第十六節 唇は、青少年の魅惑の入口。




 運動部にとって、緒戦の入口に当たる地区大会が見え始めた、ある日の中休み。


 士紅は部誌を届けるため、青一郎が在籍する一年四組を訪ねるが、機が会わず隣の五組に移動した後だった。


 数歩で、目的地に着いたのだが。


「ねェねェ、昨日の『おとうた』見た!?」

「見た見た! 『稲津 クロモ』の『未来を信じない僕達』でしょ!? もう、すっごく良かったー!」

「アタシなんか泣けちゃってさー。すっごく、感動しちゃったわー」

「でしょでしょ!? あれ聞いて泣かないなんて、人としてどうかと思っちゃうわー」


 地上波番組の感想で、盛り上がる女の子達に、教室の出入口を塞がれてしまった。

 士紅は構わず、その位置から窓際一列の前方、昂ノ介の席にいる青一郎に呼び掛けた。


「お~い、在純。監督から、部誌を預かって来たぞ」

「ゥわッ」

「び、びっくりしたー」

「おっと。悪かった」

「そんな入口で声を出さなくても、入れば良いのに」


 言いつつ、困ったような笑顔を浮かべ、青一郎は律儀に士紅に向かって歩み寄る。


「あ、すみません。アタシ達、邪魔してて」

「別に邪魔って程では無いよ」

「……在純君、この人、部活の先輩?」

「違うよ。一組の丹布君。覚えてないかな、入学式で新入生代表で挨拶していたのに」

「え? そうだったっけ?」

「何か、背が高いし、迫力あるから先輩かと思っちゃった」

「はい、部誌」

「ありがとう」


 教室の出入口で話をしていた女子生徒達が、何やら色めく噂をしている。

 しかし、拾いもせず一連のやり取りの後、青一郎と士紅は、昂ノ介の席付近に集まる、仲間の一部に合流するため近付く。


 本人の机上に積まれた、意外な物を認めて士紅は声を立てる。


「珍しいな。柊扇が漫画を読むとは」

「おれの物ではない」

「あ~、それ、おれがメディンサリに借りたんだ。ルブーレンで大人気の〝魔法遣い〟の話。

 この主役が、一々いちいち破天荒で面白くてさ~」


 都長が、一冊手に取って読んでいた背表紙を士紅に見せた。『黒い狼達──巻の参──』。ルブーレンの言葉で書き記されている。


「丹布も何か読むか? 別の漫画を持って来てるしよ。読んでると絶望するくらい落ち込むけど、絵や描写が細かくて綺麗なんだ。

 でも、柊扇に進めたら、即、持って帰れって言われた」

「漫画を卑下する気はないが、おれは小説の方が良い。丁度、佳境かきょうに入って、読み進めたい所だからな」

「何を読んでるんだよ」


 士紅も漫画を無碍むげにする気配は無いが、どこか話題を変えるために、昂ノ介へ話を向けた空気が立つのは、気のせいだろうか。

 空いている椅子に座る礼衣は、そっと士紅を観察する。


「『椿姫の唄』だ。この間貸した『阿形物語』に出ていた、〝与ノ更 蔵次〟が主役になっている」

殿しんがりを買って出て、最期の奉公を示した侍か」

「その通り」

「そっちの話も、面白そうじゃね~の。漫画にしてくんねェかな」

「だったら、まず小説の方を読んだらどうなんだ」


 小説派と漫画派が語り合う様子を、穏やかな黒い瞳に映していた青一郎に、士紅が話掛ける。


「在純は、何を読むんだ? 柊扇や火関と同じ歴史物?」

「あ、それはあまり読まないよ。純文学や、ヤトモロ時代の古典文学かな。柔らかい言葉が好きなんだ。

 丹布君はどう? 好き?」

「うん。好きだよ。『キサ子のうた』は、今に残る名作だもんな」

「あはッ、おれも好きだよ」


 このやり取りに、昂ノ介と礼衣が目配せした。

 先日の〝魔女〟と同じ方法だ。都合の良い言葉を引き出したのしんでいる。この先へと踏み入れてしまえば、悪い未来しか描けなかった。


 在純は、柊扇・火関の本家筋に当たる。


 幼い頃から、家名よりも本家を第一に支えるよう教育を刷り込まれた。自らを「先祖から受け継いだ遺伝子を、子孫に運ぶ手段でしかない人生を辿る容器」だと受け入れている。


