、空間に行き渡った。


 他の部活動中の気配すら、遠ざける声量が物語る。


 しばしの沈黙が、青一郎の時間や判断の感覚を狂わせた。

 慣れない主張と思いの丈を計り間違えたのかと、流れる時間が止まってしまったのかと、両者の熱意の差に懐疑的になり始めた頃、乾いた音が連なり青一郎の鼓膜を打つ。


 それが、士紅の白い両手から発せられる拍手だと気付くまでの時間の方が、青一郎の感覚に積み重なってしまい届くまでに、時間が掛かった。


「当然だ、青一郎」

「……共にこう。

 全国と言わず、青一郎が臨む場所までな」


 生まれた頃からの付き合いの昂ノ介、礼衣が何かしらの安堵を乗せ、力強く笑みを返しながら青一郎に言葉を送る。


たッりまえじゃん! おれだって全国で優勝するから、このまま続けさせてくれって大見得切って来たんだからな~!」

「実は、わたしも何か一つくらい頑張った結果が欲しくて、皆さんに付いて来ました」

「アレやのォ、なンか冠があった方が、箔も付くしなァ」

「全国優勝なんて、青春の極みじゃねェか! 優勝旗を持って帰るだけじゃなくてよ、向こう六年間、居座って貰おうぜ!」

「そぉ~れ! 蒼海! 蒼海!」


 最後の士紅の台詞は拍手から、蒼海の応援仕様の手拍子と掛け声の音頭を取って移行し、深歳も腹からの声で続き、鼓舞の連鎖は蒼海学院中等科・男子硬式庭球部全員の総意と決起の声が束になり、一際大きく響いた。


 すぐ隣の女子部員達も、他の運動部も、聞き付けた教職員・生徒達も、一丸となった賑やかなハレの祭りのような雰囲気に、蒼海学院中等科に新たな風によってもたらされる何かを、確実に感じ始めていた。




 ○●○




 練習が開始すると、気のせいでも何でもなく、一様に強化組・部員を問わず、その動きと気迫の宿り方が違った。

 年頃の気恥ずかしさも、掛け声の勢いで払い除ける。


「皆の動きが見違える。お前の演説のお陰だな。青一郎」

「そんな事ないよ。

 皆だって、声に出して賛同してくれたじゃない」

「……謙遜するな。確かな指針があればこそ、舵取りが叶う。

 舵を取るのは部長の青一郎なのだからな。我々は、漕ぎ手に過ぎない」


 合間を計り、昂ノ介と礼衣が自然と寄り合う。

 彼らの視線の先には、都長が苦手とする位置へと一球を打ち込み、声変わり前の高い声での文句を、不敵に受け流す士紅の姿。


「不思議な奴だな。丹布は」

「うん、次はいつ来てくれるのかって、昨日会ったばかりなのに栖磨子が聞いて来るくらいだからね」

「……昨日? まさか、栖磨子と丹布を会わせたのか?」

「そうだよ」

「確かに、栖磨子は丹布に会いたがっていたが、丹布がどれだけ驚くか想像しなかったのか?」

「驚いたのは、おれや栖磨子の方だよ。普通にその辺りの女の子と接する感じだった」

「……達観した所があるとは思ったが、本当に驚きだな」

「それで、栖磨子の様子はどうだ?」

「たまに、発作を起こすけど落ち着いているよ」

「……言われてみれば、最近は会いに行っていないな」

「今日にでも寄ってみるか」

「……そうしよう」

「ありがとう。栖磨子も喜ぶよ」


 士紅のようには対応出来ないが、昂ノ介も礼衣も、大切に思うからこそ、つい慇懃になる気遣いが分かる青一郎。


 改めていつも身近に居てくれる二人に、深い深い感謝を伝えた。





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