第二一節 簡素な肩書きを名乗らせる相手は、極めて要注意なのだと言う典型的な事例。
流れも鈍い
確実に潜む多種多様の生命の
夜行性の捕食者が漂わせる音も塗り潰す、月明かりもない夜。
木々の根や堆積する腐葉土に時折、見え隠れするのは、かつての人工物を、彷彿とさせる残片。
「結局さ。事態の改善が、どこにあるんだ。幻想を持つのも大概にしろよ。いつまでも構って居られるか」
その何かは、音の言葉を虚空に突き放す。
<……んな事を
印と御面相の情報送信しますんで>
「はいはい。判りました」
<隊長>
「何だよ」
<何故、地図をそんな風に向けちゃうんですか。海岸で磯遊びでもするおつもりで?>
「そっちの方が善いな。予定変更しない?」
<構いやせんぜ。拝見する我々が
言葉を吐く者の気配は、手にする端末の電子光によって照らし出され、淡い形容が浮かぶ。
それでも深い時間と常緑の天幕は、声の主を払わず離さない。
電子の板に変化が生じる。何かの、絵図面の角度が微調整され、光源の移ろいに、模様が輪郭をなぞる。
「地図の向き、そっちだったのか。……この大将が、戻って来たとはねぇ。『エフエオフイ』は、居心地が悪かったんだな」
画面が素早く点滅し、老若男女の顔と簡易情報・処遇が消えては現れ、更新される。
常人では、識別不可の速度にありながら、声の主は事も無く把握する。
「仕方無い。そろそろ時間だし、着手するかな」
<モルヤン公式時間一七〇二。現地ブローム・ナトス時間〇〇一二。
行動開始予定時刻まで三分。くれぐれも、作戦範囲内に
「承知。あぁ、そうだった。ジルと『源緒』の、第二種戦線を解除する」
<またそんな急に。『長官』が、頭抱えやすぜ?>
「それが〝お仕事〟だろう」
<承知致しやした。この先の集落の回線は、総てこちらで押さえやしたので、好きにお使い下さい>
「いつもありがとう。助かる」
<それが我々の〝お仕事〟です。痛み入りやす>
光源の端末を収めると、再び夜の森閑に閉ざされる。
虫の鳴く声すら立たない、不気味過ぎる不自然な空間。夜行性の大型肉食獣も生息する、熱帯地方の密林を擁する島々の一角。
いつ襲われても不思議では無い状況に立つ影は、生い茂る草や枝葉と闇の向こうにある多数の熱源を目指す。
迷い無く、脚取りも確実に、状況にすら臆さず移動を開始した。
虫も、活動期の肉食獣も、見えざるモノすら押し黙らせ、その結界に立ち入る事など許さぬ気配。
血に飢えた捕食側が、獲物を定め静かに距離を詰めて居るように想わせるが、実の所、厄介事を粉砕するために、一歩。また一歩を進める意志を持つ災厄が、
その姿は、宵闇に浸り不可視だった。先程の、通信相手以外には。
●○●
旧世代の不便さと、放つ臭気が理性の崩壊を
屋外用の発電機が、あちらこちらで、けたたましい唸りを上げ、窓らしい窓もない木の板や錆が浮く、トタンが貼られる家屋。
果ては、道と言わず場所も構わず、ヒトの皮を被る獣欲に溺れた肉塊達が、屋根や柱を渡る有電線に下がる、色とりどりの電球に照らされる。
嬌声とも怒号ともつかない肉声は、点在する情報画面や、音声拡張機と交錯し、ある意味において趣深さを漂わせていた。
この場所に良識や倫理など存在せず、享楽と好奇心の
外部の尺度を押し付けられた、枠組みに当てはめるなら、違法手段を資金源に、手厚い庇護を受ける犯罪集団、協力者、被害者の集落だ。
モルヤンには、四大歓楽街が指定されている。
歓楽街とは名ばかりで、自由と違法で満ちる危険地域。
踏み込むのは自由だが、そこで何があろうと、自己責任を堂々と押し付けられる、無法の都。
ここ、ブローム・ナトス群島は、全体の九割を犯罪集団に
かつては、大小の島々が織り成す、風光明媚な観光地として、多くの高級保養地が整備され、人々の心身を癒やし、現地の特産物は世界から人々を呼び寄せた。
今は、
●○●
「ガキは、大人しくなったのか」
「ええ、もうそりゃァ夢見心地でしょうよ。良い薬と、何人も相手にしたんですから」
裸電球が照らす部屋には、見るからに上下関係が隔てる男二人が、確認と状況を交わし合う。
粗末なソファーに腰を下ろし、厚い刃物を慣れた手付きで
「今日も、暑い夜になりそうだなァ、おい。お貴族様も、相当楽しんでるみてェだ。
外の世界ってのは、本当に詰まらん事で溢れているんだな」
立つ男が、合わせるように薬物で染まる歯を見せながら下卑た笑いを撒くと、
地方局番組の軽快な音楽が流れていただけに、二人の顔が画面に向く。
