第十五節 プリヴェール=ルーヴメイア=グリーシク。




「おはようございます」


 通い慣れた施設のエントランスは、時間帯を問わず清められ、庭球を愛する人々を迎え入れてくれる。


 ここは、リメンザのセツト支部。朝も早い頃合いに、〝リメンザの申し子達〟が揃って訪れた。


「おはよう。この時間にお揃いで来るなんて、久しぶりよね」

「部活は楽しいかい?」


 幼少の頃から通う彼らは既にお馴染みで、受付にいる職員も見知ったもの。会話も砕ける。


「……同じ年頃の仲間が多いと、雰囲気も変わり楽しいです」

「それにしても驚いたわ。あんなに嫌がっていたのに、蒼海の庭球部に入っちゃうんですもの」

「聞いた時は正気を疑った」

「我々もです」


 エントランスに、老若男女の笑い声が重なって響く。

 早朝との事もあり、思わず大きく通る声に留意したのか、職員の一人が声を落として話を進める。


「おおっと、そうそう。丹布士紅様が、Aコートに入られたよ」

「丹布君、もう来てるんだ。早いな」

「ああ」

「物凄い美女と一緒よ~」

「失礼だぞ」

「あの方は、美女と呼ぶに相応しいと思いますけど」

「丹布君が話していたって言う、お連れの方かな。

 女性だったんだ」

「性別は聞いていないが、連れがいるとは聞いている」


 昂ノ介は、流れで青一郎に目を向けると、そこには見慣れない表情がある。


 青一郎の平素は穏やかで欲を表に出さないが、今は感情の色が差す。それはまるで、嫉妬に染まる思いを抑えるような、にがみを含んでいた。


 まさかな。内心に生じそうな見えない芽を折りながら、昂ノ介は、青一郎と礼衣をAコートへとうながす。


 もちろん、後に来るであろう都長、蓮蔵を案内して貰えるように、受付職員に礼をもって委託する事を忘れなかった。




 ○●○




「肘に変な力を込めるなよ。怪我するぞ。腕と得物の重さで、振り抜く感じ」

「こんな感じかしら」


 振り抜き様、女性が手にする黒地に黄緑が入るラケットが、空を切る最小限の音が立つ。


「うん、善いね。やあ、おはよう」

「あら、お噂のお友達ね。ご機嫌いかが?」


 気付いた士紅が、まずは挨拶。続く異なる声色の主に、否が応でも三人の視線が釘付けになる。


 女性が立っていた。女性と言う、生きた文字に服を着せたなら、三人の視界を奪う相手になると迷う事なく言い切れる。


 そこには、女性がうらやみ妬む総てを集約した姿がある。華麗な生まれ、学歴、経歴、美貌でさえも。


 成人には珍しい、プラチナブロンドの艶やかな長い髪は、今は首の後ろでまとめられ、翡翠色ひすいいろの瞳は、幾多の罪深さを誘引した事だろう。


 婉然とする表情。有名銘柄で薄桜色うすさくらいろの冬用運動着に包まれていても、隠せない魅惑の曲線。やや低いが蜜の声音。


 淑女達の憧れの的。それが彼女の肩書きである事を、彼らは知っていた。


「今日は、突然お邪魔してしまって御免なさい。庭球は久し振りなので、色々教えて下さると嬉しいわ。

 改めまして。プリヴェール=ルーヴメイア=グリーシクです」


 綺麗なリュリオンのお辞儀を披露する淑女を受け、三人も動揺を伏せ、礼を欠かす事なく返す。


「な? どこかで会った事があるだろう」

「あ、もしかして、シャートブラム先輩に入部届を出した時に、仲裁に入って下さったケータイの相手って」

「やはり、そうでしたか。ルブーレンの神話になぞられ、女神フレク=ラーインの別称を持つ姫君」


 青一郎の言葉尻に乗り、職員の案内で到着した蓮蔵が名を差した。伴って来た都長は、深い一礼で挨拶に代えている。


 フレク=ラーイン。


 ルブーレンには、前王朝から引き継がれる権威ある土地がある。その名はマーレーン地方。その場所の古い言葉で〝金糸の束を紡ぐ女神〟にあたる。

 無実の罪で非業の死を果たしてしまった、気の毒な魂を包む布を織る、慈悲深い女神。紡がれる糸にあやかり、跡取りを失った大家を継ぐため、縁組みされた者の敬称として使われる。


