夢現漂流譚

雨屋蛸介

雨の日の婚礼

 昔に、こんな夢を見た。

 私は雨の降る中、森の中をひとりで歩いていた。着物から伸びる足は小さく、草履を履いていた。確か七つか八つの頃に見た夢だから、相応の体つきである。幼い私は腰の高さか、それ以上に伸びた草を掻き分け掻き分け、森の奥へと進んでいた。何か目的があったかは、わからぬ。なにせ夢である。

 私は途中でふと空を仰いだ。雨は止む気配を一切見せなかったが、木々の間からは青空が覗いていた。所謂、天気雨である。雨は周りの草木に当たり、愉快な音を立てていた。しかし、私は傘を持たなかった。着の身着のまま私は道のない森をひたすら歩いていた。

 いくら歩いただろうか。周りの草木がさらに鬱蒼としはじめ、また木は私が数人抱きついてようやく一周できるだろうという太さになっていた。そこに、甲高い笛の音が響いてきた。

 それは、夏に聞いたことがあるような気がした。私はとっさに太い幹の陰に隠れて、首だけを音のする方に向けた。

 そして、私は見た。婚礼の行列がしずしずと、一糸乱れぬ様で森の中を進んで行くのを。

 それは奇妙な光景であった。

 その行列は少し進むと立ち止まり、また少し進むといっせいに首を左に向ける。また少し進み今度は右へ首を向ける。そんなことを繰り返しながら、中心に白無垢を纏った花嫁を据えて行列は進んでいた。行列の後部では太鼓や笛を持った、恐らくは十四か十五程度の少年たちが祭囃子のようなものを一心不乱に奏でながら歩を進めている。その音は辺りの雨音に掻き消されることなく、むしろ雨音さえも旋律に交えるようにして森に響いた。

 しかし、何よりも奇妙だったのは行列の構成員だった。行列に参加しているものは一様に同じ方向へ顔を向けており、その顔には張り付いたような狐の面があった。

 狐の嫁入りだ、私は直感的にそれを知った。このような天気雨の日は狐の嫁入りが行われると聞いたことがある。そして、その嫁入りをけして見てはいけないと。

 狐の嫁入りを見たものには、恐ろしいことが起こるのだよ。だから、天気雨の日は迂闊に外に出てはいけないよ。

 私の耳の中では、そんな母の声がこだましていた。

 いけない、と思った。逃げなければならぬと脳みそが警鐘を鳴らしていた。

 私はそっと身を隠していた木から離れた。

 その時、ぽんと太鼓が叩かれ、行列の首が一斉に動いた。

 目が、行列に参加した狐面の目が全て、私に向いていた。

 私は叫ぶこともなくその場に立ち尽くした。



 ………………

 …………

 ……



 あのあと、私がどうなったかは覚えていない。何とか家まで帰ったのか、それとも。いや、所詮は夢である。現に私はここにいるし、ここまで恐ろしいと思えるようなことは精々一度馬車に轢かれかけたくらいだ。その時だって怪我一つしていない。

 しかし、何かが引っかかる。あの夢の中で私は何か重要なことをしたような気がしている。重要ならば覚えていろという気もするが、記憶からすっぽりと抜けてしまっているのだ。覚えていることといえば、そうだ、狐の口が笑うように裂けていたことくらいか。何かを言われていたような、そんな気もしている。

 はて、なぜこのような夢を思い出したのやら。昨日、帰り道に稲荷神社の前で狐を見るなどということをしたからだろうか。記憶は、よく分からぬ。

 さて、私は大学を休んでいた。特に大した理由はないのだが、どうにも足が学校へと向かない。こういう日は無理をしないに限る、などとぼやいて私は茶を啜っていた。まあ、つまるところが俗に言うエスケヱプ。母も何を言うでもなく、しかし不真面目な息子に見せ付けるように目の前で繕い物などをしていた。

 もう午前も終わる頃である。ざあ、と音がして、立ち上がり障子を少し開けて覗けば、雨が降り出していた。しかし辺りは翳りがまるでなく、日が隠されていないことを雄弁に語っていた。母は、いけないと腰を上げた。縁側に梅が、と慌てて駆けて行く。私は伸びた前髪をちょいちょいと弄りながら、父は傘を持っていかなかったなとぼんやり考えた。