どこか見覚えのある場所が、大量の赤で投げ塗られていた。
微妙な誤差に混乱していると、画面が赤から、黒に切り替わる。
「やぁ。見て居るか? デディアハ=デテン」
黒い画面が口を開いた風景を、男達は驚愕した面持ちで視線が縫い付けられた。
画面越しに名を呼ばれたのは、事実上このブローム・ナトスを支配する頭目。
粗末なソファーで、厚い刃物を手にしている男だ。
「生意気だな。こんな所に、結構上等な放送施設があるじゃないか。
丁度善かったから、利用させてもらったよ」
撮影機材から身を引いたのか、像が現れる。それでも黒っぽい何かだったが、気付いた点が二つ。
画面の像が語る会話に合わせ、同時通訳の字幕で数種類の言語が流れて居る事。
屋外の音声拡張の放送も、画面と同じ声でルブーレンの言語が流れて居る事。
やや高く芯に艶のある低音。穏やかで張りが込められ、注意を集める響きは、この世界にあって異質に浮き上がる。
「説明が面倒だから、端的に告げる。
今から十分後、この集落を粉砕する。死にたく無い奴は、集落の境界線から退避しろ」
一方的な宣言に、正気を保つ人々から、悲鳴や
誰も確認出来ない、暴言の説得力と緊急性は、何故か危機意識に届いた。
「実はさ。自社の携帯汎用型の、指定範囲高振動粉砕兵器の性能実験したいんだよ。丁度、善い機会だ」
屋外の混乱は続く中、デディアハ=デテンは、無意識に手の平で口元を覆う。
「デディアハ=デテン。約束は覚えて居るか? そっちが覚えて居なくても関係無い。
この次、私の視界に入ったら、殺すって言ったよな。果たしに行ってやるよ」
画面の中の相手が、放送機材に向いた。デディアハ=デテンは、ようやく画面を冷静に観察し始めた。
さすがに全身は見え無いが、黒の頭巾を目深に被り、鼻先と口元しか窺えず、隙間も無い黒一色の装い。
熱帯の夜。閉じられた空間に、機材が通電する熱源がある室内で、異様としか思えない格好だ。
頑強な造りの通信施設は、デディアハ=デテンが
しかも、常に武装する私兵が囲んでいるはずだった。
最初に見えた、あの赤。切り替わる黒。
画面は今、揃えられた白に包まれる指先が、凄まじく整う唇に沿って、水平に横切らせる仕草をして見せると、画面が暗転し沈黙した。
「お頭……。あの黒いの、知ってるんで……」
傍にいた男が尋ねる先には、見た事もない頭目の表情。茶色の目を血走らせ、過呼吸を繰り返す姿。
窓枠だけの空間からは、情け容赦を排除した、死を予見させる銃声に怒声。錯乱による勘違いの勇気に染まる一撃。
それらが境目を失い、臭いと音が絶え間なく押し寄せる。
●○●
あの時も、そうだった。
黒一色の陽炎達は、デディアハ=デテンの一党を、絶望的な戦力で圧殺した。
理屈も理由も
五体が砕けているとしか思えない激痛の最中、地を舐めるデディアハ=デテンの狭い視界に、塵一つの曇りも無い、黒い靴が映り込む。
動く視線を上へ這わせると、整い過ぎる口元しか見え無い黒装束。状況が故に、異国の死の神を思い起こさせる。
「今日の、この日を忘れるな。二度と、私の視界に入るなよ。次は殺す」
黒装束は、デディアハ=デテンが離さない、厚みのある使い込まれた戦闘用の
あれから、何があったのか分からない。
あの時に受けた一方的な
最後に受け、口に沿う横一線に走った、両頬に残る醜くく腫れ上がる、赤黒い線以外は。
●○●
逃げた。
デディアハ=デテンは逃げ出した。
傍にいた男を感慨も挟まず割り殺し、居室の隠し通路から海岸の船着場、もとい脱出路へ向けて
地上の土の匂いがする路面とは違い、近代的で平らな化学構造の頑強な床や照明に、駆け走る靴音が通路に乱反射する。
息も絶え絶え、例の口元は彼の唾液や分泌物で
拭う間も惜しみ、電子施錠を解除するための鍵を、
金属と樹脂が小さく立てる音に、新たな音が不意に彼の前方で重なった。
開くはずのない、脱出口の二重扉が上下左右に解放され、黒一色を
「ハッ……、ハッヒョアアアアァアアァァァ!?」
デディアハ=デテンは、胎内から出て、初めて息をした赤子のような決死さを、形相と共に呼吸を再開させた。
「一発芸なら間に合って居る」
黒い来訪者の冷静な一言に、彼はその場で腰を、生きる芯を砕かれ、着の身着のままの様相で、床に座り込んだ。
「どうして……、オレやオレの居場所が分かるんだ」
「そんな事、既に承知済みだろうに。私には常に〝管制塔〟が控えて居る。
デディアハ=デテンの、子種一粒の行方さえ把握可能だ」
「……いいのかよ。そんな事を認めてよォ。
