第三節 懸けるべきもの。




 休憩時間は、とうに過ぎていた。


 今更、現場との距離を縮めるには機会を失い、部員は、その場で位置に縫い付けられる。

 誰かが、時の固着を解いてくれると、他力本願にすがらざるを得ない状況には違いなく。


 この場を収める適任は、異郷の少年の双肩に預ける以外に手立てがないと知る深歳は、不甲斐なさを後ろ暗い思いと共に浸潤しんじゅんさせる。


 時間の尊さを識る士紅は、その役割を買った。


「無礼なのは、そちらの方じゃないのか」

「……何か言うたか。小童こわっぱ

「あぁ。言ったとも。言うに事を欠き、監督に対する非礼に始まり、この人数で部活場を乱し練習が中断して居る。

 二度と戻らぬ代え難い時間をどうしてくれるんだ」


 士紅の物言いに、千丸翁を筆頭に珍獣を見る形相を一様に浮かべる。


 どこの世界に、千丸克征を前にして敬いの言動を排除する者が居ると言うのか。

 その姿を、千丸咏十ですら普段の眠気眼を見開き、士紅を凝視した。


「全国を制するためには、誰一人と欠けてもらっては困る。

 場を乱した非礼については不問にするから、千丸咏十を置いて早々に立ち去ってもらお……」


 士紅が言い終えるのを待たず、千丸翁は手にした節のある杖を一刀に代え、抜き放ち士紅の左面を強襲した。


 その動作は一呼吸の前触れもなければ、老人の四肢が可動する領域をも超える。


 現場を見守る一同は身をこわばらせ、短い悲鳴や動きに音を立てる。それは護衛陣にも見受けられた。


 千丸翁の挙動に、身動きもせず止まって居られたのは三名だけ。


 仕掛けられた士紅。双方の近くで控えるモルヤンを代表する武人と、本館から付き従っていた外圏の青年。


 この青年は、モルヤンにはない青みが強い明るい肌と、耳輪が外に向かって伸び、やや腕が長い事を除けば、毛髪や瞳の色も違和感なく、モルヤンでも通じる美しい容姿を持っていた。


