第十二節 質素だった士紅が、贅沢に成らざるを得なかった〝造り手〟の存在。
監督室の内側から出入口の扉へ、黒い視線を向けたまま、動かないのは青一郎だった。
その姿を、昂ノ介と礼衣が見守る。
不自然に空席が目立ち、荷物が片付く監督室に、「ちょっと待ってて下さいね~」と、八名を押し込めた深歳が、普段の調子そのままで言い含め出て行ってから、十数分が経過していた。
「……心配か?」
「何度か、現場を見ている身としてはな」
「現場ですか」
沈黙を取り払うため、蓮蔵が話を広げる一言を投げる。
「小等科の頃ね、何度か中等科の庭球部の見学に足を運んだんだけど、顧問の先生方が、穂方先輩を中心とした部員達に、〝お仕置き〟を受けている最中だったんだ」
「うわ~、あの噂って本当だったんだ」
「最中って、お前らが見てんのに、続けてたってのか?」
都長と、メディンサリも加わり、当時の話しは続けられる。
「ああ。あの連中は、少しでも練習量を増やしたり、気に入らない言動を取る先生方や監督を、親が持つ権威や暴力で追い出しては、新たな先生方や監督を招き入れ、言う事を聞きやすい部員を増やしていた」
「……ここ数年、各部活でもそれらの傾向があったが、特に庭球部は渦中にあった。
方々で顔が利き、蒼海学院の運営に色々と口を挟める、穂方氏の影響が大きかったのだろうな」
「ンフフフ」
女性の笑う声が立つ方へ、八名はそれぞれ眼を向ける。
所用で残っていた中等科女子庭球部顧問の春波が、手を止めて薄化粧の顔を上げた。
「面白い話をしていたから言っちゃうけど、子煩悩な穂方氏をはじめ、学校運営を阻害していた父兄委員は、本日付けで免職になったわよ」
「あの穂方を免職に追いやるとは、この学院も、なかなかやるの~」
「辞職でも不自然ですが、どうやって従わせたんですか」
「もっと大きな権威が動いた。先生も、ここまでしか言えないわね。
とにかく、そんな事は気にせずに、今しかない子供の時間を、たっぷりと楽しみなさい」
同じ年頃の我が子達と重ねたのか、その
現に、春波は仮入部中の彼らに対し、何度も気遣い声を掛けていた。
彼らに構うだけで風当たりが厳しくなる中でも、矜持を折らなかった春波を、彼らも信頼を置き続けている。
「皆さん! お待たせしました。
さあさあ練習場が空きましたよ。全国制覇へ向けて、幸せ過ぎる日々の幕開けです!」
監督室へ駆け込んで来た深歳が、満面の笑顔で手を一拍した。
「深歳監督、お怪我はありませんか」
心配になった昂ノ介が、思わず緊張の糸を通した質問する。
「ないない。どこにもありませんよッ。
そんな事より早く行きましょう! 数は減りましたが、心から庭球を楽しみたい方は残って下さいました。皆さんを待っています」
「はい!!!!!!!!」
八名よりも嬉しさを全身で表し、深歳は先導を切って屋外練習場へ走り出してしまった。その後を追う八名は、それぞれに春波に礼を言いながら、退出する事を忘れない。
「どっちが子供か、分かんないわね」
音も無く閉じられたら扉を見送り、春波は
○●○
「この程度で顎を上げるとは何事だ!」
「だ~ァ! 上等だッ。もう一球、来い来い!」
「良い心掛けだ」
「柊扇君~、あまり都長君を、追い詰めるんじゃありませんよ~」
「はい!」
新生した、蒼海学院中等科の男子硬式庭球部が、軌道に乗り始める。コートに立つ部員が、生き生きと庭球との距離を近付けた。
季節もまた、春の草木が花を開こうと、今よ今かと
「なあ、丹布。昨日借りた風呂敷さ、どこの製品なんだ?」
休憩を挟んでは居るが、深歳から素振り左右千本を言い渡された。応じる士紅に、メディンサリが尋ねて来る。
その時。メディンサリは、居残り課題を渡されたのだが、鞄に入る余裕もなく裸で持ち歩いていた所、士紅が風呂敷を
無論、御礼と共に朝一番で返却は済んでいる。
「実はよ、母があの風呂敷を気に入っちゃって。是非とも聞いて欲しいって頼まれちまってさ」
素振りの数が飛ぶ事を怖れてか、士紅は黙したままだった。
「……でさ、手に入りにくいなら、紹介して欲しいとも……言われて、……その」
「……」
「わ、悪ィ。数えてるよな。また後で……」
メディンサリは状況を考え反省し、一旦退こうとした。
そこで、士紅は突然。右掌の内側で遠心力を利用し、握り部分を甲に巡らせ一回転させると、肩の高さで水平に得物をコンチネンタルで取る。
再び、掌で一転。握りを逆手に持ち、更に一転させ、腕と得物を下ろした。
士紅なりの処理運動のようだが、演舞に見える辺りは、華麗な所作の成せる技だ。
「お気に召されたのなら譲るよ。あれ、一枚しか無いから」
「一点物かよ。そんなの悪ィに決まってるだろ。
じゃ、店を教えてくんね~か?」
士紅は、また黙ってしまった。
「もしかしたら、規定か何かで口止めされてんのか? 風合いから、あの風呂敷は『九央』の代物じゃないかって、母も言ってたからよ」
メディンサリが口にした物々しい内容は、一言で表すと〝超上流階級〟の常識だった。
そもそも、九央とは。
人の命を費やして渡るには、幾らあっても辿り着けないが、〝街道〟を利用し得る〝公式経済圏〟の距離感で表すと、〝
正式には、公式経済圏第三等級指定『ゼランシダル』。
その圏内に属する国家の一つだが、指定を受けてから既に、渡航制限が掛かる程の希少価値の宝庫。
それは、
輪を掛けるのが公式経済圏の双璧、〝グラーエン〟と〝グランツァーク〟の最高執行責任者であり、総会長の双方が御自ら、経済圏参入の整備を行った経緯。好待遇の保全観点に於いて、尋常ではなく特別視されている。
「あ~……、済まん。気ィ悪くした?」
人に囲まれて生きているメディンサリですら、士紅が普段から何を考えているのか掴み辛い。表情が読めない事から、先に謝ってしまおうと、まず気遣いを立てた。
「気を悪くするのは、メディンサリの方だと想う」
「は?」
「これさ。皆と同じ、学校指定の体育着に見えるだろう?」
「あ? あァ」
士紅が空いている左手で、左側の肩の生地を軽く
どこの学校でも見られる事だが、学年ごとに色が振り分けられ、この蒼海学院中等科も例外ではない。
二四二八年度の、新入生に割り振られた色は、
女子生徒には受けが良いが、男子生徒にとっては、流行色で桃色系統が来ない限り、ハズレと言えた。
古来より、桃は生命力と魔除けの代名詞。春の訪れの兆しを報せる善き象徴だ。
しかし、六千年以上前の『ヤトモロ時代』の風習を押し付けられても、現代を生きる男子中学生にとっては、複雑な気分にさせられる者は多い。
「違うんだ。『遠縁の大伯父』が仕立ててくれた、立派な校則違反の体育着」
「へェ。仕立てって……、はァ!? 何で、そんな手の込んだ事すんの!? どっからどう見ても、おれらと同じ、桃色体育着じゃねェか!」
「〝お前の身に触れる物は、総て私が造り上げる〟。
ある意味、常軌を逸した方だよ。
学生服から鞄から何もかも総て、私の周囲は大伯父の手による物で溢れて居る」
確かに、その〝遠縁の大伯父〟と言う御仁は、異常だとメディンサリは思うも
「身に触れる物って、まさか、そのラケットも?」
士紅は、大きく一つ
「道理で、見かけない配色してると思ったよ。お手製って事は、他に特徴とかあんのか?」
「そうだな。……丁度善い所に。柊扇、これ持ってみろよ」
都長を叩き伏せ、涼しい顔でコートから戻って来た柊扇を眼に留めた士紅。握り尻を支点に回転を付けながら、
「こら! 自身のラケットを粗末に扱う……な?」
説教に入ろうとして、危なげなく受け取った昂ノ介は、言葉を飲んだ。
片手で受けたグリップ部分を、改めて右手で上部を握り込み、左手でグリップエンドを添え、正眼で構える。
「さすが、柊扇は判るんだな」
「どうなっている。何故、フェイスの中心を走る重さを感じるんだ。
この感覚は、まるで真剣ではないか」
「柊扇が言うなら、ヤトモロ時代の片刃の方の?」
「そうだ」
「妙な事を仕込んでるんだな。
え? じゃあ、丹布って片刃を扱えるって事か?」
「まぁ、少しな」
日頃、祖父や母親から武道の
だが、メディンサリに会話を先取りされてしまう。
「それにしても、その大伯父様ってスゲ~な。あの風呂敷も、作ったって訳だろ」
「この間、都長に譲ったタオルもな」
「あ~、犬の足の裏が、チョコチョコっと入ってた、恐ろしいまでにフカフカで、モコモコした肌触りと、抜群の吸湿性のッ!」
「恐ろしいだろう? 本当に。大伯父に出逢うまでは、簡素な量産品で充分。着る物なんか、包み隠せたら御の字。
そう想って居たのだが、手に取り、袖を通し身に纏うと、もう戻れなかったよ」
昂ノ介から得物を受け取り、少し
その先には、見慣れない姿が在る。
リュリオンの風土が生み出した様相とは、明らかに異なる髪の色は
鼻先まで前髪が掛かっている上、口元まで深く覆う若草色の襟巻きで、風貌が全く見て取れない。
纏う姿も、
一刀でも
所が、意外にも首から下げていたのは、校内見学者用の許可証だった。
「これは善かった。風呂敷の事を尋ねてみるよ。
悪いが、席を外す」
士紅が仲間の返事も待たず、着物姿の相手に向かって歩み去る。
「あれ、丹布君はどうしたの? まだ休憩じゃないのに」
練習課題を終えた青一郎が、一団に寄るなり、士紅を目で追う。
「分からん。目にした途端、あの妙な男の方に行ってしまった」
「知り合いっぽいんだよなァ。
もしかしたら、さっき話してた大伯父様って人かもな」
「メディンサリ君、正解です。大丈夫ですよ、こちらにいらっしゃると伺っていますから。
確か、お名前は『彤十琅』様です」
「彤十琅……」
青一郎が、無意識に呟いた、その表情は乾いたまま。
士紅と金網越しに、何かを語り合う彤十琅の姿に、いつまでも向けられていた。
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