アンタ達は、誰の目にも留まらない。名乗りもしない、最悪の集団のはずだ」
「判って居るのなら、そもそも偽者を名乗るなよ。
それさえ止めておけば、長官の癪に触れず、御商売を続けられたものを」
「誰だよソレ」
「我々の飼い主を買って出てくれた者だよ。
正直、私はデディアハ=デテンのような存在は、嫌いでは無いんだ。
生活臭が立ち込める、旧世界の文明に付属する懐古を、生きたまま保存してくれる生き証人だからな。
そこに在る生きた欲望は、とても素直で飾りの無い原初の姿だ。
一層の事、美しいとさえ想う」
意外な言葉に、彼は残された気力で首を伸ばした。
その長身は靴底も足せば、五ピト(およそ二メートル)を越える。
そこから見下ろされる表情は、整い過ぎる口元しか窺え知れずとも、不快感は見受けられ無い。
歴戦の
「それかよ。オレが死ぬ理由ってのは」
「まぁ、他にも色々ある。私の気も変わったしな。
人の欲望よりも、自然の美しさを多くの人々に共有して欲しい。
それを可能にし、存続してくれる相手も見付かった。
要するに、選手交代だ。悪く想うな」
「……そうか」
「一番
幼い頃、
──ならぬならぬ。越えてはならぬ。紅の八塩のひもろきを。
ならぬならぬ。越えてはならぬ。『大神様』が
「アーレイン=グロリネスの逆鱗に触れたのも、致命的だったな。
もう諦めろ。悔いも何も、残して居無いだろうに」
黒一色だと思い込んでいた彼だが、最後に見えたのは、左上腕部の赤い部分。
怪我をしているのかと考えたが、慣れた匂いも滴りも無い。赤い布を巻いて居るのだと知覚した頃には、黒一色の長身は、彼を置き去り、彼が来た道へと戻って行く。
「殺さないのか?」そう、問い掛けようした口が、古傷に沿って割り裂ける。
傷を越え、更に裂け目は、奥へ奥へと侵攻する。
声にならない声は、やがて気泡を含んだ空気が抜けるだけの音と化す。
今に味わい尽くした、快楽を越える何かが、残る感覚に疾走し、初めて悔いが湧き起こる。
「ああ、オレはあの時、
●○●
<通り過ぎてますって。六歩お戻りになって、右側の扉を開いて下さい。
右ですぜ、右。緑色の扉です>
例の黒一色の長身は指示のまま従い、標的を確認する。
一見すると、豪奢な『シシュトーヴ王朝時代』の調度に囲まれる一室だが、四方八方を死角のない、撮影機材にも囲まれている。
「これだよな」
<間違い御座いませぬ。回収指定〇〇三号です>
最初に話をして居た相手とは、口調から異なる声が応える。
「火関では無いが、正直、触りたく無い。病気を移されて居るし、それに……」
<お急ぎ下さいやしよ。隊長
残り時間は、二分丁度ですぜ>
「手の掛かる元先輩だな。シグナの話を素直に聞き入れておけば、こんな……」
<隊長、差し込み口から情報回収して下さいな。本日、お箸を持って居られた方向にありやすから>
「そこまで
少々不満を零しながら、その長身を沈ませ、目的の箇所に情報回収媒体を挿し入れる。
「何が
<人様の心理と真理は、辿り着けぬ深淵の先に御座いましょう>
「着いた所で、分かち合えるとは想え無い」
<回収は終了致しやした。お戻りまでは、お気を付けられますように>
「承知した。これより作戦の終了を見届けた後、『シユニ』の巣へ帰投する」
<洗浄準備も整えて御座います。お待ち申し上げます>
通信らしき会話を終えると、黒一色の長身は意を決して、回収指定〇〇三号を片手に抱え、
●○●
公式経済圏の大双璧の一枚。
グランツァーク財団には、最凶最悪の私設武装強襲集団が設置され、グランツァーク財団の利益に関わる総てを死守する
残虐非道な言動は噂だけが先行し、名称を聞くだけで戦慄する者。嫌悪感を露わにする者。媚びを売る者。暗殺を試みる者。
接触を求める者の頂点に立つのが、この黒一色の長身だった。
軽く〝隊長〟と呼ばれはするが、正式には『グランツァーク財団御預かり清掃局私設武装強襲集団・黒の群狼・ミスクリージのアラーム=ラーア』。
詰まりは、「居ません」と言われた方が、納得が出来る程の大物中の大物の〝天貴人〟。
一方、グラーエン財団にも、特殊な領分で行動する編成が存在する。
「勘違いでは?」などと返される方が安心する立場を持ち、『特殊行動局分室班』の中でも、グラーエンを名乗る事を許され、活動する数名の〝天貴人〟も、このモルヤンに縛り付けられて居た。
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