第六節 その願い、秘めたるを。
いきなり、難局に直面している者が居る。
その姿を、別れた同じ場所で見付けたのは、そこそこ本屋で長居をした昂ノ介だった。
「丹布。用事はどうした」
「……まさか、本屋からの帰りか」
「まさかも何も、その通りだ。こんな所で何をしている。
この場所で、誰かと待ち合わせか?」
「……
「歯切れが悪いな。これは、早々に立ち去った方が良さそうだな」
昂ノ介が、見掛けに反して察しの良さを見せると、士紅は間を入れず言葉を繋いだ。
「柊扇が声を掛けてくれて、実は助かった」
「……何?」
「……み」
「み?」
「道に迷った。先程から同じ所を巡って抜け出せ無い。時間も迫るし、電話を掛けようとして居たんだ。
……癪だが」
「何故、こんなに分かりやすい所で迷うんだ。案内板もあるだろう」
「初めての場所って、かなりの確率で迷う。この場所から、電車に乗った事が無いし」
「解散時に言えば良いものを」
「……何とかなると想ったんだ。その時は」
ただでさえ、普段から不機嫌な表情で固定される士紅の表情が、
面白い場面ではあるが、士紅をこのままにも出来ない。昂ノ介は、路線の案内くらいはしてやろうと、行き先を問い
よもやと思い、更に話を重ねたなら、住む場所もホゼカと返す士紅。
これから始まるであろう早朝練習や所用の際は、セツトの知り合いの所で寝起きする
と、応える士紅に、思わず踏み込んだ一言を放ってしまう。
「お前、変わってるな。ホゼカに住んでいるのなら、連堂の方が近いだろうに」
「問題は距離では無く、蒼海の学舎に身を置きたかった。それが理由だ」
「庭球部か」
「まぁね。それも本心だが、正直、住む場所なんて、どうでも善い。
所が、駄々る甘えん坊達が居て、一緒に住んでくれないと嫌だと言うんだ。
こちらとしても、面倒を見るように頼まれて居るし、見放せ無い」
「何だ? 弟妹か何かなのか」
「血縁では無いが、大切な身内だよ」
複雑そうな家庭環境を
「丹布ッ」
「ん?」
「そっちではない。教えた券売機と違う」
「これだろう?」
「だから、違うと言っている」
「冗談だよ」
「本当に家に
「自慢では無いが、自宅に帰れ無かった事がある。転勤が多い生活なんだ」
「……もはや、何も言うまい。迷ったら、いつでも電話しろ。誘導くらいは出来る」
「……っははは。ありがとう。また明日」
「うむ。またな」
ホゼカ駅までの切符を買い、ホゼカ駅方面の乗降口へ向かった士紅の姿を確認してから、昂ノ介は帰路に
その道中、士紅からの着信がないか、数度確認する事になった。
○●○
「それで、昨日は家に帰れたの?」
放課後の屋外練習場。仮入部員の八名は、こぼれ球を拾う作業に勤しんでいる中、青一郎は心配半分、
「話したなぁ……。柊扇」
同じく、声が届く場所で作業をしていた昂ノ介は、冗談だと分かっていても、士紅に、じっとりと
その様子を、安全圏から眺めていた都長も会話に入って来た。
「む。済まん。話の弾みでだな」
「でもさ~、隙がない丹布が方向音痴って、なんだか
「その事を、身内が本気で心配して、危うく病院に収容されそうになった」
「……人の脳にも、方角や位置を測る部位があるからな。それを心配されたのだろう」
空のカゴを持って来た礼衣が、会話に加わる。
涼しい目元が、多くの知識を読み取った片鱗を
持って生まれた気質なのか、年令不相応に得た知識を披露しても、押し付ける響きや、
「心配して下さるのは嬉しいが、度が過ぎる事が度々あった」
「じゃあ、毎日大変だね」
「その身内とは、仕事の都合で普段から分散して暮らして居る。顔を合わせる機会も少ないよ」
「そっか~……。やっぱ、寂しいって思う?」
慕ってくれる弟が、一人離れてルブーレンの寄宿舎に入っている事を、都長は思ったのか、いつもの陽気な表情に、陰りが差している。
都長に顔を向けた士紅は、珍しい色をした赤い双眸と、整い過ぎる口元を
「無い無い。今は、血の繋がりは無いが、家族同然の付き合いがある面々と暮らして居るし、元よりモルヤンには、
「そ、そっか~」
「そんな顔をするなよ。こう見えて
「丹布君ッ」
突然、青一郎が鋭く士紅の名を呼ぶ。いつぞやの千丸に、
青一郎の声に反応し、士紅が
意図的に士紅へと向けられた一球を、拾いに向かう都長の背に、上級生の腹も気持ちも入らない、おどけた謝罪が投げられた。
「悪いなァ、一年ども」
「仲良しごっこしてると、どこから球が飛んで来るか分かんねーぞ!」
「……ワザと狙って打ったクセに……ッ」
思わず
「はーン!? 何だと、この一年生が!」
「どこかの誰かサンのせいで、今年の新入部員は、お前らしかいねーんだからなァ! キリキリ動けってンだよ!!」
変わらず
その危険な遊びに対し、素早く昂ノ介と士紅が動く。
上級生の
そんな上級生を
「……この分では屋内班も、いらぬ干渉を受けている事だろう」
「蓮蔵がいるからな~。乱闘はないと思うよ~」
「そう、だよね」
「……あの昂ノ介が、黙って事に当たっているのだから、多少は見習って欲しいものだ」
三人の視線は誰ともなく、
○●○
「しかし、不思議な部活やのう」
「どうしました?」
「部員が好き放題しとるのは分かったが、顧問の先生や監督は、何をしとるんじゃ。元から、おらんのか」