「困ったね、まだ梅を干していたかったのだけど」


「仕方ないですよ母さん。しかし妙ですね、天気雨なんて、いつぶりでしょうか」


 私は草履を引っ掛けて庭先へ出た。空には途切れ途切れに、刷毛でさっと描いたような雲が出ていて、その上から隠れる素振りを一切見せないで太陽が覗いていた。私はこの空をいつか見たことがある。しかし、いつだったか思い出せはしない。


「涼しくなりますよ。ここ最近はめっぽう暑くて寝苦しいと言っていたじゃないですか」


「それはそうだけどねえ」


 気持ち悪いじゃないか、そうこぼしながら母は篭に並べた梅をせっせと家の中へ運んでいた。どれ、量が多いからと私も篭の一つを手に取った時である。

 こんこん。

 閉じていた門扉を叩く音がした。出てくれと母に命じられ、私はその通りに門に手を掛けた。木で出来た門は既に雨を吸っていて、若干立て付けが悪い。私はのろのろと門を動かした。そのうち相手は痺れを切らしたのか、もう一度、こんこん、と音がした。


「はい、はい、ただいま。もう少し、もう少しですから」


 うんうん唸って格闘した後、門が開かれた。そこには私よりも少し背丈の低い男が立っていた。男は人力車の引き手のような出で立ちである。唯一つ、そこいらの引き手と違う点といえば、顔であった。


「はて、何かお祭りでしょうか」


 男の顔には張り付いたような狐の面があった。私は何処かのお稲荷さんでの儀式か何かかと思い、そう尋ねたのだった。


「それでしたら何か事前に連絡を頂きたいものです」


「いいえ、そうではございませぬ」


 甲高い声と共に男の口が動いた。さて、精巧な面である。言葉が紡がれると共に、まるで人間の顔と同じようにして口も周りの肉も動くのである。私は感心し、ほうと思わず声を上げた。それとも、仮面のように見せかけた化粧か。どちらにせよ、祭りの日にしかお目にかかれぬ顔である。


「約束を、お忘れでございますか」


 引き手のような男はこてりと頭を横倒しにしてまた声を上げた。しかし、私にはその言葉になんの引っかかりもない。


「約束?」


「ええ。もう十年も前のこと。しかし忘れたとしても約束は約束でございますゆえ、果たしてもらわねばならぬのですよ」


 はて、はて? このような奇妙な男に会ったとして、十年やそこらで忘れてしまえるものだろうか。それに、約束とは? このような奇妙な男と約束など交わすであろうか?

 私が首を捻っていると、男の後ろからそっと姿を現すものがあった。私はその姿を見てあっと声を上げた。



 ………………

 …………

 ……



「お前は見てしまったね」


 目の前で大きく横に口が裂けた。


「我々は人の目に触れたくない。それ故、こういった風に雨を降らせて婚礼の儀を行うのだ。それなのに、お前は見てしまった。神聖な花嫁の姿を」


 無数の目が、私の方を向いていた。白無垢を着込んだ花嫁も、表情のない顔でじっと私を睨んでいた。その花嫁を、恐ろしいと思うと同時に美しいとも思った。


「お前には呪いをかける。わかるかい? お前は、昔々に引いた我々と人間たちの線を越えてしまったんだ。だから、どちらにも属せないようにしなければならない。そう、こちらにも忌み子が丁度生まれたばかりだ。十年、十年経ったらお前はその忌み子を娶るんだ。いいね、必ずだ。そして子を作るんだ。我々からも、人間からも石を投げられ続けなければならないよ。逃げたとて、我々は必ずお前を見つけるよ。十年したら迎えに行こう」


 長い長い、子どもには難しすぎる説教が終わると同時に、私の意識は遠のいていった。後から聞くところによれば、稲荷神社の祠の前に寝ていたところを、近くに通りかかった者に助けられたのだという。



 ………………

 …………

 ……



 そうか、と合点がいった。思い出したぞ、と心中で手を打つ。

 男の後ろでそっと立っている、白無垢を着込んだ花嫁姿の女。その女の顔も、男と同じく張り付いたような狐の面を纏っていた。いや、仮面などではない。狐だ。ただ、引き手の男と違う点があり、女の顔は夜をぎゅっと塊にしてから塗りつけたように、黒かった。私がじっと見つめていると、その狐面の口がにいと横に裂けた。


「約束どおり、嫁に参りました」


 その声は、雨の中にもかかわらず凛と響いた。

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