 たかだか、十数年しか生きていない子供が。


 正しい、間違っていると言う次元ではない。彼らには、何より最優先しなければならない現実だった。


「……在純の笑顔って、意外に可愛かわいいな」

「え? 本当に? 嬉しいなァ」


 士紅の言葉に応えた青一郎は、仄暗ほのぐらおりさえ払拭する、陽光を宿す飛び切りの笑顔を浮かべた。これ程、見事な破顔一笑はない。


 厄介なのは、この二名が、どこまで本気なのかがはかれない事だ。

 昂ノ介と礼衣は、次第によっては手を打つ必要がある。腹の内で、同時に考えていた。


 証拠に、都長やメディンサリも読書を止め、呆気あっけに取られている。


「そうだ。近くの中央図書館に、与ノ更蔵次が、松林で舞っていた原曲が載っている芸能書があるんだよ。持ち出し禁止の本だから、ちょっと不便だけどね」

「興味あるな」

「部活の後って、時間空いてる? 良かったら案内するよ」

「行く。丁度、読みたかった本が戻って来る頃だから」

「……我々も、加えてもらえるだろうか」

「うん、もちろんだよ。都長とメディンサリも一緒に行かない?」

「おれを、〝我々〟に入れないで~……」

「おれも……。文字びっしりの紙を読むのは、家の用事だけで勘弁して欲しい」


 都長とメディンサリは、弱々しく辞退し、大好きな漫画の世界に短い癒やしを求めた。




 ○●○




 陽はすっかり傾き、街の施設、車道、歩道もあかりは煌々こうこうと人々を照らす。


 およその大人達も仕事を終え、帰路や交遊に繰り出す時間帯だが、中高を問わず様々な制服姿の学生も溶け込む。


 二階に、『サンローア』が入る施設は、店の人気や時間帯も手伝い、店内に流れる軽音楽が、掻き消される程に込み合っていた。


 サンローアは、公式経済圏の一翼をになう、グラーエン財団が直営し、世界展開する珈琲コーヒー飲食店。

 双頭の白獅子のトレードマークは、グラーエン財団の社色の黒・白・青が配される。


 珈琲に加え、現地の嗜好しこう飲料、えるに相応ふさわしい接客。飽きさせず、季節に合わせた質の良い商品。くつろぎの場所を厳しく管理され、保持された。


「有意義な時間だった。うん、満足」

「閉館時間まで過ごしてしまったが、大丈夫なのか?」

「心配するなよ。年頃の、お嬢さんじゃ無いんだからさ」

「お待たせ~。こっちが丹布君の紅茶のラテ。特級クラームスを、たっぷり入れて貰ったからね」

「ありがとう」

「……昂ノ介、受け取ってくれ」

「ああ、悪いな」


 クジで負けた、青一郎と礼衣が買い出し係となり、店内飲食のための飲物と軽食を手に戻って来た。


「……丹布も、この時は紅茶なのか。この二人は珈琲派だから、いつも肩身が狭くてな」


 街の夜景が見える窓に面した四人掛けの席。

 援軍を得た気分を含めた礼衣の言葉に、隣の席に座る士紅が握手を求めて、右の白い掌を差し出す。

 整い過ぎる顔立ちに、「仲間、仲間」と書かれて居る。


 一つ。間を置いたが、礼衣も右手を出し躊躇ためらわず握手に応じた。


 正直、興味があった。中等科の入学式、士紅と出会った一年五組の教室で、昂ノ介が着目した、白の手袋の具合を確認出来るからだ。


「……失礼な事を言っても良いだろうか」

「どうしたんだ? 火関」

「……手袋の質感が、全くないのだが。これは、まるで素手同士で握手をしている感じだ」

「凄いだろう。自慢の大伯父の作品だからな。ほら」


 特に気を悪くした気配も立てず、食事越しの非礼に対し詫びを入れてから、次は青一郎、昂ノ介の順に握手を交わす。


 確かに、礼衣が言う通りの感想を二人は持つ。少しぬるめの体温が芯に宿る、人の手の感触そのものだった。


「その大伯父様って、この間の放課後にいらしていた着物姿の?」

