第二三節 公と、私と。士紅の場合。




 公休日の昼下がりは薄曇りの陽光の中。


 セツト区第一運動技場の公園区画に、数名の少年達が談笑を交わしている。

 彼らは、本日開催されていた全国中学校硬式庭球選手権大会の第一関門、地区予選大会を制勝した、蒼海学院中等科の選抜組。


 終えてみれば、その強さと技量に死角はなし。落日の帝王の姿は、どこにも見受けられなかった。


「ど~したんだよ、丹布。さっきから優勝メダル見ちゃってさ~」


 好奇心そのままを宿す、黒目がちな瞳をまたたかせ、都長は士紅との距離を縮める。


「ん? ……うん」


 生返事の士紅に、次は青一郎が歩み寄る。


 士紅は、いつもの事でケータイに応じるために仲間から離れた先に連なる、膝の高さ程の花壇のへりに腰を下ろして居た。


 いつの間に通話は済んだのか、白い手にはケータイでは無く、表彰を受けた際に大会委員から贈られた優勝メダルを収め、珍しそうに眺める。


「気になる事でもあるのかい?」


 柔らかく問い掛ける青一郎の声に、士紅は緩慢にかんばせを合わせた。


「何かの大会に参加して、こんな風に形が残る物を手にしたのは、初めてかも知れないなぁ。と、考えて居た」

「へェ!? 意外だな。お前ならバンバン取ってる感じなのに」


 試合や運動時は、背中まで伸びる金糸の髪をポニーテールに結わえるメディンサリも加わり、思い切り驚いて見せる。


「想い出せ無いから初めてだ。そう言う事にしよう。存外、もらえると嬉しい物だな。

 ……うん。やはり、別格で嬉しい」


 普段、無表情でどこか遠くを据える雰囲気が周囲との隔絶の幕を落とし、浮き世離れする場所に在る印象を与え続けた士紅が、初めて年令相応の幼い笑顔が、らすように開花する。