 千丸翁の一閃は、兎の毛の幅にも満たない隙間を開け微動だにせず止まっている。


 対する士紅も、またたく事も、表情の変化も無く似紅の色で、千丸翁の刈り取る者の目に映る己を見据えた。


 憤激する千丸翁が培った技に乗せ、士紅を追い払う場面にも映るが、明鏡止水なくして収められるわざとは思えない。自ら士紅を推し量り、すべを探るうかがえる。


 士紅の肌には一切触れず千丸翁は杖を退き、元の距離に戻すと会話を再開させた。


「随分な物言いに加え、無礼なのは君の方だ。監督も監督なら、従属する者も同じ。

 勝手な言い分を押し付けるのは下劣の極みではないか」

「監督の温情と、私の無体は関係無い。確かに、全国制覇は私の身勝手な願いだ。仲間を巻き込こむ自覚はある。

 だからこそ、それを承知でここに立ち、犠牲も覚悟出来て居る」

「……それで?」

「この場所は、我々の聖域だ。

 乱す者は、仲間の御祖父だろうが世界の王だろうが許さん」


 そこそこ生きて来た。

 海千山千、人の皮を被る理不尽な化け物と接する千丸翁も、目の前の異郷の少年には、覚えもない異質な領分を感じている。


 それは警告であり、預かり知らない安堵感さえある、複雑な思いに気付かされた。


 次第に分かった事がある。この場を動きたがらない愛する孫が時折、楽しそうに語る仲間の様子。

 そこに居る丹布士紅は、決して敵に回してはならぬと。


 値踏みの最中だと察した士紅は、話し相手を変えた。


「千丸」

「な、何じゃい」

「千丸は、どうなんだ。去るのは惜しいが、千丸の意志は尊重したい。

 あの寄宿舎なら、子供が過ごすには安全で居られる場所だからな」


 祖父と同様に口を閉ざし思惑に浸るが、千丸は思いを構築済みだったのか、開口までに間は開かなかった。


 発達途中の、まだ小さな肩が一つ大きく上下する。少々の勇気と勢いを呼吸で充填じゅうてんする。


「お祖父様」

「何だ」

「わたしが動けば、多く方々の労力が費やされる事を知っております。

 選抜組は最小限の人員で構成され、彼らもまた所用を縫い庭球の練習時間を捻出ねんしゅつしているのかも、知っているのです」

「お前まで倣う必要はない。こんな、どこの誰かも調査が届かぬような者と行動を共にするなど看過出来るか」


 小脇に杖をやって腕組みをする千丸翁の老練の視線の先には、無表情の士紅が居る。


「……ふんッ。火関の情報網も、たかが知れるな」


 相手が相手とは言え、家業の一端をけなす音を拾った、火関の涼しげな目元に驚きを伴い動揺と不快感を霞ませると、傍にいた青一郎と昂ノ介が、小声でなだめ、背に一つ軽い鼓舞を置く。


「別に、丹布の生まれや背景など瑣末さまつな案件です。

 そんな物より、丹布と出会い目が覚めた事や気付いた事の方が、わたしにとっては重大です」

「……それで?」

「安全を代償に差し出しても、得る物が、ここにはあります」


 澄んだ、強い思いを込めた黒い視線だった。

 小さな体で、幼い精神で、背景に控える巨大な権力と、支えるべき多くの生命の生活圏を守るための導線に、有無を言わせず立たされる事を強いられた千丸咏十は、身に受け継いだ全てで応え続ける。


 非常識な量を積まれた習い事、処世術を刷り込まれ、意志の介在も押し止めて祖父を前に、千華院倶楽部の関係者に相応しい〝千丸咏十〟を演じる。


 それが、亡き両親に対する最善の供養なのだと結論付けた。


 犠牲や人身御供とも違う。何かの縁があって、とんでも無い家に生まれてしまっては、仕方がないと昇華した結果だ。


 そこに現れたのが、丹布士紅だった。


 入学式の翌日の庭球場。蓮蔵と共に見た士紅の姿勢。熾烈な言動。


 それらを軸とする不動の念に、千丸は思い出していた。両親を失った事実を受け入れた時に決意した、もう一つの結論を。


 何故、士紅を見て思い出したのかは分からない。

 用事が詰め込まれていた当日の予定を初めて断り、擦った揉んだの電話交渉の末に、偶然、通路で会った蓮蔵と一緒に屋内練習場に向かった、在りし日の記憶を掘り起こし、千丸は祖父に答えている。


「お屋形さま。お時間が迫っております」


 祖父と孫の対峙に、遠慮ぜず水を差したのは例の武人。

 名を『郷咲』と縛り、歴代の千丸家に身命をもって盾となる若き棟梁。


 進言を受け、気分を害する事もなく、千丸翁は孫の変化に自らの範疇を見定め判断を下す。


「咏十。良いのだな」

「死んだ時に後悔します」

かしよるわ。そんな事態になる前に、私が止めて見せる。この老いぼれの生命くらい、その糧になるだろう。

 必ず、お前の生命は守ってやる」


 どこか可笑おかしそうに語る、千丸翁の冗談とも受け取れない言葉は、千丸の揺らがなかった視線へ、無意識に増える瞬きを与えた。


 迫る予定に、それを見過ごしてしまった千丸翁は、まずは時間を乱した非礼を深歳に詫び、一団の撤収を指示する中。

 無言を通して居た士紅が、想わぬ名称で千丸翁を呼び止める。


「奥臣の御前」

「……何だね」


 何故。とはえて問わない千丸翁は、士紅に向き直り言葉を待つ。

 奥臣の御前と呼ぶ相手や世界は限られる。


 不審者と自覚した上で、身を置く足場を示し、安堵の一端を伝える士紅の意図を、正確に汲み入れたからに他ならない。


「無礼ついでに言わせてもらう」

「何かね」

「生命の惜しさに貴賎は無い。千丸咏十だけが、特殊な生命でも存在でも無い。

 まぁ、家族の生命に対して無関心な生き物なんて、居て欲しく無いけれど」

「ほォ?」

「御前は、御自らの生命を糧に孫を護ると言った。

 それも方法の一つだが一度しか遣え無いし、自身を護る術を知らぬ遺された者が、この先どうやって大切な存在を護れば善いんだ? 生命を差し出して護ってくれた相手に倣い、同じ方法で次の相手を護れと、死と共に刻み付けるのか?」


