第四節 士紅の、お城訪問。
陽は夜の
人工の灯火で彩られ始めたシユニの広大な敷地の一点に、ロゼルは居場所を陣取り、一時の贅沢を味わう。
広いが、不安を覚える程ではなく、過不足も感じず清潔に保たれ、人間工学に基付いて配される調度品。
空間内の様子は陽の入りと共に
約束の時間までに、割り当てられた業務を果たせた充足感。
背の高いグラスには、高い品質と最良の間合いで注がれた、
「何だ。まだ、作業中だったのか。
出入口の扉が、来訪者を感知し両開きする。
それを告げる小さな電子音の後に、
蠱惑的で
「シグナが戻る頃合いまで、間に合うと踏んだだけ」
「そのままの意味なら、毒を含もうが飲み干している所だが、伯爵の夕食会までには、眼を通しておきたかったのだな。
困った親友だ」
「ご機嫌伺いは、大切にしないと。これでも、色々と世話になって居る身の上だからなぁ」
白い指がグラスを包み、空いた片手の指を底に添え、壮絶な整い方をする唇にあてがう。
香気と茶葉の旨味を閉じ込めた炎色の液体を、ゆっくりと流し込む。
深淵すら
その様子を注視するシグナは、見終えてようやく安堵し、手近な椅子を見当てて席に着く。
長い銀髪を器用に背面側へ纏め、一筋すら床に
「美味しい。シグナが入れてくれるお茶は、気分が華やぐよ。ありがとう」
「どう致しまして」
普段は無表情な二名だが、気心が知れる分、互いにしか見せ無い表情がある。
その日の、その気分に合わせた唯一無二、最愛の相手が心ゆく一口を注ぐ茶を仕立てる事が
雰囲気を察する所は、救いと言えた。
ロゼルは決して味音痴では無いのだが、衛生面に問題がなく、信頼に足る相手が食生活の
その場面に遭遇したシグナは、無言で礼に反する最小限の言動で、ロゼルを隅に呼び寄せると、次のように珍しく
「報告は以上だが、君は騒動を起こさねば、気が済まぬらしいな」
「起こした覚えは無い。
どうした。孫が可愛い余り、大人気無い仕打ちにでも転じたのか」
「仕事の面では苛烈な方だが、公正さに私情は挟まぬ事は
「それは何より」
「御前には、ロゼルの素性を説明しておく方が妥当だと想うのだが」
「何を今更。そんな事をしてしまえば、強化組の親御全員に説明する必要が出て来る」
「多かれ少なかれ、天貴人の存在を識る大家は存在する。
元より御前は、グランツァーク直轄の文化財を、管理・補修・研究部門を預ける機関を
手にするグラスを元の位置へ、音も立てず戻したロゼルは、不機嫌そのままに椅子ごとシグナから
間接照明の淡く青白い明度が、透けない窓に上へと気泡を描く様に、似紅を向ける。
不愉快で不本意な記憶を、電子で創り出された風景で払拭する姿だと、シグナは正確に掴み取る。
そんな物では、何の解決にも至らぬと、双方が判り切って居た。
故に通過儀礼よろしく、シグナは尚も進言を重ねる。
「十年前の一件で、御前は孫の身の安全を第一に念頭に置き生きて居る。
多少の安心を、提供しても罪にはなるまい」
「善く言うよ。私なら不安になる。
私は、間に合わ無かったんだからな」
「君以外の誰が、あの最短距離で現場に到着し、任務を終えられた? 御前は
「群狼が、軽々しく応えてどうする。我々は人助けのお人好しでは決して……。失敬」
ロゼルが話を切ったのは、学校用の蒼海色のケータイの着信に気付いたためだ。
事情を察するシグナも、非難を表にも裏にも生じさせず静観する。
ケータイのディスプレイに浮かび上がる着信相手を確認の後、通話画面を呼び出し許可部分に触れる。
「やあ、千丸。明日は蒼海へ登校出来そうか?」
「安心しなさい。孫の強い意志と要望だ。
少々、人影は増えるが気にしないでくれたまえ」
「……御前でしたか。御無礼申し上げました」
前触れも無く士紅の声に戻し、安易に通話に出たまでは善かった。
まさか話題に挙げる千丸充征が、孫のケータイで掛けて来るとは、予想もして居なかったロゼルは、想い切り油断して通話に応えた迂闊さに、自身に対する恨み節を、険しい双眸に隠しもせず現す。
言葉遣いも、本来のそれに倣って居る。
その様子に、シグナは可笑しそうに極上の鏡色の眼を細め、物音も消し席を立つと、軽い所用に手を伸ばす。
「謝る必要はない。丹布君は、かなり用心深い性格故に、非通知や見知らぬ番号では、通話にならぬと孫が言うものでな。
孫からケータイを借りたのだよ。こちらも、非礼は詫びる」
「
奥臣の御前こと、千丸充征の通話内容は次の通り。
迎えを出すので、今からの二時間を、コノエモトの千丸家で過ごす了承を得たい。との申し出だった。
何とか
「……噂をすれば何とやら」
「今から二時間か。伯爵との会食に間に合わぬな」
「私の方から断りの連絡を入れるよ。