 幼い彼らだが、フレク=ラーインに込められた、古い時代から続く願いや皮肉も心得ていた。


 そんな前情報などさておき、本日の参加者が全員合流した七人は、段取りの確認の結果、シングルスとダブルスに分かれて試合。余った一人は、どちらかの審判に当たる。

 組み合わせはクジ引き。クジを作るのは、身体が温まる士紅とプリヴェールが担当する事になった。


 ただ、士紅はともかく、プリヴェールに作業をさせる事に抵抗を感じた面々が、気を遣い始めると、臆面も無く士紅が言い放つ。


「気にするな。プリム、紙を寄越よこして」

「ええと、これで良いかしら」

「うん」


 驚愕きょうがくのやり取りに、目を奪われる彼らの一人がたまりかね、準備運動を止め問い掛けた。


「あの~、丹布。ちょっと聞いても良いかな~」

「ん? どうした都長」

「丹布と、フレク=ラーイン様って、どんな接点があるんだ?」

「うふふ。士紅のお友達ですもの。プリヴェールでよろしくてよ。幼馴染みかしら。ねえ?」

「そうなるのかな」


 言われて納得など出来る訳がない。士紅は中等科の一年生。に年令は聞けないが、プリヴェールは社会で身を立てる大人だ。


 しかし、今も親しげ気に会話を交わし作業中。一日、二日を重ねただけの間柄には到底見え無いが、プリヴェールの立場を考えても、何が二名の間を取り持つのかも、彼らは想像すら叶わない。


「よし、出来た。私はこれ」

「おいおいおい、何やってんだよ。作った本人が一番って」

「掴んで居る先は、判ら無いから同じ」

「そりゃ、そうだろうけど、普通は最後だろ~」

「あはは、良いんじゃない? じゃあ、おれは……、こっち」

わたくしは、これにします」


 気温が上がりそうな気配の、晴れやかな春の早朝。若人の声が高くのぼった。




 ○●○




「お待たせしました。どうぞ」


 陽も昇り、温かな空気が包む中、コート脇に設置されるベンチに座る、プリヴェールと礼衣に、水分補給用の飲み物を預かって来た蓮蔵が配る。三人は休憩を兼ねて、見学を決め込んだ。


