第二の幕 鵺子鳥の咏

第一節 白妙の御大。




 リュリオンよりも、空が広く高さを感じるのは、岩盤も安定する絶好の平地に、高層建築群が視界に入らないためだった。


 牧歌的な田舎の風景と思わせる、この地は公式経済圏第一級海里・ブロエの中心地『ヴァーセル』の一画に属する国立公園。


 年中を通し、涼やかな気候が維持される大気。正午に差し掛かる前の、穏やかな時間。


 平素は、広大な敷地に思い思いのささやかな目的を果たすため、老若男女が行き交う。

 無料で過ごす事を許されるはずの風景は、今日のこの日。占有する者によって日常を奪われる。


 深緑の枠。飴色の木材。少々の接合部で構成される、変哲もないベンチ。

 そこに『彼』は、白波柄の風呂敷包みを膝に置き、静かに腰を下ろして居た。


 真っ直ぐ虚空を見据える双眸は、新緑と常緑を永遠に宿す山光。覆う髪は漆黒。風貌は清秀。


 その表情に浮かぶのは無償の微笑み。


 誰に示す意志があるのか。意味を問おうともせず、それは絶やされる事は無い。


 人畜無害を絵に描いたような青年が、多くの人々の日常を奪うように見え無いが、事実だった。


 彼は、目的のためなら、容姿と真逆の非情さをも断行する覚悟を、日頃から研ぎ澄ませる。


 そうしなければ、世界は水を含む砂の箱庭となる事と彼は心得て、芯に刻み込み、ここまでながらえて来た。


 信を与え義を汲み、礼を以て仁と尊び、智の泉を分かち合う相手を精査しながら。




 ○○○




 彼は音もさせず、立ち上がった。


 彼が差す虚空に、黒い影が起きる。


 前触れも気配も無く、生命を懐深く抱き寄せる緑色の双眸の視界を攫ったのは、頭の先から爪先まで夜の闇に染め上げる姿。

 その言動、罪悪さえも沈め、塗り潰す黒一色の長身は、遠目からでも判別可能だった。


 輪を掛けて浮き立つのは、白い左手に持つ、長細い朱色の筒袱紗つつふくさ

 黒装束の主は、靴音も袱紗から漏れる鍔鳴つばなりも故意に立てる。

 対照的な白の長衣に痩身を包む、緑色の双眸の主との距離を歩いて詰めた。


 緑色の双眸を持つ彼は、深く深く頭を垂れ、礼節を添わせ迎え入れる。


「お久しゅう御座います。

 お忙しい所、御足労をわずらわせてしまい恐縮の限りで御座います」

「……だから、慇懃いんぎん過ぎるんだよ。

 『シュレイフ』に、そんな挨拶されたら、私は地の裏側まで掘った先で平伏ひれふして五体を投げ打ち、礼と言う礼を尽くす必要が出て来るから止めてくれ」

「そっ、そんな恐ろしい事を言わないで下さいっ。隊長さんっ。

 私など『姉』や『甥』が居なければ、何一つ役に立たぬ無用の長物なのですからっ」


 乙女のように頬を染め、慌てて黒い手袋に包まれる形の善い手を、胸の前で振りながら全力で否定して見せた。

 張り付く不動の微笑みは、相手により簡単に崩落する。

 しかも、本気での物言いだからこそたちが悪い。


「こんな無用の長物が居てたまるか。もう善いだろう。本題に入ってくれ」

「はっ、はい!」


 物腰が柔らかいを通り越し、低過ぎて対応に困る緑眼の青年は、白波柄の風呂敷包みを手にしたまま、座って居たベンチにロゼルを誘導する。


 そのロゼルが、腰を下ろす前に掃き清めようとするシュレイフの行動を止める事は、お決まりの風景でもあった。


 ロゼルが下にも置か無い雰囲気を見せながら、な口調で語り、誰も呼べぬ愛称で名指す相手。


 ここでの銘を『シュレイフラルツ=N=グラーエン』。


 天下のグラーエン財団総会長〝零番〟に次ぐ権威の〝一番〟を持ち、〝向こう側〟に当たる《正の高威界域》の重鎮中の重鎮。天貴人だった。