「うん。名前は彤十琅。おそれ多い事に、私に就いて下さった、最高峰の〝造り手〟だよ」

「〝造り手〟とは、また面白い言い回しだな」

「私が〝遣い手〟だからな。馴染みは、あるんじゃないのか? 巫覡ふげき鍛冶かぬちの関係みたいなものだよ」


 含みがある物言いを残した士紅は、紅茶ラテの温度を確かめるためか、卓に置く容器を両の手で包み、ぐ離した。

 まだ、飲み頃では無いようだ。


 言いたい事も聞きたい事も、溢れている三人だが、口を閉ざし、紅茶ラテの温度に気を取られて居る士紅に実行しても、期待を満たす反応は望めそうも無い。


 それだけは感じていたのか、代わりに三人は話題を店内に求めた。


「いつもの事ながら、ここは混んでるねェ」

「人の事は言えんが、こんな時間なのに学生の姿が目立つな」

「……娯楽施設もあるし、この辺りは進学塾も多い」

「そう言えば、そうだね」

「こ、こらッ、丹布。何を見ているッ」


 先程から、やけに静かな士紅が気になり、様子を見た昂ノ介が、その視線の先を確認するなり、少々口早に小声でたしなめる。


「……ん? あぁ、仲が善いなと想って」

「あははッ。邪魔しちゃ悪いよ」


 青一郎も、人影を縫って視界に入れた風景は、高校生らしき男女が人目もはばからず、若い唇を重ねすすり合う様子だった。


「あれは、見て欲しいからやって居るんだろう?」

「……挑発的な。あまり見ない方が良い。絡まれては面倒だぞ」

「それもそうか。いただきます」


 興味がれたのか、士紅はサッパルの特級クラームス・ラテに口を付ける。かなり、恐る恐るではあったが。


 見事な士紅の口元を目にした礼衣が、余韻を乗せた話題を振っても、何ら不自然ではなかった。


「……丹布の所には、あの手の愛情表現はないのか」

「もちろん存在するよ。公衆道徳を守るなら、何をしてくれても善いが、趣向の違いかな。あれは好きじゃ無い」

「ほほゥ」

「口と口だろう? どう考えても不衛生だ」

「う~ん。確かにねェ」

「……経口感染率は、跳ね上がるな」

「口なんか、臓物の出入口じゃないか。そんな部位を交わして、何が楽しいのか理解に苦しむ」


 三人は、動きを止めざるを得ない。


 変だ妙だとは思ってはいたが、ここまで独創的な感覚の持ち主だったのかと、肝を抜かれたような衝撃が、彼らを縛り付ける。

 辛うじて反応出来たのは、言葉を反芻はんすうする事だった。


「臓物の……」

「……入口、……か」

蚯蚓ミミズ海鼠なまこは、特に顕著けんちょだろう」

「止めろ。今は食事中だ」

「あぁ、悪かった。私は、あれより握手や〝マヌレヴェーエ〟の方が善いな」

「それって、相手の体温を感じる面積が多い方が良いって事なの?」

「……う~ん。そうなるのかな」

「……丹布は、案外寂しがり屋だな」

「それは自覚して居る」

「迷子になるわ、人肌は恋しいわ、まるで子供だな」


 付き合いが長い三人は、臓物と蚯蚓の話を掻き消したいがために、畳み掛けるように話を続けていた。


 子供と差されて気に食わなかったのか、言い放つ昂ノ介を見て想い至ったのか。

 士紅は似紅にせべに色の双眸そうぼうを、意味あり気にすがめて言い返す。


「成る程ね。柊扇は初恋の君とは唇など、とうに交わし終えて居たんだな」

「ナッ、何を言い出スンだ! 『あま子さん』は、アのような下品な女ではないッ」

「ほ~ぉ。柊扇の初恋の君は、あま子さんと言うのか。しっかり覚えておくよ」


 この上なく満ち足りた笑みを咲かせた士紅とは反対に、昂ノ介は、墓穴を掘った上に急所を穿うがたれた。耳のふちをも真っ赤に染め、うつむいてしまう。


 その肩に、軽く手を置いて慰める青一郎の顔には、微笑ましいやら可笑おかしいやらで、困り顔の笑みが浮かんでいた。





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