「ありがとう」

「……済まないな」

「いいえ、どう致しまして」


 一口飲んで、プリヴェールが、蕾がほころぶように唇に笑みを開く。


「うふふ。軽く打つだけと言いながら、皆さん熱が入っているようね」

「……全員、負けず嫌いですから」

「それは、とても良い事です」


 三人は、Aコートのダブルス風景を前にしている。

 青一郎・都長組、昂ノ介・士紅組の対決。ここに日重がいれば、さぞ喜んだ事だろう。


「うふふ。負けず嫌いの方の得意分野で勝つと、気分も良いものよね。

 皆さんを見ていると、夫の事を思い出します」


 貴夫人の口振りでは、まるで亡くしている響きが込められているが、誤解しない正確な情報を、礼衣と蓮蔵は待ち合わせていた。

 見当外れの質問や、話の腰を折る失態はおかさない。


 気を良くしたプリヴェールは、話を続けた。


「庭球が縁で、わたくしは『ジル』と出会いました。あの頃のジルは、才能に溢れるが故に、誰にも手が着けられなくて、社交界でも厄介者だったわね。うふふ」


 思い出し笑いに、当時の不快感は含まれていない。


「ある日、どうしても看過出来ない事が起きてしまったの。

 力で捻伏ねじふせせるのは簡単だけれど、当時のジルは、無敗の庭球の戦績が何よりの自慢でした。

 なので、完膚なきまでに叩き伏せてやりましたわ。庭球でね」


 楽しそうに、婉然えんぜんとコートの風景を見ながら微笑む。軽く話をしているが、相手がプリヴェールでなければ、本人を凝視して驚きの表情を見せている所だ。


 一昔前の社交界の暴君。『ジルハイン=コーフ=ヘーネデューカ』。天才・恩村の前時代を席巻していた、男子庭球界の王者。


 の傍若無人の言動が、ある時期を境に収束し、表舞台から突如として姿を消した。まさに、その起因が語られた。


 憶測や流言が囁かれても、辿り着けない貴族の恥部。それを、事もなげに語るプリヴェールの真意だけは測りかねていた、礼衣と蓮蔵。


 士紅の、幼い仲間の様子を察したプリヴェールは、少し知己を織り交ぜた話の展開を試みる。


わたくし、いつぞや瞳にほこりが入ってしまって、士紅に取ってもらっていたの」


 礼衣と蓮蔵に上半身を向け、庭球用の手袋に包まれた人差し指を、陽を弾いてきらめく、見事な生きた翡翠色を示す。


はたから見ていた夫は、私と士紅が口付けを交わしているように映ったみたいなの。

 そうしたら、嫉妬で取り乱した夫が、士紅を後ろから刺してしまったのよ。うふふ」


 うふふ。笑っている場合ではないだろう。

 超上流階級の人間は人として、大切な何かを捨てなければ生きて行けない世界なのかと。

 そんな、嫌疑さえ感じ始める二人の腹の内が、プリヴェールには透けて見えたのか、なおも話は続く。


「安心なさって。士紅は生きているでしょう? 夫は決闘だと口走りましたし、見届け人もりましたので、問題はなくてよ。

 結果、士紅が夫を病院送りにしましたもの。駄目よね? 勝てる相手をきちんと見極めないと」


 荒唐無稽に似た話を受けていた礼衣と蓮蔵は、分かった気がした。


 これから付き合う相手は、強大な権力を持ちながら勝てる相手選び、勝利を収める。途方も無い怪物かもしれない。


 それでも、付き合いを続けるつもりなのかを、一線を越える度胸があるのか挑まれたのだと。


 ならば、そろそろ口火を切らないと、呑まれて今後の付き合いにも支障が出る。


「……丹布は、よく無事でしたね。背後から刺されたそうですが」

「ケータイに当たりましたのよ。

 ほら、よくご覧になるのではなくて? 馬乗りの辺りから、出し入れしているでしょう」


 意図的なのだろうか。

 プリヴェールは、これ見よがしに腕を後ろに引き、女性特権の豊かな曲線を誇示しながら、背後の馬乗り部分を差している。


 確認する場所を、に間違える事なく選択し、注視せず全体を視野に入れ、細心の気遣いを果たす二人だった。


「黒いケータイの事ですね。随分、丈夫に出来ていると、お察しします」

わたくしは、黒いケータイで繋がっているより、貴方達の青いケータイの方が羨ましくてよ」


 相変わらず、絵画に時を止めておきたい程の、えんの笑みを浮かべているが、プリヴェールの翡翠色の瞳には、見えない針が込められる。


 礼衣と蓮蔵は思い起こす。この種の視線には覚えがあった。相手も色も異なるが、放たれる想いはただの一つ。


 士紅に近付く対象に誇示する、自らの縄張りと規制線だ。


「あら、怖い。先程から、ちらちらと士紅がこちらを睨んでいるわ。わたくし、おしゃべりが過ぎたかしら」

「……丹布、集中しないと怪我をするぞ。相手は青一郎だ」

「こら! おれを忘れんな!」

「相手が誰であろうと、負ける気は無い」


 有言実行か、言いながらも相手コートの隙へと球の自重が最小限の曲を描いて士紅はゲームを取った。




 ○●○




 試合が終了した後、そのまま屋外で少々の休憩を挟む事になり、談笑が絶えない所。

 ふと、都長はプリヴェールの様相に着目した事を口にした。


「プリヴェール様の装い、まるで桜のようですね」

「あら。お気付きになられて? わたくし、春のリュリオンの桜の風景が大好きなのよ」

姥桜うばざくらとか?」

「士紅。何か、お言いになって?」

「桜は、どの経済圏でも好まれる樹木の一つだな。

 私も好きだよ、プリム」


 士紅の底抜けの度量と機転に、彼らは心の底から感心したが、真似をしたいとは、全く思えなかった。


 恐らくは、「好きだよ、プリム」に重点が置かれが効いたようだ。


 証拠に、この世の終わりを導きそうな気配を立てた、プリヴェールの機嫌が瞬時に良くなっている。


「あら、やはり桜は多くの方々の美意識に根付いているのね。とても素晴らしいわ。

 士紅は鈴蘭が好きよね? わたくしも、あの可憐な華は大好きよ。

 でも……」


 プリヴェールは、今にも士紅に口付けしそうな蕩駘とうたいさを表情に差しながら、言葉を続ける。


椿つばきの華は嫌いです。特に、九央の赤い椿は、本当に大嫌い。

 士紅には似合わなくてよ」

「そんな事を言われても困る」


 うふふ。と、プリヴェールは掴み所のない笑みで唇を飾る。

 見た事もない一幕を、鑑賞した気分にさせられた彼らの一角から、舞台の終わりを認め声が立つ。


「丹布君。この休憩が済んだら、おれとシングルスを頼むよ」

「ああ、臨む所だ」

「では、我々は見学させて貰おうか」

「……うむ。この試合は、見ておく必要がある」

「来て良かった~、これは見ものだよな~」

「ええ。全く、その通りですね」

「では、わたくしが審判を引き受けます。皆さんは、十分に見学して下さいね」


 恐縮しながらも、彼らはプリヴェールの好意を受け取り、見学に集中する事が出来た。


 今日のこの日。少なくとも、礼衣と蓮蔵は確信した。

 表舞台、社会的地位にいて、女神と称される裏側で〝魔女〟と称される、プリヴェール=ルーヴメイア=グリーシクの片鱗を。


 そのプリヴェールと、対等に付き合う士紅に恐れ入りはしたが、何故か、沸き上がる疑問を質そうとは思わなかった。


 それは、庭球が繋ぐ信頼によるものなのか、魔女が施す魔法の一端なのかも、はかれずにいた。





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