 奇しくも花壇には白や赤など種も色彩も綾錦。

 八重咲きの豪奢ごうしゃ牡丹ぼたんが見頃を迎え、士紅が背負うと、勝るとも劣らぬ競演が展開される風景。

 見る彼らの感性が、異境に飛び去る思いを引き留めたのは、士紅の言動に少々耐性が付き始めた、昂ノ介の一言だった。


「それは良かったが、これで満足してもらっては困る。

 我々は全国を制覇し、優勝旗を手にするのだからな」

「旗か。それは是非、手にしてみたいな」

「……メダルの数も表彰状も増えるぞ」

「楽しみですね。丹布君」

「物が増えるのは困る」

「どっちなんじゃい」


 気付けば、仲間が全員揃って話を囲む。

 彼らの談笑を、似紅の双眸に映し取りながら士紅は想う。


 本当に、善いのだろうか。


 白く見えるだけの穢れ切る手に、彼らと同じ物を持っても、ゆるされるのだろうか。


 士紅は、誰かが触れて傷付いてしまうくらいなら、先んじて穢れに障る生き方を選んだ。

 役割や思考さえも委託し、美しい物だけがそばにあって、手に取るだけの生き様なら、どれ程に救われるのだろうかと、白昼夢を望んでしまう事もある。


 だが、それは士紅が選択した願いからは程遠く、一番に切り捨てた世界だった。


 身の上を考えると、避けては通れない思惑の一つに捕らわれてしまい、メダルを持つ手が、座る腿に沈む。

 合金の安物の質量が、支え切れ無いくらい重く感じてしまう。


 その様子に何かを察したのか、話の輪を抜けた青一郎が、えて踏み込む問い掛けを、士紅に置いた。


「丹布君は、どうして、こんなに庭球が上手なの? 誰かに、教えてもらったのかな」


 青一郎の問いは、途切れなかった彼らの話を封じさせるには、十分過ぎる内容だった。

 誰もが、その役を買う事を体よく回避し続けていたのだから。


「普通さ、こんなに上手だったら大会に出て、力量を試したくなるものでしょう?」


 青一郎が、更に踏み越える問いを重ねる。

 似紅の視線が黒を捉え、整い過ぎる容が向き直る。


 舞の一手か。芝居に似た仕草が、何かの隔たりを画す空気に全員が注視した。


 語るのか。誤魔化すのか。このまま、長久の沈黙を敷いてしまうのか。


 士紅も浅慮では無い。仲間が、己の不自然な言動に触れずに、見守ってくれる奥ゆかしさに甘んじる自覚はある。

 この甘えによって、今も多くの相手を傷付け、相手の幸いを黙して祈りながら幾つもの縁を手放して来た。


 青一郎の黒色の視線は、真っ直ぐで、あの日と同じ揺らぐ事のない、真摯な強さを隠さず、似紅の双眸を射抜く。


 すると、士紅は回想せずには居られなかった。




 ○●○




 青一郎は、怠惰を許さない。


 深歳が監督に復帰し、選抜組が始動する早春の頃。


 コート脇のベンチで部誌を書く途中で、士紅が寝入る。


 気付いた千丸が、冗談混じりに昂ノ介へ合図を送ると、案の定、怒る昂ノ介による鉄拳制裁が振り下ろされるが、士紅は最小限の動きでかわしてしまう。


 入れ替わるように現れたのが、なみなみと水を張ったバケツを手にする青一郎。

 部誌を昂ノ介に退避させ、バケツの中身を空にした。屋外練習場に響き渡った跳ねる音。


 真水の行き先は士紅の全身だった。


「目は覚めたかい?」

「……お陰様で」

「今は部活中だよ。いつ流れ球が飛んで来るか分からないのに、こんな所で寝ていたら危ないよ」

「申し訳無い」

「本当に体調が悪いのなら、水を掛けた事を謝る。

 保健室に行くか、早退したら?」

「至って健康だ」

「そう。練習をしないのなら、帰ってくれないかな」

「眼は覚めた。練習に参加させて欲しい」

「じゃあ、着替えが済んだら、練習場周りを部活終了まで走り込み。

 明日から一週間は、球拾いをやってもらうから、そのつもりでね」

「はい」


 暦では春を迎えてはいるが、冷える空気は冬の気配が残る。


 水滴を這わせ濡れ細る士紅の姿と、苛烈な部分を秘める生まれた頃からの親友に挟まれ、無言で見守るしか出来なかった昂ノ介は、静かな様子とは裏腹に、落ち着かない気分を持て余していた。