「今年度から、『深歳』と
「仮入部期間が終わりそうじゃが、一度も見とらんぞ」
「また話を聞いていませんでしたね? 千丸君は。去年末から、深歳先生は育児休暇中です。
その間を、勝手知ったる部長のシャートブラム先輩に、一任されていたのですよ。
……おっと」
丁度、蓮蔵が説明を終えると、終止点の代わりか、付近の壁に一球が跳ねる。これが最初ではなくなっているため、驚くような新鮮味も薄れ、避ける術が磨かれるばかりだった。
「よ~ォ飛んでくる球やのう。こんだけ外せば、地区大会でも負けるわな」
「お
「ありがとうございます。メディンサリ君」
「さ~て、ちょっくら動くとするかの~」
「誰が一番に、カゴ一杯にするか勝負しないか? こいつら、やる事なす事に変化がないから刺激が欲しい」
「負けた奴、駅まで荷物持ちと、ワシら七人に飲み物を
「それは罰になりませんね。この程度の練習量では鍛錬にもなりませんから、
「ほッほ~。その言葉、忘れるなよ。マコト」
彼らは約束をしていた。何があろうと、逆らわず摩擦を起こさないと。大人の責任者が不在の今、与奪の権限は上級生に在る。
雌伏の時と
彼らの目的は派閥闘争ではなく、年相応の庭球の苦楽を分かち合い、全国の高見を目指す事なのだから。
だが、沈黙の願いは、共有外の仲間によって阻害される事態が起きる。
後日の部活終了後、下級生に
見せしめに鞄から抜き取られた、八名のラケットのガットが破られ、握り部分のテープが剥ぎ取られた上、乱雑に一カ所に積み上げられている。
他にも、この場を共にする生徒は、少なからず残っているが、関わりたくないのか、誰も案ずる声や視線も絡めて来ない。
もちろん、目撃情報を提供する生徒もいなかった。
「貴重品は無事か?」
士紅の落ち着き払った冷めた声に、事の風景に気取られて動けなかった数人の意識が戻り、青一郎が答える。
「うん。おれの方は大丈夫。皆は?」
「……問題はない。ラケットだけが目的だったようだな。他は手付かずだ」
「もう、許さん!!」
堪忍袋の
今にも駆け出し、適当な庭球部の上級生を狩り取る勢いの昂ノ介に、声の冷水を浴びせたのは士紅だった。
「止まれ、柊扇。今、突っ込んだ所で証拠も無いし、逆手に取られて終わりだ。
「おれ達は庭球部員なんだぞ! そのおれ達が部室にラケットを持ち込めないとは、どういう了見なんだ!」
「どの道、このままでは得物を取って、陣には立て無い。権限は、向こう側にある」
中等科に入ったばかりの年令の割に、背が高い昂ノ介の上背から来る、腹の座った怒声や
しかも今は、かなり本意気で怒りを巡らせている。
「こんな事くらいで、悔しいなんて想うなよ」
「は……?」
士紅は対照的に、この場の誰よりも冷静だった。
昂ノ介の本気が通じてい無い訳でも、感情の
昂ノ介より、視線二つ分高い士紅は、その思いを残らず真摯に受け止める。
重要なのは抱える悲憤では無いのだと、言葉と共に
「ここでの悔しさは、庭球が嫌いになってしまう事だけだろう?」
「……丹布」
「得物を傷付けられたのは不満だし、関わって下さる方々の労力は惜しまれるが、庭球を続ける限り張り替えてもらえば善い。何度でも」
「……そうだね。うん。その通りだよ」
士紅の言動を受け、青一郎が静かに改めて庭球への思いを確認するように、一度、柔らかな黒の眼差しを閉じ、一つ、ゆっくりと
「焦る事はないよ。まずは、深歳先生の復帰を待とう」
「在純君……」
青一郎の言葉に触れ、動揺が鎮まる蓮蔵が、その名を呼ぶ。
「それでも好転しないのなら、その時に考えようよ」
「……青一郎」
礼衣は、信頼する親友を静かに見据え、名を添える。
「ラケットが、こんな姿になったのは悲しいけれど、ここで
こんなの、職業競技選手にはよくある事だよ」
都長の黒目がちな瞳が、不安に揺れながらも、青一郎の話に
「今、出来る事。今、成すべき事に集中しよう。おれ達は、ただの仮入部員だ。新参者で、何もない。零の状態なんだ。
そんな、おれ達に誰が耳を貸してくれる。誰が支えてくれると言うんだ」
青一郎の言葉に、
「全国への気概も、庭球への愛着もない人達に、今のおれ達に何が伝えられるんだ」
音の割りに、込められる熱量を確実に感じた千丸は、青一郎へ注目する。
「ラケットがなくても、蒼海学院庭球部のために出来る事は、たくさんある」
不用意な事態にも、慣れたつもりでいたメディンサリだったが、ここへ来ての仲間の存在の大きさに、改めて心強く思う感想を、空色の視線に乗せ、青一郎へと向ける。
「
「あぁ、当然だ。在純」
締めの一言に、士紅が応じる。
青一郎は柔らかな視線に、揺るぎない決意を込め、昂ノ介。礼衣。都長。千丸。蓮蔵。メディンサリ。士紅へと見渡す。
皆に、反意する色は無し。青一郎は、自身が発した言葉を、覚悟と共に噛みしめ、
「行くよ。全国」
「おうッ!!!!!!!」
生まれた場所も、人種も違う彼らが目的を一つに互いを鼓舞し合う。
士紅だけが信じて言い放った、全国への道は、いつしか
それだけを今、願うばかりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます