第七節 雄飛、その兆し。




「丹布……?」


 愕然とする昂ノ介の前には、少しだけ高い位置の背を向け、その凶行を身を挺して防いだ士紅が立ちはだかって居た。


 床には、士紅の頑丈さに負けた清掃用具の柄が折れて横たわり、硝子片、庭球の球が数個が散らばっている。




 ○●○




 数分前にさかのり、部活開始前の清掃中、事は起きる。


 ラケット破損事件以降、年令を疑いたくなる嫌がらせは日々続き、仮入部員八名は、毎日、生傷が絶えなかった。


 八名は、基本的に先輩部員の不要な言動には無視を決め込んで居たのだが、無抵抗が裏目に出たのか悪意を助長してしまい、稚拙ちせつな部員達は、今日、持ち込みの道具を投入する。


 親元から持ち出して来たのか、子供には縁がないはずの高価な洋酒、巻き煙草を見せつけた挙げ句、屋内練習場の床に酒を撒く。

 咳き込みながら煙草に火を点け、その灰をコートに落とした所で、昂ノ介は、堪忍袋の緒を引き千切ちぎった。


 昂ノ介は、決して手は出さなかったが、正面を切って説教と、仲間に対して重ねて来た暴行と無礼を詫びるよう求める語気は、目上の者に対する物ではなかった。

 部員達は明らかに憤慨し、昂ノ介に対し、今にも込めた敵意を行動に移そうとしている。


 庭球競技者にとって、聖域に等しいコートをけがし、今まで耐えて来た自身の事ではない。あくまでも仲間に対する中傷と非礼を思い出しながら、感情を爆発させた昂ノ介を、この場にいる仲間では止められなかった。


 しかも、今日に限って、止められる可能性があった、青一郎、礼衣、士紅が揃って所用で遅れると聞いている。


 〝指導〟と言う名目で、昂ノ介に絡んでいた先輩部員が、間を詰め始めた。

 一人は、昂ノ介が手にしていた床磨き用の清掃用具を奪い、一人は空になった酒瓶を手に、武器を持った側の歪んだ優位を、ためらいなく振り下ろした。


 あれ程、相手の挑発には剰らないよう約束を交わしたにもかかわらず、破ってしまった昂ノ介は、おのれへの戒めとして、甘んじてむくいを受け入れる覚悟は出来ていた。




 ○●○




 起きるであろう衝撃と痛みに備え、目力めぢからがある黒い瞳を閉じる。昂ノ介の耳に入ったのは、骨や締まった肉、筋に無機物が当たって砕ける鈍いいやな、それらの破片が床に散らばる硬質な音。


 どれもが、大怪我に繋がり苦痛に直結する物だったが、何故か、その痛みは昂ノ介には届かなかった。


「破片、踏むなよ」


 振り返った士紅の顔が、不敵に笑って昂ノ介を気遣う。


 くすみ、黒子が一つ無い士紅の左頬には、真横に打撲痕と深い擦過傷さっかしょうが走り、学年別に色分けされた、冬用の体育着にも得物えものが接した跡や、飛沫ひまつした残り酒が染みを作る。


 体育着の下には、想像するにしても大きな怪我を負って居るはずだが、士紅は、筋一つの苦痛を浮かべず、不敵な笑顔も崩れる事は無い。


「……丹布、……お前」


 事態を受け、喉が締まる思いの昂ノ介が、言わんとする事を汲んだ士紅が、言葉を繋いだ。


「心配するなよ。鍛え方が違うと言っただろう。折れた所も、潰れた所も無いよ」


 笑みは健在だった。昂ノ介の見立てでは、急所を外し凶行の八割は受け流し、顔の傷以外、痛めている様子は見受けられない。

 そのためか、少しだけ昂ノ介も緊張を解き、後ろめたさに支配されつつ口を開く。


「それは何よりだが、お前が受ける怪我ではなかったはずだ。邪魔をするな」


 言葉の裏には、心からの謝意が、詫びる思いがあった。

 愚直なのに大事な所で素直になれない性格も、本人も嫌になっている、この悪い癖も、付き合いは短いが、士紅は余す事無く察して居る。

 

「私は、変態では無いが、この程度の下らぬ悪意くらい、何度でも盾となって護ってやるよ。

 だから、こんな詰まらぬ事で怪我をするな」


 それは事実だった。仮入部期間、士紅は何度も仲間へ向かう凶行をかばっては生傷を作った。


「へ~ェ。外圏人のクセに、赤い血の色してんのかよ。

 生意気だな……?」


 怪我を負わせている事に、罪の意識も薄れて来たのか、本来持つ衝動をおさえるはずのたがを、簡単に外そうとする加害者じょうきゅうせい達が、あまりにも幼い欲求を満たそうと動き出す。


 その一角が、屋内練習場の入口を視界に入れた瞬間、すくみ上がり二の句を喉の奥で凍えさせた。


 加害者の変化に、昂ノ介達が目を転じてみれば、いつもと様子が異なる青一郎が、ただならぬ気配を周囲の空気に伝播でんぱさせ、無言で現場をにらむ。


「「……青一郎……」」


 付き合いの長さから、この状況における危機感を察した昂ノ介と礼衣は、立つ場所こそ異なるが思わず声を揃える。すっかり青一郎に呑まれていた。


「あれ程、挑発には乗るなと言ったはずだよね。昂ノ介」

「それは分かっているが、あいつらは、事もあろうに、コートを酒や煙草の灰で汚したんだぞ!」


 コート上に散る濁った液体や、形を失った灰をし、正当性を主張したが、相手が悪すぎた。

 昂ノ介が全面的に正しくても、声を張り自身を奮い立たせようと、今の青一郎には一切通じない。静かに、確実に、昂ノ介の勢いを削ぐ。


「おれ達が拭けば済む事だよ」


 昂ノ介は、もう黙るしかなかった。どこか突き放す言葉の余韻を昂ノ介に預け、澄んだ黒の視線を少し移し、士紅に向ける。


「それと、丹布君。おれ達を庇う必要はないよ。自己責任くらい負わせないと、昂ノ介のようになる」

「……青一郎。それは、いささか言い過ぎではないか? 昂ノ介は、そこまで愚かではない。

 少なくとも、自身の意見を通すために、丹布を盾にする者では……」

「結果、そう言う状況になってるよね。昂ノ介は、もっと周りが傷付かないと分からないのかい? 

 個人の勝手な判断とおごりが、集団の輪を乱し、ほころびを生む。今のようにね」

「申し訳ない」


 青一郎の言葉を腑に落とし、恐れ入る昂ノ介を、仮入部員達は誰も責める気にはならなかった。

 素直に謝罪する姿は潔く、自身の立場が昂ノ介なら、見苦しさなく果たせるかどうかを想像すると、昂ノ介を尊敬せざるを得ない。

 更に増して、態度をめた青一郎に見据えられ、先輩達は無様な声や態度で萎縮する。


「先輩方も、いつまでこんな事を続けるつもりか知りませんが、無駄です。

 ラケットが握れなくても、コートに立てなくても、我々は競技者としての自負があります。

 先輩方よりも大きな誇りを持っています。我々のこころざしを折る事など、不可能です」

「なッ、何だと! その態度が生意気なんだよ!」


 庭球の同士としての先達せんだつを立て、辛うじて敬語を残しているだけの青一郎は、その一言には反応せず、昂ノ介と士紅を呼び寄せながら口実を切った。


「負傷者の手当てのため、仮入部員八名、一時、退出します」

「保健室は勘弁かんべん。騒ぎになる」

「傷が深いし、あとになったら大変だよ」

「っははは。歳頃の、お嬢さんじゃ無いんだから、気になら無いよ」

「……そうかもしれないが、酒気を含んだ体育着は何とかした方が良い。揮発きはつする酒気を吸えば、支障が現れる」

「それは困るな」

「部室に行きましょう。今は部活動の最中ですから、生徒の姿もないはずです」

「だな~」

「しかし、在純は怒ると怖いな」

「え? そんな事はないよ」


 許可も返事も待たず、八名は並んで屋内練習場を後にする。


 残された庭球の先達は、言い返せず、追う事も出来ず、遠く離れ、声も届かなくなった者に対する悪口雑言を吐き散らす事しか出来なかった。


「所でヨ。このままで良いのか?」

「良いワケないだろ! かまってやってりゃ、調子に乗りやがって!」

「でもよー、これ以上はマズくねー? 主に、ワケ分かんねー外圏人がケガ作ってるけど、他の奴は……」

「こりゃー、穂方さんに出て来てもらうしかねーな」


 二十人を越える集団が、口々に話題を変えながら部活動終了時間を待たずに、帰宅の途に就こうとしている。

 未成年が通う学舎に相応しくない痕跡もそのままに。


 その様子を、たっぷり間を掛けて見送った後、無残な庭球部屋内練習場を入口から覗き込む、白衣姿の男性の人影が飄々ひょうひょうと現れる。


「コレは、あの方の清掃能力を、今まで以上に発揮してもらわないと、イケませんねェ。うん」


 陽に焼かれ、少しだけ茶色掛かる黒髪に、黒色い瞳の典型的なリュリオン人。年格好は青年以上、壮年未満。

 厚みのある、藍色の縁をしたオーバル型の眼鏡の奥には、これから始まる変革の序曲の期待に、瞳が輝いている。


 無論、本人も序曲を奏でる演者の一人として、参加する責任と成功へと導く事を信念に刻み、彼は再び戻って来た。




 ○●○




 春に向かうかすかな空気の変化を屋外で感じるようになった、蒼海学院中等科の入学式から、およそ一カ月後の放課後。

 庭球部屋外練習場には、珍しく所属部員が整然と並ぶ風景がそこにある。


 一五十余名に対面するのは、部活動時間でも白衣姿の若い男性だった。


「今まで、勝手させて頂きました。本日から、この庭球部を預かる顧問兼監督に就任した、深歳 圭です」


 笑うと童顔が際立つ、どこにでも居そうな人の良い近所のお兄さん。年令不詳の深歳と名乗る、顧問兼監督に、不快と怪訝けげんを、多くの部員が隠しもせずにあらわにする理由は、深歳一人に注がれた物ではなかった。


「な~んだ。育児休暇って言うから、女の先生かと思えば、男の先生だったんだ~」

「『姫様』は多忙ですからね。深歳先生が育児休暇を取られたそうです」

「ほッほう~。姫様も、旦那を差し置いてォやるわ」

「それにしても、地味に凄いなこの学院。名字変わってて分かんなかったけど、〝あの人〟じゃねェの?」  

「あ、やっぱりそう思った?」


 後方に控える仮入部員改め、新入部員の八名は、部員の数に埋もれながら小声で情報交換を行っているのだが、肝心の深歳の声が聞き取りにくい。

 それは、位置ばかりの事ではなく、その声を掻き消す元気の良い乳幼児が、腹の底から存在感を放っていた。


「深歳先生の子供だろうか」

「……恐らくな。放課後は、教師にとっても課外の事だ。公私混同とは言いがたい」

「子供は嫌いじゃねェが、これじゃ挨拶になんねェな」

「先生」


 好転を見ない状況に、士紅が挙手と共に注意を引く。その士紅に新入部員と言わず、深歳や周囲の意識も引き寄せた。


「えっ、あ、はい。えっと、キミは……」

「新入部員、一年一組二一番。丹布です」

「えっと、資料資料。……あ~、ありました。丹布君ね。どうしました?」

「先生の御子息ですよね。よろしければ、今だけでも面倒見ます」

「い、良いのかな。でも、確かにコレじゃ話にならないし……。では、お願いしちゃいます」


 深歳の返事に応え、移動する士紅には、「さっそく、ゴキゲン取りか?」「お忙しい事ですナー!」「あんなのに媚びても意味ねーぞ?」先輩部員の不穏当な言葉や嘲笑の数々が向けられる。

 当の士紅は微塵みじんの反応も見せず深歳の元に寄り、慣れた様子で危な気も無く幼子を受け取る。


「あらら? 今年度の新入部員って少ないんだなァ……。

 じゃ、残りの新入部員も、丹布君と一緒に監督室に向かって下さい。伝える事も違うから丁度良かったです」


 深歳の言葉に、新入部員八名は快く揃って大きな返事で応え、速やかに行動へ移す。

 士紅を囲み、愛息に話し掛け、あやす彼らの様子を満足そうに見送ると、深歳は再び、一部が愚連隊と化している集団に向き直り、就任挨拶を続けた。






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