少女は憧れる

 こんな夢を見るのよと母が言った。


「多分あれは、そうね、とても小さい頃よ」


 母の声は楽しそうであった。ここしばらくは父の帰りが遅いだの、台所事情がどうだのと言っていた母であるから、私も心が安らいだものである。気晴らしも少ない田舎のことだから、せめて夢くらいはと思ったのだ。

 母は毎日夢の話をした。どうも同じ夢を見ているようであった。私は毎日同じような話を聞いて、やがて少しずつ変化があることに気が付いた。よくもまあそこまで詳細に覚えているものだと舌を巻く。そんな私の胸中などいざ知らず、他に大した娯楽もない母はとても楽しそうに話していた。

 語るところによれば、夢は母が少女のころの風景にそっくりなのだという。あの頃はどこそこで誰がいて、あの人は変わっていて、誰がまだ生きていてといった思い出話ともされてしまいそうな数々の風景。それでも夢だと分かるのは、教科書があったからだと母は言う。

 学校にはほぼ行っていなかった、弟を背負っていたであろう母の少女時代。私はそれを何度も聞かされ知っている。だからこそ母は私を無理してでも学校に通わせたのだ。そして実際私は高等教育を受けさせてもらっていた。母の憧れた学問の世界に籍を置いたのだ。母はそんな私を見て何を思っていたのだろうか。

 お話を聞けるのは嬉しかったけれどあの先生の話は正しいのかしらと母は首を傾げた。お前を夢の中に呼べたら聞けるのにねと少し悔しそうな母がその頃はおかしかった。


「でもね、こんなにはっきり覚えているのに一人よく思い出せない子がいるの」


「そういうこともあるでしょう」


「男の子なのよ。私より少し背が低くて、でも覗きこまなくても顔は良く見えるはずなのよ。あの子の顔だけぽっかり抜けているの」


「お父様ですか?」


「そうかもねえ。私は、お父さんくらいしかまともに男の人を知らないもの」


 恋なんてしなかったわと言った母は、どこか寂しそうだった。



 ………………


 …………


 ……



「大きくなるのよ、私、夢の中で」


 母はそう言いながら針を動かしていた。私はと言えばそのそばで新聞を読んでいた。夢の中で少しずつ時間が進むのだと言う。そういうこともあるでしょうと私はそっけなく言った。


「大きくなって、きっと進学するわ私。どんなことを教わるんでしょうね。でも私は学がないものね、きっとそこだけすっぽり抜け落ちてしまうわ」


 母はひらがなとカタカナしか読めない。漢字はほとんど読むことが出来ず、回覧板もほとんど私が書き下すか口頭で説明するほどだ。そんな母が夢の中でとはいえ学ぶ意思を持っているのだ。学問がしたいと望んだのだ。それを無下にすることもないと私は考えていた。


「夢ですから、どのような学問を学んでも良いのです。学問でなくとも」


 私が言うと母はそうかしらと不思議そうな顔をした。私はそれでは今の話をしましょうかと言って、新聞に載っていた事件について母に語った。母は興味深そうに聞いていた。

 新聞を一通り語り、私はふと思い出したことを母に尋ねた。


「そういえば、あの少年はどうしましたか」


「少年、ああ、私が思い出せないって言っていた子ね。それがね、やっぱり起きると忘れちゃうのよ。でもね、本当によく一緒にいるのよ。今は隣の席にいるの。今度の遠足も一緒に歩くことにしたのよ」


 その母の言葉は、まるで一週間もすれば本当にその少年と山登りにでも行きそうな様子であった。


 ………………


 …………


 ……


 母が最初に夢について話してくれたのはいつのことだっただろうか。

 私は確かなことを覚えていない。それでも長いこと経った。今や母はもう夢の中に住んでいた。身体こそここに在るが、母はいない。母は母でなくなって、うら若き少女としての日々を過ごしている。

 父はお医者様に見せなさいとだけ言った。私は良い医者を知らなかった。

 それから流暢に話す赤ん坊を世話しているような日々がただただ続いた。父は余計に仕事を詰めて家に帰らなくなった。ただ金だけはたんと持ち帰ってきた。仕事のことは聞かなかった。父が仕事を一身に背負ってくれるおかげで、私は働きに出ず母と二人きりで家にいられたのだから。

 母は毎日からからと笑って、かと思えば拗ねたような表情を作ったりした。それから顔を赤らめたり、泣いたりもした。泣くたびに私は友人として彼女を慰めた。息子としての私は彼女の中に存在していないのだから、そこに身を置くしかない。彼女の中で私は時に友人であり、時に教師であり、時に親となった。

 彼女は家の中で散歩をする。家の中で学校へ向かう。家の中で寄り道をする。もう一つの小さな日常を一歩も動かずに過ごす彼女は、本当に毎日が楽しそうだった。その中で本当によく名を呼ぶ相手がいた。照れくさそうに、愛おしそうに紡がれたのは男の名だ。彼女はその男と何時間も語らっていた。その時の彼女の目は、まさに恋する乙女のものであった。

 その男の名は、父の名ではなかった。

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