「早速ですが、本題に入ります」

「うん」


 姿勢を正し、シュレイフが切り出す。

 少し前の慌てようなど、記憶から排除して無かった事になって居る。今は柔和な微笑みを浮かべ、役割を果たす方陣を敷く。


 愚かな商談相手は、この笑顔で騙され呑まれて、条件の総てを搾取される。


 物見遊山や酔狂で、天貴人が〝こちら側〟の《人界》で活動している訳では無い。

 現在は〝向こう側〟を取り纏める《公正》の厳然たる協定の下、ごく限られた天貴人にのみ活動を許諾される。


 そう。現在は。


「ここ十年。《公正》非公認の器章きしょうを持つ天貴人の非合法活動が増加。

 主に、禁足地への侵入、我々が封印した遺蹟いせき、地場に干渉を試みて居ります」

「モルヤンもやられたよ。ほんの千年、余所見よそみをしただけなのに。が本腰を入れると厄介だ。

 しかもは、組織・枠組みの内にありながら、何らかの目的のために、横の繋がりを保ち暗躍する。

 だが現状はが、どの組織・枠組みに属しとらわれるのか。その中核を成す面々と、確固たる目的が把握出来ず仕舞い。

 正直、には事件を起こし、情報提供を望みたい所だよ」

「予兆と致しましては、《紅涙の辺境》が斥候、調査の後に事が起きて居りますが、陽動とも限りません」

「困るんだよなぁ。かなり際どい場所に目星を付けた上に、干渉を試みるからさ」


 ロゼルは言いながら、手にする朱色の得物を脇に立て、懐から綴じた紙の束を引き抜き、シュレイフに差し出す。


が手を出して失態。あるいは撤退の痕跡、先手を打って未然に防いだ場所の一覧」

「ありがとうございます」


 シュレイフは、黒の両の手でうやうやしく受け取り、信頼に足る証を得たほまれに緑色の双眸をそっと細める。


「昔から同じ。は、かつて天貴人が無作為に《人界》に侵入した先で築いた、遺蹟を中心に干渉と調査を入れて居る。

 今や、《高威界域》にも無い識の一片を追い求めるように」

「我々の気はながいとは申せ、効率が悪過ぎます。

 まして現在の《人界》で、天貴人が活動するには不都合、負う危険が多く、理にかなうとは想えません」

「私のような者に、狩り取られて果てるだけ」

「私も、隊長さんに狩り取られぬよう気を付けます」

「それは、お互い様だよ」


 目深に被る黒の頭巾から覗く、整い過ぎる口元が、愉快そうに一筋ほころぶ。


 言動をたがえたなら、旧知と言えども追い追われ、滅盡めつじんの対象となると知りながら。


 勝手知ったるシュレイフは、相変わらずのロゼルに、手元の風呂敷包みを向け一言を添える。


「御迷惑を、お掛けして居ります」

「これが総てでは無いんだろう?」

「残るは、『ロ=ダ』と『ヒューゲル=テーア』になります」

「グラーエンの遺失管理倉庫に手を出すとはね。蛮勇も、ここまで来ると呆れ果てるよ」

「内と外からの干渉による情報漏洩。改竄かいざん、移動操作の痕跡がありました」

「倉庫の鍵の水準は?」

「大本営会長陣、二番から六番。いずれか一名の承認印の発行です」

「桐条様の見立ては?」

「外部で精巧なが精製された上、門番が認証し通過の許可を与えたとの返答を頂きました」


 これは物理的な要因ではなく、質量のない情報を差していた。


「結局、網に掛かって白日にさらされたんだ。の仕業だとして、そこまでの痕跡があるのなら解決の目処も立って居るんだろう?」


 全グラーエンの情報統括を担い、その根幹である『オール』を運営・管理・操作等総ての権力を掌握する桐条の銘に、信頼の響きを預けるロゼルの言葉を受けたシュレイフは、嬉しい本音とは別に、髪一本の幅すら無い苦笑いを張った。