 明らかに動揺していたのが、離れた位置で見物状態だった、一人を除く他の選抜組。


「き、厳しくない~?」

「……退部を言い渡されないだけ、良かったと言える」

「退部って……、それこそ厳しくねェか」

「……丹布も同じだと思うが、青一郎も庭球に対する思いは強い。

 どのような理由や事情があろうと、聖域コートに入った以上、条件は万人に等しく負わされる」


 都長やメディンサリの助け舟も、礼衣には通じなかったばかりか、忠告はなおも続けられた。


「……特に、丹布ほどの技量の持ち主が、居眠りしていても最強だと周りに思われては志気に関わる。

 選抜組だからこそ率先し、努力を惜しまぬ姿を示す必要がある。違うか?」

「確かに、その通りですね」

「……その辺りは、丹布も心得たのだろう。

 昂ノ介の鉄拳は反射的に避けたが、見えていた水バケツは受けていたからな」


 濡れ鼠の士紅が、部室に向かう風景を目で追う千丸に、礼衣は気付いて補足する。


「……千丸が指摘するまでもなく、昂ノ介は鉄拳制裁に出たし、青一郎は水バケツをお見舞いしていた。

 気に病むことは何もない」


 見透かされたのが悔しいのか、千丸は小さく息を吐いて顔を明後日の方を向けたが、その態度は肯定したも同然だった。


「……青一郎は、怠惰な者を許さない。皆も気を付けろ」


 この警告には、誰も反意を現す事なく了承の返事を口にして応えた。


 何故なら青一郎のそれは、負い目も感情による暴走でもなく、全ての善悪を責められる覚悟をもって、一貫する真摯な姿勢を崩さない。

 誤解や猜疑さえも受け入れる事を、是とする堅い決意を込めた目が物語る。


 青一郎の、庭球に対する一途な思いを、そのまま映していた。




 ○●○




「そんな、世界の終わりを選択したような眼をするなよ。

 そこまで構える必要あるのか?」

「実際、このくらい胆を据えないと、聞き辛いよ」


 青一郎は士紅の自嘲気味な様子に、ようやく警戒を解いた。「そうか。そうだよな」と、かすかに口を動かし、おのれに言い聞かせた士紅は、おもむろに語り出す。


「口に出さ無くても、伝わるなんて幻想だったな。

 判ってもらえると甘えてしまうんだ。それで怒られて、なじられて、心配ばかり掛けて居る。

 そうだとしても、返答出来る事には応じるし、事と次第によっては応えられ無い。

 それは、皆も同じだろう?」


 一同はそれぞれに、何が言い放たれようと、衝撃に耐えるために頷き、黙し、備える。


「庭球を覚えたのは、この場所では無いんだ。他の経済圏。

 教えてくれた人は、珍しい病気に罹患りかんして居て、出逢って数年で死別した」


 言葉を選んでいる割には、士紅の口調は事実を淡々と語り、感情も乗って居無かった。

 過去の話を読み聞かせる音だけが、仲間の聴覚へ情報として伝播する。


「上手かった。誰よりも。私の庭球は、あの人の写しだよ。

 姿勢も、手段も、視線の遣り方も総て。世界で一番の庭球を受け継いだ自負がある。

 ならば、負ける訳にいかないだろう? 私は、この性格だからな。

 何よりも負けるのが怖かったし、誰かと比べるのは、正しい事だと想え無かった」


 士紅は再び、手元のメダルに視線を落とす。大切な記憶の端を語る破片を選ぶかのように。


「私は、前に進みたい。あの人の問いに応えるためには、庭球場に戻らなければならなかった。

 負けるのが怖いなんて、考える余地など無いんだよ。

 私は……」


 花壇の縁に過去を預けて居たが、士紅は己の意志と四肢で立ち上がり、仲間を視界に収め宣言する。


「相手が誰であろうと関係無い。今の私は、負けられ無い理由がある。

 どのような条件下だとしても片腕一本、脚一本が残りさえすれば必ず勝つと意を決して、私は庭球場に戻った。

 戦って、あらがって、あきらめ無い。ただ、それだけの事だ」


 士紅の声、言の葉を受け、仲間は脳の髄と言わず理屈や経験の層を貫き、走り抜けた何かが根幹に届く。


 この期に及んでさえ、士紅に表情の波が立つ事は無かった。

 繰る言葉や情感に呑まれもせず静かに、平らかに締めくくられる。言葉の裏を支えるのは、筆舌にも現せるはずも無い、確志そのものに等しい。


「戦って、抗って、諦めない。まるで、『あかときのうた』の一節ですね」


 仲間の誰もが、士紅の言葉の一つ一つを、腹の内側で復唱する中で、蓮蔵は思いを馳せ、万感を込めて口を開く。


 『あかときのうた』とは、士紅が出身地と答えたロスカーリアに流布し、深々と根付く世界新生の叙事詩。

 生まれたての赤子が子守歌代わりに耳に入れ、聖堂の浮き彫り細工に触れる頃には、息をするように祈りを捧げ生き様をも律する教義の主幹。


 偶像崇拝、外部経済圏への布教を厳禁する教えを、『シャンナ正教』と粛々と謳う。


 宗教は伝わらないが、叙事詩はグランツァークの席巻と共に演劇・歌劇へと変遷し、装いを新たに厳格な審査の下、図らずも徐々に浸透する結果に至る。


 モルヤンにも、善悪二種類の絵本から召喚される怪物達が織り成す子供向けのアニメーション。

 青年漫画、歴史に消された歌劇に、息遣いを宿すとの蓮蔵の説明に、『あかときのうた』への興味が広がりを感じさせる頃には、離れた位置から良く通る野太い声が彼らに届く。


 商社程の堅さもないためか、すっかり動きやすい、初夏の社会人姿の日重とルーフスが、やや足早に距離を詰める様子が窺えた。