 千丸翁と言わず、千丸も目を見張る。

 祖父と孫が共有する、癒えるはずがない傷が、解かれる過去を突き付けられた。


「生命をけると、叙事詩になるが私は苦手だよ。

 は忘れ去られ、世界は痛覚を失う。

 生命は、生きるために費やして欲しい。懸けるべきは、生き様や信念であって欲しいんだ。

 だから、生き足掻あがく術を示し続けるのも、護る術に繋がるのでは無いだろうか」


 言い終え、士紅は一礼をして見せた。


 右手を、脇を空けず試合着の〝蒼海学院〟に添え。左手は、軽く拳を握り、同じく空けず腰の線に合わせ一の腕を背面に。

 踵を揃え、爪先は握り拳の幅に開く様式には、見覚えがあった。千丸翁が記憶ある中でも、士紅の一礼は最上級の姿勢を保って居る。


 千丸翁、唯一の親友が生まれ育った、紳士淑女が古き文化と様式美を顕示する、永遠の貴婦人をたたえる王都を抱く、西の大陸はルブーレン。

 その深い血統と、格式が堅固する土地の礼法だった。


「千丸。ここに残るなら、増える練習量は覚悟しておけよ」

「おうよ。今日は悪いが、帰らせてもらうわ。

 監督も、お騒がせ致しました。本日は失礼させてもらいます」

「私の方こそ、迷惑を掛けてしまいました。申し訳ありませんでした」


 恐縮する千丸と郷咲は、深歳への気遣いの礼も含め場を辞し、先行する祖父の一団に追い付いた頃、千丸翁は外圏の青年を相手に世間話を重ねていた。


「あの丹布君と、長官様と親しく話をする場面を孫は見たと話をしていたが、実際、長官様は彼の正体をご存知なのかね」

「規約により、お答えする事は叶いません」

「また規約か」

「申し訳ございません」

「良い良い。『ソルダ君』が所属する機関を思えば仕方あるまい」


 千丸翁の理解を、黙礼で応えるソルダと呼ばれた青年は、護衛陣の誰よりも重ねる経験則と警戒範囲を広げる事に余念がない。


「咏十も、面白い友達を作ったもんやのォ。

 ワシに向かって、あの物言いは傑作やったわ」

「ハハッ。ワシは生きた心地がせんかった」


 人垣も目立たなくなり、見知った人々に囲まれた祖父と孫は、平素の意思疎通の言葉遣いに戻す。

 余所行きに切り替えるのは、千丸咏十だけではなかったと言う事だ。


 厳格な祖父だが、話が分からない人ではないと改めて誇らしく思った千丸の嗅覚に、荘厳な薫りが訪問し瞬時に映像と音声が再生され、風景が一転する。




 ──見ろよ、咏十。きれェな白百合だな。まるで、咏十の母さんみたいじゃねェか──




 ──ほら! 咏十。あれが白百合よ。綺麗ねェ。まるで咏十のお父さんみたい──




 結局、記憶の中の両親は別の機会。

 別の場所で異口同音を語っていたが、揃って次のように締め括った。

 父の言葉で語ったなら。




 ──悔しいが、咏十の祖父さんも同じかなァ。真っ直ぐな茎で、デカくて白い華を支えて、蕾を抱えて正面切って咲き誇る。

 咏十。お前の祖父さんは凄い人なんだぜ。その背中をしっかり見据えて、覚えられるモン全部覚えろ。

 良いな。お前の祖父さんはな、約束を守れる人なんだからよ──




 斜め背後で小さく息が漏れた音を聞きつけ、千丸翁は摘み上げた。


「何じゃい、咏十。思い出し笑いか? 気色悪いやっちャな」

「……酷い言われようやの。普通、ヘコんでグレるわ」

「減らず口が出るようなら、まだまだ安心やの」

「まァ、あれじゃ。ワシを助けて下さったお人の、凄いと思っとったんじゃ」

「……そうか」


 祖父は、真っ直ぐ前を見据え孫を先導する。


 孫は、その背を見据え迷いを振り払う。


 白百合は、その姿を静かに見送った。





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