 その様子を察し、どこかで楽観視して居たロゼルが、姿勢と声の響きを正す。


「今、この場で言ってくれ。判る範囲で善い。何を抜き取られた」

「《人界》では、対応が難しい病理・生物・細菌兵装に関する資料です。

 丁度、あの様な……」


 ロゼル同様、空間に突然現れた物影が法則を失い、ゆっくりとで上半身を支え、いびつな拍子で、一歩。半歩。二歩半と確実に近寄る。


 見る側が酔いにいざなわれる、異様な動きで。


「あれは、そちらさんに所属する、行方知れずの天貴人じゃないのか。

 随分と様変わりしたものだな」

「かつて、ブロエの降下許可を所持していらした方に、間違いはありません。

 登録証明番号と銘、お伝え致しましょうか?」

「もう確認済み」

「さすがは、グランツァーク御自慢の情報統括機構『メル』と〝管制塔〟です」

「それは当然。彼らが居ないと、私は明日の献立も把握出来無い」

「豪勢な使い方ですね。は、こちらで回収致しますが、御了承下さい」

「もちろん、どうぞ。元々、そちらの天貴人だ。

 ただ、軸崩れを起こした上、《人界》では対応が難しい感染症を植え付けられて居る点については興味がある」

「残りの報告分と一緒に、添付しておきましょうか」

「宜しくお願いします」

「承知致しました」


 暢気のんきに情報交換をして居る双方のそばで、は当初持って居たはずの崇高な意志とは全く異なり、塗り替えられた最期の目的を果たすために、存在する事を赦される姿に堕ちていた。


 羨望の対象であったはずの容姿は、熟れて腐り堕ちても、大地の肥えにもなれぬあわれな飛沫を、在りし日の場所に求め、すがり付こうと鈍色の侵蝕しんしょくを切願する。


 閉塞された空間に穢れが満ちる中、ロゼルは視えぬ清流でそそがれる感覚に触れた時には、シュレイフの仕事は済んで居た。

 口訣くけつを放った訳でも、面妖な指運びを施した訳でも無い。


 は、害悪を撒き散らす事を絶たれ、次なる宿主を食い破り、生きるための尖兵として拡散していた因子は残らず、総てを回収され、を納める直方体の透明なひつぎの内に封じられてしまった。


「お見事」

「貴方が、お生まれになる以前からたずさわる仕事ですから」

「お見逸れ致しました。悪いな。洗浄まで世話になった」

「何を仰います。穢れに見立て封じ込める事は幾らでも叶いますが、私に数式を解く事は出来無いので、根本的な解決には至りません」

「そうなんだよなぁ。この方法では解決とは言え無いんだよな……。

 どんなに時間が掛かっても善いから、確実に痕跡を拾い上げて欲しい。頼むよ」

「お任せ下さい。必ずや、御期待に応えて御覧に入れます。あの子達の手前もありますから。

 廻くん、旋くん、お話にあった律くん。元気にして居ますか?」

「うん。変わりは無いし、こんなご時世だから頼もしい限りだよ」

「隊長さんに、そう言って頂けるなんて、あの子達が羨ましい限りです。

 私も、そんな風に言って下さるように精進致します」

「……だから、頼って居るし、告げて居るし、これ以上かつぎ上げるのは止めてくれ」


 出番が無かった愛刀と、白波柄の風呂敷包みを手にすると、公園の一角を一瞥して、憧憬を通り越した整い方をするロゼルの口元に、薄く笑みが咲く。


「ブロエのグラーエン〝分室〟も到着したようだし、失礼するよ」

「折角、お会い出来ましたのに。残念です」

「嫌でも会える。資料を揃えて持って来るんだろう?」


 手弱女たおやめに見える黒の手袋に包まれた指先を添えて、シュレイフは「確かにその通りです」と、くすくす細い肩を小さく寄せる。


 二言三言の挨拶を交換し、ロゼルは音も風も空間も立てず、その場から姿を消した。


 目視に入れた分室の面々は警戒を張ったが、程無くシュレイフの説明が入り、訓練済みの彼らですら驚愕の色が差す。


 シュレイフは、柔和に戻した微笑みを表情に乗せ、その点をあげつらう事はせず、例の対象の回収と公園を、日常へ解き放つ指示を行き渡らせる。


 遠くまで平らかな公園を見渡す緑の双眸には、憂う色が滲んで居た。





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