「やあ、ゴメンゴメン。待たせちゃって」


 早過ぎる準決勝・決勝戦の終了時間。

 交通渋滞に巻き込まれた日重の事情が合ってしまい、少々彼らは取材待ちを体験していた。

 二度目の顔合わせだが、初見での印象や、何よりも深歳が信頼を置く日重達に、彼らの態度は和みを示している。


 軽い質疑応答と賑やかな記念撮影が済むと、礼衣が日重に尋ねたのは、今年の連堂中等部の仕上がり具合だ。


「残念ながら付け入る隙がないね。不自然なくらい」

「……妙な言い方ですね」

「数年前からたまに感じるんだが、だまし絵を見せられている感じ。

 確かに上手くて強いんだ。でも、ちゃんとしているのが至極数名。

 それと、気を付けて欲しい選手が一名。

 四年生の『フレンヴェイリ=ハーネヴェリア』。ついに、壊し屋の通り名が付いてしまった、パワープレイヤーだ」


 肩掛け鞄から紙の束を引き出し、付箋紙を目当てに捲り上げ、彼らに顔写真入りの資料を見せる。


 寄って集まるその視界に入れたのは、証明写真だと言うのに顎を上げて見下す、ルブーレンの少年。

 目を合わせる相手を小馬鹿にする表情をしているが、メディンサリとは、また異なる方面の貴族然とした顔立ちだった。


 顔写真の正体を知る深歳は、明らかに厄介者を見るように眉をひそめながら、日重の言葉を拾って答える。


「彼は、連堂中等部に流れ着いた訳ですか。ご想像の通り問題がある生徒ですが、家名もあって下にも置けない。

 何とか、体面だけは保ちたいんでしょうね。公立ではありますが、ゲーネファーラの一統いっとうが、強大な影響力を持っていますからねェ」

「社交界でも有名ですけどね。この人」

「はァ~。確かにのゥ」


 既に、大人社会に引きずられる千丸とメディンサリは、隠しもせずうんざりと毒を吐く。


 それをたんとして、少年達が口々に情報交換の輪を広げ始める。


 士紅は仲間の声を背景に、気を休めて居た。

 不意に、昂ノ介が少し間を置いた場所から、手招きする合図を視界のすみに入れ、迷わず従う。


「青一郎の意を汲んで形式上、丹布に伝えておく事がある」

「待ってくれ」

「どうした」

「……この流れ、もしかして説教が始まるのか?」

「そのつもりだ。お前の事情に立ち入るつもりはないが、同級生に、サボっていて何故に注意をしないのか問われる事がある。

 既成事実のため、厳重注意を掛けなければならない」

「真面目過ぎるだろう。そんな必要は……」

「そこだ」

「な、何が?」

「こちらは、至って真面目に丹布と向き合っているつもりだ。

 先程の話の通り、言いたくない事も多々あるだろう。その中で、学校生活とは……」


 滔々とうとうと流れ始めた昂ノ介の言葉の連鎖は、その勢いを削ぐ事が困難になってしまった。


 士紅は、何とか口を挟もうと機会を待ち、果敢にも言動に移そうとすれば、睨み返され語気も強く「黙って聞け!」と圧で伏せて来る。


 この時ばかりは士紅も早々に、戦わず、抗わず、諦めた。


 士紅は神妙な面持ちで、昂ノ介の、滾々こんこんと溢れる説教を聞き入れながら、やはり気取られぬ淵玄で、こぼさずには居られ無かった。


「おかしい。何故に私は、立場も名前も体格も違うのに、これ程までに説教を懇々と食らうんだ? これで『春さん』が揃うと、大変な事になるな」


 例えば、天貴人に与えられ、名乗れる銘はただひとつ。


 例えば、天貴人に与えられた姿形は不変。


 例えば、同位軸に同一の天貴人が複製される事など有り得ない。


 士紅は、優しくも凄惨な常識によって、堅固に護られた箱庭の内で、相手を都合善く厳選の上、見合う情報と言う名の割り符を与え提示する。


 『丹布士紅』と『ロゼル』を遣い分け保身と保安を敷く。


 それは、蜘蛛の糸よりも細く、える事の無い舞台で、偽りを演じ続ける哀れな三文役者の姿に等しかった。


 士紅の負う事情の総てを把握する者は、『沈め続ける彼女と、掲げ続ける彼』のみ。


 『彼女と彼』より他に叶う存在が士紅をったのならば、世界の均衡は大きく揺らぎ、あらぬ結末へといたらしめる。


 それを士紅は、識り過ぎる程にわきまえて居た。


「……っふふふ」

「……何が可笑おかしい」


 説教中、黙して居た士紅が、小さく笑う様をいぶかしむ昂ノ介は、動かし足りない口元を結び、出方を見極めようとする。


「有り難いなと想った。

 貴重な時間を割いて、憎まれ役を買ってくれるなんてさ。

 説教だろうが何だろうが、こんな風に構ってくれる内が、華だなと感動した」

「また、そうやって話を折ろうとするな! 丹布! そもそも、お前はだな……」


 分かりやすい昂ノ介の照れ隠しと、聞き覚えのある説教の再開に、端正な容に表情が浮きそうになる士紅は懸命に耐える。


 それは、場面に反して微笑ましい時間と空間を共有する、得難えがたい仲間達や顧問、偶然にも居合わせた記者達も同様だった。

 

 初夏を迎えた陽光は眩しさを増し、季節の巡りを迎え、移ろう事を赦された。


 彼らが馳せる願いは青嵐となり、優勝旗へ届くと確信しながら、なだめ、救出し、囲んで破顔する。


 日輪の落とし子のように。






 ── 第一の幕・幕切れ ──

 

 




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る