シグナや管制塔に入れさせると、一気に不機嫌になるだろうし」
「そう見え無いのが恐ろしい。あの伯爵様は」
「……っははは。確かにね。着替えたら、その脚で千丸家へ向かう」
「その姿でも、十分映えるぞ」
「冗談は、極上な容姿だけにしてくれ。
どこの世界に、グランツァークの社屋清掃作業着で、千丸家の門を通る愚者が居るんだ」
「先駆者たれ」
「そんな口車に誰が乗るか。制服に着替える」
言うなり、ロゼルはアイスティーを飲み干すと、グラスを持ったまま出入口へ向かう。「御馳走様。また頼むよ」去り際、一室に残す親友へ、急を要す事態を控えようと、案外素直に礼を述べる事を心掛けるロゼルだった。
○●○
士紅は、煌々と夜の闇を払い去る、本物の
それだけに止まらず、全てが。そう、全てに於いて逸脱する千丸を冠する敷地、屋敷、夜だと言うのに電灯にはない明るい空間。費やされる人員。
コノエモトに進入してからと言うもの、士紅は専用護衛線に補足される気配に、捕らわれ続けた。
世俗を隔てる
居住区ではなく、寺社の門前を想わせる敷居を越え、生身と電子の視線に囲まれ、ようやく士紅は、出迎え役の千丸咏十が待つ、玄関先へと辿り着く。
「済まんな。こんな時間に」
「……ぉい」
「悪い。もう一度、言うてくれ」
「遠い」
「は?」
「予想もして居たし、覚悟もして居た。だが、門から玄関までかなり歩いた。大き過ぎるんだよ千丸邸。違うな。邸では無く城だ城。出直して来る」
「待て待て待てッて!」
真顔で告げて
「まぁ、冗談はさて置き」
「冗談かい」
「大丈夫だったのか? 御前を相手に、かなりの無理を通したようだが」
「そりゃあ、ワシの台詞じゃ。祖父を相手に、あんな口を
「利こうなんて想わ無いよな。普通は」
「呆れた奴やな。そう言や、随分遅かったのォ。
祖父の話じゃ、住んどる場所もあって一番に丹布へ連絡しとったのに」
「……曲がる道を間違えたんだよ」
「あ~。お前さん、方向音痴やったな」
会話を続けながら、リュリオンの訪問に相応しい作法は滞る事も無く、千丸の誘導に従う士紅の姿に、腹の内で感心するのは、控えていた郷咲だった。
過日にも報告を受けたが、強化組の家に招かれた折りも、何の失態も差さずに家人に気に入られ、帰宅の途に就いている。
しかし、暗部も行う千丸家の護衛陣が何度も尾行に失敗している上に、蒼海学院に提出される当たり障りのない資料以外の、一切に手は届かず、後見人・住居・親族欄には厳しい閲覧制限が掛けられる始末。
怪しさを通り越す不審さに、強化組の家々は当人の自己防衛意識と、士紅単体への信頼性に寄り付く方針を固めたとある。
郷咲自身、士紅に対する
ただ、郷咲にある理由も理屈も、触れ得ぬ場所が激しく警鐘をかき鳴らす。
幼い主が、他愛もない話で畳敷きの廊下を共に歩く少年は、狼であると確信する。
家族を護るためなら猛り狂える狼となり、回した敵を際限無く追い詰め、追い落とし、その威を顕現し得る化身なのだと。
それに加えた、士紅が宿す暗い赤の眼。影が差す青い髪。今となっては知る者も限られる特徴に戦慄を覚えていた。
世が世なら、幼い主以上に表を歩けない稀少人種に思い
時代の流れが汲みしているのか、士紅の周囲がそれを許さないのか。
能面に似た表情は変えずに、郷咲は図らずも懊悩へと導かれていた。
○●○
「あら~。今はそうなっているのねェ。私が充征さまと出会った頃はねェ」
「その話は止めなさい。蓉可」
屋敷の内側に向かって開け放たれる一室の出入口から、和やかな談笑の気配が立つ。
中心的な役割を果たすのは品の良い女性の声だった。
「失礼致します。お祖父様、お祖母さま。
丹布を案内して参りました」
「遅れて申し訳御座いません。
丹布士紅、お召しにより参じました」
「……よく来てくれた。座りなさい」
明らかに、話題を遮られ安堵する様子の千丸翁が士紅に客椅子を勧める。
隙の無い一礼を応えに代え、表を正した士紅は視線に気付き、似紅が引き寄せられる。
そこには、小柄で見るからに〝可愛いお祖母ちゃま〟が佇んでいた。
桔梗色の紗あわせの着物。紗の袋帯。灰色の髪を後ろで一つに纏め、にっこり雛菊に似た、年令相応の
千丸家を芯から支える女傑である事は、初対面ながら士紅は把握済みだ。
目礼で場を整えるつもりだった士紅に、蓉可は思ったままの感想を素直に述べた。
「あら、貴方。『ハンス』の家にある『ベルジンの少年画』に、瓜二つねェ」
言われた士紅は、目礼から戻した姿勢を何一つ崩さずに、談笑が途絶えた仲間が見守る中、抵抗も無く応える。
「恐れ入ります。時折、ご指摘を賜ります」と。
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